2012年11月11日年間第32主日
・第1朗読:列王記上(列王記上17・10-16)
・第2朗読:ヘブライ人への手紙(ヘブライ9・24-28)
・福音朗読:マルコによる福音(マルコ12・38-44)
【晴佐久神父様 説教】
1週間、どうでしたか? 何か今ホントに困っているとか、もうこれはどうすることもできない、ギリギリだっていうような大変な思いしている人、おられますか?
この第1朗読を、もう一度思い出してください。いい話でしょ? 「もうあとは死ぬしかない」っていうやもめに、エリアが「いいから、言われたとおりにしなさい」と。「壺の粉と
・・・私たちが「もう駄目だ」って思ってしまうときこそ、こんなエリアのひと言がすごくありがたい。力になる。私もそんなふうに、福音のひと言で、苦しむ人の役に立ちたいって思って、皆さんに「だいじょうぶですよ。明日、恵みの日がくる。やがて、神の国は完成する。だから今日試練があっても、信じる仲間と一緒に生きていこう。乗り越えていこう」と。
昨日、入門講座の直前に電話がきた方は、以前お会いしたことのある方ですけど、「実は先日神父さまにお会いした後すぐに、自殺未遂をしました。でも死ぬことができず、今は病院です。今日は外出してますけれども、神父さまの声が聞きたくて電話をしました。これから病院に戻るところです」と、そういうお電話でした。
私は、以前お会いした時はそんなことになるとは思いも寄らなかったので、ビックリいたしましたけれども、そういうことってあるんですね、実際に。もうそのつもりの方が、最後にどうしてもあそこに行きたいとか、最後の希望のよりどころを訪れてから終わりにしようとか。そんなぎりぎりの思いで来られたのに、そのときは気づかず、ちゃんと応えられなかったんだなあって思うとすごく残念でしたし、その昨日の電話自体も、「もしかして、この電話も最後の思いを伝えたいっていうことで、この後・・・」とかってチラリと思っちゃうわけですよ。
だからそこで、本当にこの人にとって、かけらでもいいから希望をきちんと告げられなかったら、これは司祭として、いやキリスト者として・・・。そう思いましたから、昨日電話でお話したことは、「今まだ、途中だから。今はまだ、途中なんだから。神さまはもうちゃんと本当の希望を与えてくださっているし、もうすぐ必ず救いの日を、心安らかな日を与えてくださる。その恵みに目覚めて、必ず元気になれるって信じよう。途中なんだから!」・・・そんなことを一生懸命お話いたしました。
「途中」っていう言葉、つまり「道半ば」ですよね。これは、すごく大切な言葉のように最近思っていて、いろんな方とそういうお話をしていたので、ついつい昨日の言葉にも出てまいりました。今日のミサにも、「まだ途中だから、途中なんだから」ってず〜っとお話してきた方、いまそこにおられますけれど、いつも「まだ途中なんだ、途中なんだ」ってずっと言ってきましたでしょう? それはホントです。道半ばなんですよ。
私たち、つらいことがあった時に「もう駄目だ」って決めつけたりしますし、「あとは死ぬのを待つばかりです」って第1朗読のやもめも言ってましたけれど、それはあなたの考え、その人の考えであって、神の考えではない。神は救いの歴史を、今、クリエイトしている、つくっている途中なんです。だからその「途中だ」って気づくこと、すごく大事なことだと思いませんか?
映画なんかでも、最後はちゃんとハッピーエンドでしょう? あれ、途中で見るのやめちゃったら、ちっとも面白くない。主人公が捕まって苦しめられて、もう駄目だ、絶体絶命、万事休すだっていうところで、映画館出ちゃう人いますか? そんなもったいない話ないでしょ? 「ああ、主人公はつかまっちゃった。どう考えたって、これはもう救われない。だから、見るのやめよう」、・・・そう言って映画館出てっちゃったら、何も面白くない。あれは最後に、思いも寄らない助けが現れたり、主人公が、われわれが考えてもみないような素晴らしい方法を使って助かるから楽しいんでしょ? その最後のハッピーエンドを見て、みんな、「ああ良かった! 途中は大変だったけれども、最後はこんな幸せが訪れた。ああ良かった!」そう思って、幸せな気持ちで映画を見終わる。
神さまがおつくりになっているこの世界が、ハッピーエンドでないはずがない。その信仰を、私たちは新たにします。そうして、「まだ途中なんだ。始まって間もないくらいだ。ここから、一体どんな素晴らしいことが起こるんだろう!」と、それを楽しみに待つ。確かに瓶の油もなくなり壺の粉もなくなったけれど、「さあ、ここから始まるぞ! 一体どんな素晴らしい救いが訪れるか」と、それを待ち望む。いつでも、まだまだ途中っていうことですよ。
山登りなんかだって、あれ、途中はつらいけれど、「最後は頂上」っていう希望があるから登っていけるわけでしょ? 家族で山登りしているのを思い浮かべてください。子どもがね、もう疲れ果てて「パパもう行くのやめよ〜!」って座り込んだとしたら、パパは何て言うか。「もうすぐ頂上だよ。いい眺めだぞ〜。さあ、頑張ってもう少し歩こう! パパがリュック持ってあげるよ。頂上に着いたらお弁当だからね。さあさあ、出発だぞ!」、パパはそう言って励ますわけでしょ?
これをパパが、「そうだねえ。疲れたねえ。ぼくたちは何をしてるんだろうね。一体どこに向かってるんだろうね。パパも分からないよ・・・」。(笑)そんなこと言ったら、子どもは絶対歩き出せないですよ。
まだ「途中」なんです。途中。私たちまだ山頂を見てないんです。だから、それを思い描き、希望して、憧れて、もう1回歩き出す。
先日のオバマ大統領の勝利演説聞きましたけど、あの人、演説うまいね、やっぱり。感心しますよ。あんな格調高い演説したいな。よ〜し、次の説教はあんな感じでって、野望を抱きましたけど。
あの話聞いてて思いましたけど、やっぱり最後には票の何パーセントかがオバマさんの方にいっちゃうっていうのは、あの演説のせいでしょうね。「だいじょうぶだ。さらに進もう、希望を持とう!」っていう、あれは要するに、「まだ途中なんだ!」って言ってるんでしょ。だから私にあと4年任せてねって言ってるわけですけど、その「途中だ」っていう現実を、ちゃんとみんなにわかってもらって、「希望があるから忍耐しよう」「子どもたちのために、今やるべきことをやろう」っていう主張をちゃんとみんなの心に届けられるっていう、あれはやっぱり、キリスト教の本質じゃないですかねえ。
「白人も黒人もない」「ヒスパニックもアジア人もない」「金持ちも貧しい人もない」、「障害者も同性愛者もない」とさえ言ったんですよ。ああいうこと、共和党には言えないでしょうねえ。・・・格調高い。
まあ、そんな持ちあげるほどの大統領かどうかはよくわかりませんけれども、でも少なくとも、つらい気持ちで一日一日必死に耐えて過ごしている人に希望を与えるっていうのは、これはキリスト教の本質です。「まだ途中なんですよ」っていう希望を。
このやもめのお話(※1)、イエスさまは「この人はだれよりもたくさん入れた」と言いますね。つまり、「神さまに誰よりも近い」と。このやもめこそが、誰よりも神さまと深い交わりを持っている。そういうことでしょ? 神殿に献金するっていうのは、これ、神に捧げてるわけだから。神さまにぜんぶ委ねている姿。有り余る中から、自分の分はちゃんと残しておいて、自分の安全、自分の安心、自分の権利、自分の未来、自分の分は自分で努力してちゃんと残しておいて、あと余力で神さまとお付き合い。・・・そういう感じじゃないんです。
この前半に出てきた律法学者は、そんな感じでしょうねえ。やっぱりこの世で、みんなから褒められて、尊敬されて、自分のプライドというか、そういうものを一生懸命守っているのは、神さまこそが真の喜び、まことの命を与えてくれるってわかってないからなんですよ。神との深い交わりがないから、この世のことを必死になって守り、この世のものを何よりも欲する。
でも、このやもめは、神さまとの深い交わりを持っているから、生活費を全部出しても、何の問題もない。「百円ぐらい」ってここ(※2)に解説ありますけど、ってことは、50円玉2枚って感じですかねえ。チャリチャリンってこう入れた、それはお金持ちから見たら、たいした額ではないけれども、彼女にとっては生活費のすべて。でもそれを、しぶしぶ出したんじゃない。
「これは、神さま、あなたのものです。私はゼロで生まれてきました。私が望んで生まれてきたのではありません。あなたが望んで私を生んだ。あなたが望んで、こうして生かされてきた。夫を亡くしたときはすごくつらかったけれど、でも、それもあなたのみ旨のうち。私のすべてはあなたから頂いたものだから、ぜんぶあなたにお捧げいたします。あなたが私を生かしてくださっているから、その他、私は何もいりません」と。
この安心、爽やかですねえ。イエスさま、それ見て感動した。
「この人は誰よりも多く、神さまと深い交わりを持っている」
すべてを捧げるっていうのは難しいって思うかもしれない。お金はもちろん必要ですよ。私も、なにも、今ここで、「みんな、全財産、多摩教会に出せ」とか、そんなことを言いたいわけじゃない。どうしてもそうしたい人は、別にいいですよ。(笑)断りはしません。でも、ここでは、実はそんな額の話をしてるんじゃない。魂の持ちようの話ですよね、まずは。
「私が頂いたものはすべて、神さま、あなたのもの。神のものは神にお返しいたします」と。
このやもめも、これまでつらかったでしょう。今なお苦難の人生を生きているんでしょう。でも、全部捧げて、なおそこに、「神が生かしてくださっているんだから、私はすべてを持っている」っていう喜び、満足がある。それはイエスさま、やっぱり褒めたいところです。褒めるどころか、「それが私だ」って言いたいんですよね。「このやもめを見てごらん」と。「これが私だよ」と。「これこそ、十字架上ですべてを神に捧げるキリストの姿だよ」と。
今日の「聖書と典礼」の表紙絵で、右側に白い衣の人がいるでしょ? その人が弟子たちですね。弟子たちにイエスさまが「ほら、ご覧。このやもめを」って指し示してるんです。だからこれ、やもめとイエスの話じゃない。やもめとイエスと弟子の話です。さらに言えば、その白い衣の人が皆さんです。皆さんにイエスさまが示してるんです。「さあ、このやもめをご覧。これが私だよ」と。
すべて神さまに委ねましょう。あなたのその試練は、今まだ途中であって、決して十字架で終わるものではない。復活の栄光が待ってるんだから、今、この時に救いの日が実現していると信じて、希望を持ち続けてほしい。
第2朗読の最後のところに、キリストは「御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださる」っていう最高の希望が描かれてますねえ。私たち、山頂を待望しております。神の国の完成の日を夢見ております。だから、この試練の今日を、信じて生きております。そんな私たちに、キリストは「御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださる」。こんな聖書の美しい1行に支えられて、今日をもう一日生きてほしいと、そう宣言し続けるのが、私たちの教会。
私たちみんなで励まそうじゃないですか。「今日はまだ途中なんだよ」って。「なんにも終わってない。ここからだよ」って。
まあ、最近、私も気落ちすることがあったり、なんだか悩むこともあって。皆さん、私、悩んだりしないって思ってるんでしょう? きっとね。悩むんですよ。でも、悩みながらも、なんてことだ、幸せなことに私、キリストを信じてるんですよ。だから、悩んだときにも、それでも、「それでも救いはある!」。意地でもそう言い続けたい。
昨日のあの電話の後、「ああ、駄目だったかなあ。だいじょうぶかなあ。どうしてんだろう。頑張って一日生き延びてくれてるかなあ・・・」、まあそう思って、力不足みたいな気持ちになっていたら、その後の入門講座が終わったとき、ひとりの男性のお話を聞いたら、まあ、「今、すごくつらい思いをしているけれども、この入門講座に通うようになってから、そういう試練を乗り越えていけるようになりました。それで、このたび洗礼を受ける決心をいたしましたので、お願いします」って言われて、ま〜あ、嬉しかったというか、舞い上がりましたね。もう、すべて報われるっていう気になって。
やっぱり、ひとりの人が洗礼を受けるって決心してくれるのは、まさに神の国のしるしですよ。そういう人がひとりいるだけで、ここに教会があることに意味がある。
それこそ、今日、第2バチカン公会議の話などを、この後の講演会で話していただきますから、ぜひ皆さん聞いてほしいですけど、もうあの公会議なんかは、「今、途中だよ」と、「救いは必ずあるんだから、教会はその救いのしるしなんだから、この教会を見てくれ」という、教会の原点に立ち返った会議なんですね。長く内向きだった教会がね、あの公会議で、世界に向かって「さあ、これからが完成なんだ」「私たちのこの旅路を見てくれ」「一緒にやってこうよ」、そう語りかけたんです。その実りとして、ちゃんとこの地に教会があって、福音が語られてるし、そこで「私、洗礼を受けます」ってひと言言ってもらったら、なんかやっぱり、キリストは生きておられる、キリストと働いているっていう、そういううれしい気持ちになって、まあ最近、悩んだり恐れたりすることもあったけど、昨日は励まされました。
また洗礼式ありますよ、来年。ひとり、またひとりと、そうして決心していく、この一年間のプロセスが、あの洗礼式に集約していく。それはなんか、神の国完成への先取りみたいな感じです。そんなことに支えられて、またやっていきます。
昨日は、母の帰天6周年でした。それを知っている方たちが夜のミサに来られてて、お花も持ってきて飾ってくれて、うれしかったです。11月10日なんですね。丸6年になるんですよ。で、丸6年たって、今日は11月10日だなって思って、このミサは母のために捧げようなんて思って、聖書朗読してて、ハタと気がついた。6年前の11月10日、その二日後に私、主日のミサをしてるんですね。まだ通夜の前です。その主日に読んだ箇所が、今日の箇所なんですよ。そりゃそうだ。3年周期ですから、6年たつと同じとこ回ってくるんです。
母亡くした二日後に、このやもめの話を読んで、説教をした。どんな説教だったろうって気になって、便利ですよ、私、自分の説教集読み返すと、ちゃんと書いてある。昨日の夜、ミサの後で、そこ読みました。
「母は病気ですごく苦しんでいたけれども、だんだん、だんだん健康を奪われ、さまざまなものを奪われて苦しんでいたけれども、この貧しいやもめのように、すべてを捧げていた」。まあ、そういう説教をしております。・・・すべてを捧げていた。「すべてを捧げても、神が私を生かしておられる」という、最後の最後はその信仰。そして「今、この試練もこの痛みも途中なんだ」っていう、その信仰。その信仰で、日々恐れながらも、なんとか生きていた。
だけどその後、母の家計簿みたいなものに、日記代わりにメモをしてあるのをパラパラめくっていたら、もうその信仰すら揺らぎかけているような、そういう記述が残ってるんですよ。うつ状態になってるんですね。息子的には、「立派な信仰をもって、つらい試練を乗り越えて天に召されていった」みたいに思い込みたかったんだけれど、現実は、そうもいかない。ホントに苦しい中で、うつになっている。まあ、みんなに迷惑かけまい、心配かけまいと思って、だれにも言わないけれども、つら〜い思いでひとりで苦しんでいて、そんなギリギリのところで祈っている。「ああ、でもこれ結構うつになってるな」っていうのがわかる。そんなメモを読んだとき、私、虚無感に襲われて、落ち込んだんですよ。だって、大勢の人に福音語って、洗礼に導いて、「救った〜」なんていい気になっておきながら、自分の母のうつひとつ、救ってあげることができないじゃないか。・・・そういう気持ちになった。確かにそういう気持ちになった。よく覚えてます。
でも、そこが悪魔のささやきなんですよ。これが悪霊の働きです。「ほらみろ。結局お前に力なんかないぞ。神など信じても無駄だぞ」。悪魔は、そう言い出すんです。だから私は、この6年目にあたってですね、また同じ箇所を読んで、イエスさまが「このやもめをご覧。ぜんぶ捧げても、だいじょうぶだ」。そうおっしゃってくださっていることに励まされます。
今、もう山頂に着いている母が、まさにそれを、私に今、語ってくれてるわけでしょう。「私のうつ状態もまだ途中だった。苦しみもすべて、捧げきってだいじょうぶなんだ」、そういう福音を取り次いでくれてるんじゃないですか? 「昌英、恐れるな!」と。
「恐れるな」、さっきエリアが言った言葉です。・・・「恐れてはならない」。
【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)
※1:「このやもめのお話し」
本日(2012年11月11日〈年間第32主日〉の福音朗読箇所)
マルコによる福音書12章38〜44節。
〈小見出し:「律法学者を非難する」(38〜40節)、「やもめの献金」(41〜44節)〉
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※2:「聖書と典礼」年間第32主日B年 2012.11.11(6ページ下欄)
【 レプトン・クァドランス 】
レプトンはギリシアの最小額貨幣。1レプトンは128分の1デナリオン。クァドランスはローマの貨幣でその倍にあたる。今でいえば「百円ぐらい」ということになろうか。
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