教会は野戦病院であれ

2014年1月12日主の洗礼
・第1朗読:イザヤの預言(42・1-4、6-7)
・第2朗読:使徒たちの宣教(使徒言行録10・34-38)
・福音朗読:マタイによる福音(マタイ3・13-17)

【晴佐久神父様 説教】

 ご心配いただきました腰も、だいぶよくなってまいりました。まだ完全というわけではないんですが。先週は膨大なごみ出しが、いいリハビリになりました。
 教会ってとこは、クリスマス、年末年始と、大変多くの人が集まって、たくさんの集まりがあって、膨大なごみが出ます。しかし、年末年始は、これを捨てられない。ごみ収集再開の1月6日以降、毎晩、主任神父さまは膨大なごみを出しました。月曜日と木曜日は燃えるごみ、火曜日は瓶、缶、ペットボトル、雑誌、雑紙(ざつがみ)、水曜日は段ボール、古新聞、不燃物、そして金曜日はきれいなプラスチックとビニール。すごい量でしたよ。
 つくづくと思ったことは、ごみの出る教会はいい教会だねえっていうことです。人が集まらない教会、ごみなんか出ませんから。ごみを運びながら、これだけ集まったか、これだけ飲んだかと。・・・いや、いいことだと思いますよ。うれしかったです。それだけ大勢集まって、それだけ楽しく過ごして、それだけみんなをもてなしたってことです。素晴らしいと思う。教会なんて、人集まってなんぼですからね。
 教会に集まる人たちは、別に何か買いに来てるわけじゃない。福音があるから集まって来る。そこに福音がなければ、だれも来ないってことです。みんな、傷ついた心を抱えて、疲れた体を引きずって、「あそこで神の愛に出会いたい」「あそこでキリストに癒やされたい」「あそこで霊的な力がほしい」と言って、来るんです。あるいは、洗礼を受けて、迎える側になった仲間たちが、「ここにみんなを呼び寄せたい」「ここでみんなを癒やしたい」「ここで福音を実現したい」と、そう思って集まるんです。
 年が明けてから、また人数、増えてますね。今日も、いつにも増して人が多いように見えますけど、これからもぜひぜひいっぱい集まってですね、近隣から、「ここは一体何してる所だ?」っていうくらい、ごみ出しましょうよ。まあ、あの瓶や缶の山なんか、ちょっと近隣に恥ずかしいですけどね。だいたいお酒の瓶、缶ですから。(笑) まあでも、いいことですよ。教会は、人を癒やすとこですから。・・・ごみも出ます。

 おととい大阪に行って、一泊して来たんですけど、大阪でも、人が集まってましたよ。
 昨日の講演会は、大阪教区の幼稚園保育園連盟の研修会みたいな集まりで、先生たちが500人ほど集まってました。
 ただですね、前日、もっと大勢集まってるとこに行ってきました。1月10日に大阪に行くと、カトリック司祭としては、どうしても寄るべき所があるんです。ご存じですか? 今宮(えびす)神社(※1)っていう所ですけど、(笑)1月10日に、十日戎(とおかえびす)の「えべっさん」(※2)っていうの、やってるんですよ。以前からよくテレビで見てたお祭りで、「商売繁盛で笹もってこい!」って言って、笹配って縁起物を付けたり、お飾りのついた熊手を売ったりするやつです。 
 各地にえびす神社あるんだけど、大阪のえびすさん、有名です。えびす宮総本社の西宮神社(※3)ではこの日、駆けっこで福男選ぶやつやってて、これはニュースでもやってましたでしょ(※4)? えべっさん、各地でやってるんですけど、一番有名なのは、商売の街だっていうこともあって、大阪の戎神社。
 ちょうど1月10日だっていうんで、これはぜひ行かねばと、カトリック司祭、行列に並んで、参道を敬虔(けいけん)な心でしずしずと。(笑) それにしても、すごい人でした。かばん持ちの大学生連れて、一緒に行ったんですけど、いよいよご本殿の前まで来たら、彼が「どうするの?」って言うから、「やっぱりお賽銭(さいせん)でしょ」って。で、お財布開けてですね、彼は「100円でいいよね?」って言うんですけど、私も業界人ですから、(笑)人の集まる所はいろいろ金かかるっていうのわかってるんで、「やっぱここは、500円でしょう」ってですね、一番おっきな硬貨を投げ入れて、そこで十字切るのもけんか売ってるみたいだから、やっぱり一応、こう、パンパンッと手を合わせてね。・・・でも、いいでしょう? こういうのって、私はすごくいいと思うんですけど。
 昔はカトリックでもそうはいかなかったんで、「鳥居くぐるな」って言ってた時代もありましたし、「盆踊りは悪魔のダンスだからやめろ」って、宣教師に言われたっていう、これ本人から聞いた実話ですよ、そういう時代もありましたけど、第2バチカン公会議以降、今は真逆ですね。
 私は、「むしろ」と申し上げる。皆さんからそういう質問を受けたとき、「カトリック信者はむしろきちんと礼を尽くせ」と言います。「むしろ」っていうことばは、「本当はダメなんだけど、仕方がなく譲って、やってもいいよ」じゃなくって、「本当に素晴らしいことなんだから、やるなら真剣にやれ」ってことですよ。
 仏式のご葬儀のときに、お香を上げていいのかなんていう質問をいまだにする人がいるので、「『してもいい』とか、『することが許されている』とかいうレベルじゃなくて、カトリック信者であるならば、むしろ、大勢の人が真心込めて信じてきたその信仰、習俗、儀礼に心を合わせて、尊敬を持って、温かい気持ちでね、みんなと一緒にお香をあげなさい」と申し上げたい。「半端な気持ちでしぶしぶやるんだったら、相手に失礼だ。それならやらない方がいい。やるんだったら、真剣に、心を込めて、みんながつらいときにすがってきたその思い、救いを求めて必死に手を合わせてきた思いをちゃんと共有して、頭を下げ、手を合わせる。それがカトリックだ」と。・・・いいですねえ、そういう意味では、私、ホントにカトリックって素晴らしいと思う。
 今も、お祭りの記念に買ってきた小さな熊手が、私の部屋の家庭祭壇の、教皇フランシスコの写真の前に置いてありますけど。写真の教皇さま、にっこり笑ってますよ。なにしろぼくは、小さい頃、公教要理で、「神さまはどこにでもおられる」って習いましたから。・・・「どこにでも」。まさに、神社であろうが、お寺であろうが、イスラム教であろうが、ヒンズー教であろうが、私たちの信じる唯一の神は、どこにでもおられる。・・・当然、どこでも手を合わせることができます。
 もちろん、あの大勢の人たちは、そりゃあ、言っても「商売繁盛で笹もってこい」ですから、とりあえずは「商売繁盛」ですよ、みんなが願ってるのは。だけど、だからといってそんなのはただのご利益だと軽蔑しちゃいけない。みんな必死に生きてるんであって、人の心は一緒でしょ。食わなきゃ生きていけないんだし、子どもの学費出すために、パート先を首にならないようにって祈ってるんじゃないですか? 親の高額医療費のために、もう少し収入増やしてほしいって、手を合わせてるんじゃないですか? み〜んな、必死になって癒やしを求め、救いを求めて手を合わせている。まずは、一緒に手を合わせる。・・・いいじゃないですか。今の教皇さまなら、そうしますよ。
 すごくにぎやかで、夜店がダーッと並んでて、みんな幸せそうで、日本人の素朴な信仰心にしみじみと触れて、あったかい気持ちになりました。・・・と同時に、もちろん、「負けてなるものか!」っていう思いも湧いてくるわけで。その「商売繁盛」の向こうにある、本物の神さまの慈しみを知ってもらいたいし、(まこと)の癒やしの世界にも、触れてもらいたい。・・・「負けてなるものか」って思いますよ。

 夜店にね、いっぱい「占い」の店も並んでるんですよ。で、「話の種に」ってノリで、手相を見てもらったんです。(笑) 以前にも、高校生の時にお祭りで手相を見てもらったら、見るなり、ハッとした顔をして、「いや〜、これは普通の仕事には就けないね」って言われたことがあるんで、「今日は何言うんだろう?」って、興味津々で見てもらいました。そうしたら、これまた、ハッとした顔をしてですね、「いやあ・・・あなた、今のお仕事、報われてないでしょう」って言うんです。私もう、何て答えていいかわからなくて・・・。(笑)
 「報われてない」って、・・・まあ、あえて言えばね、ホントに報われるのは天の国ですから、その意味では「報われてない」っていえば言えなくもないけど、まいったなって感じで聞いてたら、その占いさんが言うんです。「でも! だいじょうぶですよ。忍耐して、一生懸命やっていれば、まあ一年後、二年後あたり、必ず報われてきますから」って。
 私、なるほどねえって、聞きながらちょっと感動しました。やっぱり同業者なんで、言ってる彼の気持ちがすごくわかるんです。つまり、ともかく励ましてるんですね。優しいでしょう? 「必ず報われます」って。
 年の初めにね、いろいろつらい思いを抱えた人なんかも、少しでも幸せを得たいと思ってえびすさんに来たわけじゃないですか。で、わざわざ占いしようなんて思う人は、幸せで何の問題もありませんっていう人じゃないでしょう? そんな人の手を見ながらね、「ああ、今は報われてないねえ。けれど、必ず報われるよ。だいじょうぶだよ。もう少しがんばって忍耐していれば」って。・・・優しいじゃないですか〜。
 まあ、もちろん適当に言ってんだと思いますよ。そうは思いますけど、でもそれで励まされてね、少しの元気をもらっていくんだったら、これはいいと思いますよ。500円、そこも500円だったんですけどね、払うかいがあるというか。
 でも、それで言うなら、教会も負けていられない。教会の励ましはタダなんだし、ぜひ、聞きに来てくださいよ。今、報われてないと思っても、神の愛を信じて、もうちょっとの忍耐で、天の国の報いがあるっていう福音ですからね、ぼくらの信仰は。

 今日は、主の洗礼の日ですけれど、神さまが天からイエスさまに言うでしょ、
 「これはわたしの愛する子、わたしの心に(かな)う者」(マタイ3:17)
 これ、何が適ってるんだと思いますか? イエスのどこが、神さまの心に適ってるんですか?
 それは、ペトロが、第2朗読の最後に言っていたとおりです。
 「ヨハネが洗礼を宣べ伝えた後に、ガリラヤから始まってユダヤ全土に起きた出来事です。つまり、ナザレのイエスのことです。神は、聖霊と力によってこの方を油注がれた者となさいました。イエスは、方々を巡り歩いて人々を助け、悪魔に苦しめられている人たちをすべて(・・・)いやされたのですが、それは、神が御一緒だったからです」(使徒10:37-38)
 ペトロは何を言っているかというと、自分で見たことの証言をしているんですよ。
 「あのイエスが洗礼を受けた後、何が始まったかっていえば、神の癒やしがこの世に実現し、イエスを通して悪霊はみんな追い出され、みんなが癒やされた。私はそれをこの目で見た。そして復活の主は、今やこの私ペトロと一緒にいて、その癒やしの(わざ)を行なっている。そのように、いまやキリストの教会が、すべての人を癒やすんだ」
 ・・・これがペトロの思いであり、神のみ心なんです。
 神さまはわが子が病気で苦しんでいる、貧しくて落ち込んでいる、それを黙って見てるわけじゃない。こっちからお賽銭投げて頭下げたら、ようやく「それじゃあ少し、幸福あげるか」なんていうレベルでもない。神さまは、もうすでに、すべての人を癒やして、励まして、力づける、愛の業を実現させてくださってるんですよ、主イエスを通して。そのことをペトロは、一生懸命みんなに伝えている。それを信じてほしい、その癒やしの業を、み〜〜んなに体験してもらいたいって、それがペトロの思いなんでしょう。体の癒やしのことだけじゃないですよ。心の癒やし。魂の癒やし。ペトロにしてみたら、そうしてみんなが癒やされているっていう、その現実を、復活の主と共に、すべての人に伝えたい。
 「神は人々を分け隔てなさらないことが、よく分かりました。どんな国の人でも、神を畏れて正しいことを行う人は、神に受け入れられるのです。神がイエス・キリストによって──この方こそ、すべての人の主です──平和を告げ知らせ(ました)」(使徒10:34-36a)
 すべての国に、このイエスの愛を伝え、すべての人の主であるイエスへの信仰によって、癒やしと平和を現実にしたい。・・・これが神のみ心です。だから、そのみ心を受け継いでいる教会は、それをやらなきゃならないんですよ。「さあ、みんないらっしゃい」と。「あなたを癒やしたい」と。「ここに真の平和がある」と。

 第1朗読のイザヤ書で、美しいイメージが出てきましたけど、これ、岡田司教さまが大好きなとこです。以前、岡田司教さまが司祭だった時の教会で、神学生として奉仕してましたけれど、「ここが好きだ」って言ってたのを、よく覚えてます。3節なんですけどね。この、1節の神が選んだ「わたしの(しもべ)」って、新約的に言えばイエさまのことですが、そのイエスさまは、「傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことない」(イザヤ42:3)、と。すてきなイメージでしょう? 「傷ついた葦」って、もう、簡単にポキッと折れてしまう。目の前の乞田川にも、細い葦がショボショボッと生えてますけど、あれ、もう、すぐに折れちゃう。ポキッと。
 あるいは「暗くなってゆく灯心」って、消えそうなろうそくですけど、わかりますよね? 火がこう、スーッと小さくなって、もう、()いてんのか、点いてないのかわかんない。消えたら一筋の煙が上って、もう、二度と点かない。そんな、ギリギリの状態。
 これ、私たち、そのものでしょ? 折れそうな葦、消えそうな火。でも、イエスさまは、それを絶対に折らない。神に選ばれた僕、救い主は、それを絶対に消さない。イエスさまは、優しいんです。岡田司教さまらしいでしょ、ここが好きだって。優しい方なんです。
 この、一番折れそうな所、一番消えそうな、最も弱い所、そこにこそ、神さまは救い主を送って、愛と癒しのみ心を行う。これを行うのが、教会の使命ですよ。消えそうな人は、まさに、教会の信仰に守られるべきだし、折れそうな人がいたら、洗礼を受けた者の使命として、守らなければ。

 教皇フランシスコのインタビュー記事が載ってましたね、『中央公論』に。(※5)
 『中央公論』ってご存じでしょ(※6)? 古い雑誌ですよ、あれ、100年くらい続いてるんじゃないですか?日本を代表する雑誌のひとつですけれど、そこが、われらがカトリック教会の教皇のインタビュー記事を載せたんですよね〜。うれしかったですよ。「『中央公論』に載ってるよ」ってね。イタリアの雑誌のインタビュー記事の翻訳ものなんですけど、その教皇のインタビュー記事のタイトルがですね、「教会は野戦病院であれ」。これ、教皇の言葉です。かっこいいでしょう?・・・「教会は野戦病院であれ」。
 「野戦病院」、戦争の真っただ中で、傷ついた兵士たちを癒やす病院です。多くはテントだったりするわけですけど、そこに従軍の医師とか看護師とかがいて、「足を吹き飛ばされました」「頭を撃たれました」っていう人が担ぎ込まれる所。・・・「教会は、そのような野戦病院であれ」と。
 その雑誌の編集長がインタビューしてるんですけど、「今の危機的な状況にあって、どんな教会を夢見てますか」って質問したら、そう答えたんですね。
 「教会が今日最も必要とすることは、傷を癒やす能力だ。信じる人たちの心を温める力だ。身近さと親しさが必要だ。教会は野戦病院だと思う。重い傷を受けた人に、コレステロールや血糖値を尋ねるほど無意味なことはない。まず、傷ついた人々を癒やすべきだ」
 教皇さまが、そう言ってるんですよ。「緊急時に、コレステロール値だとか血糖値だとか、そんなことにこだわっているのは無意味でしょ?」と。「まずその人の傷をいやした後で、そういうことを気にかけなさい」と。おっしゃるとおり、今の教会、細かいことにこだわりすぎて、一番大切なことを後回しにしてないですか。

 われらが多摩教会も、野戦病院でなきゃならない。
 多摩市にだっていっぱい、まさに魂の世界では、足吹き飛ばされ、頭撃ち抜かれたような人たちが大勢いるわけでしょ? 血を流している人たちがやって来たら、あれこれ条件付けず、何教だ、何宗だの話ではなく、まず癒やすこと。イエスさまがなさったことだし、私たちがやろうと思ったらできること。
 教会には、その意味で言えばですよ、「福音」っていう究極の癒やしの力があるんだから。言うなれば、もうすべての薬が揃ってるし、すべての器具が揃っていて、医者も看護師も、あらゆる治療方法もぜんぶ揃ってるんです。あとは、あえて言うならば、本当にそれを実現させる働き手が足りないっていうくらいでしょうかね。ぜんぶ揃ってるんです。どうぞ、傷ついた人、いらしてください。そう言わなければ。
 「カトリック多摩教会、危機的戦闘状況の真っただ中で、野戦病院であれ!」
 教皇さまに、そう言われました。もう、これは「はい」って言うしかないですよね。今年の、私も含め、一人ひとりの課題じゃないですか? まあ、教会ったって建物の話じゃない。皆さん自身が野戦病院であるべきですし、あえていえば、このミサなんかは、そんな野戦病院の最前線にいる仲間たちが集まって、お互いに癒し合い、励まし合う場、みたいな、そういうことじゃないでしょうかねえ。皆さん、もう洗礼は授けられてるんですから。イエスさまと同じく、神さまに、語りかけてるんですから。皆さん、み心に適ってるんです。
 「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(cf.マタイ3:17)
 皆さん、今日言われたんですよ。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)

※1:「今宮(えびす)神社」
・ 所在地: 大阪府大阪市浪速区恵美須西1丁目6-10
 今宮戎神社は商売繁盛の神様「えべっさん」として知られ、毎年1月9日から11日にかけて十日戎(とおかえびす)が開催される。
 天照皇大神・事代主命・外三神を奉斎。
 創建は西暦600年、推古天皇の代に聖徳太子が四天王寺を建立されたときに、西方の鎮護として祀られたのが始めと伝えられている。
 今宮戎神社1 今宮戎神社2
<参考>
 ・ 「今宮戎神社」ホームページ
 ・ 「今宮戎神社」(ウィキペディア<フリー百科事典>)
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※2:「えべっさん」
・ 「十日戎」(とおかえびす)の俗称
「十日戎」>>> 1月10日および、その前後の9日、11日におこなわれる戎社の祭礼。
1月10日前後に商売繁盛の神として親しまれる、戎(恵比寿)神(「えびす様」)を奉り、参詣者が商売繁盛を願う。西日本では一般的。 (はてなキーワード」より)
<参考>
・「えべっさん入門」・・・(おもしろく、また、わかりやすく紹介されています)
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※3:「西宮(にしのみや)神社」
・ 所在地: 兵庫県西宮市社家町1番17号
 日本に約3500社ある戎神社の総本社(名称:「えびす宮総本社」)。地元では「西宮のえべっさん」として呼ばれる。
<参考>
・「えびす宮総本社 西宮神社
・「西宮えびす
・「西宮神社」(ウィキペディア<フリー百科事典>)
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※4:「駆けっこで福男選ぶやつ」
・ 毎年恒例の西宮神社の『十日戎開門神事福男選び』。
  福を求めて駆け抜ける開門神事で、1番から3番がその年の「福男」とされる。
<参考>
・「2014西宮神社 福男選び」(「産経ニュース」YouTube)
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※5:「教皇フランシスコのインタビュー記事が載ってましたね、『中央公論』に。」
・『中央公論』 2014年1月号(2013年12月10日発売)
 中央公論
 本誌で「教会は野戦病院であれ」のタイトルのもと、12ページに渡り掲載。
 質問者:アントニオ・スパドロ神父(Civiltà Cattolica編集長)、翻訳:門脇佳吉神父(上智大学名誉教授)。
(2014年1月17日現在、Amazonでは古書が販売されていますが、楽天ブックスなどでは、完売となっています。購入したい方は、『中央公論』のHP、「中央公論.jp」の「バックナンバー」からどうぞ)
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※6:「『中央公論』ってご存じでしょ?」
・雑誌『中央公論』は、日本で最も歴史のある雑誌。創刊は1887年(明治20年)。
 前身は西本願寺系の青年の生き方を探る雑誌だった。
 『反省会雑誌』(1887年創刊時)→『反省雑誌』(1892年改題)→『中央公論』(1899年明治32年改題)
 次第に宗教色はなくなり、現在は、「数少ないクオリティー誌として」、政治・社会評論家ら文芸まで、幅広く掲載するようになる。(「 」内は「中央公論とは」<『中央公論』編集部>より引用)
(参考)
・『中央公論』(ウィキペディア<フリー百科事典>)
・『中央公論』(公式ホームページ)
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2014年1月12日 (日) 録音/2014年1月17日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英