この教会に出会っていなかったら

2013年12月1日 待降節第1主日
・ 第1朗読:イザヤの預言(イザヤ2・1-5)
・第2朗読:使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ13・11-14a)
・福音朗読:マタイによる福音(マタイ24・37-44)

【晴佐久神父様 説教】

 イエスさまから、「用意していなさい」「目を覚ましていなさい」って言われました。
 さあ、2013年のクリスマスを、わが人生において、今まで経験した中で、最高のクリスマスにするために、「目を覚ましている」ための工夫を、努力を、励まし合いを、この仲間で一緒にやっていきましょう。

 さて、では、「目を覚ましている」というのは、どういうことか。
 泥棒の話なんか出てくるから、ときに勘違いする人もいますけど、「そんな怖いことがいつ来るかわかんないから、緊張して、ビクビクして待ってろよ」っていう話じゃないんです。イエスさまは、「家の主人がいつ帰ってくるか」っていうたとえで話してますでしょ。「ご主人様が返ってくる」、それは本来的に言って、うれしいことのはず。
 主人、すなわちイエスさまが帰ってくる。それがどんなかたちでかは、今のわれわれには想像もつかないけれど、また来られる。聖書では「一人は連れて行かれ・・・」みたいな言い方をしていますけど、それは、人間の勝手な基準や思い込みではなく、愛の神が、神だけがご存じのお考えによって救うということを言いたいのであって、やがてはイエスさまを目の当たりにする日が必ず来るし、神さまが最後にはすべてを完成させて、すべての人のための神の国が完成するってことです。
 私たちは、今は悩んだり、恐れたり、争ったりしているけれども、やがて、そんな罪の苦しみから解放される神の国が、本当にやって来る。その日は今日かもしれない、明日かも知れない、そんなリアリティーで目を覚まして、つまらんことにこだわらず、余計なことで争わず、喜びを持って用意して目を覚ましていようじゃないかということです。
 つまり、ワクワクしながら待つ。・・・ビクビクしながらじゃないですよ、ワクワクしながら待つんです。気持ちいいでしょ? ワクワクしながら待ってるときって。
 今日、イエスさまがこうして私たちに語りかけてくださったのは、「もう神さまの国は来たも同然だ。見よ、ここに私はいる。喜んで、安心して、完成のときを待ちなさい」という励ましです。

 昨日の入門講座で、御利益宗教のことで悩んでいると相談した方がおられました。
 いろいろな霊感商法みたいなのに、ついついとらわれてしまって、とても混乱した日々を過ごした。・・・気持ちはわかります。「悪いことが起こりますよ」なんて脅されると、人ってついつい、じゃあ、3千円の祈祷で病気が良くなるんなら・・・と思っちゃう。ところがこれが、3千円じゃ済まないんですよ。どんどんむしり取られますよ。人の恐れにつけ込む商法ですから。
 「自分が不幸なのは、過去の因縁によるんじゃないか」
 「祈祷料(きとうりょう)を払わないと、もっと不幸になるんじゃないか」
 無償の神の愛を知らないから、そんなこと思っちゃうんです。ついつい、人間の言葉、この世のものに頼ろうとする。
 イエスさま、ノアのたとえを使いましたけど、だれもが「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり」していて、何もその日まで気がつかなかった、と。もちろん、いいもんですよ、「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり」すること自体は。でも、それがすべてじゃない。本当に素晴らしいものは、神から来るもの、永遠なるものであって、それに今ここで目覚めているなら、たとえ食べものを失っても、めとった人を失っても、それはただの不幸じゃない。1番目に、これから完成する神の国を信じていれば、2番目、3番目のことに迷わされたり恐れたりしないで済むんです。
 入門講座で申し上げました、「御利益を求めるなとは言わない。ただ、この世の御利益なんかを求めるから、不満と不安に襲われる。この世の御利益なんてのは実は半端な御利益であって、求めるならホントの(・・・・)御利益を求めなさい。すべての人を幸せにする、永遠の御利益を。その意味でいうなら、イエスこそまさに最高の御利益であり、キリスト教は究極の御利益宗教だ」と。・・・究極の御利益宗教。
 最高の利益、最高の喜び、それを求めようじゃないですか。「目先のそんな御利益でいいの?」って話ですよ。そこそこ、いいもんですよ。いいもんだけど、そんな程度のものを最高のものだと思い込み、金を出し、心乱してまでそれを求め、神さまが用意してくださっている、本当に素晴らしいものに気がつかないでいること、それを「罪」という。
 惜しげもなく神さまが与えてくださる、無償の「恵み」に、いつも目覚めていましょう。神さまは、決して祈祷料なんか取りませんから。

 ですから、覚えといてください。
 「金取るとこは、ぜんぶうそ!」
 覚えといてくださいね。まあ、多摩教会もチョッとはいただいてますけど、これ、自由献金ですから。その意味するところも、ご覧のとおり、電気ともせば電気代も掛かりますからご協力をっていう程度の話であって、出せない人、出さない人がいてもちっとも構わない。必要ならどこからでも出てきますから、ご心配なく。これが金目当てのとこだったら、「ないなら無料でいいですよ」なんて絶対言いませんよ。どんどんお祈りしてね、どんどんお金取りますから。
 入門講座に来てるある人が、「晴佐久神父さん、『心療内科 晴佐久医院 10分千円』って看板出したら儲かるよ」って。(笑)確かに、毎日何人も、一人90分のお話聞いたりしてますけど、一銭も頂いておりません。だって、金なんかとったら、神さまの福音が汚れてしまう。
 なぜなら、これも覚えといてくさい。
 「神はただ!」
 「ただ」だから本物なんじゃないですか。「金取るとこは、ぜんぶうそ!」「神はただ!」、これははっきりと覚えといていただきたい。そもそも、神さまに代価を支払うことなんかできませんよ。神は与える方なんです。勝手に与えたくて与えてるんです。人は神の愛を与えられるためにつくられて、人は神の恵みを頂くために生きてるわけだから、ただもう喜んでもらっていれば、それでもう、生きている意味は完成してるんです。これを、「すいません、これでいいですか」なんて代価を払おうとしたら、ただの取り引きでしょ。神がそれをお喜びになると思いますか?

 「ただいま〜」って子どもが帰ってきたら、お母さんが笑顔で言いました。
 「お帰りなさい、今日はカレーよ♪」
 「わ〜い! やった〜!!」
 晩ご飯においしいカレーが出てきて、いい香り。
 「あんた、カレーが好きだから、今日は余分に作っといたわよ。いっぱいおかわりしてね」
 「は〜い!」と答えたそのとき、子どもが「これでいいですか?」って500円玉出したら、(大笑)お母さん、怒るんじゃないですか?
 「何バカなこと言ってるの?」
 「でもお母さん、材料費も掛かるでしょうし、お忙しい中、一生懸命時間を掛けて作ってくださったんだから、遠慮しないで受け取ってください」
 ・・・これ、ちゃぶ台ひっくり返されて、「出てけ!」って言われますよ。お母さんは、ただもう子どもを喜ばせたくてカレー作ったんでしょう? 何か払ったら、台無しじゃないですか。

 
 神さまに何か払う。・・・あり得ない。神はやりたくてやってるんだから。
 イエスさまは、あのぶどう園のたとえ話で言いました、
 「自分のものを自分のしたいようにしてはいけないか」(※1)
 また、12人を派遣する時に命じました、
 「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」(※2)
 そうなんです。ただで、これだけの恵みをもらってるんだから、われわれはただで、いくらでも与えられる。これを、みんながやっていったら、この世はあっという間に神の国に変わるに決まってますよね。そのために、神はすべてをただで与えてるんです。
 「究極の御利益宗教」「ぜ〜んぶただ」、それを私たちは「ありがとう!」ってもらって、「私も喜ばせるぞ!」って、ただで与える。そこに、偉大なるキリスト教の愛の流れ、恵みの流れが、滔々(とうとう)と!
 そのためにはまず、目覚めていないと。まさにこの聖なるミサの今いただいている、この豊かな恵みにしっかりと目覚めていないと。・・・そんな私から、恵みが溢れていけばいいわけですから。
 パウロが、第2朗読では「救いは近づいている」と言ってますね。
 「今は眠りから覚めるべき時なんだ」「夜も()けてきた。もうすぐ朝だ」
 ワクワクしながら、キリスト者をやっていきましょう。目覚めている者たちの喜びが、ここに今、あるんです。ここに。

 先週の火曜日に、教皇さまが使徒的勧告をお出しになりました(※3)
 これ、みんな、待ちに待ってたんですよ。新しい教皇さまの最初の使徒的勧告、どんな勧告をお出しになるのかと。先週の火曜日、信仰年(※4)が終わってすぐに出されたもので、まだ翻訳ができてないので、私も、詳しい内容は知りませんが、心待ちにしていたものなので、楽しみですねえ。
 そのタイトルが、なんと『エヴァンジェリ・ガウディウム』(Evangelii Gaudium)っていうんです。
 『エヴァンジェリ・ガウディウム』。・・・すなわち、「福音の喜び」っていうタイトルなんですよ、これは、楽しみでしょ?
 これもう、語学のできる方は、原文で読んでるんですね。で、去年ここで転会式をした大学の先生がいるんですが、その彼がこれを読んで、あまりの素晴らしさに感動して、「これはすごい勧告だ! 感激しました」と言って、メールをしてきたのを読みました。「その内容は、以前から晴佐久神父さまが言っておられることとそっくりで、実は晴佐久神父さま自身が書いているのではないかと思えるほどです」っていうメールが来たんです。これ、ますます読みたくなりますよね。
 晴佐久神父が書いてるのではないか・・・バレたか。(笑)って、そんなわけないですね。 これ、書いた当人を、私、知ってますから。・・・だれですか? 教皇でもないですよ。言うまでもなく、聖霊が書いてるんです。どこぞのいい加減な神父が語ることとおんなじでも、当たり前の話です。聖霊が語ってるんだから。

 なにしろ、『福音の喜び』っていうタイトルですよ。何が書いてあるか、読まなくとも、わかります。「福音の喜びこそが、最高の喜びだ」って書いてあるんです。
 「それこそが、神が与えてくださった最高の喜びであり、この福音の喜びこそが、人に、真の生きる意味を与えるんだ」と、「この福音の喜びを、それを聞くべきすべての神の子に伝えようじゃないか」と、「まずは自分が福音によって救われた、救われている、その喜びを証しして、すべての人に、この福音の喜びを伝えよう。それが教会なんだ。そのために、教会は、福音に満たされた喜びの教会になろう。だれをも受け入れて、掟を押し付けず、厳しく裁かず、あのあったかい福音を、イエスの福音を語ろう」と、そう書いてあるんです。読んでみてください。間違いなくそう書いてありますよ。
 まあ、そりゃそうでしょう。福音の喜びを生きるのが「教会」なんだし、それ以外の何ものでもないんです。
 「喜び」・・・「福音の喜び」! 文章の一番最初の1節をタイトルにするんですね、使徒的勧告の習わしでは。
 有名なパウロ6世の『エヴァンジェリ・ヌンティアンディ』(Evangelii Nuntiandi)(※5)は、福音宣教への熱意を駆り立てる素晴らしい勧告ですけど、冒頭が「福音の宣教」で始まるので、そう呼ばれます。今回は、冒頭が「福音の喜び」から始まるから、『福音の喜び』ってタイトルになるんです。ラテン語だとそういう工夫ができるんですが、冒頭の一句が全体のテーマを表してるんです。
 福音の喜びこそ最高の喜びであって、私たちは、それをこそ、みんなで伝えたい。
 「すべての神の子は、神さまから愛されている」
 「ただで、惜しみなく、恵みをもらっている」
 どんな人でもですよ。その人がどうであれ、こうであれ、周りはいろいろ言うけども、そういうこと、いっさい関係なく、神さまが、そのあなたに愛を注いでいるという、これが福音でなくて何でしょう。その喜びが、最高の喜びに決まってるじゃないですか。この喜びさえ知っていれば、あとはもう、何をなくしたって、何がうまくいかなくったって、何てことはない。
 つまらん祈祷所に行って、高い金払って祈ってもらったりしなくても、目覚めればいいんです。「目覚める」なんて、ただじゃないですか。ハタと目を開けば、もう最高の宝が来ていることに気がついて、私たちの心は満たされる。

 昨日の夜のミサで、「転会式」をしたんですけどね、心に残る転会式でしたよ。お母さんと20代の息子さんの二人で、プロテスタント教会からカトリックに転会してきました。
 お母さま、5年前にご主人を亡くしたんですね。息子にしてみたらお父さんですね。それ以来、家の中は暗くなっちゃって、二人して信仰の危機に陥ったわけですよ。「神はおられるのか」と。「こんなに祈ったのに」と。そして、自分を責める思い、強い罪責感にとらわれている。そんな思いに、教会が応えてくれないように感じ始めたんですね。なんだか、勉強しなきゃならない学校か、仕事しなきゃならない会社のような教会だって感じ始めた。教わってきた信仰が、現実の試練において救いにならず、苦しんでいるありのままの自分を受け入れてくれない教えのように感じてしまったんです。信仰の理解が足りないからだといえばそれまでですけど、実際にそう感じて苦しんでいるときに、厳しい(おきて)だとか裁きの話を聞いても、そこに喜びや希望を感じられない。「自分は何のために洗礼を受けたのか」「今まで、何を信じてきたのか」「果たして自分は救われるのか」「未洗の夫は救われなかったのか」・・・、そういう思いは、よくわかります。下手すると、夫に成仏してもらいたい、この苦しみから逃れたいって、もしかしたら祈祷所に行ってお金払ってたかもしれない。
 そうして何年か苦しんだ末に、ついに福音に出会ったんですよ。すべての人を救う天の父の限りない愛の教えに。あなたはそのままで、もう救われている、やがてみな神の国で再会する、そんな神のいつくしみを信じたときにこそ、いっそう救いを味わえる。この教会で、そんな福音に出会って、目からうろこのように、まさに「福音の喜び」を知り・・・。
 「私はそれを信じます」「その福音を生きていきたい」と、それが昨日の転会式でした。
 もちろん、プロテスタントの洗礼も、本当に尊い洗礼です。だから再洗礼ではなく「転会式」っていうのをするわけですけど、カトリック教会における入信の秘跡は、「洗礼」「堅信」「聖体」が三つセットなんですね。「水の洗礼」「油の堅信」「パンの聖体」、この三つセットで入信の秘跡。ですから、カトリックの聖なる伝承を信じますという宣言をしていただき、かつての水の洗礼に加えて、カトリック的な「油の堅信」と「パンの聖体」をいただいて、転会が完成っていうことになります。
 昨夜、親子揃ってね、カトリックが大事にしてきた教えを「信じます」「受け入れます」って宣言をしていただいて、堅信式、そして初聖体式。・・・ホントに感激しておられました。

 この息子は最初に母親に連れて来られたとき、非常に・・・何ていうんでしょう、ちょっと()ねた感じで、「もう教会なんか信じてないよ」「クリスチャンなんか信じられないよ」って、まあそんな感じでした。でも、話してると、この息子、ホントにい〜いヤツなんですよ、純粋で。だから、まっすぐに福音を語れば、砂に染み入る水のようにね、どんどんどんどん吸い込んで「そうか! それこそ福音だ、これこそ教会だ」っていう感じで、変わっていきました
 私が自分の弱さとか、恐れとかもきちんと語って、でも、だからこそ、いつも目覚めて、神の愛をいっぱい受けとめてるっていう生き方をしているので、それだったら、ぼくにもできる!と思ってくれたようです。
 まずは、こいつに仲間をつくってやろう。教会家族を味わってもらおうと思って、無人島キャンプにも連れてったんです。あのほら、おしゃれな彼の話ですよ。「虫とかいるんですか?」って言ったやつ(※6)。あの彼が、ついに転会式なんですけど、なんかね、やっぱり仲間が欲しかったんですよね、一緒に信じる仲間が。だから、それが今得られて、彼、すごく喜んでます。
 だから昨日は、転会式の後、もう今だから言えるんですが、お得意の「サプライズ・パーティー」を用意しておきました。2階の会議室を飾ってね、クラブみたいに改装したんです。彼、そういうとこが好きだからね。
 パステル調のライトでいっぱい飾ってですね、あと、色とりどりの光を放つミラーボールみたいなのを取り付けて。・・・あるんですよ、そういう電球。ドンキホーテで2980円。(笑)ソケットにただ挿すだけで、クルクルと回って、キラキラと光る。あれを4カ所で光らせて。キャンドルもいっぱい灯して。それから、バーみたいに背の高いカウンターも作ってね。そこに飲み物のビンを並べて、いかにもって感じに。・・・といっても大したビンがないんで、「暗いからわかんないだろう」って、すき焼きタレのビンも並んでるんですけど、(笑)まあでも、それらしくして、クラブっぽい映像とか音楽とか流して。20人くらいいましたかね、島の仲間中心に、みんな息ひそめてそこで待ってるんですよ。そこに、そんなにみんなが集まってるって、彼は、知らない。
 転会式の後、聖堂の外で、彼に「ようこそ!」って言って、「今日はこのままじゃ寂しいから、ぼくがお祝いしてあげるよ。まあ、缶ビールとポテトチップくらいしかないけど、一杯やろう」ってぼくの部屋に連れて行きました。ぼくの部屋とパーティーの会議室は廊下でつながってるんですけど、「あれ、ビールがないな。向こうの会議室の冷蔵庫にビールがあるから取って来てくれる?」って言ったら、「は〜い」って彼は、トットットットって廊下を行ってですね、会議室のドアを開けた瞬間、「あっ!!」とビックリ。そこで、クラッカーが鳴り、音楽が鳴り出し、全員が練習した言葉を言うんです。
 「いらっしゃいませ! ようこそお出でくださいました。カトリック教会一同、心よりお待ち申し上げておりました。今日はどうぞごゆっくりお過ごしください」
 そう言って、食事の用意してあるソファのVIP席にご案内して、みんなで乾杯する、と。・・・カッコイイでしょう?(笑)
 ホント、びっくりしてましたよ。そして、喜んでた。感動してた。
 パーティーの終わりごろ、みんなに打ち明けてました。彼、こう言ったんです、
 「もし、この教会に出会っていなかったら、ぼくはどうなっていただろう・・・って思う」。
 最高の言葉ですよね。
 「ただで受けたのだから、ただで与える」、そんな教会に出会った、と。

 もしこの教会に出会っていなかったら、
 この神の愛を知らなかったら、
 信じる仲間を、永遠の命への希望を、福音の喜びを知らなかったら、
 自分はどうなっていただろう。
 ・・・皆さんも、考えてみてください。


【 参照 】

※1:「自分のものを、自分のしたいようにしてはいけないか」(マタイ福音書20:15) 
・ 「ぶどう園のたとえ話」<「ぶどう園の労働者」のたとえ>(マタイ福音書20:1〜16)より
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※2:「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」
・ 「12人を派遣する」(マタイ福音書10:5〜15)より
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※3:「先週の火曜日に、教皇様が使徒的勧告をお出しになりました」
・ 教皇フランシスコは11月26日(火)、使徒的勧告『Evangelii Gaudium(エヴァンジェリ・ガウディウム)』(「福音の喜び」<仮訳>)を発表しました。教皇フランシスコの初の使徒的勧告になります。
 カトリック中央協議会で日本語訳の作業中で、同会から出版される予定です。
(参考)
 ・ 「カトリック中央協議会」:「教皇フランシスコ、使徒的勧告『福音の喜び』(仮訳)発表
 ・ 「バチカン放送局」:「教皇、使徒的勧告『エヴァンジェリ・ガウディウム』を発表
 ・ ブログ :「福音の喜び(個人的な西和訳の試みです)」(私訳)
   <個人的に西和訳を試みていらっしゃるカトリック司祭(宣教師)のブログを見つけました。
   「時間の許す限りぼちぼちゆるーくアップして行く予定」とのことです。>
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※4:「信仰年」
・教皇ベネディクト十六世(在位:2005年4月19日〜2013年2月28日)により、第二バチカン公会議開幕50周年を記念して2012年10月11日に始められ、2013年11月24日の「王であるキリスト」の祭日に終わった。
(参考)
 ・「カトリック中央協議会」:「第二バチカン公会議開幕50周年にあたって〜『信仰年』
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※5「パウロ6世の『エヴァンジェリ・ヌンティアンディ』(Evangelii Nuntiandi)
・日本語訳のタイトルは、『福音宣教』
(参考)
 ・「カトリック中央協議会」
   教皇文書-使徒的勧告-「『福音宣教』(Evangelii Nuntiandi) <教皇パウロ6世>
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※6:「おしゃれな彼の話」
・ 2013年9月8日(年間第23主日)説教「どこかでいいことが必ずある」参照
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2013年12月1日 (日) 録音/2013年12月5日掲載
Copyright(C) 晴佐久昌英