わが教会はこの世には属していない

2015年11月22日王であるキリスト
・第1朗読:ダニエルの預言(ダニエル7・13-14)
・第2朗読:ヨハネの黙示(黙示録1・5-8)
・福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ18・33b-37)

【晴佐久神父様 説教】

 今日、カトリックの暦では、もう年末ですね(※1)
 この1年の総決算みたいな感じで、この「王であるキリスト」の主日があります。この1年間、多摩教会で、私たち精いっぱい祈り、活動してまいりましたけれども、この1年を納めるときに、一番肝心な信仰を新たにいたしましょう。
 私たちの本当の王は、主イエス・キリストです。この王様に治めていただいていることに感謝いたします。この王様の声にのみ耳を傾け、この王様についてまいります。この王様のもとで、私たちは、なんと幸いか。なんと安心か。この王様のもとに、みんなを集めましょう。わがキリストの教会は、神の王国の臣民(しんみん)なんですよ。
 「王であるキリスト」の主日に、このような真理である王様のみもとで、共に感謝の祭儀を捧げられる皆さんは、本当に幸いです。今日ここに揃っている皆さんは、本当に幸いなんです。こんな素晴らしい王国に巡り合えて、その永遠なる王国で王様の愛に身を委ねて生きていける私たちは、本当に幸いです。その王国に集められたことを感謝しましょう。
 その意味では、さまざまな試練があったからこそ、この王国に巡り合えたことを忘れてはいけません。「私は幸せいっぱいだから、教会に行こう」っていう人は滅多にいません。やっぱり、いろんなつらい問題があったからこそ、ここに集められたわけでしょ。ですから、そのいろんな問題も、この王国に巡り合えるためだったと思えばなんと幸いなことか。そういうふうに、この1年のことを思い起こします。

 パリでテロが起きました。
 ・・・怖いです。でも、必要以上に(おび)える必要はありません。われわれの王は、テロを起こすようなこの世の野蛮な王をはるかに超越したいつくしみの王ですから、その王にのみ信頼を置きます。
 テロが起きると、それに対して報復攻撃とかしますでしょ。私たちは、テロが起きると、「なんて恐ろしいことだ!」「なんでこんなことするんだろう、理解できない」とかって思うけど、でも、報復攻撃だって、同じくらい理解できないですよ。どっちもどっち。同じ穴のむじなだと思った方がいい。
 そりゃあ、フランスの大統領、アメリカの大統領は立派でまともに見える。イスラム国のリーダーはね、とても野蛮に見える。一見確かにそうかもしれないけれども、どっちにしても、「この世の王」なんですよ。みんな、とても野蛮な「この世」に属してるんです。
 しかし、さっき、イエスさまは言いました。
 「わたしの国は、この世には属していない」(ヨハネ18:36)(※2)
 この世に属している国は、結局のところ、すべて野蛮です。不完全です。完全な国なんて、あり得ない。
 「報復爆撃だ」なんていって、平気で爆撃してましたけれど、その爆撃の下で、どれだけの人が死んでるか。そっちはぜんぜん報道されませんね。先進国でテロが起こり、「報復攻撃だ」とか言って、爆撃をしますけど、その爆撃で死んでる民間人の方が、はるかに多いと思いますよ。そもそも、この「不均衡」っていうやつがテロの原因なんです。不完全なこの世王国の特徴です。この世はホントに不均衡です。そりゃ、少しでもいい方向にしようと、われわれは努力しますけれども、でも、完全は、この世にはあり得ない。
 ・・・イエスさまの国は、完全です。そしてその国は、この世に属していない。
 イエスさまの国は、この世に属しておりません。「もし、この世に属しているならば、部下が戦ったことだろう」って、イエスさま、言ってますね (cf.ヨハネ18:36)。まさに、この世に属している国は、王の部下であるテロリストと、同じく王の部下である軍隊が戦っております。テロを行う、報復攻撃を行う、・・・野蛮な話です。でも、それがこの世に属している国の特徴。
 ピラトなんて、これ、超エリートですからね。ローマ帝国の官僚でしょう? 問題多いユダヤを治めるようにって遣わされてるんだから、相当なエリートですよ。才能もあったでしょう。人望もあったんでしょう。でも、しょせんは、この世に属している国のエリートなんですよ。だから、イエスさまの言葉なんて、ぜんぜん分からない。「それではやはり王なのか?」とかっていう、このかみ合わない会話は、まさにこの世のエリートと、神の国の王様との会話ですよね。
 ピラトの国、ローマ帝国は、まあ、今でいえば、アメリカかフランスかって感じでしょ? この世を支配している「帝国」「王国」ですよ。すごい軍事力を持っていて。で、中東をさまざまな意味で属国のように支配しているっていう、この構図は、二千年前の構図と、そう変わらないような気もする。
 ・・・いずれにしても、この世の話。この世に属している者の、限界の話。この、この世におけるテロと報復、更なるテロと更なる報復、この悪の連鎖を打ち切ることができるのは、この世の王ではありえない。この世に属している者には不可能です。「わたしの国は、この世には属していない」っていう、すべてを超えた、真理の国の王様にお出ましいただかないとね。
 暴力、暴力、暴力のこの世界にあって、しかし、カトリック多摩教会、ここに集まってる皆さんは、もう「この世には属していない」はずですよ。洗礼を受け、「神はすべての人をわが子として愛している」という福音に身を委ねた者は、この世にありながら、もう、この世に属していない。神の王国の臣民なんです。そういう誇りは持っていてほしい。この神の王国の臣民は、真理の王を信じる人ならば、どんな人でもなれるんだから、自分にいかに問題があっても、確かに臣民なんだという誇りを持っていてほしい。
 確かに、今まで問題がいっぱいあった、病気を抱えて苦しんできた、さまざまな試練を背負ってきた。だからこそ、この世における救いには、もう希望がないと思ってきた。でも、だからこそ、この神の王国に集まってきたわけでしょう?・・・ここに集められた皆さんの顔を、一人ひとり見ると、ホントに、もう、問題山積みですよ。この世ではうまく行かない人ばかり。まあ、こんな言い方はどうかと思うかもしれませんが、ちょっと変な人が多い。(笑)
 でも、「変な人」っていうのは、褒め言葉でしょう、まさに、神の王国にあっては。私たちはこの世で「変」って言われる。でも、神さまの王国では、その、多くの問題を抱えている、ちょっとバランスの悪い自分を抱えている人は、だからこそ、この、神の王国に集められたわけですから、これは幸いなことです。この王国の臣民であることに、ホントに心から感謝して、どんな自分であっても、「王であるキリスト」と結ばれるミサを、共に捧げましょうよ。それが今日のミサの意味でしょう。
 こうして、真の王のもとで、本当にこの神さまの王国を、ちゃんと「王国」として守っていれば、そこに大勢の人がまた集まってきます。
 「ああ、この世に属していたときは、こんなに苦しかったけど、神さまの王国に属する者になったら、こんなに安心なんだ」っていう、その喜びの思いを、皆さんはもう持ってるんですから、他の人にもちゃんと分けてあげましょうというのが、この「王であるキリスト」の主日の新たなる決心であってほしいですねえ。

 先日、私の母の命日がありましたけれども、命日に、ジンクス、・・・「ジンクス」じゃないか、何ていうんですか? 「いいことが必ず起こる」っていうのは、何ていうんですかね? まあ、私なりの思い込みなのか何なのか、ともかく、母の命日には、必ずいいことが起こる。「これは母からのプレゼントだ」って、そう思えることが起こるんです。まあ、そんなの偶然だっていう人もいるかもしれませんが、もしも、これまでその日にあったことをず〜っとお話すれば、「いや、それはやっぱり、お母さまがなさっているんでしょう」って、きっとそう言ってもらえるようなことが、必ず起こる。
 現に、私が今一番信頼して、しょっちゅう信仰の分かち合いをして、いろいろと助けてももらっている友人は、3年前の母の命日に初めて会った友人なんですよ。彼に出会った日に、「今日は実は母の命日なんだよ」「君のようなキリスト者に会えてよかったよ」みたいな話をしたのをよく覚えてますけれども、そういうことが毎年のようにあるんです。
 ですから、今年の命日、何が起こるんだろう?って、ホントに楽しみにしてたら、いいことが起こるどころか、その命日に合せて準備していたことがご破算になってですね、すごく私、しょげてたんです。特別な日だから、この日に合わせておけばうまくいくだろうって準備してきたのに、逆にうまくいかなかった。で、すごくがっかりした。・・・つい先日、今年の命日ね。
 で、「いいこと神話はここまでか。やっぱり思い込みにすぎなかったのか・・・」とか思ってたんですけど、翌日になって、ハタと気づいた。郵便受けを開けてなかったんですよ。あっ、そうだった!って気づいて、郵便受けを見たら、手紙が届いてた。昨日着いた手紙ですね。母の命日に着いたその手紙を読んでいたら、ちゃ〜んと最高にいいことが書いてありました。本当にうれしい、素晴らしい手紙だったんです。私、その手紙読んで、涙こぼしましたもん。
 「うつが治りました」っていう手紙。
 そういうね、・・・まあ、完全に治ったわけじゃないんですけど、もうだいじょうぶ、間違いないっていう段階。ここから先は、「戦後処理」みたいなもんです。読んでて分かりました。そんな段階まできてるんです。この手紙はうれしかったですねえ。
 6年くらい前に、私が洗礼を授けた方です。そのころはもう、最悪の状況でした。で、そこから先、いろいろ大変だったんですよ、もうね。何しろ、私を責めるんですね。
 「晴佐久神父はうそつきだ」とか、「もう、神なんか信じない」とか、「キリスト教をやめます」とか、まあ、落ち込んでくるとそういう思いを繰り返しぶつけてきた。私はもう、そのたびに、「まあ、まあ、もう1回福音を聴いて、もう1回信じて、あとちょっと待ってよう。必ず良くなる、必ず元気になれる。神さまの愛の福音は、繰り返し、繰り返し聞かなくっちゃ」って、ず〜っと宣言し続けてきました。何度電話でお話ししたか。何度直接会って福音を語ったことか。でも、調子が悪くなると、いろんな問題を起こす。手紙にも、「数えきれないほど助けていただいたのに失礼極まりない言動をして、本当に迷惑をおかけしました」ってありましたけど、ホントに迷惑かけたんですよ。(笑) まあ、だからこそ、「よくなった」っていうその手紙がうれしかったんです。こういうふうにも書いてあった。
 「自分は恩をあだで返すようなことばっかりしてきたけど、晴佐久神父さまは一度も、決して私を責めることはなさいませんでした。それで私は勇気をもって一歩、歩き出せました」
 まさに、母からのプレゼントのような、励まされる手紙だったんです。
 ただ、その方、昨日の入門講座に来られたんですけど、こんな話をしてくれました。
 あるとき、多摩教会に電話してもつながらないので、他の教会に電話したそうです。どこの教会かは知りません。すると、その教会の神父が出た。それでまあ、また、いろいろぶつけたようです。「神が愛なら、なんで私はこんなに苦しむんですか」みたいなことでしょう。そうすると、その神父が言ったんですって。「あなた、信者なのに、そんな信仰なんですか? いったい、どこで洗礼受けたんですか!?」って。 で、私、あわてて、「・・・答えたんですか?(;゚∇゚)」ってね、言ったら、「いえ、そこは答えませんでした」って。・・・よかったです。(笑)
 でですね、問題は、その神父がそう言って、ガチャンって切ったって言うんですよ。
 「ガチャンって切られて、もしもそのとき、本当に調子が悪い状態だったら、死んでたかもしれない」って。・・・野蛮な話ですよね、ガチャンって電話を切る。・・・まさに、この世に属する野蛮な話だと思う。・・・「死んでたかもしれない」って。
 忍耐強く受け入れること、それこそが、「真理の王」(※3)の姿ですよね。それのまねをしていないと、治るものも治らない。この世は救われない。
 頂いたその手紙の最後にはね、こんなようなことが書いてありましたよ、「多摩教会は、ホントにいい教会だ。信者さんたちがみんな、いつも明るく笑顔で迎えてくれた。あなたのために祈ってるよと言ってくれた。私はこういう仲間を持てて、本当に幸せだ。私は幸いです」と。
 で、「雄大な(・ ・ ・)神さまの世界を生きられて幸いです」、と。「雄大」って書いてありましたよ、「雄大」、つまり、大らかに受け入れてくれる「神」ですよね、その目に見えるしるしである「教会」ですよね。そして、「この幸いを、私は地道に、こつこつ、まわりに広げていきたいと思います」って。
 ・・・こうして、救われた者がね、同じく、「神よ、なぜ!?」って言ってる人に、「あなたも忍耐強く、なんとか福音を聴き続けて。もう救われてるんだから。だいじょうぶなんだから」って言ってあげる、そういう人になってくわけですよね、「救われた人」っていうのは。

 昨日、その方が、入門講座に来られたとき、私ですね、ちょっと老眼もあるせいもあって、少しにじんで見えるっていうのもあるんですけど、でも、それでも、誰かなんていうのは分かりますよ、もちろん。でも、昨日、その人のこと分かんなかったんですよ。
 しばらく来てなかったんですけど、昨日現れたとき、私、分からなかった。これ、私だけじゃない。もう一人の信者さんも同じことを言った。「きれいになってたよね」って。
 顔が違うんです。考えてみたら、私、最初に会ったときは、彼女が一番ひどかった時期。まあ、その後も何度かひどい時期があった。ずっと、その顔しか知らないんです。・・・眉根にしわを寄せ、ぼ〜っとして、ちょっとうつろな感じの目になりますよ、ホントに落ち込んでるときって。この世を見てないような。しゃべり方も、なんだかすごく暗くって。でも、昨日はそういう顔じゃないんです。私、ああ、この人って、こういう顔だったんだ・・・って昨日思った。
 顔が変わるってすごいですよね。分かんなかったんですよ、だって。ああ、似てる人だなって思ったけど、分かんなかった。・・・いいですよね〜。その人本来の顔。神さまが与えてくださった顔。
 やがて天国に行ったときには、私たち、本当の自分の顔になるんでしょうね。
 神の王国の民であるっていうこと、その王国に、みんなを「忍耐強く」迎え入れるっていうこと、それで「雄大な」神さまに目覚めて、そして、その神さまのもとに、「地道にこつこつ」「みんなも連れてきたい」って、そう思うっていうこと。
 ・・・確かに、この王様のもとで、神の国は始まっております。この王国に参加できていることを、もっともっと感謝したいと思う。
 イエスさまが、「わたしの国は、この世には属していない」って言った。
 もう、「この世」は、ほどほどにしましょう。この世のことで、私たち、苦しみますけれども、その苦しみは、やがて神の国の喜びに変えられていくっていう、変えてくださる王を信じるっていう、その信仰を新たにしたい。

 第1朗読のダニエルの預言で(※4)、「諸国、諸族、諸言語の民は皆、この王に仕える」とあるし(cf.ダニエル7:14)、第2朗読のヨハネの黙示でも(※5)、「地上の諸民族は皆、彼のために嘆き悲しむ。(しか)り、アーメン」(cf.黙示録1:7)とある。この「諸民族」、この世の国ですよね。この世の国に属している者は、もはや、本当の幸せを見ることはない。最終的には、まことの王に仕えない限り、真の幸いを見ることはない。神さまの国に属している者だけが見る。
 ・・・思えば、この救われた彼女が、最初、なんでうつになったかっていうと、ある教会で、「この教会の教えを信じなければ救われない」「この教会を離れたら滅びる」、そう言われたからなんですよ。
 でも皆さん、「この教えだけ」とか、「この教会だけ」とか、結局は「この世」の話ですよね。この世に属してるんですよ、そういう教会は。でもそれは、果たして教会か? そんな野蛮なこの世の言葉に惑わされちゃいけない。
 その点、わが教会はね、第二バチカン公会議で、「他の宗教にも真実がある」ってね、言い出した(※6)。それは、つまり、「わが教会は、この世には属していない」っていう宣言なんですよ。
 ・・・「真理に属する人」(ヨハネ18:37)でありたい。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)

※1:「今日、カトリックの暦では、もう年末ですね」類似既出
 カトリック教会には、特有の暦(「典礼暦」または「教会暦」)があり、キリストの神秘を、1年を通して思い起こしていく。教会の「1年」は、1月1日から12月31日でくくられるのではなく、「待降節(※☆)第1主日」に始まり、「王であるキリスト」の祭日で終わる。
 たとえば、“今年”は、その典礼暦でいうと、昨年(2014年)11月30日の「待降節第1主日」に始まり、2015年11月22日の「王であるキリスト」の祭日(この説教のあった日)で終わる。
 ちなみに、この“翌年”は、2015年11月29日の「待降節第1主日」から、2016年11月20日の「王であるキリスト」の祭日まで。
 (※☆待降節・・・降誕祭<クリスマス>に向かい、この世にいらしたキリストの降誕を思い起こし、また、終末のキリスト再臨への待望に心を向ける季節)
(参考)
・ 『カトリック教会情報ハンドブック2014』(2013年 p.93 カトリック中央協議会)
・ 「教会暦」(ウィキペディア)
・ 「典礼解説 待降節」(カトリック中央協議会)
・ 「待降節とクリスマス(降誕祭)」(カトリック中央協議会)
・ 「A年、B年、C年」(ラウダーテ:「キリスト教豆知識」)
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※2:「さっき、イエスさまは言いました。『わたしの国は、この世には属していない』(ヨハネ18:36)
2015年11月22日の福音朗読箇所
 ヨハネによる福音書18章33b〜37節。
  〈小見出し:「ピラトから尋問される」(18章28〜38a)の抜粋〉
―――――――
ヨハネ福音書18章36節には、以下のようにある。
「イエスはお答えになった。『わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない』
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※3:「真理の王」
ヨハネ福音書18章37節には、以下のようにある。
「そこでピラトが、『それでは、やはり王なのか』と言うと、イエスはお答えになった。『わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く』」
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※4:「第1朗読のダニエルの預言で」
2015年11月22日の第1朗読箇所
 ダニエル書7章13〜14節。
  〈小見出し:「四頭の獣の幻」(7章1〜28)の抜粋〉
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※5:「第2朗読のヨハネの黙示でも」
2015年11月22日の第2朗読箇所
 ヨハネの黙示録1章5〜8節。
  〈小見出し:「序文と挨拶」(1章1〜8)の抜粋〉
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※6:「わが教会はね、第二バチカン公会議で、『他の宗教にも真実がある』ってね、言い出した」
「カトリック教会は、これらの宗教の中にある真実にして神聖なものを何も拒絶することはない。その行動様式や生活様式も、その戒律や教理も、心からの敬意をもって考慮する」
(「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」2項,『第二バチカン公会議公文書(改訂公式訳)』2013年9月25日発行,857番,p386)
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2015年11月22日 (日) 録音/2015年11月30日掲載
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