阿弥陀如来に遣わされて

2015年2月1日年間第4主日
・第1朗読:申命記(申命記18・15-20)
・第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント7・32-35)
・福音朗読:マルコによる福音(マルコ1・21-28)

【晴佐久神父様 説教】

 先週の主日ミサはいかがでしたか?
 百合ヶ丘教会(※1)から神父さまが来られ、私は百合ヶ丘教会に行き、つまり司祭を交換したわけですね。午後、多摩教会に戻って来たら、早速子どもたちが、ワ〜って走り寄って来て、「神父さま、お帰りなさ〜い! 今日の神父さま、早口だった〜!」って、(笑)言ってましたけど、そうだったんですか? 「十字切るの、間に合わなかった〜!」って。(笑)
 きっと百合ヶ丘の子どもたちは、「今日の神父さま、ゆっくりだった〜!」ってね、(笑)言ってるんじゃないかな。
 時々、違う教会をのぞくのは、面白いですよ。
 百合ヶ丘ではね、奉納の時に、ノートを奉納してました。毎週やってるようですが、そのノートには、みんなが好きにお願いごとを書けるんですって。・・・いいねえ、これ、やりましょうか?(笑)
 みんな、何を願ってるのか、ノートをのぞいてみたくなりましたけど。
 お互いのために祈り合いましょうね。ミサって、ホントにいいですね。多摩も百合ヶ丘も、一つのミサ。全世界、一つのミサ。・・・今日も、全世界の教会で祈り合ってます。

 百合ヶ丘に呼ばれたのは、今度、聖堂を建て直すんですって。だから、どういう教会にしたらいいか、ちょっと晴佐久神父さんにも来てもらって、参考になる話をしてもらいましょうということで、ミサと、ミサの後の講演会を頼まれました。
 でもね、ほら、ミサ後の講演会って、信者さんたち、半分くらい帰っちゃうじゃないですか。ぞろぞろっと。(笑) いろいろ用事もあるんでしょうが、(スイマセン)って顔しながら、みんな出ていきますよね。だから、私、聖堂の出口の所で、「皆さ〜ん! いいお話ですよ〜! 帰らないでくださ〜い!」って、(笑) 自ら呼び込みをやったんですよ。
 ちょうど「神の国は来た!」っていう、先週のあの福音が読まれた日(※2)でしたし、
 「ここで百合ヶ丘教会のため、百合ヶ丘教会の未来のために福音を語ったら、きっと誰かが救われる。その誰かがさらに誰かを連れて来て、その人も救われる。その人のためにも、ぜひ福音を聴いてもらいたい、福音を語ることの意味を聴いてもらいたい」、って、すごく思っちゃって。いつもと違う神父の語る福音にも、きっと何か特別な力があるだろうって直感してね。
 まあ、そうは言っても、講演会に来た講師が出口の所で「皆さん、帰らないで!」って、(笑) 普通に考えたら、ちょっと変ではある。変ではあるけれど、実はそういう振る舞いこそが、一番重要なメッセージにとして伝わるものなんです。実際、(そこまでおっしゃるなら・・・)って思い直して聞いてくださった方が、「今日はホントに聴いてよかった」って、後で言ってくださいましたから。
 大事なことは、「どうしても福音を語りたい」っていう、熱い思いなんです。講演会で私がお話ししたのも、ただ一つ、そこです。
 「教会なんていう所は、福音を告げる所であって、『あなたは、もう救われている。だいじょうぶだ、安心してほしい』と、恐れている人、苦しんでいる人に、救いを(・ ・ ・)伝える、いうなればスピーカーみたいなものだ。多摩も百合ヶ丘も、熱い思いを持って福音を告げ知らせる、そういう教会、そういう信者、そういう建物であってほしい」、そう、お話ししてきました。
 たとえば、「門なんか作んない方がいいですよ」ってお話もしたんです。 「多摩教会は、門、ないですよ。ドアも開けっ放しにしてますよ」って。事実、それを見て、(ああ、ここなら入っていいんだ)と思って入ってきて、そのまま教会員になった方を、私、複数知ってます。ドアが開いてるのを見て入ってきたっていう人。今の百合ヶ丘教会は、しっかりした門があって、扉も閉まってる。
 もちろん、百合ヶ丘教会ではかつて事件がありましたから(※3)、それで守る気持ちも強いということは理解していますし、そうお話もしましたが、でも、ではいったい何を守ろうとしているのか。教皇さまの使徒的勧告『福音の喜び』(※4)の本の帯にも、「教会が開かれていることの一番のしるしは、実際に門が開いていることだ」っていうのがありました(※5)。そのことにも触れて、「百合ヶ丘教会、建て直すのなら、心機一転、福音の力だけを信じて、恐れることなく、門なんか作んないで、扉はいつも開けといて、だれでも入れるようにしましょうね」と、「出来上がったら見学に来ますよ。門があったら、入らないで帰ります」と言っておきました。
 そういえば、今回、洗礼を受けるって決心した方の中に、「いろいろな教会を回ってきたけれど、どこの教会に行っても『関係者以外お断り』って貼ってあるようだった」って言った方がいるんですよ。・・・ホントに貼ってあったわけじゃないですよ。ホントに貼ってあったら、ある意味スゴイですね。(笑) ・・・「関係者以外お断り」。
 でも、まさに本当にそう言っているかのようなたたずまい(・ ・ ・ ・ ・)の教会があるんです。扉は閉まっている。受付もない。日中から、インターホン押さないと聖堂も開けてもらえない。
 「でも、多摩教会に来た時に、ああ、ここは来てもいいんだ、私がいてもいいんだって、そう思えて、もう教会回るのはやめて、ここにしようって思えたんです」って、その方、そう言いました。
 「あなたはもう救われている。だいじょうぶだ!」
 そう告げ知らせたいんですね。すべての人を励ましたいんです、教会は。
 だから、扉を開いて、来た人みんなを迎え入れ、福音を語ります。

 今日も、このミサに、人生でミサは初めてっていう方がおられるんですけどね、私、うれしいですよ。「ようこそ!」です。
 29歳でしたかね。おとといの入門講座に、教会に初めて来て、そこでぜひにと誘われて、今日は生涯最初のミサ。生涯最初のミサで、何をあなたは得るのか。・・・「あなたはもう救われている」っていう、神からの声を聴くんです。それが、このミサの意味ですから。あなたはもう神さまに愛されています。救われています。確かに、今までの人生、つらかった。その話は、一昨日の夜、じっくりと聴きました。もちろん今も、様々な不安があるでしょう。でも、神はあなたを愛していて、今ここで、もう救っている。あとは、あなたがそれを知って、受け入れるかどうかなんですよ。
 心を開きましょう。救いを受け入れましょう。特にミサの時こそは、恐れに閉ざされていたあなたの心を開く時です。神の救いを受け入れて、人生で初めてと言っていいほどのホッとするひと時を、このミサで味わってくれたら。・・・生涯最初のミサに与かっているあなたにとっては、2015年2月1日は、忘れられない記念日になる。そう思っていただきたい。
 神の国は来た。神はあなたを救った。これだけをキリストは主張したし、私は言い続けたいし、他に言うべきことなんかない。ただ、一度聴いただけじゃ分からないってこともある。千回「福音の村」読んで救われたっていう方の話(※6)を先週したんです。先週、土曜日のミサでいたしました。土曜日のミサは、私の司式でしたから。日曜日の方は、「福音の村」で読んでください。

 そう、先週の土曜日にはね、東京教区の人事の話もしたんです。東京教区の人事異動が発表になって、「私の名前は載っておりませんでした」と。だから、「また、『あなたは救われている』っていうおんなじ福音を、もう一年聴かされますよ」っていう話をしたんです。そのときに、「このたび人事異動が発表になって、私の名前が載っておりませんでした」って言ったら、拍手が起こったんですよ。・・・私、やっぱりうれしかったですよ。「このたび異動になりました」って言って拍手が起こったら、(笑) やっぱり切ないものがありますから、(笑) うれしかったです。うれしかったし、それは、たとえおんなじでも、さらに福音を語ってほしいっていうことに違いないと。必要ならば語りましょう。自分の中にもある恐れと闘いながらですけどね。
 「あなたは、必ず救われる。いや、もう救われている」
 ・・・私は、断言します。

 先週、ついに、・・・いやもう、この話、したくてしょうがない。お寺デビューをしたんですよ。(※7)
 これね、私にとっては生涯の・・・何て言うんでしょう、やっぱり絶対忘れられない重要な出来事のひとつになったと思います。
 愛知県豊橋市の真宗大谷派豊橋別院(※8)という大きなお寺で、講演会をいたしました。本堂にいっぱい人が集まっててね、お坊さんも大勢聴いてるんですよ。そこで私は「福音を」語りました。これはやっぱり、自分にとっても大きな出来事です。キリスト教こそ究極の普遍主義であるということを、ず〜っと強調してきた私にとっては、すごく励まされたというか、確信を新たにしたっていうような実体験ですね。・・・仏教徒の皆さんや、お坊さんを前に福音を語る。
 でも、もちろん、「福音を語る」っていっても、教会の用語だけで語ったんじゃないんですよ。親鸞聖人(※9)の言葉でも語ったんです。私はもう、若い頃から浄土真宗大好きですから、ともかく徹底して弥陀の本願(※10)について語りました。すなわち、神の愛、神のみ心について。それは私にとってはチャレンジという気持ちもあるけれど、むしろ、「これこそ最もすべきことだったんだな〜」というような安心感もあって、みんな熱心に聴いてくれました。

 結構、私のことを知っている門徒の方もおられて、接待してお茶をたててくれたご婦人なんか、多摩教会のことまでよくご存じなんで、「なんで知ってるんですか?」って言ったら、「『福音の村』を読んでおります」っておっしゃてました。お寺さんでも、カトリックの説教を読んでくださる方がいる。まあ、そういうのが真宗ならではの良さなんですね。
 だから私、お話の中で一つ強調したことがあるんです。
 「皆さんの信ずる真宗のお坊様が、3人、わざわざ私の所に講演をしてくれって頼みにいらした。はるばる、豊橋から新幹線に乗って、多摩教会までやって来られて、『神父さま、ぜひお話してください』って頼みにいらした。親鸞聖人が亡くなって750周年。大切なイベントに当たって(※11)、『もうしかし、偉いお坊さんの話を聴くだけという時代ではない。他の宗教の、普遍主義を語る方にも来てもらって、お話を伺いたい』と、そう言われ、3人の僧侶が、頭を下げに来られた。
 この事実をもってして、私は、そのような弟子を生んだ親鸞聖人という方が、どれほど素晴らしい方かがよく分かる」
 そう、お話をしたんです。だって、そうでしょ? 教祖没後、750年たっても、その弟子が、他の宗教に行って頭を下げることができる。・・・どれだけ親鸞聖人は普遍主義だったか。
 私は、その普遍主義こそが真の宗教であることを強調しましたし、「すべての人が救われる」と断言しました。
 「今苦しみの中にある皆さんも、どれほど苦しくても、『弥陀の本願』・・・つまり『すべてのわが子を救うという天の父のお約束』ですよ、その神のみ心はあなたを救っているし、御仏(みほとけ)の慈悲、神の愛があなたを覆っているし、ただもう、あなたにできることは、『帰依します』、『信じます』と言うことだけ。『南無阿弥陀仏』とお唱えしましょう、『天の父よ』と祈りましょう」と、お話ししたのです。

 話している私のすぐ後ろにね、阿弥陀様(※12)が立っておられるんですよ。金色(こんじき)の。本堂ですから。・・・内陣の中央に立派な阿弥陀如来像が立っておられて、その前でカトリックの神父が、「弥陀の本願」の話をしてるんです。・・・「あなたたちは、もう救われている」、ただ信じようって、福音を語ってるんですよ。
 私、だんだん聖霊に満たされてきてですねえ、(ああ、これこそ「聖霊の働き」だ。これ、みんな、気持ちが一つになってるよ。これはすごいことだ)って、高揚しちゃったんですけど、でも、「これこそ聖霊の働きです!」とか言っても、お寺さんじゃみんな分からないから、私、もう、ついつい口走っちゃったんです。「今、ここに、阿弥陀如来が私をお遣わしになってる」って、(笑)・・・思わず、言っちゃったんですよ。(笑)
 これはでも、事実・・・でしょ? そういう方を、「阿弥陀如来」っていうんだから。
 内陣の右手に掛け軸が掛かってましたけど、「南無阿弥陀仏」の別の呼び方の書が書かれてあったんです。「帰命無量寿如来(きみょうむりょうじゅにょらい)(※13)」っていうんですけど、これ、「正信偈(しょうしんげ) (※14)」っていう、親鸞さん本人の書いたものの第1行目の言葉です。「帰命無量寿如来」、・・・「帰命」っていうのは、「ホントにその方にすべてをゆだねます。その方に救われました」っていうような意味で、「無量寿」は、永遠、無限なる御仏様、阿弥陀様のこと。永遠、無限なるお方なんて、まさに天の父ですし、そのお方から溢れて私たちに「如来」する、つまり救いに来るのがキリストであり、聖霊でしょう。「無量寿如来」って、三位一体なんです。
 「この阿弥陀様に、私はもう救われた。それを信じます。南無阿弥陀仏」って、親鸞さんは帰命したんです。「この天の父、天の父の現れであるキリストに、私は救われている。それを信じます。父と子と聖霊のみ名によって、アーメン」って、私もホントに救われたんです。みんなもその救いに目覚めてほしいんです。
 ・・・こういう、真っすぐな、素朴な、力のある宣言。これを、私たちは一番大事にすべき。

 さっきの第1朗読(※15)で、神さまが言ってましたでしょ。
 「預言者の口にわたしの言葉を授ける」(cf.申命記18:18)
 これが神のやり方なんですよ。預言者の口に、神は言葉を授けます。私だって預言者ですよ。親鸞さんもそう。皆さんもそう。皆さんの口に、神さまが言葉を授ける。けれども、なかなか語れないような恐れもある。その恐れを、イエスさまが追い出してくださる。
 今日の福音書(※16)にあった出来事ですね。汚れた霊に取りつかれた人が、イエスさまに逆らおうとするでしょ。「かまわないでくれ」って言うんですよ。(マルコ1:24)
 これ、よく分かりますね。こういう説教聴いてても、「いや、晴佐久神父さん、『福音語れ、福音語れ』って、『信じよう、信じよう』って言うけど、なかなか自分の中には(ひる)むものもあって、そこまで信じられない、そこまで語れない、こんな自分にできっこない」とかって恐れるわけですよね。それが「汚れた霊」なんですよ。・・・その恐れ自体(・ ・ ・ ・)の話です。しっぽ生やした悪霊が取りついたっていう話じゃない。あなたの恐れが、あなたの悪霊なんです。
 悪霊なんて、毎日必ず出てきますよ。私の中にも、毎回おいでになる。ちなみに、人生における全説教で、恐れずにしゃべったことなんて、私、一度もありません。いつだって、「こんな私がしゃべっていいんだろうか」、「ホントに誤解されずに届くだろうか」、「阿弥陀如来に遣わされたなんて言っちゃって、司教に叱られないだろうか」(笑)・・・もう、いっつも私は恐れてます。
 お寺で語るなんて、やっぱり緊張するじゃないですか。初めてでしたし。
 だから、イエスさまにお願いするんですよ。
 「イエスさま、助けてください。語らせてください」
 そうすると、イエスが命じるんです。私の中の悪霊に。
 「黙れ。この人から出て行け」(cf.マルコ1:25)
 ・・・この勝負です。毎回の勝負です。一度で済むって話じゃない。
 皆さんが誰かに、キリストについて説明しようとか、苦しんでいる人を助けようとか、そう思った時に、(いや、そんなこと語れるもんか、自分なんかにできるもんか)と思うとしたら、イエスさまに追い出してもらうんです。その恐れを。
 「黙れ。この人から出て行け」
 もう、ピュ〜ッと出てきますよ。そして、また語ることができる。

 その講演会の後で、交流会っていうのがあって招かれたんですけど、どこでどんな交流会をするかと思ったら、駅前の和民(わたみ)でした。(笑) さすが浄土真宗。般若湯(※17)ってやつですね。
 そのとき、斜め向かいに、みんなから尊敬されている僧侶が座っていたんですね。なんで分かったかと言うと、私が他の人としゃべっていてもそんなことなかったのに、その方としゃべり始めたら、若い僧侶が数名、この二人が何を話してるんだろうって興味を示して、サ〜ッと寄って来ましたから。ああ、尊敬されてる方なんだな、と。
 その方がですね、私に3回、おんなじこと聞かれたんですよ。1度聞かれて、私が答えて、で、また、「いや、それにしても・・・」って、また聞かれて、また答えて。3回、同じことを言われた。それは、
 「いや〜、先生、その確信は、どこから来るんですか?」って言われたんです。
 「先生のお話を聞いて一番驚いたのは、確信を持ってお話ししていることです。どうしたらそんなふうに、『あなたは必ず救われる』って断言できるんですか? 私などは、そう言いたくても、どうしても心に怯むものがあって、苦しんでる人に『必ず救われますよ』なんて言ったら、『お前ごときに何が分かる』って言われるんじゃないかって恐れちゃうんです」って。
 これにはちょっと、びっくりしました。だって、その断言こそが、真宗の本質だと思っていたから。
 だから、申し上げました。
 「いや、その断言は、あなたが言うんじゃない、御仏が断言してるんです。苦しんでいる衆生を何とか救おうと、阿弥陀如来がおっしゃっておられるんでしょう。そもそも、『南無阿弥陀仏』っていうのは、自分では自分を救えない、僧侶にだって救えないからこそ、全面的に阿弥陀様のお力、阿弥陀様のお助けにすがるっていうことなんだから、まさに、(こんな私が言っても・・・)と恐れた時にこそ、『なんまんだぶ』じゃないですか」
 ・・・私、(なんで神父がお坊さんに説法してるんだろう・・・)って、(笑)なんだか不思議に思いながらも、お話ししてたんですけど、その時に、彼が、こう言われたんです。
 「いや、おっしゃる通りです。確かに昔はそうだった。でも、その後だんだん、ただ『なんまんだぶ』だけじゃ物足りない、それだけで救われるなんて幼稚じゃないか、もっと立派な教えでありたいっていう欲が出て、難しい学問を始めちゃった。自力で頑張り始めて、素朴さが失われていった」と。
 特に明治以降、浄土真宗はそうして、学問を修め、教義を体系化し、・・・まあ、理論武装ですよね、やり始めた。そのせいで、素朴な信仰、ただ「南無阿弥陀仏」とお唱えしようっていうところから離れちゃった。あれこれ議論するうちに断言する力が弱くなっちゃった。・・・そういうことらしい。
 ちょうど、今日のこの福音書読んでて、まさに(ああ、これだな・・・)と思った。
 イエスさまの教えに、人々はすごく驚きますでしょ。
 「律法学者のようにではなく、権威ある者としてお教えになった」(マルコ1:22)
 ・・・このことなんですよ。
 神の権威を信じて、断言する。
 「律法学者」っていうのは、「神は愛」という素朴な教えから離れて、まあ、勉強して、学問を修めて、ムズカシ〜イ理屈をこねくりまわすようになった人たちですね。彼らがなぜそうするかというと、恐れがあるからです。自分の弱さを認められないからです。学問を修めて、立派になって、強くなって、それで人々と向かい合おう。うまく教えて成功しよう。バカにされたり幼稚だと思われるのは嫌だ・・・。
 でも、そんなのは、あの親鸞上人の教えから、一番遠いじゃないですか。「幼子のようであれ」って言うキリストからも一番遠いわけでしょう。親鸞さんは、もうホントに、弱い自分を抱え、罪深い自分を抱え、そうして、弱いあなた、罪深いあなたと向かい合って、「弥陀の本願は、こういう私たちをこそ救う」と言って、最も底辺なるところに、「なんまんだぶ」を広めたわけですからね。
 自分を権威にするのが、罪。神の権威を受け入れるのが、救い。
 「原点に立ち返ろうよ」っていうこと。・・・まあ、私を呼んだのも、きっとそういうことを聞きたかったからだと思います。

 お寺であれ、教会であれ、なんだかありがたそうな理論武装をして、律法学者のような解説を語っているとしたら、そこに力はない。聖霊の働きはない。
 私たちがなすべきことは、心を開いて、天の父のみ心を信じて、イエス・キリストの福音、すなわち神の愛による救いを語ること。それは、誰にでもできる。
 お寺さんでお話をしていて、一番うれしかったこと、それは、みんながホントに喜んで聴いてくれて、「私がそこで役に立てた」っていう事実。
 お寺さんですよ、阿弥陀如来像の前ですよ。大勢の人が聴いている。立派なお坊さん方まで聴いてるんですよ。私はホントに恐れました。でも、「イエスさま、助けてください!」、そう祈れば、「黙れ。この人から出て行け」。
 そして、聖霊が働き、阿弥陀如来に遣わされて、私は口を開き、「あなたは必ず(・ ・)救われる」、そう宣言します。

 今日初めてミサに来た方に、宣言致します。
 「あなたは必ず(・ ・)救われます」
 これは、私の言葉ではありません。真の権威である神さまが、私の口に授けた言葉です。


【 参照 】(ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがありますので、ご了承ください)

※1:「百合ヶ丘教会」
◎カトリック百合ヶ丘教会
住所: 川崎市麻生区百合ヶ丘2-11-8 (地図)
(小田急線「百合ヶ丘」駅より徒歩10分。「新百合ヶ丘駅」より徒歩15分)
  電話: 044-966-9593
  主日のミサ: 第2・第4土曜日 19:00 ☆ 日曜日 9:30
  ホームページ: カトリック百合ヶ丘教会
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※2:「『神の国は来た!』っていう、先週のあの福音が読まれた日」
当日は、2015年1月25日〈年間第3主日〉にあたり、その日の福音朗読箇所は、
 マルコによる福音書 1章14〜20節。
  15節には、(イエスは、)「『時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい』と言われた」とある。
************
☆ その日の説教は、前日の土曜日(24日)に録音されたものを、「福音の村」に掲載しておりますので、ぜひお読みください。
   >>> 「福音漬けにしましょう」(「福音の村」2015年1月25日〈年間第3主日〉)
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※3:「百合ヶ丘教会ではかつて事件がありましたから」
 1989年3月31日夜、カトリック百合ヶ丘教会の創設者であり、当時の主任司祭でいらしたアルマン・ボアベール神父(1929.4.9〜1989.3.31)が、教会内で何者かに殺害され、いまだに解決されていない。
(参考)
アルマン・ボアベール神父(カトリック百合ヶ丘教会ホームページより)
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※4:「教皇さまの使途的勧告『福音の喜び』の本」既出
◎『福音の喜び』 (教皇フランシスコ著)
 「キリスト教信仰を伝えるための新しい福音宣教」をテーマとした世界代表司教会議(シノドス)後の使徒的勧告。
 共同体、聖職者、そしてすべての信者に、自分自身の殻に閉じこもることなく外へと出向いて行き、弱い立場にある人、苦しむ人、貧しい人、すべての人に福音を伝えるよう強く促す。「熱意と活力に満ちた宣教の新しい段階」への歩みを望む教皇の思いが力強く表現された、希望と励ましに満ちた文書。
 原文発表は2013年11月24日。日本語翻訳初版発行(カトリック中央協議会)は2014年6月20日。
 「福音の村」のサイト内でもご紹介しています。宜しければお読みください。
   >>> 使途的勧告『福音の喜び』 (「福音の村」サイト内ご紹介ページ)
*****
 ご購入は、amazon(アマゾン)パウルスショップショップ・パウリーネ(女子パウロ会オンラインショップ)、または、お近くのキリスト教書店などでどうぞ。
 価格 : 1,728円(税込)
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※5:「使徒的勧告『福音の喜び』の帯にも・・・ありました」
 文字の表記をそのままたどるなら、本の帯には、「教会は、つねに開かれた父の家であるように招かれています。開かれていることの具体的なしるしの一つは、どの教会でも門を開いたままにしておくことです」とある。
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※6:「千回『福音の村』読んで救われたっていう人の話」
 「福音漬けにしましょう」(「福音の村」2015年1月25日〈年間第3主日〉)
  >>> 説教中盤、上からの6段落目をお読みください。
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※7:「お寺デビューをしたんですよ」
 きっかけや意気込みなど、伏線としての話が、「いわんや毒麦をや」(「福音の村」2014年7月27日〈年間第16主日〉)の説教に掲載されています。宜しければお読みください。
 説教後半、下から2段目から最後までです。(>>>この辺から:←端末機器によっては、ジャンプできます)
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 また、その時の様子をご紹介くださった個人ブログがあります。
 画像もあり、様子がよく分かりますので、ぜひご覧ください。
  >>>「カトリック=普遍的」(個人ブログ「正太寺・悟道の道」)
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※8:「真宗大谷派豊橋別院」
◎ 真宗大谷派 岡崎教区 豊橋別院
  住所: 愛知県豊橋市花園町8
  電話: 0532-52-5083
  参考ホームページ: 
   ・ 「豊橋別院」(真宗大谷派岡崎教区 別院のご紹介)
     ・・・所在地などのほか、「別院探訪」として、お寺の歴史を含む紹介文が掲載されています。
   ・ 「豊橋別院の歴史」と花園幼稚園の写真紹介」(個人のブログ記事です)
************
【参考】<既出>
◎「真宗大谷派」
 浄土真宗の宗派のひとつ。本山は、京都市下京区烏丸通七条の「真宗本廟」(通称、東本願寺)。「浄土真宗本願寺派」(龍谷山本願寺、通称、西本願寺)と区別されている。
 宗祖はどちらも親鸞聖人。本尊はどちらも阿弥陀如来。
・ 「真宗大谷派 東本願寺」
・ 「真宗大谷派」(ウィキペディア)
・ 「浄土真宗本願寺派 本願寺(西本願寺)
・ 「浄土真宗本願寺派」(ウィキペディア)
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※9:「親鸞聖人」既出
◎親鸞(1173-1262) 
鎌倉時代前半から中期にかけての日本の僧侶。浄土真宗の宗祖。
尊称: 親鸞聖人、宗祖聖人、開山聖人
宗旨: 浄土真宗
師 :  法然
著作: 『教行信証』、『三帖和讃』、他。
(参考)
・ 「親鸞聖人のご生涯」(真宗大谷派 東本願寺HP)
・ 「親鸞聖人の生涯」(浄土真宗本願寺派 本願寺HP)
・ 「 親鸞」(ウィキペディア)
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※10:「弥陀の本願」既出
「本願」というのは、仏教において、仏や菩薩が過去において立てた誓願(約束、宿願)。人々を救済しようとの根本の願い。
 浄土真宗における「弥陀の本願」とは、阿弥陀如来の「業(ごう)にまみれた、煩悩に苦しむ衆生すべてを救いたい」という願い。
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※11:「親鸞聖人が亡くなって750周年。大切なイベントに当たって」既出
 「親鸞聖人七百五十回御遠忌」としての記念が、仏教諸宗で行われている。
 御遠忌というのは、仏教諸宗において歴代の上人の100年以上の年忌で、50年ごとに一度行われる大きな法要。
 親鸞聖人(1173-1262)が往生の素懐(そかい)を遂げられてから(極楽浄土に生まれ変わるという願いを果たされてから-一般的に言うと「亡くなってから」)750年の年を中心に、法要や見直し、記念事業などが進んでいる。
(参考)
宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌法要 (真宗教団連合>真宗大谷派 東本願寺)
本山 東本願寺 宗祖親鸞聖人七百五十回御遠忌
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※12:「阿弥陀様」
◎阿弥陀如来既出
 大乗仏教の如来の一つ。「阿弥陀仏」いい、または略して「弥陀仏」ともいう。
 浄土真宗では、阿弥陀は生きとし生けるものすべてを救う仏。
 限りない光(サンスクリット語:Amitabha-アミターバ)、限りないいのち(Amitayus-アミターユス)として、はかり知れない(Amita-アミタ)働きをなさる方。この「Amita-アミタ」が後に「阿弥陀」と音写された。
(参考)
・ 「阿弥陀如来」(ウィキペディア)
・ 「浄土真宗の教え」〈02に「わたしたちの仏さま(阿弥陀仏)」掲載〉(東本願寺
・ 「お釈迦さま物語」〈【8】に「阿弥陀さま(阿弥陀如来)とは」掲載〉(「純心寺」(浄土真宗西本願寺派)サイトより)ほか
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※13:「帰命無量寿如来」(きみょうむりょうじゅにょらい)
 親鸞聖人の著書『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の「行巻」末尾に、「正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)」〈=「正信偈(しょうしんげ)」〉という偈文(げもん/韻文・詩句のこと〉が収められており、その始まりの句が、この「帰命無量寿如来」。「南無阿弥陀仏」と同じ意味を持つ。
 「帰命」は「南無」と同様、どちらも、「生きるよりどころとして、心から仏の救いを敬い、信じて従う」という意味を持つ。
 「無量寿如来」は、「阿弥陀仏」のこと。
 「無量寿」の「無量」は、はかり知れないことを意味し、「寿」は寿命を意味する。阿弥陀仏は、はかり知れない(限りない)寿命(命)を持つことから、「無量寿」で阿弥陀仏の異名とされる。
 「如来」の「如」は真実という意味で、真実をさとられた仏が、まだ真実を知らず、迷っている私たちの所に「来」てくださっているという意味がある。
(参考)
・ 「生きる依り処」(正信偈の教え真宗の教え真宗大谷派東本願寺
・ 「帰命無量寿如来 南無不可思議光」(個人ブログ「正信偈の意味が分かる」) 他
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※14:「正信偈」(しょうしんげ)
 親鸞聖人の著書『教行信証(きょうぎょうしんしょう)』の「行巻」末尾に収められた偈文(げもん/韻文・詩句のこと)。正確には「正信念仏偈(しょうしんねんぶつげ)」といい、一般には、略して「正信偈(しょうしんげ)」として親しまれている。
 お経ではなく、教えのすべてが記されている『教行信証』を、さらにまとめ上げたようなもので、味わい深い偈文の形式で書かれている。
・ 「正信偈の教え」(真宗の教え真宗大谷派東本願寺
・ 「正信偈の意味」(個人ブログ「正信偈の意味が分かる」)
・ 「正信念仏偈」(ウィキペディア) 他
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※15:「さっきの第1朗読」
本日(2015年2月1日〈年間第4主日〉)の第1朗読箇所は、
 申命記18章15〜20節。
  〈小見出し:「預言者を立てる約束をする」18章15〜22章から〉(小見出しは、新共同訳聖書による)
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※16:「今日の福音書」
本日(2015年2月1日〈年間第4主日〉)の福音朗読箇所は、
 マルコによる福音書1章21〜28節。
  〈小見出し:「汚れた霊にとりつかれた男をいやす」〉(小見出しは、新共同訳聖書による)
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※17:「般若湯」
 お酒のこと。(僧家の隠語)
 仏教徒の戒律には、以下の「五戒」と言われているものがある。
  不殺生戒:「生き物を殺さない」
  不偸盜戒:「与えられていないものを取らない」
  不邪淫戒:「淫らな行為をしない」
  不妄言戒:「偽りの言葉を語らない」
  不飲酒戒:「酒類を飲まない。麻薬などを使用しない」
  不飲酒戒は、酒を飲むこと自体というより、他の四つの戒を犯しやすくなるからという理由で禁じられたようだが、日本に伝わると、「酒は飲んでも、他の悪いことをしなければよい」と解釈されるようになった。それでも、禅寺では、飲酒は厳しく戒められていたが、「薬として少しくらいならよいだろう。酒として飲むのではないから」ということで、悟りを得る智慧(般若)を与える飲み物-「般若湯」と名付けられた。
(参考)
・ 「般若」(ウィキペディア)
・ 「お酒をなぜ般若湯というのか」(仏教Q&A) ほか
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2015年2月1日 (日) 録音/2015年2月8日掲載
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