あなたは宇宙よりも広い

【カトリック浅草教会】

2017年1月1日 神の母聖マリア
・ 第1朗読:民数記:(民数記6・22-27)
・ 第2朗読:使徒パウロのガラテヤの教会への手紙(ガラテヤ4・4-7)
・ 福音朗読:ルカによる福音(ルカ2・16-21)

【晴佐久神父様 説教】

 明けまして、おめでとうございます!
 実は、本当に新鮮な気持ちで、こうして新年のごあいさつするの、久しぶりなんですよ。この、「新年の0時ミサ」っていうのを、前の教会ではやってなかったので。前の前の教会のときは、あったかなあ・・・。いずれにせよ、このところず~っと、みんなで紅白を見て、いいだけ飲んだくれて、ゴ~ンなんて鐘の音を聞いて、風呂入って寝る、みたいな年越しだったんで。・・・やっぱり、いいですねえ。
 「新年の0時を、ミサで始める」
 ・・・最高の、年の始め方じゃないですか? 神さまが私たちを愛してくださっているという、その事実を信じて、共に喜んで、感謝の祭儀を捧げる。そうして、この2017年を始める・・・。

 いい年越しになりましたか? 紅白、ご覧になりました? 皆さんは、お家を出て、教会まで時間がかかりますから、紅白、最後まで見られなかったかもしれませんね。私、楽しんで見てたんですけど、司会をしていた「嵐」の相葉君がね、最後に素晴らしいことを言ったんですよ。
 「夢は、人が前を向いて生きるために、絶対に欠かせないものです」って。
 今年の紅白は、「夢を歌おう」でしたか、そんなテーマでしたけど、まさに「夢」って、前を向いて生きるためには、決して欠かせないもの。・・・そうです。2017年、私は夢を見ます。皆さんも夢見るべきです。
 じゃあ、1歩、2歩と前を向いて進んでいくためにはね、どんな夢が必要だと思いますか?
 私、毎年、年の初めの説教で、預言者めいたことを言うのがならわしで、「今年はこんな年になります」、あるいは、「こんな年にしましょう」ってお話しするんですね。結構、それを覚えてて、1年間、大切にしてくださる人が多い。・・・で、今年も私なりの直感で、今の世の中が一番必要としていること、今の私が一番必要としていることを、今年の夢として、前を向いて一歩歩き出すために、皆さんと共有したいのですが。
 今年のそれは、私にとってすごく大切なテーマなんですけれど、ひと言でいうと、「受容」っていうようなことです。・・・「人を受け入れる」っていうことですよ。それが今年のテーマです。おそらく、今の世界がそれを一番必要としていますから。・・・「排除」ではなく、「受容」すること。自分を開いて、他者を招き入れること。
 普通に考えると、それは、すごく大変なことだって思うんでしょうけれど、私は、それが実は「大変なこと」じゃなくて、一番うれしいこと、一番自分のためになり、むしろ受け入れて初めて自分になれることなんだということを、今年の出発点に確認したい。だれかを自分の中に「受け入れる」こと。

 私、神父になった最初の年の大みそかのことを、よく覚えてるんです。千葉の、(かしわ)教会っていう所でしたけど。・・・もう、30年前ですねえ。
 そのころも、まあ、私のことですから、あれこれと教会にみんなが集まる工夫をして、おかげでワイワイと人が集まるようになりました。そんな中、一人の女性が、・・・もう40過ぎてたと思うんですけれど、天涯孤独、一人ぼっちなんですね。家族がいない。事情があって、ずっと一人ぼっち。で、「今年も、年越しは一人ぼっちです」って言うんですね。だから、私だって一人ぼっちみたいなもんだし、「じゃあ、教会で一緒に年越ししましょうよ」ってお招きしました。もちろん、二人だけっていうのもなんですから、「今年は、教会にみんなで集まって、一緒に年越ししよう」っていうことで、「一人暮らしの人が、一緒に紅白を見て、一緒に年越しする集い」っていうのをやったんです。
 ・・・まあ、いまだに同じようなことをやってるわけですけど、それが私の、司祭になった最初の年の大みそかでした。教会の和室に、掘りごたつなんかあってね、畳一畳分の大きな掘りごたつが。そこにテレビを持ってきてね。まだブラウン管の重いテレビでしたけど、みんなでエッサエッサと持ってきて、その上に鏡餅を飾って、こたつの上でミカンをむいて、みんなで紅白を見た。
 そしたらね、その女性が、泣いたんですよ。「こんな幸せな年越しは初めてだ」って。
 それを見て私、「教会って、要するにこういうところだよね」って思ったし、それが原点で、それ以降、30年間、一人で年を越したこと、ないですね。「一人ぼっち、みんな集まれ!」って、年を越してまいりました。

 もっとも、受け入れるのって、なかなか大変ではあるんですよ。工夫が必要だし、一人でいるほうが楽だっていうこともある。ところが、これが肝心なんですけど、面白いことに、受け入れれば受け入れるほど、「自分の広さ」に気がつくんです。
 これは皆さん、ちょっと、イメージを逆転してほしい。
 皆さんは、自分が何かいい思いをしようとしたとき、どっかに出掛けていったりするでしょ。何かいいものは、自分の「外」にあると思ってるし、何かいいものは、自分の「外」に与えるものだと思ってる。どこかに出掛けていって何か得ようとか、どこかに出掛けていって持ってるものを与えようとするんですよね。・・・要するに、「自分が外に向かって(・ ・ ・ ・ ・ ・)何かをする。外で(・ ・)何かを得る」、これが人生だと思っているから、どこかでいい思いをしようとか、どこかでだれかを助けてあげようとかする。
 だけど、実は、「自分の中に受け入れる(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)」ことが、一番ダイナミックにいい思いができて、一番人を喜ばせて、世界を変えていく方法なんです。
 なぜ、みんながそれに気がつかないかっていうと、「自分の広さ」を知らないからです。
 皆さんは、自分は大した存在じゃないと思い込んでるし、自分の中には大したものがない、とても狭いと思い込んでるから、受け入れるっていう発想がないだけなんです。でも本当は、皆さんの「中」はね、皆さんがぜんぜん知らないくらい広いんですよ。・・・とてつもなく広い。
 外に出掛けていって、何か得ようとか、いいものを見つけようとか、誰かに愛されようとかするのは、世界のほうが広くて豊かだと思っているから。みんな、「外」にいいものがある、「外」に答えがあると、思い込んでいるんです。
 ・・・ところが、皆さんの「中」はね、広いんですよ。・・・とてつもなく広い。実は、「外」よりもよっぽど広い。で、皆さんは、それを知らない。
 私は、自分は大した人間じゃないと思っていますし、愛情豊かとはとても言えない人間ですけれど、人を受け入れようとするモチベーションだけは強く持っていますし、そのための工夫をし続けてきました。なぜそうするかっていうと、自分の中に受け入れれば受け入れるほど、「自分の広さ」に感動するからです。
 だって、そもそも、キリスト者は自分のうちに、すでにイエスさまを宿してるわけでしょ? だから、だれかをイエスさまに出会わせたかったら、自分の中に招けばいいんですよ。・・・実は、そういうことなんですよね。
 第1朗読の民数記では、神の祝福が語られていましたけれど(※1)、祝福するっていうのは、「あなたの存在はとても良いものだ」ということでしょう。それは、「あなたの存在を良いものとして受け入れます」という宣言なんです。この世界の根源に、そんな、神の受容がある。神は、すべてを受け入れることができるほどに広いお方ですから、その祝福を受けて、私たちもだれかを祝福することができる。
 第2朗読のパウロの書簡では、私たちが神の子であり、神の相続人であるとさえ語られています(※2)。それは、キリストにおいて、「あなたは私の愛する子どもです」ということであり、「あなたの存在をわたしの相続人として受けいれます」という宣言なんです。その宣言を受けて、私たちもだれかを受容することができる。
 2017年、「受容」の年にしましょうよ。
 「私に(・ ・)受け入れる」、それはとても楽しいことだし、それなりに、ちょっとしたコツは必要だけれども、やっていくと、その実りの大きさ、喜びの深さ、出会いの楽しさに、やみつきになります。そういう、受容の楽しさを知った人たちがこの世界に広がっていくことが、この、排除に傷ついた世の中を変えていく、唯一の、そして最高の方法です。
 ・・・やってみましょうよ。
 「楽しんで、受け入れる」
 「自分の中に、だれかの喜びの場を作る」
 ・・・その「自分の中」っていうのが、具体的にはどういうことなのか、やればやるほど、どんどん分かってくるんです。自分が守っているエリア、譲れないプライドの分野、傷つきやすいところ、そこに、人を、一人、もう一人と受け入れること。それはとても素晴らしいこと、気持ちのいいことですし、そんな自分の中の、秘められた広がりに気づけば気づくほど、そのエリアは広がっていく。
 もしも、あなたが宇宙に感動し、受け入れるならば、あなたは、宇宙よりも広いんです。

 昨日の大みそか、午後4時ごろからいろんな人が集まってきて、一緒に年を越しました。・・・去年のキャンプの仲間たちも来ています。全員、このミサに出ておりますけれど、おかげで、平均年齢、いつもより低いんじゃないですか? これぞまさしく、一緒に年を越した「教会家族」ってわけです。こうして見ても、一人ひとり、普段はみんな寂しい思いをしてるんですよ。だから、神が結んだ本当の家族と共に、年を越そうというわけです。
 クリスマスの説教で、「クリぼっち」のことお話ししましたけど(※3)、ほら、「クリスマスに一人ぼっち」っていうあれね。同じように、「年を一人で越す」っていうのは、何ていうんでしょうね、「大みそかに一人ぼっち」。・・・「みそぼっち」? まあ、ともかく、そういう一人ぼっちの人が、どれだけいると思います? ちょうど今、新年が明けたこの午前0時過ぎ、一人寂しく過ごしている人が、この教会の周りにも、どれだけいると思います? 驚くべき数の人がいると思いますよ。「誰かと一緒に、『おめでとう!』 って乾杯できたらいいな」「誰かと一緒におせちでも食べれたらいいな」、そう思っている人が、どれだけいると思います?
 ・・・そんな誰かを、一人でもいいから受け入れて、一緒にメシを食う。そんな教会を目指したい。それが、前を向いて生きようとする、本物のキリスト教会の夢じゃないですか。

 年末に、札幌からメールがきて、「一人ぼっちで過ごすのが、つらい。寂しい」、そういうメールでしたよね。家族の問題もあって、「一緒に年を越す人が誰もいない」と、落ち込んでいた33歳、男性。「じゃあ、一緒に年を越そうよ」と、お招きしたら、来てくれました。・・・で、今、そこに座ってます。ようこそ、ようこそ。紅白、楽しかったね。君と一緒に年を越すことができて、うれしかったよ。
 なんか、西のほうからも電話がきましたよね。兵庫に住んでいる29歳、男性。社会に、うまくなじめない人生を生きてきたんだけど、年末に仕事をクビになって、「自分にはもう居場所がない。行き場所もない。一人ぼっちで年を越す仲間もいない」と、そんなことを言ってるので、「じゃあ、一緒に年を越そうよ」ってお招きしたら、来てくれました。で、今、そこに座っています。・・・ようこそ、ようこそ。昨夜はみんなと過ごせて楽しかったでしょう?
 当然のことながら、札幌の33歳と、兵庫の29歳、会ったことないんですよ。だけど、昨日の夕方、浅草教会で、「はじめまして」と言って会って、友達になっておしゃべりして、大勢の仲間たちと過ごして、年を越して、今、みんな一緒に、ミサに出ています。
 ・・・いいですよねえ。受け入れていくと、そういうことになるんですよ。
 スリランカから来た、・・・君は何歳だっけ? (笑) (本人に) ・・・「何歳?」 (本人:「27歳!」) ・・・ああ、27歳。(笑) スリランカの27歳が、夕方、一人ぼっちでお御堂(みどう)で祈ってたから、「君も一緒に紅白見ようよ」と誘ったら、仲間の輪に入ってくれて、一緒に年が越せました。君は、このすぐ近くの語学学校の学生で、よく、近くのこの教会にお祈りに来るんだけど、スリランカのほかにも、ベトナムとか、教会に時々来る留学生が、いっぱいいるじゃないですか。だから、「みんなで集まってクラブを作ろう」っていう話をしたんです。・・・来年は、あなたも一緒に年越しですよ、言っときますけどね。
 いいじゃないですか、一緒に年越し。もちろん、受け入れるのはね、面倒っちゃ面倒。年越しそば、何杯も作んなきゃなんない。(笑) ・・・ずいぶん作りましたよ。しかも、年越しそばは、温かいのがいいのか、冷たいのがいいのか、もめてね。(笑) だから、手を挙げてもらったら、同数だったんですよ。(笑) そういうときは、どうするか。・・・私は当然、こうします。
 「一番遠くから来た、スリランカの(きみ)が食べたいのは、温かいほう? 冷たいほう?」
 「温かいほう!」
 「じゃあ、温かいほうを、みんなで食べよう」
 ・・・面倒だけど、まさしく、家族です。楽しいねえ。
 この集まりがなかったら、みんな一人ぼっちですよ。・・・私も含め。

 キリストの教会、2017年、どんな素晴らしいことが起こるだろう。楽しみにします。そして今年一年、一人でもいい、・・・できれば二人、できれば三人と、「自分の中に受け入れる」っていう楽しさを、ぜひ味わっていただきたい。
 今日の福音書にあるように、生まれたばかりのイエスさまも、どこの誰とも分からないような貧しい羊飼いたちをうまやの中に招き入れて、受容しています(※4)。それが、神の国の始まりでしょう。イエスさまのうちには、無限の広がりがあるのです。
 排除していると、それは死の世界。自分を守ろうとして排除して、すべてを失ってしまう。
 来年、冷た~い2018年の正月を迎えるのか、受け入れて、受け入れ続けて、あったかい気持ちで2017年を終えて、本当の家族で年越しをして、また、新しい歌(※5)を歌えるのか。
 この一年、一緒にやっていきましょう。

 私も、教会を変わったばっかりで、昨年はいろんなことをうまくできませんでしたけれど、2017年は、いろ~んなチームを作って、「みんなが一緒にいることって、ホントにステキだね」って言える、そういう浅草教会、上野教会を夢見て、新しい一歩を、踏み出してまいります。
 夢は、教会が前を向いて生きていくために、絶対に欠かせないものです。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます。)

※1:「第1朗読の民数記では、神の祝福が語られていましたけれど」
この日、2017年1月1日(「神の母聖マリア」)の第1朗読箇所は、以下のとおり。
 民数記6章22~27節
  〈小見出し:「祭司による祝福」6章22~27節〉
===(聖書該当箇所)===(この日の第1朗読全文)
 
主はモーセに仰せになった。
 アロンとその子らに言いなさい。あなたたちはイスラエルの人々を
祝福して、次のように言いなさい。
 主があなたを
祝福し、あなたを守られるように。
 主が御顔を向けてあなたを照らし、あなたに恵みを与えられるように。
 主が御顔をあなたに向けて、あなたに平安を賜るように。
 彼らがわたしの名をイスラエルの人々の上に置くとき、わたしは彼らを
祝福するであろう。
    (民数6:22-27/赤字引用者)

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※2:「第2朗読のパウロの書簡では、私たちが神の子であり、神の相続人であるとさえ語られています」
この日、2017年1月1日(「神の母聖マリア」)の第2朗読箇所は、以下のとおり。
 使徒パウロのガラテヤの教会への手紙4章4~7節
  〈小見出し:「奴隷ではなく神の子である」3章21~4章7節から抜粋〉
===(聖書参考箇所)===(朗読箇所から部分抜粋)
あなたがたが子であることは、神が、「アッバ、父よ」と叫ぶ御子の霊を、わたしたちの心に送ってくださった事実から分かります。ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです。 (ガラテヤ4:6-7/赤字引用者)
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※3:「クリスマスの説教で、『クリぼっち』のことお話ししましたけど」
 「クリスマスの説教」は、以下のとおりです。
  >「恵みの上に、さらに恵みを」(「福音の村」2016/12/25説教)
 該当箇所は、上から3段落目(>この辺)からです。
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※4:「今日の福音書にあるように(中略)受容しています」
この日、2017年1月1日(「神の母聖マリア」)の福音朗読箇所は、以下のとおり。
 ルカによる福音2章16~21節
  〈小見出し:「羊飼いと天使」2章8~21節から抜粋〉
===(聖書参考箇所)===(抜粋)
天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。 その光景を見て、羊飼いたちは、この幼子について天使が話してくれたことを人々に知らせた。 聞いた者は皆、羊飼いたちの話を不思議に思った。 しかし、マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。 (ルカ2:15-19/赤字引用者)
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※5:「新しい歌」
◎「新しい歌」
 聖書の中で「新しい」という言葉は、外的な意味での「新しさ」を指すだけではない。それ以上に、最終的な完成によって希望が実現されることを表している。
 そこで、「新しい歌」は、神の救いへの感動、感謝や喜びを表したり、救われた者として歌う賛美の歌であったり、愛や信仰、希望の歌であったりする。
 また、教皇フランシスコは、過去に、以下のように説明したこともある。
 「『新しい歌を主に向かって歌え』(詩編96・1)。新しい歌とは何でしょうか。それはことばでもメロディーでもありません。それは皆さまの生活の歌です。自分の生活をイエスの生活と同じにすることです。イエスの感覚、思い、行動を自分のものとすることです。イエスの生活とは、他者のための生活です。それは、奉仕の生活です。」
(参考)
・ 「教皇ベネディクト十六世の36回目の一般謁見演説 (2006.1.25) 」(カトリック中央協議会
・ 「教皇フランシスコのWYD(ワールドユースデー)リオデジャネイロ大会閉会ミサ説教 (2013.7.28) 」(カトリック中央協議会
・ 「新しい」(『聖書思想事典』三省堂、1993)  その他
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2017年1月1日(日) 録音/2017年1月12日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英