2015年3月15日四旬節第4主日
・第1朗読:歴代誌(歴代誌下36・14-16、19-23)
・第2朗読:使徒パウロのエフェソの教会への手紙(エフェソ2・4〜10)
・福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ3・14-21)
【晴佐久神父様 説教】
教皇フランシスコが、全世界の教会に呼びかけました。
「この悲惨な世界情勢の中、今年の3月13日から14日にかけて、『主にささげる24時間』として共に祈ってほしい」と(※1)。
この13日、14日というのは、ちょうど、教皇フランシスコが就任した時でもあるので(※2)、・・・2周年になるんですね、その節目の時に、全世界の教会に一緒に祈ってほしいと呼びかけた。カトリック信者12億人いますから、大きな力です。全世界の教会で、「主にささげる24時間」として祈りをささげました。目には見えなくとも、きっと素晴らしい効果があったと思いますよ。
ご存じのとおり、多摩教会でも皆さんに呼びかけ、先週13日から14日にかけて、24時間お祈りしました。聖堂に、思ったより大勢集まったので、すごく心強かったです。多摩教会では、13日の午後6時半から、14日の午後6時半のミサまでを、その24時間と定めて祈りました。
金曜日の6時半に聖体賛美式(※3)をして、その後、夜10時まで。そして14日の午前10時に再び聖体賛美式をして、夜6時半まで。その間ずっと聖体顕示をし、この聖堂から人が絶えることはありませんでした。「深夜も聖堂で」というのは現実的ではないので、夜の間は各自ご自宅でということにして、聖堂での祈りは都合12時間になりましたけど、熱心に、みんな集まってお祈りしてくれました。私たちの共同体は、教皇の呼びかけに応えることができたと思います。
聖体賛美式と、聖堂での聖体顕示、懐かしかったという人もいたでしょうし、初めてという人もいたでしょう。いずれにせよ、ご聖体を前にしてみんなで心をひとつにして祈ったというのは、いい時間でしたし、いい体験でした。何十人という信仰の家族が、水を打ったようにし〜んと静まり返って、同じ聖堂でご聖体を前にしながら祈り続ける時間っていうのは、すごく力がある時間だったと、私は感じました。
教皇が、「一緒に24時間祈ってくれ」と呼びかけた理由は、もう、はっきりしています。この悲惨な世界が、本当に祈りを必要としているからです。ある人に言わせれば、いまや「散発的に第三次世界大戦が始まっている」という、そのような時代です。
バチカンには情報が集まります。大国の情報機関より優れた情報網を持っていますから。あらゆる国の、あらゆる地域、特に貧しい地域には必ず、信徒、修道者、司祭が入り込んでおりますし、カトリックのボランティア団体は、最も悲惨な地域、最も助けを必要としている被災地で奉仕してますから、最も苦しんでいる人たちの現実の正確な情報が、最も多く集まっているのは間違いなくバチカンです。そして、それを教皇はちゃんと知っている。だから、もちろん行動もしますけれど、まずは祈ろう、と。
軍事力でもなく、政治力でもなく、経済力でもなく、学者の会議でもなく、マスコミの扇動でもなく、ましてテロでもなく、「祈りの力で戦おう」と、教皇がそう呼びかけて、私たちはそれに応えました。きっとぼくらの祈りがほんの少しでも役に立ったと、そう信じます。
多摩教会ではご聖体を顕示しましたけれど、これには意味がある。
「このような悲惨な時代のために祈るからには、なによりもまず、キリストを中心に祈ろう」と。そういうことです。
だってぼくらの力、・・・人間の力は、非常に弱いというか、貧しいというか、頑張れば頑張るほど、かえって悪くなることさえあるっていう、罪の現実がある。だからこそ神は、ご自分の愛そのものであるキリストを送ってくれたし、だからこそ私たちは、そのキリストを迎え入れるならば、必ず罪に打ち勝てる、最後はすべてうまくいくって、そう信じてるんですよ。そのような、神の愛による救いのシンボルですね、聖体顕示は。
「イエスは他者のために自分を犠牲にした。その犠牲の愛で、この世界に平和をもたらす」
ひじょ〜〜に、シンプルな教えでしょ。
「苦しむ人のために祈ると同時に、私たちも、ちょっと自分を削って、自らを仕える者にすることで、みんなに平和をもたらす」
この基本を、祈りにおいてもう一回取り戻してくれ。・・・教皇さまの思いです。
その24時間の祈りの、聖体顕示を始める直前に電話がきて、最近、入門講座に通っている方からですけれども、うつ状態で苦しんでいることもあって、「もう、死にたい!」って言うんですよ。
そういう苦しみを背負っている方、今、多摩教会に何人も来られてます。彼らはある意味で、この世界の闇を背負っているんですね。今の世界を覆っている悪の力が、特に弱い人の心の闇となって表れているんです。この世界は今、弱肉強食というか、強い人がさらに強くなり、弱い人は誰にも助けてもらえない世界になりつつある。だから、弱い人にしわ寄せがくる。「もう死にたい」っていうような弱い人は、実は強い人たちから「もう死にたい」って言わせられてるっていう現実があるんです。
本当を言えば、誰でもが心に闇を抱えてるんですけど、強い人は、与えられた力とか、恵まれた環境とかで、その闇をなんとかごまかしている、そう思ったらいい。私たちの心の中にも、ときにそういう闇の気持ち、ありますでしょう?
「こんな自分は、もういらないんじゃないか」「こんな世界から、もう消えちゃいたい」、どこか、そういう思いがある。誰の心にもある。小さな闇を、みんな抱えてるってことです。電話してきたその方なんかは、そういうみんなの闇を凝縮して背負ってるようなところがある。人間の本質である弱さを、代表しているんですね。
ちょうど、これから主に捧げる24時間のお祈りを始めようっていう時に、その電話がきたから、私はいつものように、
「あなたは、神さまに愛されている。その愛にちゃんと気づいていないから、死にたいって思っちゃうんだろうけど、その愛のしるしであるイエス・キリストが、あなたと共にいて、必ず気づかせてくれる。だいじょうぶだよ、神の愛を信じよう。まず、共にいるキリストを信じよう。あなたはひとりじゃない。これからみんなで祈るから、なんとか、このつらい夜を乗り切ってほしい」
そうお願いしました。そのすぐあとにね、みんなが集まって祈ったわけですから、その集まりに出られた方は覚えてますでしょ、私、その話をしましたよね。そして、「その人のためにも、みんなでお祈りしてほしい」と。
もちろん、全世界の、さまざまな苦しみのために祈りました。戦争、紛争、内戦、天災、人災、感染症、・・・テロもある。人々がどれほど苦しんでいるか。どれほど祈りを必要としているか。そういう人たちのために、私たち、キリストを中心にして祈りましたけれども、「まずは一番身近な、直前に電話してきたその人のために祈ってほしい」と、そうお願いして、みんなでお祈りしました。そのみんなのお祈りが、きっと届いたと、私はそう信じます。
このお祈りを始めた夜にも、入門講座があったんですけど、その入門講座に参加したひとりの青年も、ほぼ同じことを言ったんですよ。「自分はもうだめだ」「もう死んじゃいたい」「もう終わりにしたい」と、そう言った。ですから、私はまた同じことを言った。
「神はあなたを愛している。キリストが一緒にいる。だいじょうぶだ。必ず救われる。まずキリストを信じよう。みんなで祈ってるよ」と。
電話をしてきたり、入門講座に来たりっていうのは、「死にたい。もう消えたい」と言いながら、やっぱり救いを求めてるわけですよね。だから、私たちは、救いそのものであるキリストを差し出す。
私がその人を救うことなんて、できませんから。誰もできない。どうしたらいいのか分からずに、思わず立ち尽くして絶句するばかりです。「もう死にたい」という人を前にすれば。
ぼくらは、何もできない。けれど、キリストを差し出す。あとはキリストが働いてくれる。
・・・ホントですよ。これがキリスト教なんです。
今日朗読した福音書を読めば(※4)、こう書いてあります。
「神は、その
イエス・キリストを与えて、そのイエス・キリストを信じた者に永遠の命を与える。
・・・「信じる」っていっても、私に言わせれば、出会って、「あっ、救われたかも!?」って一瞬でも思ったら、もうそれが救いになってるはずですよね。すべての人の、そういう瞬間のために、イエス・キリストは来られてる。そうでもなきゃ誰も救われませんから。
だから、あとは、そのイエスを差し出して、「いいからこれを見てくれ」とか、究極的には、「もういいから、このご聖体だけでも食べてくれ」ってお願いするっていう、そんな感じになる。だって、もう救われてるっていう喜びに目覚めるには、イエス・キリストがなによりの
神さまは優しいから、ホントに、必ず救う道というか、これなら絶対だという道を、私たちに示してくれてるんで、あとは、その道を歩むのみ。その道にさえ出会えれば、もう自分なんかは何の意味もないって思っているような人の心に、小さな光がポッと
ヨハネの福音書で言えば、「光が世に来たのに、人々は、光よりも闇の方を好んだ」(cf.ヨハネ3:19)、そうある。これ、私たちの心の傾きなんです。ほっとくと、闇へ闇へと引きずられていく。しかし、神の独り子は、私たちのうちに小さな光として与えられました。私たちは幸いです。ここに集まっている私たちは、本当に、霊的な超エリートですよ。幸いです。
「信じない者は、既に裁きのうちにある」(cf.ヨハネ3:18)
「神は世を裁くためではなく、世を救うために御子を遣わした」(cf.ヨハネ3:17)
私たちは、それを信じます。
キリストの教会に出会うべき人が、まだまだいっぱい出会ってない。それを思うと、私たち、もっともっと祈らなきゃならないと思うし、まあ、最高の祈りであるミサも、そんな思いで、「私たちがご聖体を囲んで、こうして祈れば、もうひとり救われる」、そんな気持ちでお祈りしてほしい。
先日もお話しした、隣のプロテスタントの教会を、先日お訪ねしました。あの、看板の大きな教会です。
そこの牧師さんが毎月一回、私に会いに来てくれるんですよ。もうすっかり仲良くなって、いろいろ信仰の話をします。若くて熱心な、牧師です。えらいでしょう? カトリック教会に毎月来てくれるんですよ。ですから、「いつも申し訳ない。近くなんだし、今度は私が行きましょう」と、その教会に行ってきました。
で、大きな看板を拝んできましたけど、案内されて裏手を見たら、裏にも立派な看板がかかってて、それは、裏手が近くの中学や高校の通学路なんで、その若者たち向けの看板なんです。それが効果あるらしく、教会が彼らに認知され出したそうです。
やっぱり、看板一枚でも、その教会の心がよく表れるってこと。
看板だけでなく、外に向かっていろいろなチラシやポスターも張り出してあって、それもまた結構効果があるんですって。
悔しかったのは、私、1年くらい前に、「子育て支援、やりましょうよ」って呼びかけたことがあるでしょう? 覚えてますかね、ニューズにも書きました(※5)。
「最近、育児中のお母さんが孤立して苦しんでるケースが増えている。近所のお母さんと子どもたちを集めて、子育て支援のグループを始めましょうよ。そこで、お母さんの悩みを聴いたり、子どもたちを遊ばせたりする、そういうグループがあれば、地域とも交流できるし、宣教の機会にもなるから、やってきませんか?」って。
呼びかけたけど、誰かが手を挙げて始めようっていう動きにはなりませんでした。まあ、私は、発案して声をかける仕事なんで、誰かが手を挙げたら実るし、まあ、実らないこともいっぱいある。それはそれでいつものことですから別にいいんですけど、なんとお隣の教会では、最近、それを、始めたんですよ。そして、実際にお母さんと子どもが続々と集まって、すごくいい集まりになってるらしい。もう、歯ぎしりするほど悔しかったです。(笑) だってホントに、いい集まりに育ってるようなんですよ。思いついたのはうちが先だったのに〜〜(泣)って。
まあ、もちろん、地域の人がキリストに出会えればいいんでね、「カトリックじゃなきゃ」とか、「プロテスタントがいい」とかっていうのは品がないから言いませんけど、悔しいのは事実です。
だってその、「
で、「こうして貼っとくと、皆さん見て、次々と来てくれるんですよ〜♪」って、牧師先生がうれしそうに言うもんだから、「ハハ、そうですか〜 ^v^;」って、(笑) 私、愛想笑いしながら、心では、「くっそ〜!」と。(笑) ですから、ついつい、「いや、これ、実はうちもやろうと思ってたんですけどね」って言ったら、「え〜っ、こんな近くで始めないでくださいね」って。(笑) まあ、ケンカ売るようなことはね、しませんけれども。
でも、そういうこと始める教会、いい教会でしょう? この牧師さんも、い〜い先生なんですよ。私、この牧師さんを尊敬するというか、気に入っちゃったひとつのエピソードに、彼からこういう話を聞いたからです。
最近教会に、行き場をなくした女子高生が何人か来るようになってるんですって。彼女たちのたまり場っていうか、居場所になってるっていうんですね。・・・たぶん、「学校にも行けません、家にも居づらいです」みたいな子たちなんじゃないですか? 今、大勢いますよね、そういう子。その教会が、そういう子の心のよりどころになってる。
で、彼女たちが少しでも居やすいようにしてあげようと思って、信徒館のホールの一部をアコーディオンカーテンで仕切るようになっていて、そこにソファーを置いたそうです。すると、彼女たちはそのソファーをすっかり気に入って、日がな一日そのソファーに座り込んでいる。しまいに、そこからもう、帰らなくなっちゃう。だから、「さすがにね、夜はちゃんとお家に帰りなさいって言ってるんですけどね〜」っていう話を聞いたんです。
私、その話を聞いて、ああ、これはいい先生だなって、そう思ったからこそ、こっちからもお訪ねしたいっていう気持ちになったんですけど。ただ、教会に着いたらまず、牧師さんの奥さんと子どもが迎えに出てくるんですよ、もう。・・・この〜!って思いますよねえ。(笑) 優しい奥さんと、かわいい子どもが出てきてね、「こちらが妻です。こちらが子どもです」ってね。「ああ、そうですかぁ・・・;」。(笑)
ですから、教会に入ったらまず、「例のソファー見せてくださいよ」って頼んだんです。
で、アコーディオンカーテンの向こうをのぞいたら、ホントにいるんですよ、女子高生。だから、「これが有名なソファーか。ぼくも座ろ〜♪」って言って座って、その女子高生に聞いたんです、「いい教会でしょう?」って。そうしたら、彼女言ったんですよ。
「私、ここに住みたい!」って。
ひとつの教会が、居場所が見つからない若者に、「私、ここに住みたい」って言わせたんですよ。
学校にも家にも居場所のない子に、「私、ここに住みたい」って言わせる教会。
そのことだけで、あと、その教会のことは何にも知らなくても、「これが、
その女子高生はね、ソファーに出会ったんじゃないんです。キリストに出会ったんです。
そのソファーはご聖体じゃないけれども、イエス・キリストなんですよ。・・・そういうことでしょ? われわれキリスト者がなすべき使命は、そういうキリストを差し出すことじゃないですか?
キリストに出会わせれば、もうそれで、すべてオッケーなんだから。
この第2朗読(※7)の、これはもう・・・美しい。エフェソの手紙。パウロの手紙の中でも最高の部分と言ってもいいですよね。
「憐れみ豊かな神は、わたしたちを
・・・そういう福音です。まだ余力があって、まあ、コイツは、これくらい愛しとけばいいだろう・・・とか、そんな話じゃない。「これ以上は無理」というほどに、神さまは私たちを愛してくれている。
そして、「死んでいたわたしたちをキリストと共に生かして、キリストと共に復活させて、キリストと共に天の王座に着かせてください
「死んでいたわたしたちをキリストと共に生かして、共に復活させて、共に天の王座に着かせてください
女子高生が座ってるソファーは、「天の王座」なんです。神さまが「この上なく愛して」、そういうことをしてくれている。
・・・キリストに出会うっていうのは、本当にかけがえのないこと。もっと、もっと、大勢の人を、なんとか出会わせたいって思うじゃないですか。
悲惨な時代です。でも、神はもう、キリストを送ってくださいました。
あとは、チラシを張って、ソファーを置いて、祈り続けます。
「神はこの上なく、・・・『
・・・これをみんなに、知らせなきゃならない。
「あなたがたは恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です」(エフェ2:8)
そう、まさに「神の賜物のソファー」でしょう。
・・・キリスト教、なんて素晴らしいんだろう!
【 参照 】(ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがありますので、ご了承ください)
※1「主にささげる24時間」
教皇フランシスコは、2015年四旬節メッセージ「『心を固く保ちなさい』(ヤコブ5:8)」の中で、次のように述べている。
わたしたちは、一個人としても無関心になりがちです。人々の苦しみを伝える報道や衝撃的な映像が氾濫する中、わたしたちは自分には何も出来ないと感じてしまいます。こうした憂いと無力感の連鎖に捕らわれないためには、どうしたらよいでしょうか。 まず最初に、わたしたちは、地上の教会と天上の教会の交わりのうちに祈ることができます。祈りのうちに結ばれた多く人々の声の力を軽んじてはなりません。 こうした祈りの必要性の表れとして、わたしは、3月13日から14日の間に「主にささげる24時間」という取り組みが教会全体、そして教区レベルで行われるよう望みます。 (教皇フランシスコ の2015年四旬節メッセージから抜粋/下線引用者)
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そのため、世界中で、そして日本のカトリック教会でも、聖体顕示、祈りの集いなど、さまざまなかたちで、それに応えることとなった。
教皇フランシスコは、祈りのテーマに「慈しみ豊かな神」(エフェ2:4)を選び、当日はバチカンでも祈りがささげられている。
(参考)
・ 「『心を固く保ちなさい』(ヤコブ5:8)〈2015年 四旬節教皇メッセージ〉」(カトリック中央協議会)
・ 「2015四旬節・回心と祈りの集いについて」(東京教区からのお知らせ)
・ 「24 ORE PER IL SIGNORE 2015」(教皇庁)
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※2:「教皇フランシスコが就任した時でもあるので」
教皇フランシスコは、前教皇ベネディクト16世が2013年2月28日に生前退位されたことを受け、3月12日より実施されたコンクラーベにおいて、翌3月13日、第266代のローマ教皇に選出された。就任式は3月19日で、これにより、名実ともに教皇に着座した。
(参考)
・ 「フランシスコ〈ローマ教皇〉」(ウィキペディア)
・ 「フランシスコ」〈 略歴 〉(カトリック中央協議会)
・ 「新教皇フランシスコの紋章とモットー」(カトリック新聞オンライン)
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※3:「聖体賛美式」(聖体降福式・ベネディクション)
聖体にましますイエス・キリストを信じ、顕示された聖体を礼拝するカトリック教会の儀式。
聖体が納められている聖体顕示台が、会衆が直視できるように置かれ、司祭は献香、顕示台の捧持、信徒の祝福などを行い、会衆は共にその前で、讃美歌や祈りをささげる。
(参考)
・ 「聖体降福式」(個人ブログ)
・ 「聖体の秘跡2」(山本神父入門講座>ラウダーテ)
・ 「オステンソリウム(聖体顕示台)」(キリスト教豆知識>ラウダーテ)
※4:「今日のこの朗読した所、福音書を読めば」
本日、2015年3月15日〈四旬節第4主日〉の福音朗読箇所は、以下のとおり。
ヨハネによる福音書 3章14〜21節。
〈小見出し:「イエスとニコデモ」から抜粋〉
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※5:「『子育て支援、やりましょうよ』って呼びかけたことがあるでしょう? 覚えてますかね、ニューズにも書きました」
(参考)
・ 「50年後の多摩教会」(『多摩カトリックニューズ』2013年6月号 主任司祭巻頭言)
<※『多摩カトリックニューズ』:カトリック多摩教会の月報。毎月第三土曜日発行>
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※6:「Mommy & Me」(マミー アンド ミー)
アメリカでは、お母さんと赤ちゃんが一緒に遊び、一緒に学ぶ教室、「Mommy & Me」が、さまざまに開かれている。それは、宗教に限らず、運動、水泳、語学、音楽、読書、図画工作など多岐に渡っており、お母さんと赤ちゃんの確かな親子関係づくり、お母さん自身や、お母さん同士の助け、憩いの場にもなっている。
先輩ママがインストラクターになって、収集した情報を元に話をしたり、お母さん同士も情報を交換し、互いに子育ての不安を分かち合い、助け合ったりもしているという。
(参考)
・ 「Mommy & Me(マミー アンド ミー)」〈南カリフォルニア〉(子育てワールドリポート<せかいの子育て研究所)
・ 「Mommy-Daddy & Me in Ojai」(個人フェイスブック) ほか
(現在は日本でもいろいろな教室があるようです。)
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※7:「第2朗読」
本日、2015年3月15日〈四旬節第4主日〉の第2朗読箇所は、以下のとおり。
使徒パウロのエフェソの教会への手紙 2章4〜10節。
〈小見出し:「死から命へ」から抜粋〉
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