箱の中の美しい中身

2015年2月15日年間第6主日
・第1朗読:創世記(創世記3・16-19)
・第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント10・31〜11・1)
・福音朗読:マルコによる福音(マルコ1・40-45)

【晴佐久神父様 説教】

 年間も第6主日ということで、今度の水曜日は、もう「灰の水曜日(※1)」。復活祭を準備する、四旬節(※2)が始まります。
 灰の水曜日、ぜひ、ミサにいらしてくださいね。灰を(ひたい)にかけて、「回心して福音を信じなさい」と呼びかけます。福音書の、イエスの言葉から取られたことばです。「神の国はもう始まった、心を神に開いて、神の愛を受け入れなさい」というイエスの呼びかけです。
 この呼びかけにはもう一つ別のバージョンもあって、「あなたは(ちり)であり、塵に帰って行くのです」っていうものです。これもまた、灰の水曜日の本質を表していて、味わい深い。
 今日の第1朗読(※3)から採られた所ですね。
 「塵にすぎないお前は塵に返る」(創世記3:19)
 ・・・「塵に返る」。これは事実です。私たちは塵からつくられて、やがて塵に返る。謙遜(けんそん)に受け止めなければならない事実です。
 しかしですね、事実ではありますが、これだけだと、「福音」ではありませんね。旧約聖書の、創世記の一節にすぎません。
 その「塵にすぎない」私に、なんと、神の愛によって美しい魂が与えられ、「塵に返る」はずの私に、主イエス・キリストが宿り、尊い神の子として永遠の命が与えられる。・・・これが福音です。
 「塵にすぎない私」というものを意識すればするほど、福音が際立つ。
 この貧しい心、弱い体、恵まれない現実、塵にすぎないこの私に、神さまが愛を注いで神の子とし、永遠の命へと招き入れてくださるのです。まさに、「福音」です。
 その意味では、灰をかけながら、この旧約の言葉と新約の言葉を、両方くっつけて言うのがいいのかもしれませんね。
 「あなたは塵であり、塵に帰っていくのです。回心して、福音を信じなさい」
 こういう呼びかけを四旬節の始めに、この身に刻んでですね、復活祭に向かいます。
 私たちは確かに塵にすぎない者。この身、この体は、やがて全部お返しする。しかし、それですべてが終わるわけじゃない。むしろ、真の私はそこから始まる。入れ物は、もういらない。
 皆さんポンポン、箱は捨てますでしょ。・・・もういらないからです。中身を守るという役目を終えたからです。大切なのは箱ではありません。その中身です。その中身こそが、本当の私です。
 箱にばかりこだわっていた私が、中身の尊さに目覚め、その中身を与えてくださった方の愛を信じるのが、回心です。その中身がちゃんとある、愛されている、永遠なるものである、というのが福音です。そんな中身がなければ、どれほど箱を立派にし、きれいに飾ったところで、どれほどの意味があるかっていうことじゃないですか。
 昨日、バレンタインデーってことで、親しい友人が珍しいチョコレートと、そのチョコに合うっていう、日本酒の「古酒(こしゅ)」とかってのを持って来て、「これを飲みながら、チョコをつまむのがいいんだ♪」って言うんで、一緒に飲みましたけど、このお酒がまた、立派な(きり)の箱みたいなのに入ってて、値段も5(けた)するとか言ってました。まあ、見るからにありがたそ〜なね、立派な木箱で、さらには高級そうな和紙に包まっていて。
 ・・・でも、そうするのは中身が立派だからですよね。中身が立派であるほど、外も立派にするわけでしょ。あれ、どんなきれいな箱でも、中を開けて(から)だったら、なんの意味もない。
 私たち外の入れ物を大切にしますけれども、それは、それ以上に中身が大切だからです。箱を大切にするなって言ってるんじゃない。・・・大切にしましょう。神さまからいただいたものですからね、外の箱もね。でもそれは、中身が本当に素晴らしいから、外も飾るし、大切にするんです。・・・「外」って、肉体とか、健康とか、環境とか、着るものとか住む所とか。それを大事にするのはいいんだけど、それは、この、もうホントに「内」なる尊い魂、他の何をもってしても替えられない永遠なる魂、これがあまりにも美しいから、私たちは外も飾るんです。
 でもやがて、その魂が神さまに捧げられるときは、もう、箱はいらない。どんなにきれいな箱でも、もういらない。・・・昨日のその古酒の箱も、もう捨てちゃいました。・・・いらないから。

 先週、福島県のいわき市っていう所に行きました。被災地ですね。障害者の会に招かれて、講演をしてきました。
 被災地でもありますし、障害を背負ってるっていうことで、二重苦ですよね。そういう集まりでお話をするのは、なかなか、勇気というか、覚悟が要りますよ。だって、主催者から依頼された講演のテーマが、
 「すべての苦しみは神の恵みか?」
 って、そういうテーマなんですよ。
 もちろん私は、「すべての苦しみは神の恵みのうちにある」と、そう信じてますし、そういう福音を語るわけですけれども、やっぱり、目の前に、白い(つえ)をつく方がいて、体の障害を抱えていながら、なんとか会場までやって来たっていう人もいる、その前でね、
 「すべての苦しみは神の恵みだ!」
 ・・・こう言いきるのは、なかなか、まあ、勇気がいることではありますが、しかし私はそれを自分の考えで言うんじゃない。神さまの愛の話ですから、これはもう譲ることができない。
 あなたがどれほど、「生きるのがつらい」とか、「ここに救いはない」とか言ったとしても、私は宣言します。
 「その苦しみは、神の恵みのうちにある。安心しなさい。あなたの中には、神さまからいただいた永遠なる魂がある。その入れ物である体には障害があっても、その中には、まったく障害のない、美しい、最高の魂がある。その魂こそがあなたであり、あなたの魂は永遠だ」と。
 ねえ、こう、手を差し伸べて、イエスさまみたいに触れて、「わたしは望む。清くなれ!」ってね、そう言ったら清くなった、なんていう力があったらどんなにいいだろうって、ホントに思いますよ。神父やってると、やっぱりそうなりますって。そういう人たちが、次々と目の前に大勢来ますから。手を差し伸べて、イエスさまみたいに触れたらホントにその人が清くなったら、どんなにいいだろう。
 ・・・でも、私は思う。たとえ、そこで清くなったとしても、それは中身じゃないんですよね。「箱」なんですよ。私はやっぱり、「箱」を立派にするために、福音を信じてるんじゃない。「箱」を永遠にするために福音を語ってるんじゃない。
 「あなたの箱がどうなろうと、その中身は、本当に尊いですよ。それに目覚めてほしい。それを信じるならば、もはやあなたは、もう神の国にいるも同然なんだ」
 ・・・そういう福音を語ってるんです。
 旧約聖書で、「あなたは塵にすぎないから、塵に返る」っていわれているのは、これは別に悪いこと言ってるわけじゃない。箱は塵にすぎないから、箱は塵に返します、それだけのことです。
 でも、新約の福音を信じている私たちは、そんな塵にすぎないような箱の中に、こんなに尊い魂を入れていることに感動し、感謝します。・・・パウロの言い方だと「土の器に納めた宝」ですよ。(cf.二コリント4:7) こんな尊い宝を、私はいただいている。
 ・・・それが、皆さんの中に、もうあるんですよ。がんばってこれからもらいましょう、なんていう話じゃない。それを、ぜんぜん知らないんですよ、みんな。気づいていない。だから私は、「みんな、それを持ってるんだ。それに気づいてほしい」と呼びかける。

 NHKの番組で、未来を語るっていう内容のNHKスペシャル(※4)を、つい先週見ました。・・・ご覧になりましたかね。第5回の最終回っていうのだけ見たんですけど、「数十年後の未来はこうなる」みたいなね、SFみたいな内容の、でもそれがもう現実になりつつある、みたいな番組でした。なんだか千メートルの超高層都市みたいなのとか、火星移住の話とかしてるだけで、な〜んだか見ててむなしくなりました。「これが未来? これが幸せ? ・・・俺、やだな、こんなの」って。
 だって、結局は、「箱」の話ばっかりだったから。
 ぜんぶ「箱」の話なんですよ。なんか、未来にはこんなふうにテクノロジーが発達して、便利になりますよ、楽になりますよって。
 それまでの回では、人間はどこまで寿命が延びるかとか、人間はどこまで強くなれるかとか、そんなのもやったらしい。若返りの科学が進歩してこんなに長生きできますとか、体が弱ってもロボットスーツみたいなの着て歩き回れるとかね。・・・まあ、悪い話じゃない。そういう医学やテクノロジーの発達が、どれほど難病に苦しんでいる人にとって福音か。あるいは、障害を持って歩けない人が歩けるようになったら、どんなにうれしいか。もちろん、それはよく分かります。よく分かるし、私だって、そういうことを応援したい気持ちは、人一倍ある。
 でも、あえて(・ ・ ・)ですよ、あえて言ってるんですけれども、ぜんぶ「箱」の話なんですよ。
 ・・・そうでしょ? 「今の箱が、もっといい箱になりました」っていう話でしょ。・・・中身はどうなの? 中身は。
 そもそも、「5万人住む超高層都市」とかって、やってましたけど、見れば見るほど、「俺、ここに住みたくないわ〜」って思うような所でしたし。火星移住の話に至っては、もうそれに手を挙げてる人がいるってことですけど、片道切符なんですって。
 まあ、人類のフロンティア精神、それは分かります。でも、一番のフロンティア、一番住むべき所、求めるべき所、一番行くべき所は、そんな遠い所じゃないんです。
 すぐ身近。どこよりも近い所。
 ・・・皆さんの中、あなたの魂。
 そこにたどり着けなかったら、宇宙の果てまで行ったって、そんなの幸せでも何でもない。・・・そうじゃないでしょうかねえ。未来の話するんなら、未来の「箱」の話じゃなく、未来の「箱の中身」の話、未来にはそれこそが重要になって来るっていう話をしてほしい。
 重い皮膚病に、手を差し伸べて、そして癒やしてくれた。(cf.マルコ1:40〜45) (※5)
 それは別に、「箱」を癒やした話じゃないんですよ。イエスさまは、箱に触れるという愛で、その中身、魂に触れてくれた。だからこそ、この人は、大いにその出来事を言い広めた (cf.マルコ1: 45)
 「俺は治ったぞ!」じゃないんです。
 「俺は救い主に出会った! 神の愛に触れた! 私の魂が生き返った!」・・・そう言って回ったんじゃないですか。
 ・・・そんな未来。

 「重い皮膚病の話」となると、私はどうしても思い出す方がいて、その、私の大切な友人の話をさせてください。なぜなら、それは私にとって、とても大切なことだったから。皆さんにとっても大切なことになってくれるといいんですけれど・・・。
 もう12、3年前、隣の高幡教会(※6)にいた時に、やっぱり熱心に入門講座やってたんですよ。あのころも、大勢の人が洗礼を受けました。
 ある夫婦、奥さまはプロテスタントで、ご主人は信者じゃない夫婦がいて、いくつか教会回って、どこでもなかなか(・ ・ ・ ・)なじめずに、縁あってカトリック高幡教会にたどり着いた。
 奥さまは、おとなしい方なんですけど、ご主人はとっても元気な方で、エコツーリズム(※7)とかネイチャーゲーム(※8)とか、そんなような仕事をしてる純粋な人でね、頭も良くって活動家で、ホントに愛のある人でした。
 ただ、入門講座でですね、どんどん質問するんですよ。話してる時に、「でも先生!」みたいに質問されると、ちょっと、イラッとしますよね。(これ、他の教会で嫌がられただろうな〜)って、想像はつきました。正確には覚えてないですけど、たとえば「ホントにイエスっていたんですか?」とかね、まあ、そんなような質問が、バンバンくる。そう、エコな質問も多かった。「クジラに魂はあるんですか?」(笑) とかね、そんな感じ。「でも結局、キリスト教から始まった西洋文明のせいで、環境は破壊されてますよね」とかね、なんか、・・・イラッとくる。(笑)
 まあ、私もね、そういう時に意地張るタイプですから、(きたな・・・)って感じで、相手をうならせるような答えをスコーンと出したり、丁々発止、やり合って。でも、楽しかった。次第に仲良くなっていったしね、僕は彼、大好きでした。
 土曜日の講座でした。高幡はね、土曜の夜のミサがなかったから、土曜夜の入門講座で、一番人が多かった。狭い部屋に大勢集まってね。あの部屋の様子まで思い出す。彼がいつも座る場所まで思い出す。次々質問してくるときの真剣な顔とか。
 でもだんだんね、質問することがなくなってくるんですよ。
 永遠の命の話もよくしました。大自然の命と、そこに秘められている神の命の話とか。その大自然の命にね、この私の(・ ・)魂が触れる。この大自然の命をほめたたえることができる私の(・ ・)信仰。この大自然が生み出した、究極の神の子であるイエス・キリスト。このイエス・キリストにおいて、すべてが祝福され、すべてが神に導かれるということ。
 テイヤール・ド・シャルダン(※9)の話とかもよくしたんですよね。この自然界が進化して、霊的なものが生まれてくる。その到達点がキリスト。私たちキリスト者はその最先端を生きるもの。ひとりの神の子として、この「土の器」の中に、永遠なる美しい魂を秘めている・・・。
 ・・・そういう話に、彼はだんだん心酔して、ついに「洗礼を受けたい」と言い出して、復活祭の洗礼の準備をしていた。2001年か2002年か、そのころだったと思うんですけど、まさに2月ですよ、ちょうど四旬節が始まるころです。重い皮膚病にかかったんですね。この「重い皮膚病」は、ホントに重かった。細菌が神経に感染するとか、怖い病気で、もう全身がびらん(・ ・ ・)状態っていうか、ずるむけ(・ ・ ・ ・)みたいになっちゃうんですよ、全身ですよ。これはもう、見ていて目を背けたくなるような。だからもう、ミイラ男みたいになっているんですね。こう、ぐるぐる巻きになって。・・・これは本当にかわいそうだった。40度くらい熱が出てね、苦しんでいました。
 奥さんが心配してね、深夜、聖堂で祈ってるんですよ。あのころは私たちも、・・・彼、人気者でしたしね、みんなで、よくお祈りしました。
 「神さま、お願いします。(いつく)しみを示してください。どうか治してください」
 ・・・でも結局、治らず、どんどん悪くなって、私は病床洗礼を授け、そして亡くなりました。病気になって、一気に悪化して、ひと月たってなかったと思う。
 葬儀屋さんが、「こんなひどい死因は見たことない」って言ったの、よく覚えてます。全身が、内臓に至るまで、壊死状態になっちゃったんですね。もうまさに、この世で一番苦しい状態でした。・・・皮膚の病って、そういう残酷なところ、あるでしょう? 外界との接点、そこが苦しくって、痛くって、もう全身がそうだったら、どれほどか。私もショックでね、「こんなかわいそうなの、見たことない」っていうような体験をしました。
 僕は彼のこと大好きでしたし、彼も僕のことを慕ってくれてましたし、彼、「洗礼名は、聖ハレサク(・ ・ ・ ・)にする!」とかって言ってたんです。(笑) 「いや、そ〜んなことはできませんよ」ってね、結局、大自然の保護の聖人である聖フランシスコにいたしましたけれども。
 しかし、私、このひどい病気で亡くなった彼の話を、今、誇りをもって、ある意味、喜びをもって、こうして思い起こすことができる。なぜなら、その彼は、信仰を持ち、信仰を持って召されて行ったからです。それまでは、彼の中に信仰はなかった。しかし、福音に触れて、彼の中に信仰が生まれ、彼は自らのうちに、尊い魂を見出したのです。
 私が、彼のベッドサイドで手を握ってね、「な〜んにもできなくて、ごめんね」って謝ったことがある。ホントにかわいそうで、もう、どうしてあげることもできなくて。
 「つらいでしょう? 祈ってるよ」ってね、枕元で手を握るでしょ。
 そうすると彼はね、ホントに、ミイラの顔ですけどね、にっこり笑って、
 「神父さん、ぜんぜんそんなことないよ。神父さんは僕に信仰をくれた。だから僕は今、ホントに心が平和なんです。僕は、本当に福音を信じたんです」
 そう言ったんですよ。・・・「本当に福音を信じたんです」。
 ・・・「福音」、よい知らせ。
 土に返るはずの器に、永遠なる魂が宿っている。よい知らせ。彼はそれを信じた。だから「心が平和なんだ」って言うんです。
 なんて、美しい魂。
 その後、彼は亡くなりましたけれど、今でもこの「重い皮膚病」っていう箇所読むと、目に焼き付いているいろんな様子が思い浮かぶ。でも、それは(かわいそうだったなあ・・・)だけじゃない。むしろ、(おめでとう!)です。
 ・・・よかったねえ、信仰を持って、希望を持って、すべてを神に捧げきって。
 塵に過ぎない体は、塵に返る。しかし、信じる者にとって、魂は永遠。

 昨日の土曜夜のミサでも、この話してたんですけど、話してるうちに、フッとね、その彼の美しい魂が天に上げられていく、ビジョンみたいなものが見えた気がしたんですよ。
 それはもう、赤ちゃんのようにきれ〜いな皮膚でね、天使に抱えられて。
 ・・・たぶん、後で気がついたんだけれど、ルカの福音書のイメージが重なったんだと思う。ルカの福音書に、あるでしょ、ラザロの話。ラザロっていう、全身できもの(・ ・ ・ ・)だらけの貧しい人がいて、犬もやって来て、そのできものをなめたって。だけど、そのラザロが死んだら、天使に抱えられて、天国の宴会に迎え入れられたっていう、イエスさまが語ったたとえです。(cf.ルカ16:19〜31) そのイメージだと思うんですよ。
 なんかこう、天国の宴会みたいな素晴らしい所に、彼のね、・・・ジュンっていうんですけどね、ジュンの美しい魂、ホントに汚れのない、赤ん坊のような美しい肌の魂が、迎え入れられているんです。
 本来見えるはずのないね、箱の中の美しい中身が、チラッと見えた。


【 参照 】(ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがありますので、ご了承ください)

※1:「灰の水曜日」〈英:Ash Wednesday〉既出
【 本年(2015年)は2月18日(水) 】〈2015年「復活の主日」は4月5日(日)〉
 「灰の水曜日」は、四旬節の最初の日で、復活祭の46日前(日曜日を除くと40日前)の水曜日。
この日、信者は前年の受難の主日(枝の主日)に祝福された枝を燃やしてできた灰を額や頭に受けて回心のしるしとする「灰の式」が行われる。(灰は古代から悔い改めのしるしとして用いられてきた。)
初期のキリスト教もこの習慣を受け継ぎ、罪を犯した者が公に悔い改めを表すしるしとして、灰を頭や額に塗るようになった。信者がこの日のミサの中で灰を受けることは11世紀末から始まった。
 この日(「灰の水曜日」)から復活祭の準備期間である四旬節に入るに当たり、信者は灰の式の中で自らの行いを悔い改め、福音に従う生活を送るよう司祭から勧められる。
(参考)
・ 『岩波キリスト教辞典』(岩波書店、2008)
・ 「灰の水曜日」(ウィキペディア)
・ 「灰の水曜日」(キリスト教豆知識ラウダーテ)  ほか
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※2:「四旬節」〈英:Lent〉既出
【 本年(2015年)は2月18日(水)〜4月2日(木)の「主の晩餐の夕べのミサ」直前(日没の午後6時〜7時)まで 】
 「四旬節」は、ラテン語で「第40の」意味。英語のLentは日が長くなる季節(= 春)を意味するlengthenが変化した語とされる。
 この「40」という数は、イエスが公生活の始め、荒れ野で40日間断食をされたことに由来し、同じく「40」日の祈りと節制を通して、回心と償いをする期間として、「四旬節」の習慣が始められた。
 もともとは「復活の主日」(復活祭)に洗礼を受ける人々の準備期間とされていたが、その後、すでに洗礼を受けた者も、洗礼の約束を更新するためにと、全教会で行われるようになった。
 元来、復活の主日(「春分の日」後、最初の満月の次の日曜日。ゆえに毎年異なる日にちとなる)に先立つ40日間だったが、現在のカトリックの典礼では、灰の水曜日(※1)から、聖木曜日の「主の晩餐の夕べのミサ」直前(日没の午後6時〜7時)までとなり、さらにその間の主日(日曜日)を除くため、正確には37日と18〜19時間となった。
 この間、キリストの受難を思い巡らし、回心と節制、愛の行いを通して、キリストの復活を記念する復活の主日を準備するよう勧められている。
 典礼色は紫を用いる。
*******
【 2015年「四旬節」の例 】〈2015年「復活の主日」は4月5日(日)〉
(2月)

 2月18日(灰の水曜日)〜2月28日(土・月末)まで ・・・ 11日間 ・・・ 日曜日を除くと10日間
(3月)
  3月 1日(日)〜3月31日(火・月末)まで ・・・ 31日間 ・・・ 日曜日を除くと26日間
(4月)
  4月 1日(水)〜
4月2日(木)「主の晩餐の夕べのミサ」直前(日没の午後6時〜7時)まで ・・・ 1日と18時〜19時間
(合計)
  「四旬節」 : 2月18日(灰の水曜日)〜4月2日「主の晩餐の夕べのミサ」直前(日没の午後6時〜7時)まで
    43日と18時〜19時間 ・・・ 日曜日を除くと37日と18〜19時間(←こちらが「四旬節」の期間となる) 
(参考)
・ 『岩波キリスト教辞典』(岩波書店、2008)
・ 「四旬節」(ウィキペディア)
・ 「四旬節 断食〈大斎・小斎〉 カーニバル」(カトリック中央協議会)
・ 「典礼解説・四旬節」(カトリック中央協議会)
・ 「四旬節」(キリスト教豆知識ラウダーテ) ほか
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※3:「今日の第1朗読」
本日、2015年2月15日〈年間第6主日〉の第1朗読箇所は、
 創世記 3章16〜19節。
  〈小見出し:「蛇の誘惑」(3章1〜24節)からの抜粋〉(小見出しは、新共同訳聖書による)
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※4:「未来を語るっていう内容のNHKスペシャル」
番組名 : 「NEXT WORLD 私たちの未来」(NHK総合)
 人工知能や永遠の寿命など、映画やアニメなどで描かれてきたものが、空想の産物だけではなくなってきたという。加速するテクノロジーの進化が、生活をどう変えていくかを掘り下げた番組。
以下のように、5回にわたって、「未来予測」、「不老不死」、「身体拡張」、「拡張実現」、「宇宙開拓」というテーマで探っていった。
 第1回2015年1月3日(土)未来はどこまで予測できるのか
 第2回2015年1月4日(日)寿命はどこまで延びるのか
 第3回2015年1月24日(土)人間のパワーはどこまで高められるのか
 第4回2015年1月25日(日)人生はどこまで楽しくなるのか
 第5回2015年2月1日(日)人間のフロンティアはどこまで広がるのか
(参考)
・ 「NHKスペシャル 『NEXT WORLD -私たちの未来-』」(NHKオンライン
・ 「BEYOND “NEXT WORLD” 『次なる世界』からの証言」(WIRED
・ 「“人工知能”“永遠の若さ”、NHKスペシャル『NEXT WORLD』で描かれる近未来が「ヤバい!」と話題に」(ORICONSTYLE) ほか
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※5:「重い皮膚病に、手を差し伸べて、そして癒やしてくれた」
本日、2015年2月15日〈年間第6主日〉の福音朗読箇所からの話。朗読箇所は、以下のとおり。
 マルコによる福音書 1章40〜45節。
  〈小見出し:「重い皮膚病を患っている人をいやす」(1章1〜45節)〉(小見出しは、新共同訳聖書による)
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※6:「高幡教会」既出
◎カトリック高幡教会
  住所: 東京都日野市程久保4-7-14
      (京王動物園線、多摩モノレール「多摩動物公園駅」より、徒歩10分。)
  電話: 042-592-2463
  主日のミサ: 日曜日 9:00 / 11:00
  ホームページ:
   ・ 「カトリック高幡教会」(カトリック東京大司教区版)
   ・ 「カトリック高幡教会」(高幡教会作成版:教会の画像をクリックして進んでください)
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※7:「エコツーリズム」
 自然環境の他、文化・歴史等を観光の対象としながら、その持続可能性を考慮するツーリズム(旅行、リクリエーションのあり方)のこと。
 定義は、国や団体の立場によって、大きく異なっている。
(参考)・・・以下は各々、「エコツーリズム」の定義を表示するページにリンクしています。
・ 「エコツーリズムとは」(環境省)
・ 「エコツーリズムとは」(日本エコツーリズム協会)
・ 「エコツーリズムの定義」(日本自然保護協会)
・ 「日本エコツーリズムセンターが考えるエコツーリズムの定義」(日本エコツーリズムセンター)
・ 「Ecotourism」(ウィキペディア〈英語版〉)
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※8:「ネイチャーゲーム」
 1979年、米国のナチュラリスト、ジョセフ・コーネル氏の著書『Sharing Nature with Children』において発表された自然体験プログラム。
 直接的な自然体験を通じて、自分は自然の一部であると気づき、自然から得た感動や生きる喜びを分かち合うことによって、心豊かな生活を送る」という生き方を目指す。
(参考)
・ 「ネイチャーゲーム」(ウィキペディア)
・ 「公益法人 日本シェアリングネイチャー協会
・ 「ネイチャーゲーム」(Web Shop)ほか
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※9:「テイヤール・ド・シャルダン」
◎ピエール・テイヤール・ド・シャルダン(Pierre Teilhard de Chardin)
 生没:1881年5月1日 〜 1955年4月10日
 フランス人のカトリック司祭(イエズス会士)。古生物学者・地質学者、カトリック思想家。
 『現象としての人間』(1955)で、キリスト教的進化論を提唱。人間を宇宙の中心ととらえた。当時、進化論を承認していなかったローマ教皇庁には異端視されたが、当時は相容れなかった科学とキリスト教神学双方の思想を、それぞれに深めていき、可能性を開いた。北京原人の発見にも参加。
主著: 『現象としての人間』(1955)、『自然のなかの人間の位置』(1965)、『科学とキリスト』(1965)、『愛について』(1974)など。
(参考)
・ 「ピエール・テイヤール・ド・シャルダン」(ウィキペディア)
・ 「ピエール・テイヤール・ド・シャルダンについて」(個人ブログ)
・ 「テイヤール・ド・シャルダンのオメガ点、その希望」(個人ブログ) ほか
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2015年2月15日 (日) 録音/2015年2月 22日掲載
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