牧師と神父が一緒にいるだけで

【カトリック浅草教会】

2017年11月26日 王であるキリスト
・ 第1朗読:エゼキエルの預言(エゼキエル34・11-12、15-17)
・ 第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント15・20-26、28)
・ 福音朗読:マタイによる福音(マタイ25・31-46)

【晴佐久神父様 説教】

 先週は、ついつい私の健康診断の話なんかしちゃって、申し訳ありませんでした。いろ~んな方から、いろ~んなアドバイスを頂きました。(笑) ・・・まあ、隠れ肥満と言われたわけですけども、先週は三泊四日で長崎に合宿に行っておりましたので、日ごろの運動不足を解消しようと、長崎の町を、ガシガシと歩き回りました。隠れキリシタンの里を、隠れ肥満が歩き回るという。(笑)
 長崎は、ご存じのとおり、隠れキリシタンたちが非常に苦しんだところ。原爆でも、苦しめられたところ。だからこそ、そこで開きましょうということで、先週、浦上教会で、ある記念式典があって、それに参加してきたわけですが、大聖堂に大勢集まっておられました。満員でしたよ。「500周年記念式典」なんですけど、何の式典だかお分かりになりますか。
 「500周年」といえば、世界史の教科書を読んだ方ならお分かりになるはず。1517年、いわゆる「宗教改革」があって、2017年は、それからちょうど500年。それを記念して、プロテスタントのルーテル教会とカトリック教会が、合同で礼拝をしましょうということで、両教会の信者と聖職者が集まったわけですね。いろいろな意味で、感動的な式典でありました(※1)
 こういうのはやっぱり、節目の機会にやるべきだと思いましたね。だって、宗教改革100周年のときは殺し合ってたわけですから。200周年のときも争ってたわけです。300周年のときも、お互いに責め合っていた。400周年のときも、お互いに排除し合っていた。しかし、400周年が終わって20世紀を迎え、ついに両教会は話し合いを始めました。そうして教会一致運動を地道に続けて、このたび、500周年には、なんと、お互いに「私たちは一つの教会である」という思いで集まり、合同の礼拝、記念式典をしたわけです。
 実は、この500周年イヤーが始まる昨年、大きな出来事がありました。教皇フランシスコが、ルーテル世界連盟の発祥の地である、スウェーデンのルンドという大聖堂を訪問して、共同主催の礼拝をして、ルーテル連盟代表のユナン議長と、ひしと抱き合ったんですよ、祭壇前でね。これは、すごくインパクトのあるしるしになりました(※2)
 やっぱり、世にそういう姿を示すっていうのは大きいですね。日本でも、そういう姿を見せようと準備を重ねてきたわけです。で、やるなら、キリスト教徒が迫害され、原爆でキリスト教の教会が破壊された、あの苦しみの地長崎で、「争いから和解へ、分裂から一致へ」という希望のシンボルとして集まりましょうと、日本のカトリック教会とルーテル教会が合同式典をした。それは、本当に分かりやすいしるしになったと思います。

 当日、聖堂の外では、一応、カトリックの受付とルーテルの受付が分かれてるんですけど、私、聖堂の中に入ったときに、つくづく思ったんですよ。一体、何が違うんだろう、って。だって、誰がカトリックで、誰がプロテスタントかなんて分かんないじゃないですか。名札を付けてるわけじゃないし。カトリックの人は目が三つだとかいうんだったら、(笑) パッと見て分かるんでしょうけど、一緒にいても分かんないですよ、誰がどっちかなんて。自由席だから、隣に座ってる人が、カトリックなのかプロテスタントなのか、分からない。そうして一緒に祈り、一緒に福音を語っていこうって決意表明をしたりしていると、分かる必要もないって気になってくる。
 つくづく思いましたよ。今まで何百年も争ってきたことが、むなしいというか、無意味というか。・・・だって、ホントは一つなんですから。そこには、「キリストのもとに一つに集まっている、キリストの教会」があるっていうだけで、福音のために働くという意味では、もはや「カ~」とか、「プ~」とかどうでもいいと、私はホントにそう感じた。
 もちろん、細かいこと言えば違いはありますよ。ありますけれども、それをことさら強調するのは、逆に、カトリック的じゃない。・・・そもそも、1999年には、もうすでに、ルーテル教会とカトリック教会は、「義認の教理に関する共同宣言」っていうのも出してるんですね(※3)。これは、それまでの間、お互いに争っていた教義に関して、「いまや何も食い違いはありません」っていうことを神学的に確認して、統一見解を共同宣言として出したものです。
 両教会がすでに、「本質に違いはありません」って言ってるんだから、まあ、多少の違いはあるにしても、むしろその違いが宝だ、くらいに思って、「私たちは一つの教会だ」っていう思いをこそ、大切にしましょうよ。「あなたはカトリックですか?」とか、「私はプロテスタントです」とか、わざわざ言い合わなくても、「あなたも私も、同じ一つのキリストの教会の信者だ」でいいじゃないですか。・・・今日のこのミサにも、プロテスタントの方が何人も来ておられますけれども、ここは、あなたの教会です。
 そうして、600周年には、相互聖餐(せいさん)(※4)とかもやってるんじゃないですか。まあ、一つの組織になるのはまだ難しいかもしれませんけどね、600周年くらいじゃ。でも、800周年なら、組織としても一つになってるかもしれないですねえ。なにしろ、神さまの望みですから、ある意味でそれが当然だとも思いますし。
 そうそう、浦上教会がね、大盤振る舞いで、集まった人全員に、おむすびを二つずつ配ったんですよ。やっぱり、そういうのって、しるしになりますよね。1500人が満席でしたから、1個100円のおむすびでも、(笑) ・・・ねえ、相当でしょう? 「浦上教会からの、心ばかりの差し入れです」って言って。みんな、感動してましたよ。やっぱり、午前中にシンポジウム、午後に礼拝ですから、お昼はおなか空くじゃないですか。みんなで一緒に、キリストの家族として、共に主を礼拝し、共に食事をする。それ以上のことを、細かくいろいろ言い合うことに、何の意味もない。まずは、教皇フランシスコとユナン議長がそうしたように、ひしと抱き合うというところから出発して、やるべきことを一緒にやってけばいいんです。
 この「一緒にやっていく」っていうことが、われわれを一つにするし、新たにするんです。たとえば、ルンドの共同声明なんかは、要するに「今後一緒に、福音を語りましょう」「今後一緒に、救いを求めている人を受け入れましょう」って言ってるんですね。だけど、「福音を語りましょう」とか、「救いを求めている人を受け入れましょう」って、そんなこと、カトリックでもプロテスタントでも、もう何百年も言ってきたことだし、毎週言われてることだし、当たり前の話ですよね。わざわざ、言うまでもないこと。ただ、「それを、一緒にやりましょう」っていうと、とても新しい意味を帯びてくる。一致するって、そこに秘密があるんじゃないですかね。私、今回、すごくそのことを感じました。・・・「そうなんだよ、理屈じゃなくって、まずは、何か一緒にやればいいんだよ」と。
 カトリックとプロテスタントの話だけじゃなくて、すべて、そこが基本なんです。「一人で福音を語りましょう」「一人で受け入れましょう」ってことじゃなくて、何であれ、一緒にやるときに実りがあるし、一緒にやることで、私たちも一緒に救われていく。
 そもそも、「私は救われた」なんて一人称単数で言うのは、ずうずうしいんですね、言ってしまえば。「私の救い」だなんて、そういう、自分一人のことを考えるのは、傲慢っていうか、幻想っていうか。「人類がみ~んな一緒に救われるのか、みんな救われないのか」と、そういう話であって、特にカトリックとプロテスタントが「一緒にやりましょう」っていうのはね、そこがポイントっていうか。
 そのルンド声明の、「私たちは一緒に、貧しい人のために働きます」っていう、結局それが、一致への一番近道なんじゃないですか。議論や対立を後回しにして、「一緒に」ごはんを食べるとか、「一緒に」誰かのために働くとか、「一緒に」神の国のために協力するとか、ともかく「一緒にやる」。すると誰かが救われて、その救いによって、一致を体験する。
 結局、争ってるときって、自分のことしか考えてないから、一人ぼっちなんです。でも、一緒に何かするならば、そこに神の国が現れる。・・・人は、一人では誰も救えないし、自分も救われないってことですね。
 今日の福音書を読みますと(※5)、「正しい人たち」が、複数形で答えてますでしょ。「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、・・・」(マタイ25:37/強調引用者) って。まあ、それは右側にいる人たちが複数いるから、そうでしょうと思うかもしれませんけど、私はこれ、やっぱり、「正しい人たちは、個人でやってるんじゃない」ってことを言ってるって思うんですよ。この人たち、誰かを助けるっていう、とってもいいことしてるんですけど、それを、一人称複数形の「わたしたち」で、食べ物を差し上げ、飲み物を差し上げ、わたしたちみんなで宿を貸したり、お着せしたりをしてきた人たちなんだっていう、そういうイメージがステキなんじゃないですか (cf.マタイ25:37-39)

 昨日も「うぐいす食堂」をやりました。ホームレスの方たちに、おいしいごはんを食べていただく。よくある炊き出しのように、並んで食事をもらい、一人で食べるっていうんじゃなく、私たちが「一緒に」ごはんを作って、招待したホームレスの皆さんも、「一緒に」座って食べていただいて、で、作った私たちも、「一緒に」座って食べる。
 これはね、「食べさせたから、私は合格して天国に入れる」とかっていうようなことじゃなくて、そうして一緒にやっていると、そこに天国が現れるってことなんです。そこで、私たちは「救われている」ということを実際に体験できて、ホントにうれしい気持ちになる。一緒にやってると、ホントにうれしいんですよ。そのうれしさが、もうご褒美なんですね。一人でやっても、うれしくならない。一緒にみんなで工夫するから、そこに大きな喜びが生まれるわけでしょ。おいしい食事をみんなで分かち合って、だんだんお互いを理解し合えるようになるのは、やっぱりうれしいですよ。
 昨日、私の隣にいたホームレスの方が、「この部屋、暑いですね」って言うんですね。暖房をつけたばっかりだし、むしろ寒いくらいに思ってたんで、「これで暑いですか?」って聞いたら、「いやあ、俺たちはいつもテントの中だから」って。なるほど、そりゃそうだ、ず~っと寒~い所にいるわけだし、暖房の効いたところなんてめったに入らない。・・・そんなふうに、みんなで一緒にごはんを食べてると、何かが通じていくんですよね。つながっていく。理解していく。
 そうそう、ホームレスの皆さん、いろんな所でごはんを食べてるわけですけど、「キリスト教のカレーはうまい」って言ってましたよ。(笑) これは、ちょっと誇りですよね。いろんなとこでカレーが出ることがあるんだけど、教会のカレーはうまいって。まあ、教会はカレーつくるの慣れてるしね、「一緒においしく食べましょう」ってお招きすることにおいては、エキスパートでありたいし、やっぱり、お招きするからには、おいしいもの出したいですよ。
 昨日なんかは、うぐいす食堂、松茸(まつたけ)ご飯が出ましたからね。・・・えっ!?すごい!って思うでしょ。おいしかったですよ。松茸の香りがふわ~っと立ち上って。でも、上に乗ってる薄切りの松茸を食べてみると、どう考えてもエリンギ。(笑) 実は、松茸のお吸い物の素を、炊き込みご飯にいっぱい入れて、松茸の香りをつけたご飯。(笑) これどうぞ、お試しください。おいしいですよ。
 でもね、「ああ、おいしい、おいしい」って、おかわりする人もいて、うれしかったですよ。分かち合ってね、おいしいものを一緒に食べる喜び。それは、神さまから褒めてもらうためじゃない。もうその喜びで、じゅうぶんなんです。みんなの笑顔、一緒に食べるうれしさ、なんかそういうもので、もうじゅうぶん神の国のご褒美を頂いているっていう、そこが秘訣なんだと思うんですよね。一人で祈って、一人で悩んで、一人で救われて・・・って、そんなこと、あり得ない。
 今の世の中、ホントに貧富の差が激しくって、昨日のニュースで聞きましたけど、世界一の大富豪が入れ替わったそうですね。今までずっと、ビル・ゲイツだったでしょ、マイクロソフトの。それを、ネット通販のアマゾンのトップが抜いたんですね。その資産、いくらだと思います? 11兆円ですって。・・・すごいですね~、11兆円。実感できます?
 昨日、マザー・テレサの会のブラザーも来ていて、松茸ご飯の話をしてたら、彼が言うんですよ、「この前、お店に、1本1万円のキノコがあったんです!」って。インドから来たブラザーだから、よく知らないんですね。「間違いじゃないです、確かにキノコでした。1万円でした」って言うんで、私、「それが、松茸です」ってお教えしましたけど、ホントにびっくりしてました。
 11兆円あったら、その1万円のキノコを、11億本買えるんですよ。・・・って、逆に実感わかないか。(笑) でも、それが現実のことだってのが、すごくないですか。11億本あれば、全世界すべての人に松茸ご飯を食べさせられますよ。・・・今の世界、どう考えても、変。ファンタジー映画かSF映画の中の話ならともかく、現実なんだから。片や、全世界の人に松茸ご飯を食べさせられるっていうだけの資産を一人の人が持ってて、片や、冬空にテント暮らし。テントの方たち、いつどこで何が食べられるかっていう「炊き出しカレンダー」を持ってて、順番に回って生きてるんです。まあ、ささやかながら、私たちも一つ増やせてよかったなと思いますけれど。・・・ぜったい、変。
 みんなで工夫して、まずは、ちょっとでもいいから分かち合って、まさに神の国の喜びっていうのをね、やっていきたい。それにはやっぱり、「一緒にやる」っていうのが秘訣。一人で「さあ、どうしよう」とか言ってないで、まずは親しい人と、「何かステキなこと、始めようよ」って。

 実は長崎に行ったのも、「私たちが、一緒にやるってことのしるしになろう」って、そういう目的で一緒に出掛けたんですね。「私たち」っていうのは、「福音塾」っていう福音家族の仲間ですけど、以前から、私のところに牧師さんたちが集まってるっていう話、前にもしましたでしょ(※6)。全国から集まってくるんですね。毎月、京都からも来る、釜石からも来る、会津からも来る、奈良からも来る、先月は長崎からも来てました。で、今回、その長崎の牧師のところに、全員で転がり込んで、三泊四日の合宿をしたわけですよ。「カトリックとプロテスタントのぼくたちが、一緒に活動していることが何よりのしるしになるね」っていうことです。
 で、みんなで記念式典に参加したんですけど、実はその前日に、その泊まってるプロテスタントの教会で、私たち、自分たちで勝手にシンポジウムをやっちゃおうってことで、名付けて「勝手にシンポジウム」っていうのをやったんです。ぼくたちは、牧師だ、神父だなんてことを超えて、初めから一つの教会であり、一つの福音に奉仕する一つのキリスト者の集いなんだっていうことを、わかりやすく示そうっていうことです。集まった人たちを前に、「私たちは、一つの教会です」って。
 で、勝手に宣言しちゃいました。宗教改革だとか、それによって教会は分裂したとか、教科書にはそう書いてあるけど、キリストの教会は一つでしかありえないんだから、「そもそも分裂していなかった」っていう宣言なんです。確かに、組織は分かれているかもしれない。でも、キリストは一つですし、誰が何をしたって分けられません。復活の主は一人ですし、キリストの教会は一つです。そこを、まず強調しよう、と。だから、思い付きのキャッチフレーズですけど、「初めからひとつ、今もひとつ、いつまでもひとつ」と、そう書いて、教会の扉に貼り出しました。ルターが教会の扉に貼り出したみたいに。
 「初めからひとつ、今もひとつ、いつまでもひとつ」
 私たちは、そのような一つの教会の仲間ですって宣言して、勝手にシンポジウム。・・・楽しかったねえ。
 そのシンポジウムに来た一人の青年が、みんなの前で話してくれたことが忘れられません。
 その青年は家庭の問題もあって、なかなかつらい過去を背負っていて、ずっと引きこもっていて、今は一人暮らしをしているんですね。ぼくらが合宿してるその教会の、すぐ近くです。で、ちょっとしたきっかけで、その教会の若い牧師と出会って、教会に招き入れられ、以来、その教会に入り浸ってる。まあ、一人ぼっちだから、さみしいってのもあって、しょっちゅう来てるわけです。
 で、ぼくらの合宿の最初の夜、その青年が、やっぱりいつものように来たわけですよ。ちょうど、みんなでご飯を食べてる最中。自分たちで、肉じゃがとか作って食べてた。そこに、ピンポ~ンって彼がやって来た。・・・で、ぼくらは合宿中、しかも初日で、みんなが集まっての大事な晩御飯だから、普通に考えたらね、「今日は合宿中だから、今度ね」って言うところでしょ。だけど、さすがに「福音塾」の仲間たちですから、「ようこそ、よく来たね。さあ、一緒に食べようよ!」って招き入れるわけですよ。で、牧師と神父の集まりに、この青年が加わって、問わず語りに身の上を語ったりして。やっぱり牧師たちは、みんな、聞き上手だね。上手に彼の話を聴いて、励まして、さりげなく福音なんかも語ってるわけですよ。彼にとっては、その夜は、すごくうれしかったみたいです。
 だから、彼は、翌日のシンポジウムにもやって来て、みんなの前で話してくれたってわけです。
 「私は、こうしていろんな先生たちがこの教会にいるのが、うれしいです。昨夜、この先生方から招き入れられて、一緒にごはんを食べました。ぼくは、大勢の人と一緒に親しくごはんを食べるのは、ホンットに久しぶりでした。いつも一人ぼっちでラーメンだったけど、みんなでご飯が食べれて、ホントに楽しかったし、うれしかった。ぼくは、この教会が大好きです。この教会で洗礼を受けようって思ってます」って、そう言ったんです。
 なんかね、もうみんな感動してね、「よかったねえ・・・」っていう気持ちになったし、牧師と神父が一緒にいるだけで、誰かの救いに奉仕できるんだな~と思うと、また、勇気をもらったって、そんな気持ちでしたよ。
 ちなみにその彼、長崎で造船の仕事してるんですけど、来年は横浜の造船所に行くかもしれないんですって。で、「横浜に行ったら、ぜひ、はれれさんの教会にも行きます」って。いろんな牧師がそう呼ぶもんだから、もう、さっそく私のことを「はれれさん」って呼んでるんですけど、「はれれさんのところに行きます」って言ってたから、浅草教会にも現れるかもしれませんよ。
 そのときは、みんなで一緒に、おもてなしをしましょう。
 そのとき救われたのは、その彼だけでなく、一緒に受け入れてる私たちなんです。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます)

※1:「いろいろな意味で、感動的な式典でありました」
S-reform500poster 宗教改革から500周年を迎えることになった今年(2017年)、日本では11月23日に、長崎のカトリック浦上教会で、日本福音ルーテル教会と日本カトリック司教協議会による宗教改革500年共同記念式典、『平和を実現する人は幸い』が開催された。 (文中へ戻る
===(もうちょっと詳しく)===
 1517年、マルティン・ルターはローマ・カトリック教会に抗議して、ドイツ北部、ヴィッテンベル城の教会の扉に、いわゆる『九十五ヵ条の論題』を打ちつけ、貼り出した。これが、宗教改革の始まりとされている。
 1521年にルターは破門され、カトリックと絶縁し、新しい派を立て、対立が続いた。しかしその後の歴史を経て、プロテスタント諸派は、1910年のエジンバラ世界宣教会議以降、「教会一致運動」(エキュメニズム)が進み、カトリック教会も、第二バチカン公会議(1962年〜1965年)で『エキュメニズムに関する教令』を布告するなど、対話や和解の傾向にあった。
 ル一テル世界連盟とローマ・カトリック教会の間では、1967年からさまざまな対話が重ねられ、1999年には「義認の教理に関する共同宣言」調印、また、2017年の宗教改革500年にあたり、世界の教会に分裂をもたらした宗教改革の当事者として共に記念するという、これまでには考えられなかった取り組みがなされた。
 その発端は、2016年10月31日、スウェーデンのルンド大聖堂で教皇フランシスコと世界ルーテル連盟代表のムニブ・ユナン議長(別訳:ムニブ・ヨウナン監督)が主導した共同の記念式典で、それを皮切りに世界各地に広がっていった。
(参考)
・ 「ローマ・カトリックと宗教改革500年」(カトリック中央協議会)
・ 「宗教改革500年共同記念 平和を実現する人は幸い」(オフィシャルホームページ)
・ 「長崎で宗教改革500年記念式典/当日の模様(動画あり)」(カトリック中央協議会)
・「日本福音ルーテル教会・日本カトリック司教協議会 宗教改革500年共同記念~シンポジウムと共同礼拝」(YouTube)
・ 「宗教改革500年 関連ニュース」(日本福音ルーテル教会)
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※2:「実は、この500周年イヤーが始まる昨年、大きな出来事があった。(中略)これは、すごくインパクトのある、しるしになりました」
 ルーテル世界連盟(LWF)とカトリック教会は、当時のルーテル世界連盟代表のムニブ・ユナン議長と教皇フランシスコとの主導により、2016年10月31日、宗教改革500年を記念する年の幕開けとして、スウェーデンのルンド大聖堂で、宗教改革の共同エキュメニカル記念式典を行った。
 神学的基盤は、過去50年に及ぶ両者の対話から実った「義認に関する共同宣言」(1999)や「争いから交わりへ」(2013)。論争や不一致を超えて互いを理解し合うことを呼び掛け、共同の祈りを行い、共同声明に署名した。それは、ルーテル、カトリック両教会の信者たちにも、「対立と分断が影を落としてきた過去から立ち去り、共に交わる道を歩む」よう呼び掛けるものだった。
PopeFrancis_BishopYounanEmbed from Getty Images
(参考)
・ 「スウェーデン訪問:教皇、ルンドでルーテル教会関係者とエキュメニカルな祈り2016/10/31(バチカン放送局)
・ 「『宗教改革』500年記念幕開け、教皇も参加2016/11/4(カトリック新聞オンライン)
・ 「ローマ・カトリックと宗教改革500年〔PDF〕(カトリック中央協議会)
・ 「教皇フランシスコとルーテル世界連盟議長・総幹事、10月にルンドで宗教改革を共同で記念へ2016/1/26(クリスチャントゥデイ)
・ 「ルーテルとカトリック、宗教改革記念で歴史的な共同の祈り 教皇とLWF議長が共同声明に署名2016/11/1/23:12(クリスチャントゥデイ)
・ 「ローマ教皇・ルーテル世界連盟議長による共同声明全文(非公式訳)2016/11/1/23:58(クリスチャントゥデイ)
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※3:「『義認の教理に関する共同宣言』っていうのも出してるんですね」
 1999年10月31日、カトリック教会とルーテル世界連盟との代表が、ドイツのアウグスブルクにおいて、「義認の教理に関する共同宣言」に調印した。
 「義認の教理」についての理解は、宗教改革の根幹となる主張で、その中心は、人は、神への信仰のみによって義とされる(救われる)のか、よい行いが伴ってはじめて義とされる(救われる)のかということだった。
 ルターは、本来、罪深い存在である人が救済されるかどうかは、その人の外的な行いではなく、内的な信仰によると考えた。人の行いは二次的なもので、よい行いも正義も、義とされる(救われる)ためには何の貢献もしないと主張した。
 1999年の、このカトリック教会とルーテル世界連盟の共同宣言では、義認(義とされること・救われること)は信仰によってのみ得られるが、よい行いは信仰のしるしだとしている。
 ここにおいて、義認の教理について両教会は共通の理解に達し、いくつかの相違点が残るにしても、それらは相互の断罪の理由にならないこと、16世紀の双方からの断罪は、今日の相手には当てはまらないとした。
 これは、宗教改革以降のキリスト教史上、画期的な出来事と受け止められている。
(参考)
・ 「義認の教理に関する共同宣言」(ウィキペディア)
・ 「『義認の教理についての共同宣言』の調印 ‐500年近い論争に終止符か‐〔PDF〕(南山大学)
・ 『争いから交わりへ2015/2/10(著:一致に関するルーテル=ローマ・カトリック委員会/訳:ルーテル/ローマ・カトリック共同委員会/出版社:教文館)
・ 『義認の教理に関する共同宣言2016/10/24(著、訳、出版社、同上)
・ 「重版されました『義認の教理に関する共同宣言』2016/11/8(日本福音ルーテル教会)
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※4:「相互聖餐」(そうごせいさん)
◎「相互聖餐」 〔ラテン語: intercommunio〕
 相互陪餐(そうごばいさん)ともいう。キリスト教の諸教派間で、共に聖餐(※)を記念し、共に聖体拝領(聖餐・陪餐)すること。
 本来、聖体拝領(聖餐・陪餐)は、キリスト者が一つのパンを分かち合い、互いに「キリストの体」を形成することを意味しているが、諸教派間における聖体拝領についての理解や規律の違いから、共にすることが難しいのが現状となっている。
 相互聖餐に関する規定は教派によって異なるが、エキュメニズム運動(教会一致運動)の中で、その意義が見直され、特定の教派同士では、協定が結ばれつつある。 (文中へ戻る
===(もうちょっと詳しく)===
(※)聖餐 〔ギリシア語・ラテン語:eucharistia〕
 キリストの死と復活を記念するため、キリスト者がパンとぶどう酒をもって象徴的に食事をすること。カトリックでは、その聖餐を中心にした儀礼を「ミサ」とよび、正教会では「聖体礼儀」、聖公会とプロテスタント諸教会では「聖餐式」「主の晩餐」「聖晩餐」などの語を用いている。
(参考)
・ 「相互陪餐」「聖餐」(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008年)
・ 「相互聖餐」(ウィキペディア)
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※5:「今日の福音書を読みますと」
この日、2017年11月19日(年間第33主日)の福音朗読箇所のこと。
 マタイによる福音(マタイによる福音書)25章31~46節
 〈小見出し:すべての民族を裁く〉
===(聖書参考箇所)===
 
お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」すると、正しい人たちが王に答える「主よ、いつわたしたちは、飢えておられるのを見て食べ物を差し上げ、のどが渇いておられるのを見て飲み物を差し上げたでしょうか。いつ、旅をしておられるのを見てお宿を貸し、裸でおられるのを見てお着せしたでしょうか。いつ、病気をなさったり、牢におられたりするのを見て、お訪ねしたでしょうか。」そこで、王は答える。「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。(マタイ25:35-40/強調引用者)
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※6:「『福音塾』っていう福音家族の仲間ですけど、以前から、私のところに牧師さんたちが集まってるっていう話、前にもしましたでしょ」
(参考)
・ 「つながりが、神の国」(「福音の村」2016/7/10説教、上から2段落目>この辺~)
・ 「身の回り5メートル以内の救い」(「福音の村」2016/11/27説教、上から4段落目>この辺~)
・ 「一緒にご飯を食べなさい」(「福音の村」2017/4/2説教、後半、上から6段落目>この辺~)
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2017年11月26日(日) 録音/2017年12月26日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英