2015年5月24日聖霊降臨の主日
・第1朗読:使徒たちの宣教(使徒言行録2・1-11)
・第2朗読:使徒パウロのガラテヤの教会への手紙(ガラテヤ5・16-25)
・福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ15・26-27、16・12-15)
今日、聖霊降臨の主日に、聖公会の神学生をお迎えしております。そちらのお二人です。ようこそ、ようこそ。^^ (拍手)
神学校の研修で、各教会を回っているところなんですって。もちろん、プロテスタントの教会が中心ですけども、その中にカトリックの教会も二つ入っていて、その二つが、イグナチオ教会(※1)と、天下の多摩教会。(笑) これはもう、いつにも増していい説教しないとね~。(笑)
先ほど、お二人も聞かれたわけですけど、聖霊降臨の主日の聖歌、素晴らしいでしょう? カトリック教会では聖霊降臨の主日に必ず歌われる、「聖霊の続唱」(※2)っていう歌です。多摩教会は、なんて聖歌を上手に歌うんだろうと思われたかもしれませんが、実はこれ今日だけで、(笑) 聖霊降臨ということで、特別編成の合唱団を募って練習したんですよ。混声四部でね、高田三郎作曲の「聖霊の続唱」っていう名曲(※3)を歌いました。
今、一緒に歌ってて思ったんですけど、やっぱりいい歌ですね。聖霊の素晴らしい働きが感じられて、感動します。・・・歌詞がいいですね(※4)。特に私は、この「聖霊の続唱」の歌詞に、すごく明るい輝きを感じる。光を感じる。歌詞の中に、「光」がいくつも出てくるんですよ。「聖霊来てください。あなたの光の輝きで、わたしたちを照らしてください」とかね、「貧しい人の父、心の光」とかね、「恵みあふれる光、信じる者の心を満たす光よ」っていう言葉も出てきますし。・・・・聖霊は光なんです。輝いているんですよ。
「恵みあふれる光」
「信じる者の心を満たす光」
・・・いいですねえ。皆さん、この聖なる霊の光を、今、感じていますか?
太陽をイメージしてください。太陽は、ただただ、光っている。ただただ光を与えている。さっき、集会祈願(※5)に、「聖霊を世界にあまねく注いでください」って言葉がありましたけど、「あまねく」というからには、
「もれなく」
「選ぶことなく」
「いつでも、どこでも、誰にでも」
「ど~んな状況にも」ですね。
・・・
この太陽のイメージが、御父のイメージですね。私たちが信じる神は、そういう神です。太陽をイメージしてくださいよ。選ぶことなく光ってますでしょ。全方向に向かって、光と熱を与え続けています。休むこともない。始めから光っているし、いつまでも光っているし、
「すべての方向に向かって、相手を選ぶことが決してなく」照らします。
「誰にでも、どんな相手にでも」です。
「休むことなく、どんなときにでも」です。
だから私たち、神をイメージするときに、気を付けなければなりません。どうしても、「神さまはこんな私はどうでもいいんじゃないか」とか、「こんな私は照らしてくれないんじゃないか」とか、「いくらなんでもこんな所には、神の愛は届いていないだろう」とか思いがちですが、もうそんなのは「神」じゃないですね。ともかく、太陽を思い出してください。相手を選ぶことがない。ただただ与え続けている。私たち、自分で光ることのできない者たちは、それを受けるのみ。
さらには、私たちは、太陽に感謝こそすれ、何もお礼することができない。
太陽は、何も求めてないんです。「与えても何も返してくれないから、もう照らすの止めよう」とか、そんなのあり得ない。私たちは、太陽に何も返すことができません。まあ、信仰深い方が、朝、お
そうすると、「聖霊」っていうのは、ここからあふれてくる「光」と「熱」みたいなもんなんですよ。太陽からあふれてきて、そしてすべてを照らしている。で、その「すべてを照らしている」とき、この光と熱の及んでいる所も、太陽の一部なんですね。・・・このイメージも大事ですよ。神からあふれてくる聖霊が及んでいる、そこはもう、「神さまのうち」といっていい。地球なんかは、太陽の熱に照らされて、その輝きに包まれて、命が
こういう「絶対普遍」のイメージっていうのをね、特につらいとき、暗くなりがちなときにこそ、思い出してください。聖霊降臨の主日は、そのような、神さまからあふれてくる愛の光と熱が、現在ただいま、そしてこれからも、この私に注がれて続けている。・・・このイメージです。
ただですよ、問題は、この注がれている光と熱を、じゃましてるものがあるってことです。家の中に閉じこもって、屋根の下でおびえているような私たちの心。外では
でもそれは、太陽が消えたんじゃない。太陽が意地悪してるんでもない。太陽はいつも通りに光を燦々と注ぎ続けているんだけれども、人が勝手に家の中に閉じこもり、時には押し入れの中で布団かぶっているだけ。それって、ぼくら、人生のどこかで体験してきたはず。
では、どうしたら、この押し入れの奥に、太陽の光を届けることができるでしょうか。
太陽は、自分の分身、いうなれば太陽の子どものような、光と熱の小さな塊のような、究極の救い主を私たちに送ってくれたんです。言うまでもなく、「イエス・キリスト」のことですよ。この救い主は、頼みもしないのに扉を突き抜けて入ってきて、押し入れをガラリと開けて、「もうだいじょうぶだ、わたしがあなたを救う」と、布団をはいで、私たちの中に飛び込んできて、私たちを内から照らしてくださる。・・・こうなるともう、「プチ太陽」ですよ。
太陽を天の父に、その光と熱を聖霊にたとえるなら、このプチ太陽がキリストです。御父からあふれてきた聖霊に満たされた小さな御父、・・・どこにでも入り込むために御父から遣わされた、このイエス・キリストが、すべてを突き抜けてやって来くる。それで私たちは照らされる。
「父」と「子」と「聖霊」の恵みですね。感謝しましょう。私たちの暗~い現実の、暗闇の一番奥に、聖なる霊に満たされたイエス・キリストがやって来て、そして、私たちを照らしてくれる。
聖霊降臨は、教会の誕生日にもなるわけですけれど、この、聖書と典礼の絵を見ていただきたい。・・・表紙の絵ですね(※6)。聖霊降臨のお祝い日にふさわしい絵ですが、上の方の雲のような所が、神さまの神秘の世界。そこからあふれてくる聖なる霊が、弟子たちに注がれている様子ですね。・・・なんかこう、巨大なタコのように見えますけれども、(笑) このタコの頭の所がね、神さま。そこからね、タコの足のように弟子たちみんな、・・・そしてこの人たちだけじゃなく、今や、私たちみんなに及んでいる。
これ、よく見るとこの足の中に、赤い点々が連なってますでしょ? これが、さっき第1朗読で読まれた「炎のような舌」(使徒2:3)っていうやつですね(※7)。「炎」は熱でしょ、光でしょ。まさにエネルギー。熱~い神さまの思い、神さまの燃える愛です。そして「舌」っていうのは、「言葉」のことです。だから、「炎のような舌」って、「神さまの、燃えるような熱い愛の言葉」なんです。それが、こうして続々とやって来ているんですよ。これにみんな、満たされている。
そうして、満たされたらですよ、次はどうなるかというと、第1朗読の4節ですね、
「すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした 」(使徒2:4)
・・・これが聖霊降臨です。これが教会です。
聖なる霊に満たされると、その聖霊は私たちを通して語りだす。もう、本人が何か語りたいとか、語りたくないとか、本人がどう語ろうかとか、何を語ろうかとか、そういう本人の思いをはるかに超えたかたちで、語りだす。まさに「“霊”が語らせるままに」ですね。神さまの燃えるような熱~い愛のみ言葉は、もうやって来ちゃったし、宿っちゃったし、暗い私たちは照らされちゃったんです。
すると、「“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(使徒2:4)、と。
この「ほかの国々の言葉」っていうのは、単なる「各国語」っていうレベルのことではありません。聖書が言いたいことの本質は、
「すべての人の現場に及ぶ言葉」
っていう意味です。
「私は教会なんかに、特に関心ありません」とか、
「私、無宗教ですから」とか、
「私の悲しみは誰にも理解できません」とか、
「私の深い闇を照らす言葉なんか、この世にあるはずがない」とか、
どんな人のどんな思いにも、あらゆる人のあらゆる現場にも、この愛のみ言葉は、届きます。
聖霊降臨の最初の日に起こった、この絶対普遍の出来事が、聖霊の働きの、その最も中心の部分を、よく表しています。「“霊”が語らせるままに」、愛のみ言葉は、人々にあふれていって、みんなを救っちゃうんです。・・・この流れが大事です。この聖なる霊の流れはすべての人に及び、すべての人を一つに結び、すべての人を天の国に連れて行きます。
「私は救われた」ってうのは、「私個人が救われた」っていう意味じゃない。「私は聖霊の働きによってみんなと共に救われた」っていうことです。何度も申しますけれど(※8)、「個人の救い」だなんて野蛮なことを、本当のキリスト教ならば考えておりません。
キリスト教は、
「個人が救われる」なんていう、そんなバラバラなことは、倫理的にも論理的にもあり得ない。「個人を救う」ためには、個人を他者と切り離さなければならないじゃないですか。それを罪っていうんじゃないですか。それこそ、人々を一つにする一致の霊である聖霊への
・・・聖霊によって、すべてはつながってます。「教会」っていうのは、そのような一致のしるしですね。
神さまからあふれてきた熱いみ言葉、それはさっき読んだ福音書(※9)で言えば、イエスさまが遣わしてくださる「真理の霊」(ヨハネ15:26)ですね。この「真理」っていうのは、神はすべての人を愛している、イエスによってすべての人は救われるっていう真理です。神さまから全方位の光と熱があふれ出て、「プチ神さま」であるイエスさまはすべての人のうちに宿る。まさにその真理を悟らせてくださるのが「真理の霊」です。
イエスさまが遣わしてくださる、その真理の霊に満たされると、・・・26節、「父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて
いつもお話ししているお隣のプロテスタントの教会の牧師先生がね、またおとといも来られました。・・・ちなみに、このプロテスタント教会の入門講座のチラシが貼ってありますからご覧ください。おそらく、プロテスタント教会の入門講座のチラシが掲示してあるカトリック教会は、全国唯一だと、(笑) 私は思いますよ。仲がいいんですよ。月に一度、情報交換ということでいろんな話をします。まあ、友達としてお話するんですけど、彼は私の福音宣言を大変気に入ってくれていて、活用してくださっています。
この牧師先生が言うには、「最近、晴佐久神父さんの真似をして、福音宣言を実行できました!」って言うんです。つい先日、夜、電話がきて、「私は、もう死にたい」っていう電話だったそうです。当然、一瞬
それで、電話した方は、神の愛の福音の宣言を聞いて落ち着きを取り戻し、なんとか踏みとどまってくれたんですって。素晴らしいですよね。福音をはっきりと宣言することで一人の命を救ったということになるんじゃないですか?
ただ、その方が、最後に「それにしても・・・」って、尋ねたんですって。
「どうして先生は、そこまで、本当に心から信じて語れるんですか?」
・・・やっぱり、そこは不思議に思ったようです。だから、その先生も、ここだとばかりに、・・・あの、何でしょうね、晴佐久っぽい、(笑)言い方があるんですけど、答えたんですね。
「これは、単に
・・・まあ、そういうようなことを強調してお答えし、その方も、「今度教会に伺います」っていうところで電話が終わったようです。
私、もうそれ聴いて、福音宣言の先輩として、「はい、合格」と。(笑) でも、ちょっと指導を入れました。「『神さまになり代わって』っていう言い方は、ちょっとどうか」と。
「なり代わって」って言うと、なんか、神が遠くなっちゃう。神さまはどっかにいて、私はその神さまから聞いたことを、今度はあなたに、『なり代わって』お話しますっていう感じになる。・・・そうじゃあない。
神さまが、「今」「ここで」「私の口を通して」、あなたに語ってる。
「あなたを愛している」「あなたを救っている」と、どうしても伝えたくて、今ここで、一人のキリスト者の電話の声で語っている。
聖霊降臨っていうのは、そうなんですよ。太陽からあふれてくる熱と光が、今、私たちに届いているとき、これは太陽と一緒なんです。「太陽になり代わって」じゃない。もう、そのままです。だから力がある。人を救うことができる。
こういう、熱~い言葉っていうものを、今の世界は必要としてます。冷た~い言葉ばっかりだから。聖霊降臨の日に、私たちが心を新たにすべきは、もう、この熱い言葉、太陽からあふれてくる熱と光のような神の愛のみ言葉が、私たちに届いていることを信じること。信じて受け入れれば、「“霊”が語らせるままに」、神父や牧師じゃなく、皆さん自身も、この熱い愛の言葉を語れます。
人を救えるんですよ。人の命すら救える。魂さえ救える・・・皆さんに、できます。
聖霊降臨の日にそれに目覚めて、神父と、牧師と、みんな一緒にやってこうじゃないですか。
昨夜の土曜日のミサ中に、2カ月前に息子さんを亡くしたご両親がポロポロと泣いておられるのを見て、私も胸熱くなりましたけれども、その方にも、説教ではっきりと申し上げました。
「今、こうして、神さまがあなたに愛のみ言葉を語ってるんですよ」と。
いつかお説教でお話しました(※10)。ご両親は信者ではないんですけれども、23歳の息子さんを失くして、夫婦で絶望し、救いを求めてさまざまな所を回ってるときに、「多摩教会に行ってみたら」って勧められ、ミサに来られました。私はその方に、「ミサは天上の集いの始まりですから、ミサで息子さんに会えますよ。ぜひこのミサに通ってください」と申し上げました。「息子さんは生きておられます。天の命を生きて、ご両親の救いのために働いておられます」、そう宣言しました。
その日からもうひと月になるんですけど、このご両親、毎週ミサに来てるんです。入門講座にも通うようになった。そうして昨日、聖霊降臨の日にも来ておられました。
ですから、「息子さんを失くしたご両親が今日もミサに来られてます」と紹介したうえで、ご両親に向かって直接お話ししたんです。
「今、私を通して、聖霊が働いています。神が、あなたに、愛のみ言葉を語ってるんです。それはもう、天の息子さんが語ってるってことです。ご両親に愛を語ってるんです。悲しまないで、恐れないでって。そんな聖なる霊の働きを、しっかりと感じてほしい」
・・・そう、お顔を見ながら、直接お話ししました。ポロポロと泣いて聴いておられました。
そういえば、昨日は、30年ぶりに聖体拝領した人もいたんですよ。
30年以上前にある教会で洗礼を受けたけれど、その後すぐ、いろいろ事情があってその教会から離れてしまった。そうして、ホントに苦しい人生を生きてきた。でも、いよいよ真っ暗闇になったときに、「そうだ。もう一度、教会に行こう!」って決心して、30年ぶりに今の住まいの近くの教会に来てみたわけです。ひと月くらい前です。
ところが来てみると、昔習ったことと、ぜんぜん違うことを言ってるんですね。神父が、聖霊の語らせるままに、
「あなたがどんなに苦しんでいても、どれほど汚れて罪深くても、神はあなたを愛し続けている。あなたはもう救われている」
そう、熱く神の愛を宣言している。「30年前の教会の硬い雰囲気と違う。あの頃教わった怖い神さまと違う」って、びっくりした。それから2週間ミサに通って福音を聞き、先週3週間目には主日ミサ後の入門講座にも出て、そのことをみんなの前で証ししてくれました。
「自分は長く教会から離れていたけれど、もう1回やり直したい。今の神父さんが語っている、愛の神を信じたい。この3週間は罪の意識もあってご聖体を受けないでいたけれど、今日は今からゆるしの秘跡を受けて、来週からもう一度、聖体拝領をしたい」
それで、先週は入門講座が終わってから、ゆるしの秘跡をお授けしました。
そして、昨日、ミサに来られたんですよ。
その方が、行列して前に進んできて、聖体拝領するわけですよね。私は「よかったねえ・・・」と思いながら、万感の思いを込めて、ご聖体をお渡ししました。30年ぶりにご聖体をいただいたわけです。さぞかし嬉しいだろうなとは思ったんですけど、ふと見ると、席に戻ったその方が、座ってから両手で顔を覆って嗚咽してるんですよ。もう、肩震わせて泣いてるんです。それがチラリと見えるもんだから、私も、「キ・・リストの・・・
これこそ、聖霊の働きなんです。非常に具体的。目に見えない神の愛が目に見える。見ようとしなくたって見えちゃう。目の前で、両手で顔を覆って嗚咽してるんだから。
昨夜、まさに、その方の上に、「炎のような舌」(使徒2:3)が、燃え盛っているのが見えるようでしたよ。
こうして熱いみ言葉を聞いている皆さんの上でも、燃えてますよ。
今、聖霊が語ってるんだから。
あなたがどんな闇を持っていようと、どんな悩みを持っていようと、それは実は、燃える聖霊の働きを受け入れる準備に過ぎない。
・・・聖霊降臨の主日をお祝いしましょう。
【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)
※1:「イグナチオ教会」
◎イグナチオ教会
カトリック麹町教会のこと。東京都千代田区麹町の四ツ谷駅からすぐの場所にあり、上智大学に隣接する教会。カトリック東京大司教区の教会だが、イエズス会に運営を委託されている。
教会堂名が「聖イグナチオ」であるため、一般に、「聖イグナチオ教会」として広く知られている。創立は1949年4月17日で、信者数は、15,851人(2014年12月31日現在)。
(参考)
・ 「カトリック麹町 聖イグナチオ教会 公式ホームページ」
・ 「カトリック麹町教会」(東京大司教区 教会案内)
・ 「聖イグナチオ教会」(ウィキペディア)
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※2:「聖霊の続唱」
◎続唱(〔ラテン語〕sequentia〈セクエンツィア〉)
カトリック教会のミサにおいて歌われる固有式文聖歌のひとつ。もとは、アレルヤ唱に続いて歌われていたので、その名が付いた。
現在は、アレルヤ唱の、「福音朗読で語られる、主キリストを歓迎する」という意味を重んじ、引き続いて福音が朗読されるため、アレルヤ唱の前に、「アレルヤ唱に続く聖歌」として歌われるようになった。
16世紀までに、多い時には5000もの続唱があったが、トリエント公会議(1545年3月15日~1563年12月4日)で、「復活(ヴィクティメ)」、「聖霊(ヴェニ・サンクテ・スピリトゥス)」、「聖体(ラウダ・シオン)」、「死者(ディエス・イレ)」の4つに整理され、1727年に「悲しみの聖母(スターバト・マーテル)」が加えられたが、第2バチカン公会議で、「復活(ヴィクティメ)」と「聖霊(ヴェニ・サンクテ・スピリトゥス)」以外は任意となった。
日本語では、『典礼聖歌』に、351番「復活の続唱」と、352番「聖霊の続唱」があり、それぞれ、「復活の主日」と、「聖霊降臨の主日」に歌われる。
(参考)
・ 「セクエンツィア」(2008『岩波キリスト教辞典』岩波書店) ほか
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※3高田三郎作曲の「聖霊の続唱」っていう名曲
(参考)
「聖霊の続唱」
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※4:「歌詞がいいですね」
◎「聖霊の続唱」
聖霊来てください あなたの光の輝きで
わたしたちを照らしてください
貧しい人の父 心の光 証しの力を注ぐ方
優しい心の友 さわやかな憩い ゆるぐことのないよりどころ
苦しむ時の励まし 暑さの安らい 憂いの時の慰め
恵みあふれる光 信じる者の心を満たす光よ
あなたの助けがなければ すべてははかなく消えてゆき
だれも清く生きてはゆけない
汚れたものを清め すさみをうるおし 受けた痛手を癒やす方
固い心を和らげ 冷たさを温め 乱れた心を正す方
あなたのことばを信じてより頼む者に 尊い力を授ける方
あなたはわたしの支え 恵みの力で 救いの道を歩み続け
終わりなく喜ぶことができますように
アーメン
「聖霊の続唱」(カトリック中央協議会)
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※5:「集会祈願」
ミサの導入部における「開祭の儀」のまとめのようなもので、この祈願によって、祭儀の性格が表現される。
本日(2015年5月24日〈聖霊降臨の主日〉)の「集会祈願」は、以下のとおり。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「すべての人の父である神よ、きょう祝う聖霊降臨の神秘によって、あなたは諸国の民を一つの聖なる教会に集めてくださいます。聖霊を世界にあまねく注いでください。教会の誕生に当たって行われた宣教の働きが、今も信じる民を通して続けられ、豊かな実りをもたらしますように。
聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン」
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
「集会祈願」の、もう少し詳しい説明は、以前、「福音の村」でも、2014年6月15日説教「金色の光に包まれて」の【参照】※6でも掲載しておりますので、そちらをお読みください。
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※6:「表紙の絵ですね」
『聖書と典礼』(ミサごとに会衆に配布される小冊子)の表紙の絵のこと。
2015年5月24日〈聖霊降臨の主日〉の表紙は、オーストリア、クロスターノイブルク修道院の「聖霊降臨」をイメージした祭壇装飾(一部)の写真。
この画像は、著作権の都合上掲載できないので、こちらをご覧ください。
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※7:「さっき第1朗読で読まれた『炎のような舌』(使徒2:3)っていうやつですね」
本日、2015年5月24日〈聖霊降臨の主日(祭日)〉の第1朗読箇所は、以下のとおり。
使徒言行録2章1~11節
〈小見出し:「聖霊が降る」(1~13節)から抜粋〉
☆「炎のような舌」は、以下を参照☆
「五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。 そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(使徒2:1~3節/「炎のような舌」は3節)
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※8:「何度も申しますけれど」
(参考)
・ 「『個人が救われる』なんていうイメージ、ホントに貧しいイメージだと思う。だって、『個人』なんて、実は幻でしょ」
>>>〔「復活の二十六つ子」(「福音の村」2015/4/12〈復活節第2主日〉説教、下から3段落目(>>この辺)〕
・「『個人の復活』とか、『個人の救い』とか、もう、そういう傲慢な神学はそろそろ卒業してもらってですね、『私たちの復活』、『私たちの救い』って言いましょうよ。『芋づる式』っていう言葉がありますけど、ぜんぶ、ずるずるずる・・・っとつながってるんですから。」
>>> 〔「復活という霊的ビッグバン」(「福音の村」2015/3/22〈四旬節第5主日〉)説教、2段落目より)
・「『聖霊による洗礼』。それは、もはや「個人の救い」なんていうケチな話をはるかに超えた、人類の救いとも言うべきダイナミックな神の愛のみ業です」
>〔「すべての人が『聖霊による洗礼』を受けている」(「福音の村」2014/12/7〈待降節第2主日〉)説教、2段落目より)
・「『個人の救い』なんていうのは貧しい自我の生み出す幻想で、神が望んでいるのは『みんなの救い』です」
>>>〔「福音回路を鍛えましょう」(「福音の村」2014/11/16日〈年間第33主日〉)説教、下から2段落目の中ほどより)
※9:「さっき読んだ福音書」
本日、2015年5月24日〈聖霊降臨の主日(祭日)〉の福音朗読箇所は、以下のとおり。
ヨハネによる福音書 15章26~27節、16章12~15節
〈小見出し:「迫害の予告」(15章18~27節)、「聖霊の働き」(16章1~15節)からの抜粋〉
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※10:「いつかお説教でお話しました」
>>> 「天上での宴の始まり」(「福音の村」2015年4月19日〈復活節第3主日〉説教)、最後の段落をお読みください。
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