2013年12月22日 待降節第4主日
・ 第1朗読:イザヤの預言(イザヤ7・10-14)
・第2朗読:使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ1・1-7)
・福音朗読:マタイによる福音(マタイ1・18-24
【晴佐久神父様 説教】
今日も素晴らしい仲間たちが、集まりました。久しぶりに会う方たちも、遠くから来た方もおられます。
ですが、残念なことに、最近目がほんの少しかすんできて、皆さんの顔がよく見えない。以前はくっきり見えてたんです。私は、目がいいのが自慢で、いつも1.5とか1.2でした。10年位前から老眼鏡を使ってはいますけど、ご存じのとおり、老眼っていうのはすぐ近くがぼやけるだけで、その先はよく見える。だから、視力検査では、ず〜っと1.5とか1.2だったんです。
それが、この数カ月、こうして見ていても、皆さんの顔が微妙にぼやけるんですよ。にじむっていうか。ほんのちょっとピントが合わないような感じ。皆さんのステキなお顔が、ちゃんとくっきり見えないなんて、残念というか、少しぼやけたくらいがちょうどいいというか。(笑)
ともかく、このかすんだ感じっていうのは、私には結構なショックでね。これまで自信があったっていうこともあるし、くっきり見えないっていう、何ともいえない不安感もあって、まあちょっと、しょげたというか。
つい先日の健康診断の視力検査では、片方が0.7で、片方が1.0だったかな。そんなの大したことないと思うかもしれないけど、クッキリハッキリ見えていた者としては、今後どんどん見えなくなるんだろうか・・・みたいな不安があるんです。で、先週、眼鏡屋に行って丁寧に視力検査をしてもらいました。すると、「晴佐久さん、これは遠視です」って言うんですね。まあ、老眼が進んでいったってことなんでしょう。
そのとき、私があまりにもしょげて、「ホント、悲しくなっちゃいました〜」なんて肩を落としてたら、その眼鏡屋さんがね、こんなこと言うんですよ。
「晴佐久さん、私は長く眼鏡屋をやって、大勢の目の悪い方たちのお世話をしてまいりました。はっきりいって、晴佐久さんは大変目がいいお方です。この程度の遠視は、これ以上進むことはありませんし、失礼な言い方になるかもしれませんが、ちょっと心配し過ぎです。せっかく恵まれて、神さまからいい目をもらってるんですから、どうかあまり、お力を落とされませんように」(笑)
・・・とまあ、眼鏡屋に励まされる神父という、ね。(笑)
まあ、それでちょっと安心しましたけど、私、小心者で、すぐにビビるんです。おっしゃる通り、せっかく神さまからいいものをもらっているのにね。すべて、神さまがなさっておられることなのにね・・・すべて。「これもよいことの一部なんだ、新たな恵みの世界の始まりだ」と、信じなきゃね。普段、「すべての悪いことは、よいことの準備だ。実は悪いだけのことじゃないんだ」って皆さんに話している身なんだから、これくらいのことでくよくよしていてはいけません。
皆さんの相談事とかを聴いていても、いただいている大きな恵みに気づかず、小さな悪いことだけを見つめて悩んでるってことばかり。特に最近多くて印象に残ってるのが、昔のことをいつまでも後悔するケース。「あの時、あの人にあんなことされた」とか、「あの時、あの人にそうしてあげられなかった」とか、「あの人のせいでこうなった」とか、「自分のせいでああなった」とか、過去をず〜〜っと引きずってる方、多いです。
「あれもつらかった」「これも苦しかった」「おかげで人生の長い時間を無駄にしてしまった」って、昔のマイナスをずっと並べる。・・・まあ、それは分かります。それが悩みってもんですよね。「そのせいで、今はこんなになっちゃった」「これからも、よくなるとは思えない」って。
でも、私は福音を語ります。
「お話は分かりました。あなたはそうして、それを悪いことだと今までず〜っとそう思ってきたし、今もそう思って話していますけど、私は今、それは逆だと、お話したい。実は、あなたが話すそのマイナスのことは、あなたがマイナスと思い込んでいるだけで、本当はマイナスじゃない。むしろそこにプラスが始まっている。キリスト教の福音は、そんな『大逆転』なんですよ」と。
普通は、人を励ますときに、「ああそう、そのマイナス、大変だったね。でも、忍耐していればこれからきっとプラスも訪れるよ」とか、「そのマイナスだったことを生かして、これからはプラスにやっていこうよ」とか、そういうふうに励ますわけですよね。
ところが福音って、すごいんですよ。「それはそもそも、マイナスじゃない」っていうんです。
「マイナスだってあなたは思ってるけれども、それはマイナスではありません。それはプラスの一部なんです。マイナスだとあなたが決めつけてるだけで、ただのマイナスなんてない。すべてのマイナスはプラスの始まりに過ぎないんです」、・・・そう主張する。
一番いい例は、言うまでもなくイエスの復活です。イエスの死後、弟子たちは、「ああ、イエスさまをお守りできなかった。イエスさまは死んでしまった。もう取り返しがつかない・・・」って絶望してるわけですよね。女性たちも、ホントにがっかりしながらイエスの墓に行く。そうすると天使が現れてこう言うんです。
「なぜ、生きておらる方を死者の中に捜すのか」(※1)
つまり、「死んでしまった、もう終わりだ」というのに対して、「いや、死んでない」って言うんです。・・・これは、キリスト教独特です。「大逆転」なんですよ。マイナスをマイナスのままにして、それを何とか覆い隠そうとか、他のプラスでしのごうとかいう、小手先の話じゃない。「マイナスだ」というそもそもの前提が間違ってるんだから、「マイナスはない」と。
この主張は、ホントに絶望している人、もう取り返しのつかないような、災害であれ、肉親との別れであれ、つらい思いをしている人に、決定的な福音です。・・・っていうか、これ以外には福音になりえないと、私は思う。だって、この世的に言えばどうしたって、もうそれは、取り返しがつかない「マイナス」なんだから、その人にとっては。
しかし、「イエスは生きておられる。死んでない」、そう聞いた弟子たちは、まさに復活の主に出会って、「本当だ! 本当だ! 主は生きておられる!! だから、あなたも復活する!!」と、絶望しているすべての人に伝えて回った。
十字架は、実はただの「十字架」じゃない。復活の栄光の一部なんです。信じて生きていきましょう。やがて、必ずその神秘が明らかになりますよ。「あれはマイナスじゃなかった!」と。そのとき初めて、恨みを忘れ、とらわれから解放され、真の自由を生きることができるようになる。
皆さん、今、何か抱えている「マイナス」、ありますか?
「あの時、ああしなきゃよかった」とか、「こんなことが起こって自分は恵まれてない」とか、「あの人からあんなことさえされなければ、もっとこうだったのに」とかがあるとしたら、それは、あなたの小さな脳の中の、勘違いです。勝手な思い込みです。それがあるうちは、あなたは決して、本当の平安を得ることができません。
逆転、・・・「大逆転」させないと!
「それはつらかったけど、しょうがなかったことなんだよ」っていう程度の話じゃない。
「むしろそれは、ホントによかったことだ」って。
え〜〜!?って思うかもしれないけど、そこに「大逆転」の福音の力、真の喜びがある。
「十字架の主が復活した」ってとこから始まったキリスト教ですから、やっぱりそこは譲らず、徹底して「マイナス」を「プラス」に逆転していきましょうよ。
「ああ、遠視になってよかった!」って(笑)、そう言わなきゃならないってことです。なかなか言いづらいけど。
「今までず〜っと見えてきたこと、今も見えていることは素晴らしい」「目がかすみ始めることで、本物がますますよく見えるようになった」「この出来事を通して、神さまが大いなる命のみわざを与えてくださっている」「ああ、これこそ私が生きている、生かされている、愛されているというしるしだ。神に感謝!」って言わなきゃならない。
フランシスコ教皇さまがね、「今年の人」っていうのに選ばれたでしょう(※2)。
ご存じでしょ? アメリカの『TIME』っていう有名な雑誌が、毎年恒例で、「パーソン・オブ・ザ・イヤー」っていうのを選ぶんですね。・・・「今年の人」。最もその年に話題になったとか、その年を代表する人物を選んで、表紙にドーンと飾るんです(※3)。
今年は、われらが教皇フランシスコが、その「今年の人」に選ばれてましたけど、その理由が、「慈しみに焦点をあて、良心の新たな代弁者となった」ってことらしい。
慈しみに焦点をあてる。つまり、「この世のものなんかに焦点を合わせるな」ってことですよ。遠視くらいがちょうどいいんじゃないですか。
この教皇さま、先日お誕生日をお迎えになった。・・・12月17日。
彼、その日に、ローマのバチカン付近のホームレスの方たちを招待して、ご自分の住んでおられる宿泊所の食堂に招き入れて、一緒に誕生祝いの食事をしたんですよ(※4)。
私もついこの前行きましたけど、バチカンの周り、確かに物乞いするホームレスが大勢いるんです。私なんかは、最初の人にはわずかばかり差し上げて、その後はいちいち対応してたらキリがないって、見て見ぬふりで通り過ぎるわけですけど、教皇は、使いの者を出して言わせるんです。
「教皇さまが、ホームレスの方たちと誕生日の食事をしたいと招待しておられますが、来ていただけますか?」
・・・ビックリしたでしょうね〜。これに応えて、3人のホームレスが実際に来ました。ひとりはチェコ人で、ひとりはスロバキア人で、ひとりはポーランド人。みんな東欧ですね。経済難もあるし、寒い地域でもあるし、イタリアに流れてきて、ローマで、なんとかしのいでるわけですよね。
バチカンの周りに集まるっていうのは、これは、分かります。・・・巡礼客が多いからね。
巡礼客って、少しはいいことしないと申し訳ないよね、みたいな気持ちになってるしね、ホームレスを援助することが多い。だから、バチカンの周りに、やっぱり集まって来るんですよ。ま、ローマンカラーした神父は、前を通り過ぎてっちゃうんですけどね。
ところが、教皇は、ご自身のお住まいの聖マルタの家(※5)の食堂で、一緒に食事をする。
招待された中のひとりが、こう言ったという報道がありました。
「教皇と会えて一緒に食事ができるなんて、ホームレスになったかいがあった」(笑)
・・・私、でもこれ、名言だと思う。
「ホームレスになったかいがあった」
「ホームレス」って、最悪の状態でしょ? もうこれより下がないっていう暮らし。だけど、ある時突然、まったく想像もしていなかった使者がやって来る。
そういう夢みたいなことを、何か想像したことはあるかもしれないけど、よもや、自分の所に教皇の使者が来て、「自分の誕生日を一緒に祝ってほしい。一緒に御飯食べましょう」って招かれるなんて0.0パーセントで、あり得ないって思ってたでしょう、当然ですよ。
でも、現実に、それが目の前にやって来るんです。うそでしょ?みたいな、ドッキリ番組みたいな。「これって、ホントかな? 冗談じゃないのかな?」と思ってついてったら、ホントにそこに教皇がいて、「ああ、よく来てくれました、ようこそ!」って。あの教皇のことだから、抱きしめたり握手したりして、「さあ、どうぞお座りください、食事にしましょう、寒くないですか?」とかってやったんでしょう。
教皇さま、フレンドリーですからね、一緒にお食事をして、おしゃべりして。おいしかったでしょうねえ。なによりも、うれしかったでしょうねえ。大切に扱われる体験。
「かいがあった」・・・そんな日が、突然来る。
今日の福音書のヨセフとマリアは、そもそもは普通の男女でした。
普通に暮らしてて、普通に婚約して、まあ、当時の婚約は結婚とほぼ一緒ですから、結ばれたも同然という希望のうちに、それぞれ幸せ〜にね、貧しく、つましく、しかし満たされて暮らしていた。そんな、結婚直前の愛し合うふたりを思い浮かべてください。
ところがまだ結婚前に、マリアに子どもができちゃったんですよ。ヨセフにしてみれば、もう、どうしようもない。表ざたにすればマリアは処刑されるかもしれない。ひそかに別れるしかない。断腸の思いでそう決心した。・・・聖書で1、2行読むのは簡単ですけど、現実の本人の思いになってみてくださいよ。・・・ヨセフの思い。そして、マリアの思い。
これは、「絶望」です。
愛する妻と縁を切らなきゃならない。愛する夫から縁を切られそうになる。
これはもう、この二人にとっては、絶望であり、それを解決する方法は、何ひとつない。そういう状況なんです。二人とも、真っ暗闇の中だったんです。
しかしある夜、もはや解決策は0.0パーセントというヨセフの夢に、突然、天使が現れる。
「喜びなさい。すべては、神の愛、聖霊の働きによるものだ。恐れずに迎え入れなさい。マリアの内には救い主が宿っている」
これは、ヨセフにとっては、大逆転でしょ? ある夜の大逆転。
・・・そうしてヨセフはそれを受け入れ、イエスが、この世界にもたらされる。闇に住む民に、光が射す。
クリスマスはね、大逆転の日なんですよ。
「ホームレスのもとに、教皇から使者がやって来る」
「真っ暗闇の人のところに、救いの光が射しこむ」
「絶望の状況に、救い主が宿り、神の国が始まる」・・・これ以上の大逆転はない。
クリスマスは、それが可能なとき。
それを信じる者が、あらゆる試練の向こうに喜びを見出し、救いの日に目覚めるとき。
私たちキリスト者は、日々、大逆転を生きています。
ですから、考えてみたら、教皇さまが「今年の人」に選ばれたり、ホームレスを迎えることがニュースになって全世界を駆け巡ったりするっていうのは、実はちょっと変な話ではあるんですよ。
だって、それって、キリスト者として当たり前のことだし、キリストの教会がそうするのは当然のことで、ニュースになるようなことじゃないから。
イエス・キリストは、そうだったでしょう?
イエスのたとえ話の中に、主人が「街角に行って、だれでもいいから、この私の宴会に連れて来なさい」って呼び込むって話がありますけど、そのような方が神さまだ、それが神の国だってたとえてるじゃないですか(※6)。イエスは、まさにそのように生きたし、貧しい人たちを迎え入れ、罪人たちのもとに行って宿をとり、そこで一緒に宴会をして、神様の愛を語ってたわけですよね。
それこそが「キリスト教」っていうものだから、「教皇がホームレスを迎え入れて食事をしました」って聞いて、「ああ、それは素晴らしい!」って感動するとしたら、実はちょっとおかしいんですよ。
「それが何か? 教皇だから当然でしょ。キリスト者はみんなやってますよ」と言って驚きもしない。・・・そういう教会でありたいですよね。
「慈しみに焦点を当て、良心の新たな代弁者となった」なんていうことで「今年の人」に選ばれたなら、「え? それって、キリスト者として当然じゃないですか。みんなやってます。なんでわざわざ選ばなきゃなんないんですか?」と言って不思議に思う。・・・そういう教会でありたいですよね。
どの教会もすでにホームレスの方を迎えていて、「教皇さま、ようやくそんなことしてるの?」っていうような教会だったら、もう、ほとんど「神の国」なんじゃないですか?
私の身近な人が、ホームレスによく出会うって言うんで、「クリスマスに、ぜひ、呼んできてよ」と、昨日頼みましたけど、来てくれるといいですね。
皆さん、今年はどんなクリスマスにしますか。
本当に苦しんでいる人、救いを求めている人、すぐそこにいます。「この人、ホントにかわいそうだなあ。『大逆転』させてあげたいなあ」っていう人がいたら、ぜひ、教会に連れて来るとか、あるいは、キリスト者である皆さんの家という教会に招き入れるとか、あるいは、主が宿っている皆さんの心という教会に受け入れてあげるとかして、「大逆転」のクリスマスにしませんか。今年は、そういうクリスマスがいいんじゃないですか?
明日23日は、一般の方向けの「祈りと聖劇の夕べ」です。
福音が語られますよ。晴佐久神父の新曲も発表されます。『やったるで〜音頭』。(笑)
みんな、一歩踏み出すのは怖いけど、信じてやってみようよっていう曲です。それこそホームレスを迎え入れるとか、正直、怖いような気持ちもあるかもしれないけど、やってみよう!・・・ってことで、こんなような歌詞です。
始める時はいつもこわい。失敗したらどうしよう。
いじわる悪魔がささやくよ。「君には無理だ。できっこないよ。どうせみんなの笑いもの」
そこへイエスさま現れて、「恐れるな。信じなさい。私が共にいる」
ア、ソーレソレソレ、ソーレソレソレ、ソーレソレソレソレソレソレソレ、
やったるで〜、やったるで〜、信じて愛してやってくで〜
やったるで〜、やったるで〜、信じる力でやったるで〜♪♪
23日、楽しいですよ〜! 16時半から。みんな連れて来てください。
「祈りと聖劇の夕べ」、「大逆転」が起こるかもしれないですよ。
24日は、17時と21時のミサ。
今日、あなたのうちに主が宿り、あなたは救わた、という福音が語られます。
このミサでも、「大逆転」が起こるかもしれないですよ。
25日は、10時のミサと、15時半からの「心の病で苦しんでいる人のためのクリスマス会」。
神の憐みが溢れて、「大逆転」が起こるかもしれないですよ。
心の病で苦しんでいる人、連れて来てくださいよ。
若いメンバーが、新曲を歌ってくれます。「心の病で苦しんでいる人を励ます曲」っていうのを作って、歌ってくれるんです。きっとみんな、感動するだろうな。
「大逆転」のクリスマス!!
・・・ああ、今年のクリスマス、ホントに楽しみだ。
【 参照 】
※1: 「なぜ、生きておらる方を死者の中に捜すのか」
・ ルカによる福音書 24章5節
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※2:「フランシスコ教皇様がね、『今年の人』っていうのに選ばれたでしょう」
・ 米タイム誌は2013年12月11日、毎年恒例の「パーソン・オブ・ザ・イヤー」(今年の人)を発表し、フランシスコ教皇を選んだと発表した。
タイム誌はフランシスコ教皇を選んだ理由について、「謙虚な聖人の名で呼ばれ、教会を癒しの場とするよう呼びかけた」「思いやりに焦点を当て、良心の新たな代弁者になった」などの選出理由を説明した。
同誌編集者のボビー・ゴーシュ氏は、「フランシスコ教皇は教会に対する見方を、浮世離れした場から謙虚な慈しみの場へと変えさせた」「教義に重点を置いていた教会は奉仕に重点を置くようになり、教会の語りかけは慈しみの口調になった。これこそが、かつての最盛期の教会の姿であり、フランシスコ教皇はそれを取り戻そうとしているようだ」と評した。
(参考)
・ CNN.co.jp-Worldニュース:「『今年の人』にフランシスコ法王 米タイム誌」(2013.12.12)
・ 毎日新聞:「今年の人:ローマ法王を選出・・・米タイム誌」(2013.12.12)など
・ ニュース動画:(YouTube:ロイター社報道)
(上の動画のトップは前教皇ベネディクト16世となっていますが、ニュース内容は問題ありません)
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※3:「表紙にドーンと飾るんです」
(画像をクリックすると別画面で「ドーンと」表示されます)
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※4:「彼、その日に・・・食事をしたんですよ」
・ 記事:「ローマ法王:ホームレスと朝食 77歳誕生日」(毎日新聞)
・ 画像:「招待したホームレスの男性らと話すフランシスコ」: 写真① 写真②(©AFP/OSSERVATORE ROMANO)
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※5:「聖マルタの家」(ドムス・サンクタエ・マルタエ
・ 教皇選挙(コンクラーベ)で枢機卿が宿泊するバチカンの宿泊施設。ヨハネ・パウロ2世によって新築された。教皇フランシスコは、歴代教皇の居館ではなく、この家で暮らしている。
画像: 聖マルタの家の写真 (©カトリック中央協議会)
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※6:「イエスのたとえ話の中に・・・たとえてるじゃないですか」
・ ・ マタイによる福音書22章9節:「だから、町の大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」
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