ほうっておくはずがない

【カトリック浅草教会】

2016年10月16日 年間第29主日
・ 第1朗読:出エジプト記:(出エジプト17・8-13)
・ 第2朗読:使徒パウロのテモテへの手紙(二テモテ3・14-4・2)
・ 福音朗読:ルカによる福音(ルカ18・1-8)

【晴佐久神父様 説教】

 3週間ぶりということで、こうして浅草教会でミサを捧げておりますが、上野、浅草、上野、浅草・・・と、いつも新鮮で、スリリングです。大変な面もありますけど、その分、とても豊かな出会いがあって、いいなあと思いますよ。

 3週間前の説教の続きがあります。私の説教は、その後こうなりました、みたいな連続ものだったりすることもあるんですが、ちょっと思い出していただければ。
 3週間前、「教会の前にタクシーが止まってた」という話をしましたでしょう(※1)? 私が運転手さんをミサにお誘いしたという。そのタクシーが、また止まってたんですよ。今度は日も落ちたころで、あちらから挨拶(あいさつ)もしてくれて、「また掲示板のことばが変わりましたね。今度のもいいですねえ」とか言ってくれて。・・・皆さんも、読んでますか? 掲示板の、いろいろな言葉。今はバレンタイン・デ・スーザ神父さま(※2)の言葉で、「恵みの数を数えなさい」っていうのが掲げてありますけど、運転手さん、教会前に車を止めて休憩しながら、あれをいつも読んでくださってるんですね。「いや~、いつもいい言葉ですねえ」って、また今回も言っていただいて。
 で、私、以前の説教で、「今度お会いしたら、ぜひ『鳩サブレー』でも差し上げたい」なんて口走ってましたでしょう。あれ、結構本気だったんですけど、その鳩サブレー、たくさんあったはずなのに、今回たまたま、最後の一枚を、ちょ~ど食べちゃったところだったんですよ。(笑) 運転手さんの顔見た瞬間、「ああ、しまった、あれ食べちゃったなあ・・・」と。他のクッキーもあったんですけど、あんまりちっちゃいのや、個別包装してないのを差し上げるのも、ちょっと変でしょ。やっぱり、あの「鳩サブレー」っていうのが、手ごろでいいんですよ。
 そんなわけで、その後、すぐにまた仕入れて、「もう、今度は食べないぞ」と思って、ちゃんと用意してあります。つぎにお会いするときを、楽しみにしております。
 彼、言いましたよ、「ミサに、ぜひ来たいんです」って。「午前10時ですよね、勝手に入ってもいいんですか?」って聞くんで、「信者さんがぞろぞろと、皆さん入って行きますから、一緒に、遠慮なくお入りください。私がミサで、救いの御言葉(みことば)を語ってますから。みんなで一緒に、神さまの御言葉を聴くのはいいですよ。ぜひ、いらしてください」と、再びお誘いいたしました。
 ・・・必ず来られると思います。もしかすると、私のミサでないときに、もうすでに来ていたかもしれないですね。あの口ぶりだと、必ず来られると思いますから。彼とミサでお会いする、そんな日を楽しみにしてます。

 さっきパウロが、「御言葉を()べ伝えなさい」(二テモ4:2)って、そう言ってました(※3)
 「イエスの御前(みまえ)で厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい」 (cf.二テモ4:1-2)
 その「御言葉」を必要としている人が、それこそ、門前におられるわけです。この祭壇から、ほんの十数メーターなんですけどねえ。でも、ここでどれだけ御言葉を語っても、門の外にまでは聞こえません。もしかすると、まさにこうしている今、外で車を止めて、「入ろうか、どうしようか。やっぱり今日は止めとこうかな・・・」なんて、迷ってるかもしれない。
 「折りが良くても悪くても」「忍耐強く」「御言葉を宣べ伝えなさい」(cf.二テモ4:1-2)という、このパウロの言葉に励まされて、御言葉を届けるための、更なる工夫をしていこうと思っております。
 だれもが、救いを求めています。皆さんだって、必要としてますね、救いを。必ず必要としている。でも、救うのは自分ではありません。自分で自分を救うことはできないんです。
 ・・・「御言葉が(・ ・ ・ ・)」救う。
 その御言葉は、神さまからの愛の御言葉ですし、私たちは「忍耐強く」(二テモ4:2)「気を落とさずに」(ルカ18:1)祈り続け、その御言葉を聴き続け、忍耐強く語り続けます。

 今日の福音書で、イエスさまがやもめのたとえを持ち出しました(※4)
 「やもめが、しつこくしつこく頼んだから、この裁判官は応えることにした」っていうたとえですね。
 でも、それは、「人間の世界ではそうなんだ」という話で、イエスさまが「まして天の父は」「まして神は」(ルカ18:7)と言ってるその神は、そのように、頼んで頼んで頼んだから、ようやく救ってくれる、そういうもんじゃないです。
 このたとえ話の裁判官だったら、もし、しつこく頼まなかったら、やってくれないでしょう。しかし、神さまは、もう最初っから、私たちが願う前から、私たちの必要を知っておられます。「困ったなあ」「怖いよう・・・」「助けてくれ!」、・・・そういう思いを必ず知っておられますし、ほうっておくことがない。
 「まして天の父は」という、この「まして」が大事です。確かに、この世は、しつこく言わないと、やってくれないことばかりです。しかも、本当にやってくれるかどうかさえわからない。もしかすると、やってくれないかもしれないという、恐れがある。
 しかし、神は違います。神さまは、必ず、・・・必ず、やってくださる。
 「昼も夜も叫び求めている選ばれた人たち」(ルカ18:7)、イエスさまが言うところの、この「選ばれた」っていうのは、神さまから、福音によって特別に救っていただくよう定められた、そのような人たちのことです。困っている、悩んでいる、恐れているとき、私たちは、実は「選ばれてる」んですね、神の救いに(あずか)るべく。・・・そうして神が選んだんですから、神は責任を持って、必ず救ってくださる。
 この信念、「『気を落とさずに』(ルカ18:1)、その信念を持ち続けろ」と、それが、イエスさまがおっしゃりたかったことです。
 ・・・「気を落とさずに」、ず~っと祈り続ける。すると、恵みの日が訪れる。

 3週間前に、もう一人、門前の方の話をしました。
 これは、病院の(かた)ですけれど、「30年、教会に行っていなかった」っていう方の所をお訪ねしたっていう話もしたと思います(※5)。この方は、30年前、私が神父になったころ、私のいた教会に来てたんですけど、その後、来なくなっちゃった。で、その後ずっと30年間、教会から離れてたんですね。でも、その30年間、ずっと一つの言葉だけは覚えていて、祈り続けていたっていう話、3週間前にいたしました。
 ・・・詩編の23ですね(※6)
 「死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる」(詩23:4)
 これだけは覚えていて、「死の陰の谷」、つまり、真っ暗な状態のときにも、主が共にいてくださるから災いを恐れないという、この御言葉に支えられて生きてきた。まあ、そう聞いて、私も感動しましたし、30年ぶりの聖体拝領(※7)、病者の塗油(とゆ)秘跡(ひせき)(※8)をお授けしたと、そういう報告でした。
 ところがですね、つい先週、またその方をお訪ねしてみたら、ビックリすることを打ち明けてくれました。その彼女、30年前に教会に来ていた時は、まだ若かったんですけど、実はすでに、心の病を発病してたんですって。
 「あのころは、病気のことを誰にも知られたくないから隠していたけれども、その後、どんどん重くなって、ついには教会にも行けなくなったんです。そして、さらに重くなって入院して、15年前からつい先日まで、ず~っと精神科の閉鎖病棟で、病と闘っておりました。・・・苦しかったです」と。
 つまり、「離れてた」んじゃない。「行けなかった」んです。
 閉鎖病棟じゃ、簡単に教会に来られるわけない。じゃあ、なんで今、一般の病院に入院しているかというと、つい最近、今度はがんになったからです。それで、精神科をいったん退院して、今の病院へ、がんの治療のために転院してきたと。
 壮絶ですよね。実際、彼女はこの30年、ず~っとつらい状況でしたし、特に精神科に入院してからは、一向に良くならないので、「もうこのまま、この病院で一生を終えるんだろうか」って思って、絶望的な日々を送っていたんです。
 ところが、彼女、すごいこと言いました。
 「私、がんになったおかげで、精神科を退院できました。これも神さまのお恵みですね、きっと」。
 ・・・相当深刻な状況なんですよ、がんのほうも。でも彼女は、「がんになったおかげで退院できた」と。そして、「精神科のほうだと閉鎖病棟なので、外部となかなか連絡が取れないけれど、ここは連絡が取れるから、電話して、神父さんにも来てもらえた。その意味では、ホントに神さまがちゃんと救ってくださってるんだ」と、そんなようなことを言うんですよ。
 さらに、こんなことを言いました。
 「自分には今、夢がある。30年前、教会に通っていた時、ひとりのおばあちゃんが、毎週おむすびをいっぱい作って、コロッケをいっぱい揚げてきて、みんなでそれを食べてた。そのコロッケがホントにおいしくて、そのおむすびがホントにおいしくて、自分もいつかは、こうしておむすびを作って、コロッケを揚げて、教会に持って行って、みんなで食べてもらいたい。それが夢なんです。私は、ちゃんと料理する機会がないままに生きてきた。一度でいいから、アパート暮らしをして、そこで料理をして、おむすび作って、コロッケ揚げて、教会に持って行きたいんです」って。
 だから私、「それ、実現させましょう」って、そう申し上げました。
 「あなたはず~っと、・・・ず~っと祈り続けてきたんだから、神さまは必ず恵みの日をくださいますよ。私たちも協力しますから。私もそのコロッケ、よく覚えてます。今度は、あなたのコロッケをぜひ食べたい」と。
 ほら、一時退院っていうのがね、あるじゃないですか。深刻な状態でも、一時退院できること、あります。そういうときに、なんとか、上野の教会の近くで、一時、ウィークリーマンションでも何でもいい、そういう所に滞在して、お料理作って、教会に来てくださいよ、と。
 彼女、喜んでね。「上野教会に行きたい。一度でいいから、神父さまのいる上野教会を見てみたい。そこで神父さまにコロッケをふるまいたい」と、そうおっしゃって、目を潤ませてました。
 私、帰ってから、さっそく上野教会の信者さんと相談したら、もうその翌日に、上野の信者さんが数名、彼女をお訪ねしてくれました。彼女と信頼関係をつくってくれたようですし、ぜひ病状についても相談に乗って、夢を実現させようということになりました。
 彼女にとって、希望が現れたんですね、突然。体は深刻でも、希望が現れたんです。
 彼女、「私は今、幸せです」って言ってた。
 「精神科に入院していた時は、だれも友達がいなかった。でも、神父さん、私、今、友達ができました。神父さんが友達です」と、そう言ってくれました。

 「御言葉を語る」って、本当に力がある。さあ、これから神さまは、何をなさるか。
 ・・・ほうっておくはずがない。
 ほうっておくはずがないんです。彼女は「選ばれた人」です。
 「昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、ほうっておかれることがあろうか。言っておくが、神は速やかに裁いてくださる」(cf.ルカ18:7)
 この「裁き」は、怖い裁きでも、悪い裁きでもないですよ。うれしい裁き、善い裁きです。いうなれば、「冤罪(えんざい)で苦しんでいる人が、いい裁判官にちゃんと裁いてもらったおかげで救われた」みたいな、そういう裁きのことです。
 皆さん、「裁き」って聞いても(おび)えないでくださいね。神の裁きは、愛の裁きであり、それは待ち望むべきことなんです。この世の裁きは人を苦しめていることが多いですけれども、神の裁きをこそ、私たちは待ち望む。
 神さまが、病院の彼女をきちんと裁いてくださる。「ほうっておかれることがあろうか」(ルカ18:7)

 皆さんは今、何か叫び求めていることがありますか?
 30年間叫び求めていたかたに、今、神さまが応え始めようとしておられる。それを、私は証しいたします。
 皆さんも、今、何か叫び求めていることがあるのであれば、「神さまは必ず(・ ・)応えてくださる」という、その信仰を、このミサで新たにいたします。
 神さま、門前のタクシーの運転手さんの心の願いに、応えてください。
 病院で、絶望しかけていたひとりの女性の願いに、どうか応えてください。
 私たち、このミサで、まごころ込めて祈りますから。
 神さま、ここに集まった一人ひとりの願い求めていることを、かなえてください。
 ・・・お互いに、祈り合いましょう。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます。)

※1:「3週間前、『教会の前にタクシーが止まってた』という話をしましたでしょう」
 3週間前の説教、「関わらないことが、死」の2段落目(この辺)~です。(福音の村」2016/9/25説教)
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※2:「バレンタイン・デ・スーザ神父さま」
◎バレンタイン・デ・スーザ神父(Fr. Valentine D’Souza, S.J.)
イエズス会司祭。
1946年、インドのダールワール生まれ。ボンベイ大学医学部卒(細菌学)
1968年、イエズス会に入会
1974年、来日
1979年、司祭叙階
1980年、上智大学神学部卒業。カトリック岩国教会(山口県)の助任司祭(~1981年)
1981年、米国にて第三修練
1982年、カトリック麹町教会(聖イグナチオ教会)で助任司祭(~2004年)
1990年、カリフォルニア大学クリエイション・スピリチュアリティ修士
1998年、ジョージア大学老年学修士
2004年、カトリック六甲教会で助任司祭(~2007年)
現在、東京新宿区の聖母病院と聖母ホームにてチャプレンとして患者の心のケアを行っている。
著書に『神様は私たちと共にいる』(ドン・ボスコ社)、『そよ風のように生きる─旅ゆくあなたへ』、『やさしさの愛につつまれて』(以上、女子パウロ会)、『人生を祝福する「老い」のレッスン』(幻冬舎)がある。
(参考)
・ 「God bless you –感謝の気落ちをこめて–」(聖イグナチオ教会報 2004年4月号)
・ 「司祭、シスターの歓送迎会」(聖イグナチオ教会報 2004年6月号)
・ (PDF)司祭の人事異動などのお知らせp.4」(「カトリック六甲教会 教会報 (2007年3月号)」)
・ 『人生を祝福する「老い」のレッスン』 バレンタイン・デ・スーザ著/幻冬舎ルネッサンス (版元ドットコム)
・ 「バレンタイン・デ・スーザ神父の本」(Amazon)
・ 「インド出身のイエズス会司祭、バレンタイン・デ・スーザ神父による生き方の処方箋『そよ風のように生きる』から」(「鈴村智久の批評空間」ブログ記事より)
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※3:「さっきパウロが、『御言葉を宣べ伝えなさい』(二テモ4:2)って、そう言ってました」
この日、2016年10月16日(年間第29主日)の第2朗読では、使徒パウロの言葉として、以下の箇所が読まれた。
 使徒パウロのテモテへの手紙二(二テモテ 3章14~4章2節)
  〈小見出し:「最後のすすめ」3章10~4章8節から抜粋〉
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※4:「今日の福音書で、イエスさまがやもめのたとえを持ち出しました」
この日、2016年10月16日(年間第29主日)の福音朗読は、以下の箇所が読まれた。
 ルカによる福音書18章1~8節
  〈小見出し:「やもめと裁判官」のたとえ〉
===(聖書/福音朗読 あらすじ)===(ルカ18:1~8)
イエスは、気を落とさずに絶えず祈らなければならないことを教えるために、弟子たちにたとえを話された。(ルカ18:1)
ある町に、神を畏れず人を人とも思わない裁判官がいた。その町にいる一人のやもめが、何度も裁判官のところに、「相手を裁いて、私を守ってください」と頼みに来たが、裁判官は取り合おうとしない。しかし、しばらくたって、「うるさくてかなわないから」という理由で、「裁判をしてやろう」と考えた。
主は言われた。「この不正な裁判官の言いぐさを聞きなさい。 まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。 言っておくが、神は速やかに裁いてくださる。」 (ルカ18:6-7部分/赤字引用者)
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※5:「『30年、教会に行っていなかった』っていう方の所をお訪ねしたっていう話もしたと思います」
 3週間前の説教、「関わらないことが、死」の5段落目(この辺)~です。(福音の村」2016/9/25説教)
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※6:「詩編の23ですね」
 3週間前の説教のときにも、「参照※6」でご紹介したばかりですが、敢えて再掲させていただきます。
 ===(聖書該当箇所)=== 
【賛歌。ダビデの詩。】
主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない。
主はわたしを青草の原に休ませ
憩いの水のほとりに伴い
 魂を生き返らせてくださる。

主は御名にふさわしく
  わたしを正しい道に導かれる。
死の陰の谷を行くときも
  わたしは災いを恐れない。
あなたがわたしと共にいてくださる。
あなたの鞭、あなたの杖
それがわたしを力づける。

わたしを苦しめる者を前にしても
あなたはわたしに食卓を整えてくださる。
わたしの頭に香油を注ぎ
わたしの杯を溢れさせてくださる。

命のある限り
恵みと慈しみはいつもわたしを追う。
主の家にわたしは帰り
生涯、そこにとどまるであろう。
            (詩編23/赤字引用者)

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※7:「聖体拝領」(既出)
◎「聖体拝領」  〔ラ〕communio 〔英〕Holy Communion
 日本カトリック教会の用語で、キリスト者がミサの中で聖別されたパンとぶどう酒を共にすること。
 原語は「交わり」を意味し、キリストの名において集い、食事を共にすることを通して象徴される、キリストの命の糧に生かされた共同体の形成をいう。
(参照)
・ 「聖体拝領」(『岩波 キリスト教辞典』、岩波書店、2008年)
・ 「聖体」については、過去、>こちらに記しましたので、宜しければご覧ください。
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※8:「『病者の塗油』の秘跡」〈既出、もう少し詳細はこちらへ〉
 七つの秘跡(キリストによって制定され、教会に委ねられた、秘められた神のわざを示す感覚的しるし)の一つ。司祭が病者に油を塗って祈る式、また、その秘跡のこと。
 重病あるいは高齢のために困難があるとき、死の危険が迫っているときに、病人の額と手に司祭が祝福された油を塗り、神の癒やしといつくしみ、聖霊のたまものを祈る。
 12世紀ごろから次第に臨終の病人のみに限られるようになり、「終油の秘跡」と呼ばれるようになっていったが、第二バチカン公会議を経て、現在では臨終の時に限らず与えられ、「病者の塗油」という名称に改められている。
 教皇フランシスコは、2014年2月26日の一般謁見演説の中で、この「病者の塗油の秘跡」について言及し、「人間に対する神のあわれみに、手で触れることを可能にしてくれる」と述べ、改めて「この秘跡が、イエスが病者や高齢者に寄り添ってくださることを確かなものとすること、また、65歳以上の人ならだれでも受けることができること」を伝え、「慰めと、前に進むためのイエスの力を与えて」もらうようにと勧めた。
(参考)
・ 「第24回「世界病者の日」教皇メッセージ(2016年2月11日)」(カトリック中央協議会)
・ 「ためらわず『病者の塗油』を」(カトリック新聞オンライン 2014年3月6日)
・ 「病者の塗油」(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008年)
・ 「病者の塗油の秘跡」
   『カトリック教会のカテキズム』(カトリック中央協議会、2002年)
    「病者の塗油の秘跡」1500番~1532番
・ 「病者の塗油の秘跡」(「キリスト教マメ知識」ラウダーテ)
・ 「病者の塗油の秘跡()()(この秘跡を受ける者、授ける者)(この秘跡執行の効果)」
   (「カテキズムを読もう」ラウダーテ)
・ 「病者の塗油」(ウィキペディア)
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2016年10月16日(日) 録音/2016年11月3日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英