復活「させられた」

2015年4月5日復活の主日
・第1朗読:使徒たちの宣教(使徒言行録10・34a、37-43)
・第2朗読:使徒パウロのコロサイの教会への手紙(コロサイ3・1-4)
・福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ20・1-9)

【晴佐久神父様 説教】

 あらためまして、ご復活、おめでとうございます。
 今日のこの「復活祭の喜び」っていうのを、今、ここで、しっかりと体験していただきたい。
 昨日の洗礼式の説教でも、秘跡によって「復活を体験してほしい」ということを強調いたしました。今日もそれを繰り返しますが、新受洗者をはじめとして、キリストを信じる皆さんに、復活を「体験」してもらいたい。これは、頭で考えることじゃない。体験(・ ・)するんです。洗礼を受けて今日ここに集められている事実を、体験する。復活の主の体であるご聖体を一緒に頂くことを、体験する。何よりも、私はすでに復活しているという現実を、体験するんです。「今」という「復活体験」をね。
 ぼくらは、今生きていてやがて死んでいくとか、今は存在するけれどやがて終わっていくとか、今は所有しているけれどだんだん減ってくとか、そんなふうにマイナスに向かうイメージを思い込んでいるけど、それは脳みそ(・ ・ ・)の・・・何でしょうね、「とらわれ」なんですよね。
 私たちは復活していくんです。終わるんじゃない。今から始まっていくんです。
 まだちゃんと誕生もしていないんだから。
 この、「復活」っていう漢字2文字がね、どうにも・・・その神秘を物語るに、ぜんぜん足りない。もっともっと、とてつもなくすごいことなんだけれど、うまく言う言葉がないから、とりあえず、「復活」なんていう言葉に閉じ込めている。でも、既成のイメージにとらわれずに、ともかく、「今、始まっていくんだ!」っていう、そんな恵みを信じて、それを実際に感じ取ってほしい。

 昨日の洗礼式は、まさにその体験だったし、今日のこの復活の主日のミサもまた、復活体験なんです。皆さんが、現実の人生でいろいろ抱えていて、病気だったり、いろんな恐れにとらわれている、それって「体験」でしょ。だったら、その現実を根底から救う復活がすでに始まっている、これも「体験」としてしか受け止められない。・・・ただ、それを言葉では説明しようがないので、しかたがないから、こうして連呼するのみです。選挙カーの演説みたいに、「復活!」「復活!!」「復活!!!」ってね、何度でもそう言って、皆さんを、復活体験に目覚めさせたいですね。
 ・・・今日、皆さんの歌声、元気いっぱいで素晴らしいですね。今年の聖週間は、聖歌奉仕の有志グループが練習を重ねて、4部合唱で盛り上げてくれたので、感動的な典礼になりました。おかげで聖なる三日間も盛り上がって、大変よかったんじゃないですか? 今日も、こうしてみんなで元気いっぱいに歌を歌って、その声がひとつになって、響きが天にまで昇るっていう、そんな典礼を実際に体験して、心が震えるでしょう? イエスさまが私たちに与えてくれたのは、その「体験」なんです。理屈の話じゃありません。
 受洗者の皆さんは、「復活体験」っていうのを、昨日の洗礼式でしたんです。というか、させてもらったんです。ここは、間違えないでください。復活体験って、「さあ、体験しよう!」と思って、私たちが頑張ってやることじゃない。たとえば歌を練習して儀式を盛り上げるとかいうのも、実は自分たちがやってることじゃないんですよね。神がやらせていることなんです。神が、神の子たちに、復活を体験させてるんです。

 今日の第2朗読(※1)、これ、非常に重要な朗読なんですけれども、それで復活祭に読まれるわけですけれども、最初の1行目、見てください。
 「〔皆さん、〕あなたがたは、キリストと共に復活させられた(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)のですから、上にあるものを求めなさい」(コロ3:1/強調引用者)
 そうありますね。この「させられた」、これが非常に重要なんです。・・・「復活させられた」。
 これ、新共同訳で、「させられた」って翻訳ですが、考えてみるとすごい言葉です。
 「復活させられた」の中心部分は、「復活する」ですけど、「する」はサ変動詞ですね、サ行変格活用。・・・その「する」が、「せる」という使役の助動詞にくっついて、「させる」ですね。で、さらに「られる」という受身の助動詞にくっついて、「させられる」です。「する」と「せる」と「られる」がくっついて、「させられる」。・・・目の前で国語の先生がニヤニヤしながら、こっち見てますけど、(笑)いいんですよね、それで。(笑) サ行変格活用と、使役の助動詞と、受身の助動詞。
 つまり、これ、復活するのは、勝手に復活「する」んじゃなくて、「させる」んです。主語は言うまでもなく、神です。神さまが、復活「させる」んですね。
 で、われわれは、受身の方。復活させ「られる」んです。・・・これ、われわれは、何もできない。受け身ですから。復活って、そもそもの創造のわざと同じ、神のわざなんです。
 さらには、最後に完了の助動詞「た」がくっついてる。・・・「させられる」の完了形で、「させられ()」。完了してるんです。「これから復活させられるでしょう」でも、「いつか復活させられたい」でもない。「復活させられ()」んです。復活+使役の助動詞+受け身の助動詞+完了の助動詞。
 復活は、神により、われわれの内に、完了してるんです。
 ・・・これこそ、「なんという大きな喜びだ!」って、もうみんなで、「ばんざい、ばんざい」って言いましょうっていう体験じゃないですか。
 しかも、「キリストと共に」って書いてある。「復活させられたキリスト」と共に、私たち、特に洗礼を受けた人たち26名、あなたたちは昨晩水をかけられて、「復活させられた(・ ・ ・ ・ ・)」んです。
 昨日はいつにも増して、たっぷりとかけましたよ。(笑) 水の量が、年々多くなる。(笑) ザザザザ、ザザザザ~ッ。・・・・これで、完了。復活体験です。
 それまでの人生で、皆さん、いろいろ悩んできたし、恐れてきました。でも、それは、要するに「私」が主語でのいろんなことでした。「私は、恐れている」んであって、あくまでも主語は「私」。「恐れている」は述語ですね。そういう、「私主語」で生きてきた。「私主語」のことをいっぱいやってきた。「私は、悩んだ」「私は、求める」・・・、まあ、何でもいいです。いずれにせよ、ぜんぶ「私」が主語。
 しかし、昨日、水をザザザザッとかけられたときから、もはや主語が「神」になったんです。
 「神が、私に洗礼を授けた」
 「神が、私たちを復活させてくださった」
 「神が、永遠なるキリストと共に私たちを復活の栄光に(あずか)らせてくださった!」
 われわれはもう、みんな、復活「させられちゃった」んです。神によって。そう、この「ちゃった」が大事。もう、元に戻らない。ぼくなら、完了の助動詞「た」を、「ちゃった」と翻訳したい。
 皆さんは、神によって、復活させられちゃいました。
 ホントに、おめでとうございます。

 実は昨日、洗礼志願者の中で、洗礼式に来られなくなった方がいて、心配したんです。
 心の病で苦しんできた方です。前もお話したと思うんですが(※2)、7年間、ある教会に通ったんですけれど、どうしても洗礼を受けたくて願い出たら、「その病気が治ったらね」って言われて絶望したっていう方です。「病気で主日の礼拝も守れないから」とまで言われたそうですが、かわいそうな話です。だって、なかなか治らないわけですし、むしろ、「病気だからこそ、洗礼によって励まされる」とか、「病気だからこそ礼拝に来られないときに、礼拝に来られる仲間たちに祈ってもらう」って考えるのが当たり前だと思うんですけど。
 そうして苦しんでいたときに、ある人に紹介されてカトリック多摩教会に来たので、もちろん私は申し上げました。「ぜひ洗礼を受けましょう」と。「あなたに今一番必要なのは、洗礼です。病気が治ったらどころか、病気だからこそ、洗礼を受けましょう」と。彼はとっても喜びましたし、洗礼志願者となり、このたび受洗するはずだったんですけれど、それが、突然入院しちゃったんですよ~。心が不安定になり、苦しくなり。
 それで、さみしそ~な、もう、ホントに残念そうな電話が昨日、洗礼式の当日にかかってきたんです。「ごめんなさい、入院してしまったので今晩は伺えません。今晩だけでも外出したかったんだけれど、外出許可が下りないので、とても残念です。ご迷惑をおかけして申し訳ない」と。
 だから、「迷惑だなんてとんでもない。たとえ迷惑だとしても、家族なんてそういうもんでしょう。以前の教会で、『あなたは精神が不安定で、信者たちに迷惑をかけるから、洗礼は無理です』とまで言われたそうだけど、迷惑かけ合うからこそ、真の家族になれるんじゃないですか。だいじょうぶ、それじゃ、私が洗礼授けに行きましょう」って言ったら、「神父も来ちゃいけないって言われたんです」って。閉鎖病棟は、家族と行政の人以外は、入れないんですね。頼んだけれどダメだって言われたんです、と。神父なんて、家族よりも家族なんですけどね~。
 だから私、意地で言っちゃいました。「じゃあ、『望みの洗礼』として、とりあえず今夜、霊的な洗礼式をしましょう。あなたがいなくても、名前を呼んで、お水をかけますから」と。
 「『エア洗礼式』として、(笑)お水を空中にザザザザってかけますから、あなたは病室でね、「あっ! 今かけられた!」って信じて、安心してほしい。7時半過ぎごろですよ。離れていても、聖霊に結ばれて、一緒に祈りましょう。正式な秘跡にはなりませんから、退院したら、次の主日にちゃんと洗礼式をやりましょう。ともかく、今晩受けられないからって、苦しまないで。ここには来られなくても、神さまの慈しみによって受けたも同然だと信じて、安心してほしい」、そう励ましました。
 ところが、その電話の後でね、彼、すっかり励まされて、勇気を出して、病院の部長先生に直談判したんですね。で、「そこまで言うなら、少しずつ安定してきているようだし、外出許可します」って、許可を勝ち取ったんです。で、すぐに、「行けます! 奇跡です!」って電話が、また来て・・・。
 私は昨日、彼に、洗礼を授けました。これ、神が、授けたんです。
 洗礼式が終わってもなかなか帰らないんで、「だいじょうぶなの?」って聞いたら、「もう、病院に遅く帰っても、鍵を開けてもらうのにいろいろ大変だから、外泊許可も取ってきた」って言って、代父(※3)さんのお世話で一泊して帰りました。代父さんも、深夜一緒に食事したとかで、喜んでたなあ。
 この彼なんかね、自分の力では、もうどうしようもない現実を生きてるんですよ。閉鎖病棟なんて、外から鍵をかけられちゃいますから、魔法でも使わない限り出られない。それはまさに、「私」には不可能な現実です。「私は、出られない」。でも、「神」が働けば、「復活させられ」ちゃうんですね。「出させられちゃう」。事実、どういういきさつ(・ ・ ・ ・)かはともかく、あれよあれよという間に許可が下りて、外泊の許可まで出ちゃって、昨日、確かに、私の目の前でうれしそ~に洗礼を受けていました。今頃はまた病室ですけれども、それまでとはもう、全く違う。「復活させられた」んですから。
 これは、誰かが努力するとか工夫するとか、そういう話じゃないんですね。実は、他の25名の受洗者も、みんなそれぞれに、そういう体験してるはずです。いずれも、その本人が何かしたわけじゃない。・・・復活「させられた」んです。本人が希望して洗礼を受けているようでも、洗礼志願動機書(※4)なんか読んでると、似たような表現がいくつも出てくる。それは、「もう、自分の意志や希望ではどうしようもない」っていう感覚です。

 たとえば、今、目の前にいるあなたは、お母さまを亡くしたのがきっかけで受洗に導かれたわけですけど、ってことは、お母さまが生きていらしたら受洗してないわけです。あなたは8年間、看病したわけですけど、そのときは洗礼を受けるなんて、ゆめゆめ思ってなかった。しかし、お母さまが亡くなって、ご葬儀が終わり、大変疲れ果てていたにもかかわらず、葬儀の次の土曜日の夜、気がついたら多摩教会のミサに来てしまっていた。「自分でも驚いた」。・・・動機書に、そう書いてありました。
 「なんで私、ミサに来ちゃったんだろうって、自分でも驚いた」
 ・・・そう書いてありましたよ。その「驚き」は何でしょう。あなたを超えた大きな力を感じた驚きではないですか。
 「復活させられ(・ ・ ・ ・)」始めていたんです。

 そのお隣の方も、初めて「おかえりミサ(※5)」に来てから、ずっと多摩教会に通われましたけれども、洗礼動機書には、洗礼について、「もうそうせざるを得ない(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)」って書いてありました。
 すごいですね。「洗礼を受けざるを得ない」。「・・・ざるを得ない」っていう日本語は、「自分ではコントロールできない」っていう意味ですよね。大きな働きに、逆らえない。「もう、洗礼を受けるしかなくなっている」。
 受け「ざるを得ない(・ ・ ・ ・ ・ ・)」。・・・こういう言葉が出てくるっていうのは、これ、ホントに・・・。

 誰でしたか、「他に考えられない」っていう表現の方もありました。・・・「考えられない(・ ・ ・ ・ ・ ・)」。
 「もう、洗礼を受けることしか、考えられない」と。
 何かちゃんと考えようと思って考えてるわけじゃないんです。「それしか考えられなく」なっている。・・・みんなそうなんですよ。神さまが働いて、もう、他の選択ができなくなっちゃってる。これ、「聖霊の働き」ですね。
 そうして私たちは、復活させられ「ちゃう(・ ・ ・)」。
・・・うれしいことです。これ、神さまがやってることだから、もう何も恐れることはないし、ぜんぶ任せて、私は、「そうさせられた(・ ・ ・ ・ ・)」っていう事実を受け入れましょう。
 洗礼は「誕生」ですけど、誕生ってそうですもんね。赤ちゃんは、「生まれさせられちゃった」わけでしょ? あれ? これでいいんですよね。「生まれ・・・させ・・・られる」で。・・・いいんですか?(笑) まあいいや、ともかく、勝手に生まれてくるんじゃない。 「生まれ・・・させ、られる」。自分でどうこうすることじゃないんです。この、「自分でどうこうすることじゃない」ことを、神さまがなさっている。それに信頼して、身を委ねる。これが「信仰」なんですよ。
 それはもう、まずはイエスが、そうなさっている。神にすべてを委ねている。だから、われわれも、まったくその通りにする。そういうことです。イエスは、すべて神がおっしゃるとおりに生きました。イエスは、ぜんぶ神さまにそう「させられて」生きて、十字架に「かけさせられて」死にました。・・・もう他に考えられないんです。そう「せざるを得ない」。他に「考えられない」。「十字架にかけ・・・させ・・・られる」。神の使役と、私の受身です。そうさせられちゃう。
 神さまは、そのようにして私たちを救ってるわけであって、なにもそう「させて」苦しめてるわけじゃないですよ。それが、神さまの救いの方法だから、そう「させて」るんであって、だったらぼくらは無駄な抵抗せずに、それこそ「やだよ、やだよ~!」って、何かにしがみついて離さない子どもみたいにじゃなく、全部手放してお母さんの胸に安らぐ赤ちゃんみたいになって、神に「させられ(・ ・)」ちゃったら、いいんです。・・・こんな喜びないですよ。安心して、「させられ(・ ・ ・ ・ )」ていればいい。

 今年、洗礼を受けた方、半分くらいは、いろんなご病気を抱えておられた、あるいは、おられる方ですけど、それを考えると、みんなホントに試練がいっぱいあったけれども、だからこそ、「復活させられた(・ ・ ・ ・ ・)」んです。苦しんで良かったねってことでしょう。
 事実、「復活」っていうからには、いったん死ななきゃならないわけでしょ。3節、
 「あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神のうちに隠されているのです」(コロサイ3:3)
 「隠されている」っていうのは、こっちから見ると「隠されている」だけど、神の側から見れば「キリストと共に神のうちに」、もう入っているんですね。私たちの本体は、もう神さまのもとに保たれている。神さまのもとで、大切に守られている。こっちからはそれが見えないから、「隠されてる」って言い方になるんですけど、それはホントに素晴らしいことなんですね。
 「あなたがたは死んだのであって」って、・・・まさにこの世から見れば「死んだ」んです。キリストと共に死んだ。・・・洗礼って、そういうことです。しかし、あなたがたの真の命は、もう、神さまの内に保たれてる。神さまに保たれ、守られてるんだから、もう決して消えないんですね。なくならないんです。
 さっきの「自分でも驚いた」っていう方、確かにあなたのお母さまは、この世では死にました。死んだんだけど、そのお母さまが、生前、8年間苦しみながらも信仰のうちに生きている姿を見て、「ああ、私も『無条件に信じる』っていうことをやりたい」って、そう思ったって言ってましたね?
 それはもう、この世に死んでも、神さまが永遠に私たちを生かしてくださるという信仰に、無条件に入ってくってことで、お母さまの入った「復活」の世界に入っていくってことでしょう。
 「復活」っていうのは、そういうダイナミックな動きです。病気とかさまざまな試練こそは、私たちにとっての日々の「死」ですけど、その死を超えて、私たちは復活に入っていくのです。
 やがて、私たちみんな、復活の栄光の世界に入ってまいります、必ず。だから、この世の、・・・「地上のものに心を引かれないようにしなさい」「上にあるものに心を留め」なさい、と(cf.コロ3:2)
 この世で、「もうあと何年」だとか、「自分はそれまで生きてるだろうか」とか、そういうことを考えっこなしなんです。
 「地上のものに心を引かれず、上にあるものに心を留める」(cf.コロ3:2) 。すると、「あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう」 (コロ3:4)
 すごい教えですよね、これ。ホントに、読めば読むほど感動しますね。キリストこそが、私たちの命だから、そのキリストが、やがて神の国として完成して現れるとき、・・・「本当の私たち」も、栄光に包まれて現れる。まあ、そういう希望を持っていれば、この世は楽しくってしょうがないんです。毎日、毎日、そこに向かってるんだから。希望だけは、決して消えない。
 ・・・永遠なる希望を持ちましょう。

 この前、私、FM放送で、生放送でお話したんです。・・・「かわさき エフエム」っていう所に招かれて行って、そこでゲストトークをしたんですね。生放送ですよ(※6)
 サテライト(※7)で、DJの男性と女性がいて、そこで私の、「病気になったら」っていう詩(※8)と、その詩をもとにして作られた「病気になったら」っていう曲(※9)が流されて、で、そのことについてお話ししてっていうんで、まあ、いろいろお話した。
 いいチャンスだから、福音を語りたかったんですけど、公共の放送ですし、宗教の話って、あまり強く出せないですよね。だけど私、生放送だから、のどまで出かかるんですよ。「今度の復活祭、多摩教会に来てくださいね~♪」とか。(笑) 生って、何でもありですからね。でもねえ、「神」とか「復活」とか言っても、聴いてる人が引くだろうし、でも、病気の人もね、いっぱい聴いてるだろうし。
 だから、
 「病気のときは、本当につらいですよね。すごく緊張もするし、がんばりすぎちゃうし。でも、そんなときだからこそ、弱くてもいいんだって、正直になっていいんじゃないですか。・・・何か大きな力がちゃんと働いていますから、だいじょうぶ、きっと救われるんだって信じて、安心してください。ぽろぽろ泣いたって構わない。むしろ、『弱いときは恵みのときだ』っていう気持ちで受け入れて、ぜんぶ委ねましょう」
 みたいなことを話したんですけど・・・。ああ、なんか、うまく言えなかったな・・・。
 ただ、番組の最後に、「オリンピックがやってくる」みたいな歌が流されて、オリンピックの話で盛り上がってたときに、私、ついつい言っちゃったんですよ・・・。
 「ご病気の方の中には、『私、オリンピックまで生きてるかしら』って思ったりする方がおられる。でも、そんな皆さん、だいじょうぶですよ、信じてください。この先、・・・必ずいいことありますよ」って・・・。
 ホントはそこで、「必ず永遠の命が待ってますよ。それに目覚めて、洗礼を受けましょうね!」って、(笑) ああ、今思うと、言っちゃえば良かったかな~。(笑)
 最近、生放送のニュース番組で、いきなりボ~ンと政府批判したりなんか、(笑) やってるじゃないですか。私も、今度機会があったらね、やってやろうと思ってますよ。(笑) 「みんな復活させられるんですよ!」って。だって、それが「真理」なんだから。それこそ、全員が聴くべきことなんだから。それを知らなければ、地上のものにいくら心を引かれても、何ひとつ喜びがない。でも、われわれは、真理を知ってる。皆さんは、真理を知ってるんです。
 ・・・そうか。私がFMで叫ばなくても、あんたたちが言えばいいんだよ。(笑)
 信者の皆さん、特に新受洗者の皆さん、言ってください、散っていって。みんなに、
 「私は復活させられた」
 「あなたも復活させられるんだ。いや、もう復活させられてるんだ」
 「目覚めなさい。信じなさい」って。
 皆さんを遣わしましょう。言って回ってくださいよ。真理を語るくらい、うれしいこと、ないんですから。そして、みんなが救われていく。それを目の当たりにできる。

 昨日受洗した26名。ほんとにもう、式に来るの来ないの、洗礼をもう止めるの止めないのって、まあ、手がかかりましたけど、そういえば、「自分なんか洗礼受ける資格ないんだ。もう死んじゃいたい」って言ったのも、そこに座ってますけど、(笑) もう、神はあなたたちを復活させました。
 26名全員に水をかけ終わり、そして全員にちゃんとご聖体を食べさせた後で、私、なんだかほっとして涙出ましたよ。
 「ハァ・・・。全員復活させられた。みんな、これでだいじょうぶ。もう、だいじょうぶ。私は、することをした。あとは、みんなそれぞれ、始めてくれ!」
 ・・・そんな思いでした。


【 参照 】(ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがありますので、ご了承ください)

※1:「第2朗読」
本日、2015年3月22日〈四旬節第5主日〉の福音朗読箇所は、以下のとおり。
 使徒パウロのコロサイの教会への手紙 3章1~4節
  〈小見出し:「日々新たにされて」(2章20~3章17節)から抜粋〉
――――――――――――【以下がその部分】――――――――――――
〔皆さん、〕あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。 上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。 あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。
――――――――――――――――――――――――――――――――
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※2「前もお話したと思うんですが」
・ 「ずっと一緒にいようね」(「福音の村」2013年6月23日〈年間第12主日〉)
 ・・・説教のちょうど中ほど、上から7段落目(「2週間前に入門講座に来たひとりの青年が~」)をお読みください。
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※3:「代父」
(参考):
 〔ラテン語〕 patrinus, matrinus 〔英語〕 godfather, godmother
――――――――――――
 「代父母(だいふぼ)」〔代親(だいしん)ともいう〕
   -「代父(だいふ)」は、代親のうちの男性。「代母(だいぼ)」は女性。
――――――――――――
 キリスト教の伝統的教派において、受洗者の洗礼式に立ち会い、神に対する契約の証人となる者。教会共同体を代表して受洗者の世話にあたる。また、受洗者の生活や信仰について、教会に証言する証人でもあり、信仰生活にとっての案内役でもある。
 男性の場合は代父、女性の場合は代母、また、被後見人(受洗者)は代子という。通常、受洗者一人に対し、一人の代父、または代母がつく。受洗者が男性の場合は代父が、女性の場合は代母がつくのが一般的である。
 求道者を教会に紹介した者が代父母になることが望ましいが、他の適任者が求道者によって選ばれる場合もある。
 洗礼志願式では、志願者の意志を証言し、洗礼式の際には立ち会う。堅信式の代父母も本来同一人が務めることが望ましい。
 代父母制度は、入信制度の成立と共に古く、受洗者一人ひとりと教会共同体を結びつける貴重な役割を担っている。
(参考)
・ 「代父母」(2008年『岩波キリスト教辞典』岩波書店)
・ 「代父母」(ウィキペディア)
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※4:「洗礼志願動機書」既出
 洗礼志願動機書(画像はクリックすると大きく表示されます)<>
 カトリック多摩教会で、洗礼を希望する方は、原則として、待降節第1主日から四旬節の始まる2週間前までに、「洗礼志願書」と「洗礼志願動機書」を提出し、主任司祭との面談を申し込むことになっている。
 カトリック多摩教会での洗礼までの流れは、教会月報の主任司祭(晴佐久神父)巻頭言、「洗礼シーズン到来」(2013年1月19日発行分)に詳しく書かれていますので、そちらをお読みください。
  >>> 「洗礼シーズン到来」 晴佐久神父(2013)『多摩カトリックニューズ』2013年1月号 主任司祭巻頭言 。
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※5:「おかえりミサ」既出
 いやしのためのミサ「おかえりミサ」(「癒やしのミサ」)
 東京、信濃町の援助修道会で、2001年から続いている、晴佐久神父司式のミサ。
 誰でも参加可能だが、特に、事情があって教会に行けない方、体や心の病などで癒やしを必要とする方、キリスト教に興味のある未受洗の方などを主な対象とし、癒やしの恵みを祈り求める。
***** Information *****
・日時 : 毎月第3土曜日(8月はお休み) 
       15時~(途中参加可): 祈り
       16時~ : ミサ
・場所 : 援助修道会 聖堂
・住所 : 東京都新宿区市谷田町2-24
・電話 : 03-3269-2405 (問い合わせは17時まで)
・メール: auxijapon@live.jp (件名に「おかえりミサ問い合わせ」と入れてください)
・HP : 援助修道会
****************
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※6:「『かわさき エフエム』っていう所に招かれて行って、そこでゲストトークをしたんですね。生放送ですよ」
 かわさきエフエムは、川崎市の地域密着型のラジオ番組。ラジオとインターネットで24時間同時配信をしている。
(参考)
・ 「かわさきエフエム 79.1MHz
・ 「晴佐久神父様から本のプレゼント」(「母の乳癌闘病記と私の日常」個人ブログ) など
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※7:「サテライト」
 この場合、サテライト(離れた場所にある)スタジオ。演奏設備のある放送局以外に設置される放送用スタジオ。
(参考)
・ 「サテライトスタジオ」(ウィキペディア)
・ 「かわさきエフエム サテライトスタジオ(画像)
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※8:「『病気になったら』っていう詩」
 『恵みのとき  病気になったら』(サンマーク出版)収録の詩。
 著者: 晴佐久昌英、 イラスト: 森 雅之 (発売日:2005/03)
 出版社からのコメント:
  人から人へ、手から手へ。全国の患者やその家族、医療関係者から支持された一篇の詩「病気になったら」が、心にしみこむ絵とともに本になりました。あなたから大切なあの人へ、そっと伝えてください。詩作の背景を綴った「泣いていいよ」も併せて収録しています。
(参考)
・ 『恵みのとき  病気になったら』(Amazon)
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※9:「『病気になったら』っていう曲」
 
原詩: 晴佐久昌英
補作詞: 嶋田富美子
歌: 桂 宏美
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2015年4月5日 (日) 録音/2015年4月12日掲載
Copyright(C) 晴佐久昌英