2015年6月14日年間第11主日
・第1朗読:エゼキエルの預言(エゼキエル17・22-24)
・第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(二コリント5・6-10)
・福音朗読:マルコによる福音(マルコ4・26-34)
【晴佐久神父様 説教】
少し、お話をいたします。
「少し」と申しますか、いつもより短めにお話をしたいと思います。
・・・というのは、先週の土曜日のミサの後、信徒館のアンジェラショップの所で誰かと相談していましたら、信徒館の奥の方から、私がそこにいるとは知らずに、声が聞こえてくるんですよ。
「神父さまのお説教、長いから〜」(笑)
どういう文脈でそう言ったのかは分かりませんがそう言って、その直後に、私がそこにいるのに気がついて、
「あっ!!w(*゚o゚*)w」(大笑)
・・・とあわてているのも、分かった。(笑)
しかし、物陰だったので、私、その方の顔がよく見えなかったんです。だから、誰かは知らない。ホントに分かってません。だからどうぞ、もしここに仮にいらしても、私を責めてるのね・・・とか、決して思わないでください。ただ、事実は事実として、そういうことがありました、と。
で、申し上げたいのは、まあ確かに、「長い」っていえば長い・・・かもしれない。(笑) 一般のカトリック教会での説教に比べると、倍くらいしゃべってるかもしれません。ただ、ちょっと言い訳でもないですけど、私のお話のひとつの特徴は、現にここにいる人に、どうしても福音を語りたいっていう動機で語ってるってことですね。それこそ、『あなたに話したい』(※1)っていうタイトルの説教集出したくらいで、ここにいる、目の前の「あなた」に語りたい。
そうすると、私、原稿説教じゃないので、こうして皆さんの顔見てしゃべってますから、「あっ、この人来てるな」「おっ、この人、久しぶりだな」「ああ、この人この前、自殺未遂したんだったなあ・・・」っていう、それがあるんですよ。そうするとですね、しゃべってるうちに、「ああ、この人のためにも、もうひと言」とか、「ああ、今のたとえ方だと、この人はこういうふうに誤解しちゃうんじゃないかな。ひと言フォローしておかないと・・・」って、次々と話したいことが出てきちゃうんです。
福音ってね、聞く人によってツボがあるんですね。みんなそれぞれ、自分のツボで聴いてるんですよ。○○という苦難を抱えている人には○○という福音が響くし、××という恐れを抱えている人には××という福音が必要なんですね。だからまあ、なるべく皆さんの思いに響くように、あっちのツボ、こっちのツボって押してるうちに長くなる。・・・まあ、そういうふうにご理解いただきたい。自分のツボでないところは聴き飛ばしてくださって結構ですから、(笑)その間は、「ああ、今、誰かのためにしゃべってるんだな〜」って思って、少し我慢していただければ。
今日の福音書のね、最後の3行を読んでて(※2)、ちょっとハッとしたのは、イエスさまって、「たとえを用いずに語ることはなかった」(マルコ4:34)ってはっきりそう書いてあるんですよ。すごいですよね、「たとえを用いずに語ることはなかった」っていうことは、「
「たとえ」っていうのは、いわゆる「放蕩息子のたとえ」(ルカ15:11〜32)みたいに、ストーリーのある「たとえ話」を想像するかもしれないけど、それだけじゃない。もっと広く、比喩とかも含めて、相手が知っていることとか、体験したことがあることとか、その人が分かるように「例」を用いて、語るわけですね。そうする理由はただひとつ、ともかく相手に、伝えたい、分かってもらいたいという熱い思いがあるからです。
私のこういう説教なんか、ほぼ100パーセント、それじゃないですかね。
「聖書にはこう書いてあるけれど、それって今ここであなたが体験していることであって、だからもう安心だよ」とか、「昨日こんなことがあったけれども、それは神さまの働きそのものだし、私たちはもう救われてるんだよ」とかいうのも、いわばたとえですし、それはやっぱり、福音をひとりでも多くの人に分かってもらいたいからです。
今だって、こうして「説教でそれぞれの人のツボに語ってる」とかって話すのは、結局は「神さまが、そこにいるすべての人のツボに語ってるんだ」ってことの、たとえでしょう。
イエスさまが、「たとえでしか語らなかった」っていう、その思いに、私はすごく共感します。そのモチベーションに。たぶん・・・、「たぶん」っていうか、絶対そうなんですけど、イエスさまは、そこにいる人のツボを、ひとりも漏らさずに押したいんですよ。
まさにそれを、み〜んな、命がけで求めているから。
今日も、ここに集まっている一人ひとり、今朝の恐れとか、昨日の夜の不安とか抱えてるわけでしょ。だから、イエスさまは言いたいんです。「あなたが考えているどんな恐れよりも、不安よりも、わたしの願いの方がほんものであり、力がある。恐れるな。それを分かってほしい」と。
で、たとえで話す。抽象的で難しい話をしても、みんな分かりませんから、「ほら、たとえば一粒の種があるだろ」っていう話を始めるわけですね。・・・で、「たとえを用いずに語ることはなかった」。これはもうイエスさま、あっちでもこっちでも、このたとえ、あのたとえを話したんだと思いますよ。
私たちがイエスの言葉を聞くとき、その内容もさることながら、まずはそのような動機を感じ取ってほしい。
「なんとしても、あなたに、この神の愛を届けたい。今、確かに心は真っ暗かもしれないけど、なんとしても、そのあなたの心を開いて、今、救いの光を注ぎたい」という、この、イエスさまの熱いモチベーションが、このような、いろんなたとえに実ってるんだと思うと、「ああ、あのたとえね。このたとえね」で済まさずに、その神髄を聴き取るっていうことをしたいですね。
今日のたとえ(※3)で言うならば、イエスにとっては、ともかく神の国を、みんなに伝えたいんです。「神さまがちゃ〜んと神の国を用意してるよ」と、「王様がすべての国民を支配するように、神さまが、すべての人の心を、ちゃ〜んと考えて、お世話して、導いて、救っているよ。目には見えないけれど、実はあなたたちみ〜んな、もうすでにその神の国の喜びの中にいるんだよ」と、今泣いている、その「あなた」、今絶望しているこの「あなた」に、なんとしても分かってもらいたい。
・・・それで、あれやこれやのたとえを話す。
で、マルコの福音書によれば、イエスが、「神の国は、いうなればこの種なんだ」って言ったんです。蒔くと、ひとりでに大きくなって、もはや誰も止めることができず、必ず実ってしまう、種。
種ってそういうもんですね。どんどん実っていく。止めることができない。水とか光とか熱とか、神さまはすべてを用意しているし、素晴らしい実りを、
まあ、逆の言い方をすれば、あなたが手を出さなくても、余計なことしなくても、あるいはもう無理だと思ってあきらめたり、見捨てたりしても、
「種は実るだろう?」って言うと、聴いてた人は、「そりゃそうだ」と思う。種が実るのを誰も止めることができない。引っ張って伸ばすこともできない。無理に伸ばそうとしても、ちぎれて枯れちゃいますから。むしろ手なんか出さない方がいい。神さまが育てて、神さまが実らせる。
私たちは、ただもう「ああ、ありがたい」と思い、「絶対実る」と信じ、「今がその実る直前だ」くらいに思って、この一日を、神の国への希望のうちに過ごす。・・・そうしてくれよと、イエスさまは、この種のたとえでお話してるわけですよ。
特に、「夜昼、寝起きしているうちに」(マルコ4:27)っていうのがいいですよね。このフレーズが、私、好きです。「夜→昼」「寝→起き」だから、昼中心じゃないって感じが出てますでしょ。夜中心なんですよ。寝てる方が中心なんです。「夜」とか「寝る」とかって、何にもできない時間帯でしょ。どんな極悪人だって、どんなに素晴らしい働きした人だって、寝てりゃ一緒ですよ。寝てる間は何もできない。才能があろうがなかろうが、恵まれた環境にいようが、非常に困難な現場にいようが、寝てる間は一緒。もう、ともかく、神さまの
説教してると、ときどき寝る人がいますけど、これ、聴いてる人より、神の国に近い。(笑) そう思いますよ。神父の話なんて、まあ、ああも言い、こうも言いしてるけど、「まあ、そんなもんだ」っていうような話にすぎない。でも、神さまから来るものは、もう、はるかに超えて、その人自身に及んでいるし、余計なことを聴いたり言ったりせずに、くるりと丸まって寝るがよろしいと、まあ、そういうことじゃないですか。どうぞ、ごゆっくりお休みください。(笑)「夜昼、寝起きしているうちに」、もう勝手に生えていきますから。
誰がやってるんでもない。神がやってる。で、神は絶対で完全で、愛そのものなんだから、もう、それに任せとけばいい。でも、現実にはそれが見えない。「いや、こんな私は、それでもダメだろう・・・」とか、いろんなこと思うんだけれど、そんなときに、イエスさまが種をひと粒持ってきて、「この種を見ろ。神の国は、
みんな、救われますから、安心して眠っていていいんです。私ひとり、神の国から外れるってこともないし、私ひとりで神の国に入るなんてこともあり得ない。もっとみんな、ちゃんと結ばれていて。ちゃんとみんなで神の国は完成していきますから。個人で「国」なんておかしいでしょ。
・・・たとえば、こうやって集まってる、この共同体全体によって神の国が始まってる。実際、私たち、何もできていないに等しいですけど、ちゃんとできていなくても、もう、それこそ教会活動とか宣教活動とかいい加減だったとしても、でも、神が種をまいて神が育てている、この信じる仲間たちは、みんなで一斉に「生えて」いる途中なんだっていうイメージを、もっともっと大事にしてほしいんです。なんか、私だけ枯れるとか、あの人だけ救われるとか、そういう幼稚なイメージは卒業していただいて、もっと「
スーパーで最近、豆苗っていうの、束で売ってるんです。四角いスポンジみたいなやつにぎっしり種が蒔いてあって、そこから芽が出てですね、四角く生えていて、フィルムでこうグルッと巻いてあって、「豆苗」って、売ってるんです。初めっから種と根が付いていて、新鮮でしょ?
で、こう、茎のところをチョキチョキ切って使うんですけど、根のところを、お皿に水張って入れておくと、切ったとこからまた芽が出てくる。こ〜んないい話、ないじゃないですか。(笑) (こりゃいいや♪)と思って、見つけたとき喜んで買いました。私、料理しませんから、テーブルの上に置いといて、食べるときにチョキチョキ切ってね、インスタントみそ汁に入れたりして使ってたんですよ。
・・・使って「た」っていうのは、やめちゃったんです。なんでやめちゃったかっていうと、あまりにもどんどん出てくる。(笑) すごいんですよ。どうぞお試しくださいな。切っても切っても、三日、四日たつと、切ったところからまたどんどん伸びてきて、食べても食べても伸びてきて、で、そのうち重みで両側にブワ〜ンと開いてきて、(笑) テーブルの上に、なんか雑草の丘みたいなものが。(笑) もう、こりゃかなわんと思って、「ごめんね、きみとは一緒に暮らせなかったね」、(大笑)そう言って、捨てちゃったんです。・・・もったいなかったですね。だけど、すごく早いんです。切っても、ホント、何日かでスルスル〜ッと伸びてきて。
美しいでしょ、若い緑。いのちの強さっていうか、種の持ってる秘密というか、遺伝子の素晴らしさというか。・・・何の芽なんですかね、あれ。大きくなると何になるの? エンドウ豆か何かになるのかな。ホント、小さな種なんだけど、どんどん生えてくる。
イエスさまが種にたとえているの、よく分かりますよ。だれもが知ってるんです。「そうそう。ホントにそうだね。ちっちゃい種でも、どんどん伸びる。どの種も、みんな伸びる。束で伸びて、ほっといても平気で、最後は実る」って、みんなが、「ああ、そうそう、それ、あるある」っていう、いわゆる「あるある話」をしてるわけですね、イエスさまは。
その時の「そうそう!」っていう共感っていうのがすごく大事で、たとえば、私が今たとえたのは「豆苗」ですけど、こうやってみなさんを見てると、この聖堂に満員でギュ〜ッと四角く集まってる皆さんが、なんだか豆苗の束のようにも、(笑)見える。神さまが蒔いて神さまが育てている苗。いっせいに信仰の芽が出ていて、いっせいに霊的に伸びていって、やがて神の国。たとえ、「切っても切っても」です。だれも止めることができない。これは神の
さっき入祭の歌(※6)で、「流れのほとりの木のように、神に従う人は実を結ぶ」(典礼聖歌153)って歌いましたでしょう? 「神に従う」って言ったって、この「流れのほとりの木」って、何してるの? なんにもしてないですよ。流れのほとりにあるだけ。神に植えられ、神の働きの中に植わってるだけ。しかし、「流れのほとりの木」は、その神の恵みによって「実を結ぶ」。
あの歌の詩編唱和のところには、「季節になると豊かに実り」ともありましたね(※7)。「流れのほとりの木」、・・・本人、何もできません。水が来なければ、枯れて死にます。しかし、神はだれの中にも用意してある良い土地に種を蒔き、そして育てて、実らせる。それは、
この二つ目のたとえは、「小さな」っていうのが強調点でしょ。
「それは、からし種のようなものである」(マルコ4:31)って言ってるのは、「ものすごく小さいんだよ」っていうことを、イエスは言いたい。なぜなら、そこに集まっている人たちが、みんな、ものすごく「小さい」人だったから。とても貧しいとか、病気で苦しくって、やっとの思いで体引きずって、イエスのとこまで来たとか、最近家族を亡くして絶望しているやもめであるとか。もう、この小ささの中で、私なんかはまったく無意味だという思いの中で、精いっぱい生きている、その一人ひとりに、なんとイエスは、「大きくなれ」って言わないんです。
「小さいままでも、その小ささのゆえに、神さまが大きく育ててくださる」と。
あなたが、「自分は恵まれてない」とか、「みんなは大きいのに、私はこんなに小さい」とか思っているとしたら、その小ささゆえに、貧しさゆえに、何もできない弱さゆえに、神さまが、そこから神の国を大きく育ててくださる。何の問題もない。・・・これをね、イエスさまが、そのとき集まってた人たちに、なんとしても伝えたくて、夢中になって語ってるわけですよ。
私たち、このたとえ話を、「ああ、そう。ひとりでに実を結ぶんだ〜」とか、「ああ、そう。空の鳥が巣を作れるほど大きくなるんだ〜」とかって、ただそういう説明として読んでいると、その夢中な思いが読めない。「イエスさまが、この小さな私に、どうしてもこれを言いたいんだ」っていうことを読み取ったときに、イエスさまの熱〜い思いが伝わってきて、私たちは、まさに、このイエスのみ言葉の種から、実際に神の国が大きく育ち、自分たちの集いとして実っていくという体験をする。
こうしている今も、「あなたたちは何もしないでも、神の国が始まってますよ!」っていうみ言葉が、皆さんの心に蒔かれています。これ、今日一日でも、もう、豆苗みたいに、スルスルッと伸びますよ。皆さんがどんなに小さくても、伸びていきますよ。ひとり暮らしでね、寂しくってね、こんな人生なんになるんだろうって思うような、ささやか〜な毎日でも、大いなる神の国の一部です。愛を込めてのちょっとの工夫、誰かのための精いっぱいの忍耐、誰も知らない、そんな、ち〜いさな出来事も、神の国の一部です。神さまがすべての人のうちに、永遠なる神の国を、ちゃんと始めてくださってるし、それはどんどん大きくなってく。
私は、この福音を語る。それが、あなたのツボに、ポンと入る。すると、それはどんどん伸びていって、大きくなる。そういう一本一本が束になって神の国に実っていくとき、私たちの教会は、まさに、神の国の目に見えるしるしになるでしょう。
昨日の土曜日のミサでも、こんなような話をしましたけど、こんなに長く話してないです。(笑) 半分くらいのところで、「今日は短く終わります」って言って終わったら、みんな笑ってましたけど、な〜んか話し足りないというか、欲求不満なんで、(笑) 今日はあともう少しだけ。
っていうのは、さっき、「ああ、この人はこの前、自殺未遂したなあ・・・」とかって思うと、ついその人のためにも話したくなるってお話ししましたけど、それって、今日のこのミサの話なんです。こうやって見るとですね、確認できるだけでも、・・・5人、・・・6人、未遂した人を知ってます。・・・今、皆さんの中にいるんですよ。まあ、誰でも死にたいと思うことってありますけど、実際に未遂をやってしまったという人もいるんです。そういう人、ホントに小さい。これ以上小さいものはないっていうくらい、小さい。
しかし、その小ささは、まさに神の国を秘めている。
で、昨日の夜のミサにも、そういうひとりが来ていました。この教会で洗礼を受けた人ですけど、最近はずっとミサに来ていなかったんです。苦しみの中、福音に救われて洗礼を受けたんですけど、最近また苦しくなって、ホントに苦しくて苦しくて、死にたくなって、閉じこもってました。
だけど、ほら、先々週の、あの上智の講演会(※8)に、がんばって来たんですって。・・・私は来たって知らなかった。でも、来てたんですって。
で、「ぼくを、信じて!」っていう話をしたときに、「それを信じたい!」って思った。「これを聴きに、私はここに来たんだ」っていう思いで、「信じます!」って思った。そうして、「もう一度、多摩教会に行こう!」と決心して、先週のミサに来ていたんです。先週、ミサに来てるのを見て、「あっ! 元気になって来たんだ、よかった〜」って思いました。聖体拝領のとき涙こぼしてるし、ミサの後も、「よく来たね〜、うれしいよ^^」って言ったら、「実は先週、上智の講演会に行ったんです。そして、もう一度、信じようって思いました」って、そう泣きながら話してくれた。
私、やっぱりね、聖霊の働きってシンプルだと思いますよ。ホント、み言葉ってシンプルでしょ。「『ぼくを、信じて!』って、イエスさまが言ってるんですよ」って、聖体の主日に、その前の主日にも、『アラジン』の話で言いました。上智の講演会でも、シンプルに、まっすぐ宣言したんです。
「今、イエスさまが、あなたに、言ってるんです。『ぼくを、信じて』って」。
そこがツボの人もいるんです。「『アラジン』? どうでもいいよ」っていう人にとっては、どうでもいいかもしれないけど、その人は、ホントに苦しんで、苦しんで、ギリギリのところで、「ぼくを、信じて!」って言われて、「ああ、この私に、こんな私に、言ってくれてるんだ!」ってリアルに感じて、心の中に「信じます」が生まれたんです。
その方、昨日の夜のミサにも来ていました。そして、ご聖体拝領のとき、たぶん初めて、顔をあげて拝領してました。その方、いつもつらそうにうつむいて拝領してたので、「あっ!」って思った。
私いつも聖体拝領のとき、にらみますでしょ、皆さんのこと。(笑) 「にらむ」っていうか、きちんと目を合わせてお渡しします。それはやっぱり、神さまが、「あなたに」渡してるんだ、神さまが「あなたに」、「ぼくを、信じて!」と言ってるんだ、そういう思いがあるから。・・・先週の初聖体の時の説教、そうでしたよ。「ご聖体は、『ぼくを、信じて!』なんですよ。そういう呼びかけですよ」って説教をした。「福音の村」、読んでください(※9)。
「ぼくを、信じて!」って言ってるんだから、こっちもうつむいて、「ぼくを、信じて」って言うわけにはいかない。やっぱり、「あなたに」、神さまが、「わたしを信じてくれ」と言って渡すんだから、目を見て渡したいし、渡される方は、それに応えて「はい、信じます(アーメン)!」と言って、受け取る。そのときに、「福音」が「神の国」に実るんです。
その方、たぶん初めて、私の目を見て、「アーメン」って言った。
そのとき、ああ、この人、こんなにきれいな目をしてたんだ〜って、ホンットに感動した。
美しい目でした。それはもう、キラキラしててね、「アーメン!」って。それは、「ありがとう」でもあり、「信じます」でもあり、「これからもよろしく」でもあり、「ごめんなさい」でもあり、そして、思わず口をついて出てくる、「神さま・・・!」っていうような、最も小さな者の、小さな叫び。
あんな美しい瞳。・・・「ああ、神の国が始まってる!」って思った。
小さい皆さん、こうして福音がひと粒、皆さんの心に蒔かれると、あなたたちが寝ていようが起きていようが、どんどん育ちます。やがて一面の神の国。
今夜はぐっすりと、お休みください。
【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)
※1:『あなたに話したい』
◎『あなたに話したい』 (出版社:教友社)
【カトリック高円寺教会での主日の説教集(2003年5月〜2004年4月)】
著 : 晴佐久昌英
単行本: 341ページ
ISBN : 978-4902211122
発売日: 2011/08
価 格: 1,944円(税込)
商品の説明(Amazonより):その一つひとつの説教は、時々の出来事を通して福音を語っている。また、一人の司祭とひとつの教会がミサと洗礼を中心とした教会共同体作りをしていく様子がうかがえる。
【主な目次】 「ミサを信じれば」「負けてなるものか」「これを握りしめて放すな」「愛とは自分を削ること」「安心して病気になれる」「生まれ出た先は」「生涯最初の十字架のしるし」「忘れちゃいけないこと」「赤いストラをかけた者として」 ほか
(参考・お求め)
・ 『あなたに話したい』(Amazon)(パウルスショップ)(ショップパウリーネ)他
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※2:「最後の3行を読んでて」
2015年6月14日〈年間第11主日〉の福音朗読箇所
マルコによる福音書4章26〜34節〈小見出し:「『成長する種』のたとえ」(26〜29節)、「『からし種』のたとえ」(30〜32節)、「たとえを用いて語る」(33〜34節)〉
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カトリック教会の主日のミサでは、通常、『聖書と典礼』という、ミサごとに配布される小冊子を用いて、その流れに従って、典礼が進められていく。
その日の朗読箇所なども印刷されており、「最後の3行」というのは、この6月14日の福音朗読箇所(マルコ4:26〜34)の、小冊子上、最後の3行にあたる箇所を示している。
具体的箇所は以下のとおり。
「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」(マルコ4:33〜34)
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※3:「今日のたとえ」
2015年6月14日〈年間第11主日〉の福音朗読箇所(マルコ4:26〜34)中のたとえ。
◎「神の国」のたとえ
①「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」(マルコ4:26-29)
②「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」(マルコ4:30-32)
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※4:「先週、先々週の説教」
① 先週の説教 > 「今、ここで、信じます」(「福音の村」2015/6/7)
② 先々週の説教>「ぼくを、信じて!」(「福音の村」2015/5/31)
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※5:「豆苗」
◎「豆苗」 (とうみょう、ドウミャオ)
(画像はクリックすると拡大します)
エンドウ豆の若芽。主に芽から発芽させた幼い状態のものが、根付きのままの状態で販売されているものが多い。植物工場で水耕栽培されるため、無農薬で栽培できる。天候にも左右されず、安定した価格(安価)と品質で流通している。
緑黄色野菜で、栄養価も高く、各種ビタミン、特にカロテンが豊富。ビタミンCは、トマトの約5倍、ホウレンソウの約2倍、カロテンはコマツナの約1.5倍ある。切り取った根の部分を水栽培して、再生栽培できるため、話題になった。
(再生栽培は、条件がそろえば、2回は可能。ただ、豆にカビが生えるなど、衛生面の問題もあるので注意が必要。脇芽の上で切り、適温(15〜25度)を守り、明るい所で育てるといい。水は、豆に水がかぶらないくらいにして、1日最低1回〈夏場は最低2回〉は新しい水に交換するとスクスク育つ)
(参考)
・ 「豆苗」(ウィキペディア)
・ 「豆苗研究会」(村上農園) など
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※6:「入祭の歌」(既出)
◎「入祭の歌」
通常、ミサの始めには、この「入祭の歌」が歌われる。
「入祭の歌」は、司祭が奉仕者と共に聖堂に入堂するとき始められ、司祭(および奉仕者)が祭壇の前で合掌して深く礼をし、会衆に向き直るまで続けられる。
「入祭の歌」に合わせて、神がご自分の民のもとを訪れるという意味を持つため、会衆一人ひとりは、まず、この歌によって、祈る心を準備していく。また、訪れてくださる神を招き入れるため、民は一致するよう促されている。
祭儀を開始し、歌によって、司祭と奉仕者の行列を飾るという意味も持つ。
(参考)
・ 「ローマ・ミサ典礼書の総則 (暫定版)」〈pdfファイル〉 (カトリック中央協議会)
・ 「1-入祭の歌」(カトリック武庫之荘教会)
・ 「ミサ司式第」(2006年『ともにささげるミサ 改訂版』オリエンス宗教研究所) ほか
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当日(2015年6月14日の「入祭の歌」は、典礼聖歌153番『流れのほとりの木のように』で、この聖歌は、詩編1章1〜3節がもとになっている)
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※7:「あの歌の詩編唱和のところには、『季節になると豊かに実り』ともありましたね」
「入祭の歌」は、その日の典礼に合わせて選ばれるが、この日は典礼聖歌153番の『流れのほとりの木のように』だった。ひとつの詩編の言葉を「答唱(詩編唱)」として歌い、その後、だいたい1〜3番ある「詩編唱和」を歌う。
歌い方は、答唱 → 詩編唱和1番 → 答唱(前と同じ) → 詩編唱和2番 → 答唱(前と同じ) → 詩編唱和3番・・・のようになる。
たとえば、この日は、答唱が「ながれのほとりの木のように かみにしたがうひとは実をむすぶ」→詩編唱和1番「しあわせなひと 罪びとの道をあゆむことなく 神のおきてをよろこびとし 昼も夜も教えを心にとめるひと」→答唱「ながれのほとりの木のように かみにしたがうひとは実をむすぶ」→詩編唱和2番「流れのほとりに植えられた木が『季節になると豊かに実り』 葉もしおれることのないように この人の行いも実をむすぶ」→答唱「同上」→詩編唱和3番・・・と歌い進んだ。
(参考)
・ 「153 流れのほとりの木のように」(典礼聖歌・詩編をうたう)
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※8:「あの上智の講演会」
5月31日、上智大学の現役生、卒業生、教職員、そしてその家族が、母校である上智大学に集まる「オールソフィアンズフェスティバル(All Sophians’ Festival)」(ASF)が開かれた。
晴佐久神父は依頼され、『生きにくい世の中で生きていくには』というタイトルで、2時間の講演会を行った。
(参照)
・ 先週の説教:「今、ここで、信じます」(「福音の村」2015/6/7)の3段落目(この辺)をお読みください。また、講演の画像も、参照「※7」に掲載しております。
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※9:「ご聖体は、『ぼくを、信じて!』なんですよ。そういう呼びかけですよ」って説教をした。『福音の村』、読んでください。
>「今、ここで、信じます」(「福音の村」2015/6/7)参照。
(参考)★★★(「今、ここで、信じます」2015/6/7説教 上から4段落目 この辺↓)★★★
「 神父さんが、「キリストのからだ」って言ったとき、それはイエスさまが、「ぼくを、信じて!」って言ってるんですよ。皆さんは、何て応えるんですか?
・・・そう。「アーメン」って応えるんです。
ジャスミンのように、「はい、信じます!」って言って、そして、イエスさまの手を握る。あのパンが、イエスさまの手です。しっかりといただいて、そうして、ひとつになる。 」
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Copyright(C)晴佐久昌英