望みえないのに、なお望む

2013年1月1日 神の母聖マリア
・第1朗読:民数記(民数記6・22-27)
・第2朗読:使徒パウロのガラテヤの教会への手紙(ガラテヤ4・4-7)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ2・16-21)

【晴佐久神父様 説教】

 などなど、あれこれしているうちに年も明けて、2013年という新しい恵みのときを、神さまからいただきました。まあ、節目ですね、お正月。「一年の計は元旦にあり」ですから、この一年何があろうとも恵みのときだと信じ、すべての人にとって喜びの年となるように、この聖なるミサで祈り合います。
 祈り合いますが、そのときに一番大事なことは、「きっと(・ ・ ・ )この年は恵みの年になる」「きっと(・ ・ ・ )今が恵みのときだ」「きっと(・ ・ ・ )もうすぐ喜びに満たされる、だいじょうぶだ」と、「きっと」「きっと」「きっと」という、この「きっと」ってやつですよ。「希望」ってやつですよ。これがなければ、私たちの信仰は、枯れちゃうというか、しぼんじゃうというか。・・・希望で育てられる私たちの信仰。
 この新しい年の初めに、希望を新たにいたします。「きっと」という信仰によってこの一年支えられて、そしてまた、多くのつらい思いでいる人たちを、こんな「きっと」「だいじょうぶだよ」っていう信仰で支えてあげて、この一年を過ごします。
 新しい年、「おめでとう!」ってね、こうして迎えても、やっぱり何日かたつと、なんか悲しいこと、しぼんじゃうようなこと、それこそ「しょんぼり君」になっちゃうことがあったりするわけですけど、それでも「きっと・・・!」と、今年はそういう強い希望をね、絶対失わないぞっていう年にしませんか?
 この大変な時代に、それぞれの、一人ひとりの大変な現実を抱えているでしょうけども、それでも、「望み得ないときになお望む」というのが、このわれわれキリスト者の特権というか、誇りというか、最大の武器なんです。みんなは「もう駄目だ」って言ってるときに、われわれは、「いいや、きっとだいじょうぶ。なぜなら神が守っている。神が導いている。神が救ってくださるんだから」と、そう言い続ける。これを今年、一年の計として、一番最初にはっきりと心に刻んで、出発いたしましょう。

 というのも、今朝はなんか・・・なんていうんでしょう、モヤモヤとした、何ともいえない、ヤな気分だった。なんでしょうね。昨日飲み過ぎたせいかわかりませんけど。(笑)朝起きてからモヤモヤとして、イライラしてました。新しい年、お正月の最初っからこんなモヤモヤ、イライラした気分・・・そんなに激しいいら立ちってわけじゃあないんですけど、わかりますでしょ? 何となくこう、ドヨ〜ンとした気分、そんな朝で。
 ぼくは結構執念深いんで、この気持ちは何だろうって、ついさっきまで自分の心を観察してたんですけど、結局、今年もまた、こんな自分を抱えたままかぁ・・・みたいな、そんな自己嫌悪に、このイラッとした、モヤッとした気持ちの原因があるなってことに気がついた。「ああ、今年もまた、こんなイヤな自分抱えて生きてくのか」っていう気持ち。自分のイヤなとこ、いっぱいあるでしょう? で、見たくない。人からもそう思われたくない。だけど現実にはそんな自分でしかない。そんな自分を抱えて生きてかなきゃならないっていう、ため息みたいな・・・。この気持ち、わかる人多いんじゃないですか? 目覚めて、「ああ、またこの私か・・・」みたいなね。
 だけど、そんなこと言っててもしょうがない。ミサの時間は来るしね。「こんな気持ちのままミサかぁ〜。やだなあ。もっとスッキリした気持ちで新年のミサを捧げたいのになあ。ああ、11時になっちゃったぁ〜」ってね。(笑)だけど、ミサを始めるとね、これ、おもしろいですね、始めると全然変わるんですよね。もう、スッキリ。だからやっぱり、ミサ、ありがたいですよ。こうして仲間がいる。家族がいる。「こんな自分」だなんて思ってるの、俺だけじゃないだろうっていう仲間たちがちゃんとここにいて、みんなで祈り合っていると、こんな自分でも愛されている、救われている、という信仰の原点に立ち返られる。現実にはまだまだこんな時代、まだまだこんな国、まだまだこんな私、なんだけれども、ここは希望を新たにしてですね、「望み得ないときになお望む」。「いや、もう無理だろう」っていうときになお望む。
 福音書で読まれた羊飼いたちは、そういう希望を忘れなかったから、イエスさまに会えたんじゃないですかね。もしかすると、天使って、このとき、結構いろいろな人に現れて同じこと告げてたのかもしれませんよ。だけど、「いや、そんなことあるわけないだろう」「こんな自分には関係ない」「どうせこれからもこの世は変わらない」って思ってる人たちは、みんな行かなかったんじゃないですかねえ。
 しかし、この羊飼いたちは天使の言葉を信じて、「望み得ないときになお望む」。この悪い時代、この暗い世の中、こんな自分っていう現実の中で、天使が、「今日、あなたがたのために救い主がお生まれになった」って宣言したら、「それを信じよう!」って出かける。そんなのおとぎ話だろうとか、気の迷いだろうとか、幻だろうっていう話にしない。「それを信じよう!」って実際に立ち上がり、救い主に会いに行って、確かに言われたとおりだっていう体験をして、感動して感謝して賛美しながら家路に就いた。
 世界で初めてイエスさまに出会えた、そんな恵みを受けたこの羊飼いたちは、やっぱり希望に支えられて行動したからこそ、そんな恵みに(あずか)れたんじゃないですか?
 「もうだめだろう・・・」って、ただがっかりしてないで、希望の年にしましょう。「主が共におられるんだから、必ずだいじょうぶだから」って、今年訪れるいろんなイヤなこととか、この仲間で、すべて乗り越えていきましょう。

 昨日の年越しは、島のキャンプ仲間たちと過ごしました。恒例なんですけどね、カウントダウンをするんですよ。今年も大はしゃぎしてね。楽しかったです。
 やっぱり、「人が独りでいるのは良くない」です。独りぼっちでいるとねえ、今朝みたいに、今年もこんな自分か・・・なんて、何となくモヤモヤしたままになっちゃうけど、こうして信じる仲間と一緒にいると励まされるし、昨夜も仲間と一緒に、信じる仲間と一緒に、年を越しました。
 カウントダウンはね、午前0時前に乾杯の用意をして、テレビの画面に合わせてみんなと「10、9、8、・・・」とやったんだけど、その10分くらい前に、一人が、「あいつもいるといいのにな〜」って言いだした。「あいつ」っていうのは、島の仲間じゃないんですけど、最近教会によく来ている求道者の青年で、すぐ近くに住んでるんです。たまたまクリスマス前後に、この島系のメンバーとよく会っていて、一緒に教会に泊まったりもしてたし、強がってるくせに結構寂しがり屋なんですよ。で、「こんなとき、一緒にいれば喜ぶだろうな〜」って思い出したやつがいるんですね。「あいつ、どうしてるだろう、あいつもいたらいいのにな」って言いだして。
 実際、その彼はクリスマスが終わるとき言ってたんですよ。「クリスマスはみんなと一緒にいてとっても楽しかったのに、クリスマスが終わっちゃって寂しいよ。また独りぼっちか〜」みたいなことをね。だから、私言いました。「呼べ、呼べ! すぐに来い、10分以内に来いって」って。で、電話したら「行く行く!」って喜んだ。だけど、カウントダウンの1分前になっても現れない。30秒前になっても現れない。しょうがないから、みんなでカウントダウンして、0時に「ああ、あいつ間に合わなかったね・・・でも、おめでとう! かんぱ〜い!」ってやったら、その1分後に現れたんですよ。ハアハアって息切らせてね。実はそこには、彼を知らない仲間もいっぱいいたんですけど、みんなでね、「ああ、よかった、よく来た、よく来た!」「間に合ったよ! カウントダウンもうすぐだよ!」って。これ、ウソなんですけど。(笑)「さあ、今だ! 10、9、8・・・」ってまたやってね。みんなで再び「かんぱ〜い! おめでとう!」ってやったら、彼もすごくうれしそうでした。いい年越しになったんじゃないかな、あいつにとっては。
 だって、「ああ、また独りぼっちか〜」って、独りで家にいたわけでしょ? だけど、誰か言いだすんですよね、「あいつもいたらいいのにな」って。そして、「呼べ、呼べ!」ってことになり、走ってやって来て、そして仲間と年越し! 「はじめまして」っていう出会いもあり、みんなでカンパイ!・・・そのまま飲んではしゃいで、教会に泊まって、今まだ寝てます。(笑)
 事態って急に変わるじゃないですか。未来って思いも寄らないんですよ。独りぼっちで年を越す、彼にしてみればそれは当然のこと。毎年そうだった。今年も当然そう。仲間と年越しなんて、思いも寄らない。ところが、0時10分前に電話がくるわけですよね、「来い、来い!」と。そして10分後には、「かんぱ〜い!」とね。まあ、島の仲間の忘年会だったから、呼んでなかったわけですけれど、でも、聖霊が働くと思いもよらない未来が始まる。いや、どうしたって、もうこれはこれでしかないだろうと思っていたところに、突然、何かが始まる。
 希望っていうのは、そういうふうに、あるとき急に、ふいに実現していくんですよ。その直前までは、全然、その気配もない。にもかかわらず、いきなりフッと現れる。そういうもんなんです。「さあ、そろそろ来るぞ」みたいなことじゃない。だからこそ希望なんであって、それを信じましょうよ。そういう希望に支えられていれば、今がどれほど最悪な状況であっても、すぐにスッと日が差してくると信じて、心穏やかにいられる。そんな感覚っていうのを、やっぱり信仰のセンスとして大切にしたらいいと思います。

 その後、年が明けてから、明け方にかけて「新春マージャン大会」なんてやっちゃってね。私、なかなか強いんですよ、これが。若いころに、今は亡き親父(おやじ)に仕込まれた。で、親父に仕込まれた、勝負の一番の秘訣は、まさに「これは無理」っていうときも、あきらめずに最後まで信じる力みたいなことなんですよ。・・・たぶんマージャンの話わかんないでしょうけど、ちょっと言わせて下さいね、すみません。(笑)
 私の父、混一色(ホンイツ)が大好きで、しかも裸単騎(ハダカタンキ)で待つのが大好きだった。(笑)あれ? ご存じなんですか。まあ、普通に考えたら、そんなの上がれるわけないよっていう待ち方なんです。ポン、ポン、チー、ポンって四つ鳴いていって、最後にたった1枚だけ残して単騎待ちしてる。そんなのもう、警戒して誰も捨てないし、あとわずかな山の中にあるはずもない、その状況で、なんとそれを自分でツモリ上がるっていうのが得意だった。見ていても気分いいというか、まさか、親父にだけ勝利の神がほほ笑んでいるとは思わないけれども、その最後のところに懸ける思いの強さみたいなのがカッコいいなあと思ってたし、事実、信じて待つ、そこにこそやっぱり確率がほほ笑むみたいな感じなんですかねえ。・・・すみません、マージャンの話なんかするつもりなかったんですけども・・・。
 人生のね、いろんな局面で、負けが込んでいる、もうダメか、これはもう無理だろうっていうときって、いっぱいあるでしょう。そんなときに、「いいや、ここからだ!」「望みえないときにこそ望むぞ!」っていう力って、きっと、とりわけキリスト者にとって大事な力なんじゃないですかねえ。

 おととい、病床訪問した方、大正生まれなんですよね。倒れて今、病院に入ってます。一時はもうだめかっていう感じだったんですけど、持ち直して、今はなんとかおしゃべりできるようになってます。私を見たらすごく喜んでね、いろんなお話をしてたんですけど、中でも戦争中の話をしてくれて、それ、いつかのシニアの会でもお話なさったって言ってましたけど、お聞きになりましたか?
 彼、戦時中に輸送船乗ってたときに、潜水艦に砲撃されて、乗ってた船、沈んじゃったんです。で、なんとか救命ボートに乗ってですね、ボートの上で1週間、飲まず食わずで海の上を漂った。雨水をね、何とか靴にためようと思うんだけど、靴に水が染みちゃって、どうしてもうまく飲めない。手にためた、ほんの少しの雨水をなめるように飲んだりして生き延びたそうです。1週間後に、別の船が通りかかって、ボートの上で手旗信号で必死になって「ここだ!ここだ!」と知らせて助かって、港に着いて、病院に連れていかれたと。「ホントに、水のありがたさ、食べ物のありがたさを、あの時はつくづくと思った」ってね、そんな話をしてくれた。
 で、その彼が言うんです。「あのとき、神さまが私に命を与えてくれた。そして今回もまた、命を与えてくれた。だから私には、何かまだ役割があると、そう思う。その『役割』のことをずっと考えていたんだけれども、今回この病気を乗り越えて、私はすごく今、信仰が深まっているのを感じる。それは、ひと言で言えば、『神さまが私のすぐそばにおられる』っていうことで、今、神さまの愛をとっても強く感じる。今までの人生で、こんなふうに感じたことはなかった。今まで信者を長くやっていたのに、それがわかってなかった。でも今は、神さまはすぐここに、私と共におられるってことがとっても深く感じられて、ホントに安心だし、感謝してるし、その気づきを、何とかみんなに伝えるっていうのが、自分が生き永らえて今ここにある理由だと思う」。そうおっしゃったんですよ。おととい聞いた話です。
 そして、こう言いました。
 「私はみんなに何とかそのことを伝えたい・・・神さまってみんなのそばにおられるんだ、共にいてくださるんだ、でもみんなそれに気づいてない。私は今、それに気づいて、ホントに心が平安で、励まされて、希望がある。だからそのことを、なんとかみんなに伝えるのが、生き永らえた自分の使命だと思う。でも、神父さん、私は今、こんな状態で、神さまのために何にもできない」
 そうおっしゃるから、お答えしました。
 「いやいや、何もできないなんてことはない。現に今、私に話してくれているじゃないですか。私に話すと全世界に広まりますよ」(笑)「あなたはちゃんと使命を果たしてます。神さまがちゃんとあなたを生かして、ちゃんとあなたに語り掛けて、あなたを目覚めさせ、それをみんなにも伝えて、みんなを励まそうとしておられる。それを実現するのが教会です。私はあなたの今の言葉を、ちゃんと皆さんにお伝えしましょう。あさって、お正月のミサでお話しますよ」
 「ありがとうございます、お願いします」
 そうおっしゃったので、ちゃんとお伝えしました。いいですね〜、こうして説教ネタが次々と向こうからやって来て、(笑)私はただ取り次ぐだけ。こうして皆さんに、神さまが語りかけてるんですよ、「私は共にいる、希望を失うな」って。
 船の上で1週間、望み得ないのになお望みつつ、必死に生き延びた。もうその時点で、この説教も準備されてるんです。そういうことでしょ? これが神のみ(わざ)。神さまは必ず自分の思ったことは成し遂げる。それが一番望み得ない人に、本物の希望を伝えるためだったら、何でもする。
 実は1月1日は主日じゃないし、今日の説教をネットに載せるかどうか、事前にちょっと話し合ったりしたんですけど、これ、やっぱり載せましょうね。(笑)この病床の証しを読んで、「望み得ないのになお望む」っていう人が大勢現れてくれるとうれしいです。

 さあ、新しい年を始めましょう。毎年、元日のミサは「神の母聖マリア」の祭日です。神であるイエスの母、聖母マリアは、普通には「こりゃもうだめだ!」っていうような状況の中で、なお望んだ方です。受胎を告知されたとき、そして十字架の下で。その望みこそが、聖母マリアの、私たちへのプレゼント。
 「神の母聖マリア」の今日、聖母が私たちに「希望」を取り次いでくださいました。

2013年1月1日 (元旦) 録音/2013年1月5日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英