2015年7月5日年間第14主日
・第1朗読:エゼキエルの預言(エゼキエル2・2-5)
・第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(二コリント12・7b-10)
・福音朗読:マルコによる福音(マルコ6・1-6)
【晴佐久神父様 説教】
今日も、この説教を聴いている皆さんに、「神さまからのみ言葉」を、お話しいたします。
神さまが皆さんに語ってくださるご自分の愛を、ちゃんと皆さんにお伝えいたしましょう。何よりも大切なことです。よくよく聴いてくださいよ。
2年ほど前に、私のこの説教が、FEBC(※1)でラジオ放送されていたの、ご存じですか?
あの頃、私はもう、しょっちゅう愚痴を言ってました。・・・自由にしゃべれないよ~って。
ラジオ放送は、私にとっては非常に大きな負担でありました。そんなの、いつものように好きにしゃべったらいいだろうと思うかもしれないけれど、そうは言っても全国放送ですし、下手なことしゃべると抗議が来るんじゃないかとか、どうしても気にしちゃうんですよ。言い間違いだってあるでしょうし、生の声がそのまんま放送されるって、・・・まあ、編集したりもできるんですけど、やっぱりそこは気になるというか、ちょっとした緊張があるというか。
そもそもが、「昨日こんなことに感動しました」「一昨日あんな人が来てうれしかった」なんていう話ばっかりでしょ、私の話。そういう話も、放送されるとなると、ちょっとどうなんだろうって考えちゃうんですよ。だから、ミサに集まっているこの仲間たちの前では自由にしゃべれても、知らない人が大勢聴いてるところに説教が筒抜けになるって思うと、気後れしちゃうんです。話してる途中で、そんなことが気になりだすと、頭の中がごちゃごちゃになって、言葉も自由に出てこなくなるし。
当時、「いや~、これはちょっとキツイな~」って思いながら、まあ、それでも、精いっぱいお話ししましたし、もちろんそれが放送されて大勢の皆さんの励ましになったのは、事実です。でも、ナマの声での放送が負担だったのも事実です。「福音の村」だったらね、パソコンでぜんぶ直すわけですから、安心なんですよ。「ここはちょっとまずいから削っちゃおう」とか、「ここは分かりにくいから補足しよう」とかって、言ってもいない1行を入れたりとかね。(笑) 放送だとそうもいかないから、やっぱり、硬くなっちゃう。
ですから、その後、ラジオ局の方から「また収録させてください」「ぜひ放送させてください」って、何度も頼まれながら、私、そのたんびに断わってきたんです。「もう、勘弁してください」と。もちろん「福音を伝える」っていうモチベーションは強く持っていますけど、そうは言っても限界もある。・・・そんな思いでおりました。
そしたらですね、先週、FEBCに呼ばれて、私、「対談」をしたんですよ。スタジオで、パーソナリティーが対談相手になって、おしゃべりをするわけですね。「まあ、対談だったらいいですよ」って引き受けたんですけど、「福音を語ることについて、福音を宣言する素晴らしさについて、話してほしい」ということだったんで、まあ、べらべらと、いっぱいしゃべってきたんですよ。
このパーソナリティーの方が、非常に乗せ上手でね。どんどん、しゃべらされました。私の話に感動して目の前で涙流してくださったりしてね。私もだんだん感動してきちゃって、もう、夢中になってお話をしました。
「神さまがこんな私に、み言葉を授けてくださる。だから私は、それをみんなに話す。こんな私でいいんだろうかっていう気持ちはもちろんあるけれども、神さまのみ言葉を語ると、目の前で次々と、みんなが救われていく。その事実に励まされながらこれまで語ってきたんです」なんてね、もう、夢中になってお話をした。
そして、その対談の収録が終わった直後に、こう言われたんです。
「神父さま、素晴らしいお話でした。ぜひ、主日のお説教を、もう一度放送させてください!」(笑)
・・・うまいですよね~。私、その場で思わず、
「はいっ! 分かりましたっ!」(大笑)
「では、さっそく来週から録りにまいります!」っていうことで、実は、今この説教壇の上にレコーダーが、(笑)あるんですよ。
そんなわけで、また、うちの説教、半年間、筒抜けです、全国に。(笑)
でも私、これでいいんだとも思います。
そもそも、2年前と、世の中も私もまったく同じじゃない。この2年間、世の中変わってます。悪い方に変わってます。神さまは本来は素晴らしい世界をつくってるのに、それを人間は、悪い世の中にしてしまっている。特にこの日本の状況は悪い。つらい人はますますつらくなり、苦しんでいる人はますます苦しくなる、そういう世の中になってます。相談に来る方の感じからも、すごくよく分かる。うつの人も増えてますし。
私、昨日、おとといの二日間で、面談10人ですよ、一日5人ずつです。それも10分、20分の面談じゃないですからね。救いを求めている人が、必死に救いのみ言葉を求めている、その現実は、2年前よりも、非常に差し迫った感じになってるっていうのは、これ、事実です。だから私も、もうこうなったらですね、悪しき力が、救いのみ言葉を邪魔しようとしているんであれば、ここはみ言葉のお手伝いしようじゃないかって、そういう気持ちが強くなりましたよ。もう、「臨戦態勢」ってやつですね。「悪の力と闘ってやるぞ!」みたいなね。
さあ、皆さんも、うかうかしてられませんよ。
私がこういうこと言い出すときは、つまりは「お前もやれ!」って話に決まってるんだから。(笑) 一緒にやってきましょうよ。み言葉は、もう授かってます、私たちみんな。皆さんもどれだけ聴いてきたか。
「この私たちを、神はまごころから愛している」
「私たちは、もう救われてるんだ」
「主は共におられる」
神は皆さんに言いたいはずです。「あなたに授けた、そのひと言で、多くの人が救われる」と。
・・・これは「事実」です。
私たち、神さまのみ言葉を、ひと言語る者でありたい。それは、そんな大げさな話じゃない。1週間にひと言でもいい。
「だいじょうぶよ。神さまは、あなたを愛してる。
・・・言ってあげてください。
そういうことを言う人として、キリスト者は選ばれてるわけですけど、そういうことを言う人を、何ていうか知ってますか? ・・・「預言者」っていうんですよ。
第1朗読をご覧ください(※2)。
預言者が、どうやって「預言者」になったか、1行目から書いてありましたよ。
「〔その日、〕霊がわたしの中に入り、わたしを自分の足で立たせた。わたしは語りかける者に耳を傾けた。主は言われた。『人の子よ、わたしはあなたを、イスラエルの人々、わたしに逆らった反逆の民に遣わす』」(エゼキエル2:2-3a)
これですね。
今、この世の中は、まさに、神に「逆らって」いるような、そのような世の中ですけれども、その人々の中に、私たちは遣わされました。「霊が私の中に入った」からです。皆さんの中に、霊が入っているからです。皆さんは、「自分の足で立って」「語りかける者に耳を傾けて」、そのひと言、「天の父が、神の子を愛さないわけないだろう!」っていう福音のひと言、これを人々に伝えなくっちゃ。私たちは、神からのひと言を預かって、遣わされたんだから。
面白い言い方をしてますね。最後のところ、5節です。
「彼らが聞き入れようと、また、そのみ言葉を拒もうと、彼らは自分たちの間に預言者がいたことを知るであろう」(cf.エゼキエル2:5)
相手が聞こうが聞くまいが、預言者が語った言葉は、必ず実ります。なぜなら、それは、
だからもう、福音を語るなら、たとえ言い間違えようと、抗議されようと、本当はそんなことはどうでもいいんですよね。霊が私の中に入った以上、私は遣わされた者です。「もう、こうなったら臨戦態勢だ。福音の威力を思い知らせてやる。悪の力よ、待ってろよ!」みたいなね、そんな思いで、また半年間、冷や汗かきながら、せっせとお話しいたしましょう。
イエスさまでさえ、「敬われなかった」んですから(cf.マルコ6:4)(※3)、まして私たちが人々を恐れちゃいけないってことでしょう。
これ、なんで敬われなかったかっていうと、「こんな人が預言者なわけないよね」って思ったからなんですよね、人々が。でも、たとえ故郷の人々が「こんな人」って思ったとしても、神さまにしてみたら、まさに「こんな人」を選ぶんですよ。預言者って、そういうことですから。
「こんな人」を選んで、その口に、神のみ言葉を語らせる。それが一番いい方法だっていうことを、神さまはご存じなんです。それを信じられなかったら、預言の奉仕の
そうして、たとえばエゼキエルだったらイスラエルの民のとこに行きますけど、皆さんだったら、皆さんの民のとこに行くわけですね。それは、家族とか、友人とか、それこそ一期一会で偶然会った人かもしれない。でも、
口を開きましょう。あなたが出会ったその人に、そのひと言を言うために。
今日もこうしてお話ししていると、4月からこのラジオを聴いている人が、本当に、「ああ、こんな私も救われるんだ! 救われてるんだ!」っていう、そんな気持ちになってくれるかと思うと、高揚感がありますし、臨戦態勢ですよ、まさしく。「悪の力よ、うかうかしてるなよ」と、「晴佐久がまたラジオで口を開き始めたぞ」と、そんな思いでおりますよ。
ラジオをお聴きの皆さ~ん、お元気ですか~?(笑) 全国の皆さん、お待たせしました~! もうだいじょうぶですよ~!
こうして、
私たちは、お手伝いいたします。・・・「預言者」っていうことですねえ。
さあ、預言者の皆さん、まずはみ言葉を聴きましょう。励まされましょう。そうして救いの喜びに満たされて、「もはや、黙っちゃいられない!」って思いで遣わされましょう。
私の入門講座に、最近、さまざまな教派の牧師先生がよく来られるんですけれど、ある先生がみんなの前でおっしゃいました。
「私、『福音の村』を読んだり、こうして入門講座に来たりして、ホントに目が開かれた。自分は今まで、何を語ってたんだろうって、そう思った」
そうして、さすが牧師先生、上手なこと言うんですよ。
「今まで、私は、神は偏愛だと思ってた」
・・・「偏愛」っていう文字、ご存じですね? にんべん(部首:「亻」)の「偏る(かたよ・る)」っていう字に、「愛」と書く。「子どもが3人いるのに、お母さんは、長男ばっかり偏愛する」なんていうふうに使いますね。・・・
「私は、神は偏愛だと思ってた。貧しい人、弱い人、小さな人を愛しておられる。だから、こんな傲慢で罪深い私は愛してくださらないだろう。なんとか、自分も小さきものになって愛されたいと。
ところが、本物の福音を聴くようになって、私は、その『偏』の字が間違ってたと思った。『にんべん』じゃなく、『しんにょう(部首:「⻌」)』だと。・・・普遍性の『遍』ですね。もれなく、あまねく、すべての人を、ど~んな罪びとでも、どれほどサボっていても、どれほど傲慢でも、神の愛には変わりはなく、すべての神の子を、愛し続けてくださっている。
この『しんにょう』の遍愛、普遍の愛に目が覚めて、私は今まで何を語ってきたんだろうと思ったし、それに目覚めることができてから、説教が変わった」
・・・そういうふうにおっしゃってた。
で、実際に、実はこの先生、つい先日、あるキリスト教系の学校で生徒たちにお話ししたんですけど、そのとき、当教会の入門係の一人がそこに関わっていて、その話を聴いたんですって。で、彼女はそれを私に、すぐに報告してくれました。・・・コワいですね、スパイみたいに。(笑) あっちこっちに潜んでいる。(笑)
「あの、入門講座に来た牧師先生、生徒たちを前に、『あなたたちは、どんな子でも、み~んな神に愛されてます!!』って、熱く語ってましたよ」って。(笑)
素晴らしい。だって、それで、どれだけ救われるかってことでしょ?
逆にこれがね、「あなたたちも、神をちゃんと信じなさい。罪を悔い改めて信じれば、神さまは愛してくださいます」なんて話したら、生徒たちの中には、「私は信じられないから、ダメだ」「こんな私は愛されない」って思う人が出てきちゃうじゃないですか。そんな「にんべんな」偏愛じゃあ、・・・ねえ、誰が救われるだろう。
「みんなはできても、私はできない」って、みんな、そう思ってるんでしょう?
「それでもお前を愛している」っていうのが、神のみ言葉なんじゃないですか。
しんにょうの「
神は、しんにょうの「遍愛」です。
あなたたちが、どんなに成績悪くても、どれほど親と仲が悪くても、どんなに先生から嫌われようとも、友達からいじめられ、のけ者にされ、自分なんか生きてる価値がない、そう思い込んでいたとしても、神は、あなたが大好きで、「あなたこそ
そんな、しんにょうの「遍愛」の福音で、多くの生徒が救われてるかと思うと、「牧師先生、がんばれ!」って応援したい気持ちにもなりますよ。
おとといの入門講座に、久しぶりに来てくれた青年がいるんですよ。
まあ、「久しぶり」って言っても、数カ月ぶりですけどね、今年の春、洗礼を受けた、それまですごくつらい思いをしてきたけれど、洗礼で救われた青年です。・・・覚えてますか。ある教会に7年間通ったんだけど、洗礼を授けてもらえなかったっていう青年ですね(※4)。
その彼は、救いを求めて教会に通ったんだけれども、病院の精神科にも通ってますし、不安定になることが多く、自殺未遂も繰り返していた。それで、そこの先生から、洗礼許可が下りなかったんですね。
「自殺未遂を繰り返すようでは、教会のみんなにも迷惑が掛かる。まず、しっかり病気を治そう」と、まあ、そういう理由だったそうです。「不安定な状態なままで洗礼を受けても、礼拝を守れない。元気になってからにしようね」と。
・・・しかしですねえ、私、これって、ある意味、死刑宣告のようにも聞こえる。
「病気を治す」っていっても、いつ治るか分からないんだし、どの段階で「治った」って言えるのかだって、誰も分からない。そもそも心の病気は本人のせいじゃないのに、まるでまともな人格じゃないみたいな扱いですね。私に言わせれば、そんなこと言われたら、ますます病気悪くなるって、・・・そう思いません? むしろ、
「そんなあなたをこそ、神さまが愛して、選んでくださった」
「そんなあなたにこそ、今、洗礼が必要だ」
「礼拝守れなくっても、ぜんぜん構わない。そんなあなたのために、この信仰の家族が礼拝で祈るから、安心して休んでてね」
と、これが福音じゃないですかねえ。
で、こういう福音を聴いたら、病気もよくなってくんじゃないですか?
彼はもう、絶望的な気持ちの中で、「真の福音を聴きたい」とそう願い、縁あって、この教会に来て、そして福音を聴きまくって、感動し、涙を流し、もちろん、洗礼を受けました。それは彼にとっては、本当に救いの出来事でした。
私は彼に、預言者としてですね、「神はあなたを必ず救う」という、「あなたは必ず良くなる」っていう福音を語り続けられたことを、すごくうれしく思っておりますが、その彼が、教会に来なくなったんですよ。
「あれ、また悪くなっちゃったのかな・・・」と思っていたら、おととい、久しぶりにやって来たんですけど、表情が明るくて、目を輝かせてる。
「しばらく来なかったねえ」って言ったら、
「実はすっかり良くなって、仕事が忙しくなって、教会に来られません」(笑)
・・・うれしかったねえ。しかもですよ、病院の先生が、
「あなたはもう、通院する必要がありません。薬もやめましょう。あなたに今必要なのは、教会に通うことです」って言ったんですって。(笑)
ねえ、薬も大事ですけれど、「福音の勝ち~!」みたいな感じですね。
「あなたに今必要なのは教会です」と言われて、また教会に顔を出してくれましたけれど、「仕事が忙しいなんて、よかったね」と、「神さまはいつもあなたと一緒だから、安心してね。素晴らしい話を聴かせてくれて、ありがとう。君も、証し人だね」と申し上げました。
・・・まさに彼も預言者なんですよね。神から聴いた福音、それによって救われたっていうことを、おとといの入門講座で、みんなの前で話してくれた。みんなもうれしかったし、「ああ、ホントに福音には力があるんだ。信じ続けていけばいいんだ」、そういうふうに励まされた。
で、彼が最後に、面白いこと言ってた。
「実は、ここに来るとき、バス停で、私に洗礼授けてくれなかった牧師に会った」
で、その牧師先生が、たぶん彼が洗礼を受けたことを知ってるんでしょう。病気も良くなったっていうことを聞いてこう言ったんですって。
「ああ、それはよかった、イエスさまが癒やしてくださったんだよ。それなら、『イエスによって
なかなかユーモアのある先生ですけど、そんな本、書く必要ないですよ。だって、「ひと儲けしよう」なんて言うけど、そんなもの儲ける必要がないから。
どんな金銀にも勝る宝を、もう持っているんだから。
「福音」
「イエス・キリスト」
「キリストに出会い、救いの喜びを得て、希望の内に永遠のいのちへの道を歩み続ける」
・・・これ以上の宝、ないでしょ? それで十分でしょう。
第一、本なんか書かなくったって、もう、こうして、彼はひとりの預言者として、全国放送で証ししたわけですから。
ラジオを聴いてる皆さん、あなたも必ず救われますよ。
神の言葉が、今、あなたに届きました。
【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)
※1:「FEBC」
◎FEBC(Far East Broadcasting Company)
「イエス・キリストとはどのようなお方なのか」ということを伝えるための、キリスト教放送局。2014年、放送開始60周年を迎えた。(>>>「FEBCについて」)
カトリック、プロテスタントの枠を超え、番組は、礼拝、聖書の話、信仰入門講座、祈りや黙想、対談などいろいろで、それぞれの教派から、神父や牧師、シスターや信徒など、いろいろな方が出演している。
ラジオ放送は、AM1566kHzで、夜9時半から10時45分まで毎日放送(>>>「AM1566FEBラジオ」)。また、スマートフォンからでも、パソコンからでも、聴くことができる。(>>>「聴き方ガイド」)
晴佐久神父は、過去に、FEBC主催の講演のほか、「あなたに話したい」という番組名で、2006年4月3日から9月25日まで、また、「あなたは救われた」という番組名で、2013年2月2日から9月30日まで、ミサ中の説教が録音され、番組の長さに合わせて編集したうえ、放送されている。
(参考)
・ 「FEBC Online (キリスト教放送局 日本FEBC)」(ホームページ)
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※2:「第1朗読」
2015年7月5日〈年間第14主日〉の第1朗読箇所
エゼキエルの預言2章2~5節
〈小見出し:「エゼキエルの召命」1章~3章15節から抜粋〉
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※3:「イエスさまでさえ、『敬われなかった』んですから」
2015年7月5日〈年間第14主日〉の福音朗読箇所
マルコによる福音6章1~6節
〈小見出し:「ナザレで受け入れられない」〉
>>> 「このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、『預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである』と言われた」(マルコ6:3~4)
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※4:「ある教会に7年間通ったんだけど、洗礼を授けてもらえなかったっていう青年ですね」
(参照)
・ 「ずっと一緒にいようね」(「福音の村」2013年6月23日〈年間第12主日〉)
・・・説教のちょうど中ほど、上から7段落目(「2週間前に入門講座に来たひとりの青年が~」)
〈「彼」が初めて多摩教会に来たときの様子が語られています〉
・ 「復活『させられた』」(「福音の村」〈2015年4月5日〈復活の主日〉)
・・・上から4段落目(「実は昨日、洗礼志願者の中で、洗礼式に~」)・・・(この辺)から。
〈入院したまま洗礼の日を迎えようとしていたときのことが語られています〉
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