明日は絶対、いいことありますよ!

【カトリック浅草教会】

2017年2月26日 年間第8主日
・ 第1朗読:イザヤの預言:(イザヤ49・14-15)
・ 第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント4・1-5)
・ 福音朗読:マタイによる福音(マタイ6・24-34)

【晴佐久神父様 説教】

 「思い悩むな」という、今の福音朗読を聴いて(※1)、思わず涙しちゃった人が目の前にいますけれども、・・・だいじょうぶですか? 福音に感謝して、安心して、この神さまのみ言葉に信頼しましょうね。きっと、何か思い悩むことがあって、つらい思いをしておられるんでしょうね。
 「思い悩む」と言えば、さっきミサの前に、「歯の痛いのが良くなりました」って言ってくださった方がいて、「よかったですねえ」って言ったところですけど。数日前に相談に来た方です。「歯が痛くて、歯医者さんに通ってるんですけれども、その歯医者さんがどうも信頼できません。お医者さんを変えようかどうか迷ってるんですけど、どうしたらいいでしょう」って。これはでも、正直言って、どっちの歯医者がいいかなんてね、私には分かりっこないし、答えようがないですよね。でも本人は不安で悩んでるわけですから、こうお答えしました。
 歯の痛みって、脳に近いせいもあって、特に人を不安にさせるものです。痛みを恐れるし、結果は心配になるし。だからこそでしょうけれど、疑いも増すんですね。「この歯医者、まだ若いけど、信頼できるのかな・・・」とか、「ずいぶん年とってるけど、削るとき手が震えないかな・・・」とか、(笑) どうしても心配しちゃう。その不安な気持ちは分かります。とはいえ、「どっちの歯医者がいいか」となると、私に聞かれても答えられません。
 で、いつもそうなんですけど、私、右か左かというような、二者択一の質問には答えません。「どっちでもいいじゃん」って思うからです。無責任だと思われるかもしれないけども、ただし、その「どっちでもいい」には、条件節があります。
 ・・・「信じて決心したならば」です。
 「信じて決めたならば、どっちでもいい。選んだ道を行けばいい。ともかく、恐れて決めるな」と。
 「こんなことになったら、どうしよう」と思い悩み、「失敗するんじゃないか」と恐れて何かを決めるとき、それは何も実を結びません。なぜなら、恐れは、更なる恐れを生むから。実は、問題なのはどっちにするかではなく、信じるのか、恐れるのか、なんです。
 「信じて」決めましょう。
 「なんだか頼りない歯医者に見えるけど、この歯医者さんに出会ったのも神さまのみ心だと信じて、ぜんぶ抜かれようとなんだろうと、(笑) 信じてこの歯医者にゆだねよう」と。・・・「信じて」ね、決める。
 もちろん、セカンドオピニオンは大事ですから、いろいろ調べるのはいいですよ。ただし、最後には何かを決めなきゃならない。その、決める時には、・・・信じて、決める。
 「すべては神さまのみ心のうちにある、最後は神さまが必ず救ってくださる」と、信じて。
 聖テレジアがね、・・・大テレジアのほうですけど(※2)、「苦しみは、決して永続しません」と、そう言ってますよ。・・・必ず、喜びが待ってるんです。だったら、恐れるだけ損じゃないですか。
 今日は、歯が痛まなくて、よかったですね。信じましょう。イエスさまの今日の福音、「思い悩むな」 (マタイ6:25,31,34) (※3)、これを合言葉のようにして、もう一週間、信じて生きていきましょうよ。
 ・・・「思い悩むな」、大切な言葉です。

 「思い悩むな」、イエスさまがそう言うのには、根拠がある。
 神さまは完全なお方で、愛そのもののお方で、あなた方の必要をぜ~んぶ知っておられる (cf.マタイ6:32) 。だから、あなた方が思い悩んでることも、不安なことも、ぜんぶ、ちゃんと分かってる。分かっていながらね、「まあ、これはほっとこう」だなんて、そんな冷たい親じゃない。わが子のことをすべて分かっているからこそ、ちゃんと手はずを整えて、その人生を導かれている。そして最終的には、ご自分のみもとに迎えてくださる。
 もうちゃんと、愛のみ心のうちに整えられているこの人生を、私たちは、まあ、転んだり起き上がったりしながら、「試練もまた楽しみのうち」くらいにね、思いながら歩んでいきましょう。
 明日を思い悩んだって、どうしようもない。明日のことを言い当てられる人なんて誰もいませんし、「今日の苦労は、今日一日で十分である」 (cf.マタイ6:34) 。なるほど、今日はつらいけれども、明日目覚めたら、いい日が待っていると、そう信じます。

 おととい、ミーティングの最中に電話してきた友人は、心の病を患っているんですけど、「ミーティング中だからごめんね」って何度言っても、「もうちょっと聴いてくれ。今、とても苦しい」、「もうちょっと話したい。きっともうダメだ」って、ず~っと言ってるんで、思わず、「わかった、わかった。ま、そのうちいいことあるから」って、私、言ったんですよ。それがあまりにも適当な言い方だったんで、彼、思わず電話口で笑ったんですよ。だから、私、言いました。
 「ほら、もう笑えた。明日になれば、もっといいこと、いっぱいあるよ」(笑)
 ・・・まあ、皆さんもそうして笑いますけど、でも、「明日を思い悩むな」って、イエスさまがそう言ってるんだから、私は、信じます。あなたも、信じようって言ってるんです。仮に、次の日また電話がきて、「明日はいいことあるって言ってたのに、今日は何もいいことがなかったぞ」って言われたら、私は言うでしょう、「明日は、絶対いいことある」って。(笑) 「信じる」って、そういうことですから。
 疑ってたら、何もかも不安なままの今日だし、いつまでも明日を恐れなきゃならない。・・・もちろん、生きていれば暗いときもある、つらい日もありますよ。でも、それでも信じるなら、そこに喜びが生まれ、希望があふれて、その喜びと希望を、みんなで分かち合うことさえできる。

 さっきパウロが(※4)、そういう喜び、そういう希望の、「わたしは管理者だ」って言ってましたね。で、「管理者に要求されるのは忠実であることだ」 (cf.一コリント4:1-2) と。
 「神の秘められた計画をゆだねられた管理者」 (一コリント4:1) っていう言い方ですけれども、「神の秘められた計画」って、つまりは、神の愛のみわざによって、必ずみんな救われて、神のみもとに招き入れられて、まさに思い悩みや恐れから解放される喜びの日が来るっていう、天地創造の始めから定められた計画です。それは、目には見えない。でも、その計画は着々と進行していますし、「本当にそうなんだ」っていうことを、ちゃんとイエスさまが、言葉としるしで見せてくれましたし、パウロはそれを「信じます!」と言って、その希望をみんなに語る使命を生きてるんですね。
 ですから、パウロは、そのような真理をゆだねられた者として、それを語る。そして、「それを語るに当たって、わたしに要求されるのは忠実であることだ」 (cf.一コリント4:2) と。
 イエスさまが、「神はすべての人を救おうとしておられる」「あなたは神の子であり、初めから愛されている」「神におできにならないことはないんだから、恐れるな」「明日を思い悩むな」というような、絶対の福音を語ってるんだから、パウロのように、私も、忠実に語らなければならない。何の根拠もないように聞こえたとしても、私もまた、「明日は、絶対いいことがあるよ。心配しないで」って言える。だって、それが真理なんだし、そもそも私がそうするわけじゃないんだから。根拠は神ご自身が持っておられるのであって、私は、その救いのご計画を信じて、忠実に伝えるだけ。
 ですから、もし、明日いいことがなかったとしても、私に文句を言われても困る。それは神に言ってくれってことですから。・・・でも、神が裏切りますか? 神にできないことがあるんですか? よくよく考えてみれば、実は、もうすでに、いいこといっぱいあるんじゃないですか?

 私の本(※5)を、浅草教会で、今日から、第3、第4日曜日、私がミサを司式している週に販売することになりました。とりあえず10種類ですけど、昨日の夜遅くまで、せっせと全部サインしました。ぜひご用立てください。
 私の本には、一つの原則があって、ともかく、どんな人であれ、どんな状況であれ、読んだらうれしくなる、元気になる、神さまの愛に目覚めることができる。・・・それだけを願って、その目的のためにのみ、書いてます。これなんかも、私なりにですけど、忠実であろうとしてるってことですね。
 タイトルも、だから、『だいじょうぶだよ』とかね、『恐れるな』とかね、『幸いの書』とかね、もう、タイトルを見ただけで幸せになれるような、そういう本を心がけている。というのも、こう言われたことがあるからです。
 「神父さんのご本、大好きなんですけど、今は病気がつらくて、文字を読むのも大変で、読めません。でも、枕もとにご本があるだけで安心しますし、表紙のタイトルを見ただけで幸せになれます。晴佐久昌英っていう、著者名の最初の一文字を見ただけでも、心が晴れ晴れします」って。ありがたいですね。
 私の場合、本を一冊書くっていうのは、中身をいろいろ書きますけれども、本質的に何をしているかというと、神の愛を「取り次いで」るんです。私が、何か新しい思想を宣べてるとかいうんじゃない。神の言葉を語るだけ。
 「神は、ホントにあなたを愛してます」
 「神は、あなたを必ず救います」
 ・・・これを信じてほしい。それだけです。
 あなたが今悩んでいるのは、もちろん分かるけれども、だからこそ、
 「だいじょうぶだ。恐れるな!」
 ・・・これを一日一度でもね、思い起こしてほしい。神からの語りかけとして。

 それでいうなら、実は、私の本なんかよりも、たとえば、今日のイザヤ書(※6)なんか、いいんじゃないですか?
 皆さん、お手元の『聖書と典礼(※7)』、お持ち帰りになるんでしょ? お持ち帰りになったら、今日のイザヤ書なんか、たった6行ですから(※8)、これを切り取ってね、手帳にでも挟んでおいて、・・・挟んだらなくなっちゃうか。そうですね、それこそ、手帳の表紙にでも貼り付けて、いつも見てくださいよ。・・・一日一度でいいから。
 「もうだめかもしれない」「私は見捨てられたんじゃないか」「こんな私は忘れ去られた存在なんじゃないか」なんて、恐れたり悩んだりしているんであれば、いつも思い出してください。預言者が取り次いだ、神の言葉です。
 「女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
  母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
  たとえ、女たちが忘れようとも
  わたしがあなたを忘れることは決してない」 (イザヤ49:14-15)
 私たちは、お母さんの腕の中で泣いている赤ちゃんみたいなもんなんです。赤ちゃんは何か嫌なことがあって泣いてるわけですけど、お母さんはそのことをちゃんと分かってます。よもや、「泣いてる子はいらない!」って捨てる母親はいない。むしろ、泣いてるからこそ、「はいはい、だいじょうぶよ。よしよしよし・・・」ってね、ちゃんとあやしてくれる。神さまがそうして、イザヤを通して、イエスを通して、パウロを通して、そして今日も、たとえば、こんな説教を通してでも、語り掛けてるんです、「恐れるな」「思い悩むな」「信頼しなさい」と。
 それはもう、神の言葉ですから、文句を言ってもしょうがない。疑ってもしょうがない。私たちは、ただただ、「信じます!」と言いますし、何かを決断しなければならないのであれば、もう、全面的に信じて、決断する。

 入門講座で、今、洗礼を準備している人がおられますけれども、私はその皆さんに、「『信じます!』と、はっきり、言いましょう!」と、そう申し上げたい。あれこれ迷って、「受けるべきだろうか、やめとこうか」という話じゃなくて、ただ、「信じます!」と。
 もし、脳みそでは、なかなか信じられないというのであれば、「洗礼式」という美しい儀式の力、そこで宣言される言葉の力を信じて、はっきり言ってもらいたい。洗礼式では、私が質問しますから、「信じますか?」と。そのときに、「信じます!」と、その口から出る、生涯で最も美しい言葉として、「信じます!」と、そう言っていただきたい。その信じる力を、皆さんはもう持っています。皆さんを、その、「信じる」という世界に、お招きしたいのです。

 昨日、ここに一泊した整体院の若者がいるんですね。京都で、整体院をしてるんです。以前、大阪で講演会をしたときに、たまたまお昼のお弁当を、お手伝いで運んできてくれた人なんです。・・・信者じゃないんですけど、せっかくだからと、来たついでに私の話を聞いてみたら、とてもおもしろかったと共感して、気に入ってくれたんですね。
 信者じゃない人がいるって聞くと、私、すぐに声をかけるんですけど、聞けば「本業は整体院なんです。今日は頼まれてお弁当を運んできただけです。ときどき東京に行きます」って言うんで、「今度、東京に来たら、ぜひ、私にも施術してください」って頼んだんですね。・・・作戦です。(笑) 私に施術するには、いやでも教会に来ることになるわけでしょ。そこで教会の若い仲間たちにも紹介できるし。
 でね、先月、東京に来た時に実際にやってもらったんですけど、これ、よかったんです、すごく。「オステオパシー(※9)」っていうんですけど。・・・何ていうのかな、こう、筋肉を押すんじゃないんですよ。その筋肉を硬直させたり、血流を悪くしてるのは神経なわけですから、そもそもの神経を刺激して、緩めていくんですね。で、神経の多くは、皮膚と筋肉の間の、筋膜っていう所にある。鶏でいえば、お肉の周りから、ツーッと剥ぐでしょ、薄い膜。(笑) あれを、皮膚の上から、やわやわっとマッサージするんです。そんな、力任せにグイグイ押したりしない。
 赤ちゃんって、肩こりがないでしょ。本来、体は、ちゃんと良いものとして、うまい具合に造られてるんだけれども、人が長い間、わがままにそこだけ使ったり、無理な姿勢を続けたり、精神的に緊張して体も硬直し続けたりしてるうちに、本来の良いものが、固まっちゃってるわけです。だから、「本当はこうなんですよ~」って、神経をマッサージして、体を緩めることで、元に戻すんです。体には、元に戻ろうとする力があるからね。
 彼が言うには、「本当は、こうなんですよ~って、体に思い出させる」んですって。この、「思い出させる」ってのに、私、感動した。信仰の世界でも、とてもヒントになるなって思ったんですよ。
 実際、私、左肩が五十肩みたいでつらかったんですけど、ススッと取れたんで、・・・別に商売の宣伝してるんじゃないんですけど、(笑) まさに、「ああ、体が思い出してくれたんだ~」って、実感しました。それ、魂の世界でも可能なんじゃないですか。
 「本来はこうなんだ」っていうことを思い出させると、体自身が元の良いものに戻る。ちょうど、縛ってる紐をパチンと切ったら、自然と元に戻るみたいに。羽毛布団なんか、圧縮機かなんかでギューッと圧縮したやつを、蓋をプシュッって開けたら、空気が入って、ふわ~って元に戻るじゃないですか。あれはもう、本来薄い布団が膨らんだんじゃなくて、本来のふくらんだ形に「戻った」わけですよね。・・・ぼくはね、緊張した体を緩めてもらいながら、そういう説明を聞いて、つくづく思いましたよ、「それこそ信仰だ・・・!」って。
 みんな勘違いしてるんです。難しい勉強して洗礼受けるとか、努力して立派な信者になろうとかって。・・・そうじゃない。人はみんな神の子なんだから、本来、もう持ってるんですよ、信仰も、希望も、愛も。「神のもとに至る力」を、生まれながらに、みんな持っている。それが、たとえば小さいころ他人に傷つけられたとか、いじめられて嫌な思いをしたとか、失敗をして自ら固まってしまったとかで、だんだん硬直して、傷んで動かなくなっている。神の子の自由が、閉ざされている状態。
 ですから、イエスさまが、「恐れるな!」「思い悩むな!」「信じなさい!」って言うとき、それは、「そんなこと、できません」っていうような難しい注文をしてるんじゃなくって、もうすでに備わってる力、本来持っている恵みを、思い出させてるだけなんですね。

 この彼、今晩も泊まるんで、施術してもらうんです。ひと月ぶりですけど。
 私、昨日彼に、そういう体の仕組みは、まさに信仰そのものだって話をしましたし、「そういうことしてる人には、洗礼とか、いいんじゃない?」とかって、お誘いしましたし、今晩、緩めてもらいながら、ゆ~っくりと入門講座をしようと思ってるんです。(笑)
 彼も彼なりに緊張してるんですね、心が。彼は私の体を緩めますが、私は、魂を癒やす仕事ですから、彼の心を緩めることで、彼自身にも、何か新しい希望が始まると、信じます。実は、すでに彼、私のやってる、心の病で苦しんでいる青年の集いに興味を持って、さっそく参加してくれてるんですよ。私、体を緩めることで、心の病にもいい影響があるんじゃないかと思って、奉仕をお願いしたんです。もう効果が出てる青年もいるんですよ。
 私たちは、初めから神さまの愛の中に生きているし、やがて必ず神さまのみもとに生まれていく者であるにもかかわらず、本来持っている神の子としての力、知覚、喜びを閉ざしています。恐れと緊張のために。それが、罪です。

 先月、病者の塗油(とゆ)(※10)を受けたご夫婦が今日もミサにいらしてると先ほど聞きましたが? ・・・ああ、あそこにいらした、よかった、またお会いできましたね。
 ひと月前でしたか、お二人、沖縄から来られたんですよ。日曜日の午後でしたけど、はるばる飛行機でいらっしゃいました。奥さまが重い病気で、深刻な状態でね、闘病生活も大変な日々でしょうけれども、そんな中、救いを求めて、「東京に行って、晴佐久神父にお祈りしてもらおう」と、そう決心して来てくださった。
 で、あの日、日曜日の午後、信者さんが、まだ10人ほどいたんで、「みんな集まって~!」って呼びかけて集まってもらって、この聖堂で病者の塗油をやったんですよね。・・・いいお祈りでした。「信じましょう!」ってお話ししたら、ぽろぽろ泣いておられましたけれども。でも、まさに、信じる以外に道はありません。私は申し上げました。
 「信じましょう! どんなに試練の中にあっても、『明日のことまで思い悩むな』 (マタイ6:34) 。私たちはみんな、神さまのみもとに召されていく途中です。その大切なプロセスである、『今日』を、感謝して、喜んで、共に生きていきましょう。神さまは、必ず、素晴らしいことをしてくださいます。信じましょう!」
 ・・・そんなふうに、あのときもお話しして、病者の塗油を授けました。
  (会衆席にいるその方に) いいお顔ですよ、今日は。でも、またつらくなったんですか?今日、沖縄からいらしたの? ・・・そうですか、・・・なるほど、ご主人がお仕事で北海道から帰って来て、ご夫婦が、東京で合流したわけね。今日のこのミサ、お二人のためにお捧げしますよ。この前は10人くらいでしたけど、ごらんください、今日はもっと大勢いますからね。みんなで、お二人の、今の心配、今の恐れ、今の痛みが、喜びに変わるように、希望に変わるようにと、お二人を愛しておられる神さまが、必ずそのような恵みをくださると、心を一つにして、信じて、祈ります。
 ここには、他にも、救いを求めている方、力を求めている方、いっぱいおられるでしょう。お互いのためにお祈りし合いましょう。みんなで、楽園を思い出しましょう。まごころで祈るミサには、ホントに力がある。癒やしの力が、このミサに働きます。・・・そうはっきり申し上げます。
明日は絶対、いいことありますよ!


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます。)

※1:「『思い悩むな』という、今の福音朗読を聴いて」
この日、2017年2月26日(年間第8主日)の福音朗読。
 福音朗読箇所は、以下のとおり。
  マタイによる福音6章24~34節
   〈小見出し:「神と富」6章24節、「思い悩むな」25~34節〉
※「思い悩むな」の箇所は、以下の「※3」を参照
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※2:「聖テレジアがね、・・・大テレジアのほうですけど」
◎アビラの聖テレジア (1515年3月28日~1582年10月4日)
TeresadeJesus ラテン語名が「テレジア」という有名な聖女が二人いるので、「大テレジア」と「小テレジア」と呼び分けることがある。二人とも、カルメル会の修道女だった。
 「大テレジア」は、スペインの女性神秘家、聖人、教会博士として有名で、名をスペイン語読みで、「テレサ」と表記されることもある。スペインのカスティリア州アビラ(アヴィラ)に生まれたため、「アビラの聖テレジア(テレサ)」、または、修道名から「イエスのテレジア(テレサ)」、そして「大聖テレジア(テレサ)」などと呼ばれる。
 1536年(1534年、1535年説あり)、カルメル会の御托身修道院に入会。
 1554年の深い神秘体験を機に、真の観想生活を求めるようになり、当時の緩慢とした修道生活を、厳格な原始会則に戻し、1562年、アビラに改革カルメル会聖ヨゼフ修道院を創立。十数人の修道女たちと、厳しい修道生活を始めた。その後、十字架の聖ヨハネの協力を受け、帰天までに17の改革修道院を創立した。
 イエスの人性に与る豊かな神秘体験を受け、その深い体験に基づいて、不朽の著作を残している。主著は、『自叙伝』『完徳の道』『霊魂の城』『創立史』。霊性の核心は、神の愛と、イエスの人性の観想にある。
 1622年に列聖。1970年には女性初の「教会博士」が授与された。バチカンの聖ペトロ大聖堂にある彼女の像の足もとには、「霊的な人々の母」と記されている。祝日は10月15日。
***
 なお、「小テレジア」は、フランス、リジュー生まれの聖女「テレジア」(1873-1897)。名を、フランス語読みで、「テレーズ」と表記されることもある。修道名は、「幼きイエスと尊い面影のテレジア(テレーズ)」という。「リジューの聖テレジア(テレーズ)」、または、大テレジアと区別して「小テレジア(テレーズ)」、「小さき花」などとも呼ばれ、日本では大変人気のある聖女。祝日は10月1日。
(参考)
・ 「テレサ(アビラの)」「テレーズ(リジューの)」(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008年)
・ 「二人の聖テレジア‐イエスの聖テレサと幼きイエスの聖テレーズ(1)(ノートルダム・ド・ヴィ)
・ 「アビラのテレサ」(ウィキペディア)
・ 「アビラの聖テレジア教会博士」(「信心の園」/個人ブログ)
・ 「15日 聖テレジア(イエスの)おとめ教会博士」(「10月の聖人」<ラウダーテ)
・ 「参照※10 「リージューのテレジア」」(「透明に光る道」*「福音の村」2016/2/7説教)など
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※3:「イエスさまの今日の福音、『思い悩むな』(マタイ6:25,31,34)」
 この日の福音朗読箇所(マタイによる福音6章24~34節)の中では、「思い悩むな」と、繰り返し、3回語られています。
===(聖書参考箇所)===
① 
「だから、言っておく。自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな。命は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切ではないか。」 (マタイ6:25/赤字引用者)
***
② 
だから、『何を食べようか』『何を飲もうか』『何を着ようか』と言って、思い悩むな (マタイ6:31/赤字引用者)
***
③ 
だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。 (マタイ6:34/赤字引用者)
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※4:「さっきパウロが」
この日、2017年2月26日(年間第8主日)の第2朗読から。
 第2朗読箇所は、以下のとおり。
  使徒パウロのコリントの教会への手紙一 4章1~5節
   〈小見出し:「使徒の使命」4章1~21節から抜粋〉
===(聖書参考箇所)〔朗読用から〕===
〔皆さん、〕、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者と考えるべきです。この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです。 (マタイ6:34/赤字引用者)
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※5:「私の本」
 晴佐久神父著作の本、関連本は、今までに数多く出版されており、浅草、上野、両教会共通のホームページ、「晴佐久神父様 著書&関連本紹介」のページで紹介されています。
(「福音の村」では、「晴佐久神父紹介」のページでご紹介しています)
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※6:「たとえば、今日のイザヤ書」
この日、2017年2月26日(年間第8主日)の第1朗読から。
 第1朗読箇所は、以下のとおり。
  イザヤ書 49章14~15節
   〈小見出し:「シオンの回復」49章9b~50章3節から抜粋〉
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※7:「聖書と典礼」(既出)
 『聖書と典礼』(発行:オリエンス宗教研究所)は日本のカトリック教会共通の小冊子で、主日のミサ、また、一部の祝日のミサのときに用いられる。
 B6版のものと、少し大きめのB5版のものがあり、通常は8ページ程度から成る。
 ミサは典礼書に従って進められるが、聖書の朗読箇所や、答唱詩編、アレルヤ唱、共同祈願などは、ミサのたびに異なるので、この小冊子が会衆(参加者)に配布され、それに添って進んでいく。また、欄外には、該当聖書箇の説明や、短い説明などが記されている。
 表紙には、その日の典礼に合わせた、美しい絵画やイコンなどが載っている。
(参考)
・ 「聖書と典礼」(オリエンス宗教研究所
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※8:「今日のイザヤ書なんか、たった6行ですから」
第1朗読の「イザヤ書 49章14~15節」(全文)は、以下のとおり。
 
シオンは言う。主はわたしを見捨てられた
 わたしの主はわたしを忘れられた、と。
 女が自分の乳飲み子を忘れるであろうか。
 母親が自分の産んだ子を憐れまないであろうか。
 たとえ、女たちが忘れようとも
 わたしがあなたを忘れることは決してない。 (イザヤ49:14~15)

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※9:「オステオパシー」
 1874年にアメリカ人医師アンドリュー・テイラー・スティル博士によって生み出された。
 ギリシア語のosteon(オステオン=『骨』の意)と、pathos(パソス=『病気・治療』の意)に由来した造語のため、『整骨医学』と訳されることがあるが、これは間違い。
 オステオパシーは、人が健康でいるために、骨だけを調整するのではなく、骨、筋膜、関節、神経、頭蓋、臓器・リンパ、血管、靭帯など、あらゆる器官に対する、解剖学的あるいは生理学的な広範囲の医学知識の元に、手を使って治療を加える。
 また、哲学でもあり、人間を「体」「心」「精神」の三位一体としてとらえ、「心」や「精神」も重要であると説く。
(参考)
・ 「オステオパシー」(ウィキペディア)
・ 「オステオパシーとは」(NPO法人 アトラス・オステオパシー学院)
・ 「オステオパシーについて」(日本オステオパシープロフェッショナル協会) など
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※10:「病者の塗油」〈既出、もう少し詳細はこちらへ〉
 七つの秘跡(キリストによって制定され、教会に委ねられた、秘められた神のわざを示す感覚的しるし)の一つ。司祭が病者に油を塗って祈る式、また、その秘跡のこと。
 重病あるいは高齢のために困難があるとき、死の危険が迫っているときに、病人の額と手に司祭が祝福された油を塗り、神の癒やしといつくしみ、聖霊のたまものを祈る。
 12世紀ごろから次第に臨終の病人のみに限られるようになり、「終油の秘跡」と呼ばれるようになっていったが、第二バチカン公会議を経て、現在では臨終の時に限らず与えられ、「病者の塗油」という名称に改められている。
 教皇フランシスコは、2014年2月26日の一般謁見演説の中で、この「病者の塗油の秘跡」について言及し、「人間に対する神のあわれみに、手で触れることを可能にしてくれる」と述べ、改めて「この秘跡が、イエスが病者や高齢者に寄り添ってくださることを確かなものとすること、また、65歳以上の人ならだれでも受けることができること」を伝え、「慰めと、前に進むためのイエスの力を与えて」もらうようにと勧めた。
(参考)
・ 「ためらわず『病者の塗油』を」(カトリック新聞オンライン 2014年3月6日)
・ 「病者の塗油の秘跡」
   『カトリック教会のカテキズム』(カトリック中央協議会、2002年)
    「病者の塗油の秘跡」1500番~1532番
・ 「病者の塗油の秘跡」(キリスト教マメ知識>ラウダーテ)
・ 「病者の塗油の秘跡 () () (この秘跡を受ける者、授ける者) (この秘跡執行の効果)
   (カテキズムを読もう>ラウダーテ)
・ 「病者の塗油」(ウィキペディア)
・ 「病者の塗油」(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008年)
*****
・ 「2017年『第25回世界病者の日』教皇メッセージ(2016/12/8)」(カトリック中央協議会)
・ 「2016年『第24回世界病者の日』教皇メッセージ(2015/9/15)」(カトリック中央協議会)
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2017年2月26日(日) 録音/2017年3月11日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英