2015年9月27日年間第26主日
・第1朗読:民数記(民数記11・25-29)
・第2朗読:使徒ヤコブの手紙(ヤコブ5・1-6)
・福音朗読:マルコによる福音(マルコ9・38-43、45、47-48)
【晴佐久神父様 説教】
さて、ご覧になって、お気づきでしょうか。
侍者も高齢者、(笑) 先唱も高齢者、朗読も高齢者。(笑)
あの、今日初めて多摩教会に来たっていう方、「この教会はずいぶん高齢者が目立つな・・・」と、そう思われるとしたら、今日はシニアの方々のために祝福を祈るミサなので(※1)、典礼奉仕もすべて高齢者にお出まし願いました。私たちの教会を支えてきた、今もこの教会を支えている、高齢者の方々に、キラキラと輝いていただきたいと、まあ、それが、今日のこのミサの趣旨であります。
お気づきでしょうか。「なんだか今日のオルガン、いい音じゃん♪」と思うとしましたら、オルガンも「高齢者」にお出ましいただきました。(笑) ・・・オルガニストじゃないですよ。(大笑)オルガニストの高齢者は見つからなかったようですが、オルガンが高齢者なんですよ。倉庫にしまってあった足踏みのリードオルガン、ストップが七つ付いている懐かしのオルガン(※2)。かつて、多摩教会がマンションの一室だったころ、大活躍していたリードオルガンです。久々にこの音聞きましたけど、・・・いいですねえ。やっぱり電気オルガンには無理、絶対無理な音です。これ、コード付いてないんですよ。足で踏んでるんです。ふいごをね。オルガンが、息してるんです。・・・久しぶりにお出まし願っても、こんなに元気に働ける。こんなに暖かい音を出す。多摩教会の高齢者のシンボルですね。シニアの皆さんにも、がんがん働いていただきたいと。
「いやあ、私には無理です。私、もう体の調子が・・・」とか、そう言うとしたら、それは違う。
今日の第1朗読(※3)でも、モーセが言ってました。
「主の民全員が預言者になればよいと、わたしは切望している」(cf.民数11:29)
預言者っていうのは、神の言葉を預かって、神の言葉で人を救う者ですね。「具体的なひと言で人を救う」、これが預言のわざです。
これはもう、若いも高齢も関係ない。いや、むしろ、若い子にはなかなか難しい。しかし、齢(よわい)を重ね、経験を積んで、そして今や、本当に、神さまのために、この身を捧げ尽くしたいと願っている、そんな年代の方が語る、まさに具体的なひと言は、教会家族の中にあっても、本当にキラキラ輝くひと言ですよ。
口さえあれば、言葉さえしゃべれれば、今、目の前のもう一人の誰かに、福音を語ることができます。預言者なんですよ、主の民は、みんな預言者なんです。「神の言葉を預かって語る者」、これはもう、ホント、健康も才能も、何も関係ないです。ひと言、神さまの言葉を預かって、語る。
あるいは、イエスさまが、さっきこう言いました(※4)。
「あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」(マルコ9:41)
「一杯の水」でいいんですよ。「一杯の水」くらいはあるでしょう? これ、差し出せば、必ずその報いを受ける。・・・イエスさまのお言葉です。
「神の言葉」という福音、これを預かって、語る。
「神さまの命の水」である信仰、これを預かって、誰かにも分け与える。
・・・簡単なことです。さあ、「私はそのように選ばれている」という、「力をもらっている」という、そんな信仰があれば、簡単なことです。
シニアのミサで祈っているのは、「皆さん、長い間ご苦労さまでした。さあ、ゆっくりお休みください」なんてことじゃ、さらさらありません。「いよいよ本番ですよ。ここからですよ、よろしくお願いします」と、そう祈っている。
皆さんは選ばれし方々です。あなたがたの歳まで生きていたいと願いながら、かなわなかった大勢の先輩たちが、今、天国で皆さんを励ましておられますから、ちょっと本腰入れて、「教会家族」、やってこうじゃないですか。やっぱり、「教会家族」っていうからにはね、とりわけ、おじいちゃん、おばあちゃんが必要です。家族の中で、おじいちゃん、おばあちゃんの果たす役割が、どれほど大きいか、そんなものは、もう皆さん経験して分かってるはず。
「本番に向かって、多摩教会、シニアの方々を中心に、もう一歩踏み出しましょう!」と、そういうミサを、今日、捧げております。
神父もね、高齢者が司式すればちょうどよかったんでしょうけど、すいません、私がしゃしゃり出てまいりましたが、こんな私なんかでも、預言者として使ってもらえるのはうれしいことです。
先週の連休に、ある若い牧師先生が私に会いに来て、面白い話を教えてくれました。
最近、ある神学大学で説教の研修会があって、参加したんだそうです。これは牧師になって5年目くらいまでの若い牧師たち向けなんだそうですが、先生方がいろいろ教えてくださり、牧師たちもお互いの説教を講評し合うというような、そういう研修会だったようです。聞いた話なので詳しくは知りませんが。
そこでですね、それぞれの説教をみんなで講評して、得点を付けるんだそうです。たとえば、聖書の内容にちゃんとかなっているかとか、いろいろな細かいチェックリストがあってですね、それぞれ何段階かのチェックをするようになっていて、総合得点「何点」、みたいなね。
で、そこに参加していた牧師のひとりがですね、たぶんその研修があまりにも学問的に過ぎて、あまりにも細かい指摘が多くて、なんだかもう、窮屈になってきたんでしょう、こう発言したんだそうです。
「カトリック多摩教会の晴佐久神父の説教なんか、もしここに持って来たら、0点ですよ。(笑) でも、彼の説教は、現実に多くの人を救ってます」
そう言ったんだそうな。・・・「0点」はないでしょう。せめて30点くらいは頂きたい。(笑)
ただ、何点であろうと、そんなことはどうでもいいんです。およそ説教なんて、目の前の人に神の愛を宣言する預言の仕事を果たしているか、目の前の人に「一杯の水」を具体的にちゃんと出す預言の働きをしているか。・・・これだけですね。
説教で、得点高いの低いのなんてないでしょう。あるとするならば、福音をちゃんと伝えているかどうか。それだけでしょ。時には0点こそが、福音を中心にするために役に立つっていうこともあるんじゃないですか?
先週も、「一番先になりたい者は、一番後になりなさい」(cf.マルコ9:35)って言ってたじゃないですか、イエスさま(※5)。
「0点こそが役に立つ」って、そういうこともありますよね。
高齢者の方々は、・・・シニアの方々は、そういう秘密をよく知っているはず。人間が付けた得点が高けりゃ役に立つかっていったら、全然そんなことないっていう現実を、よく知っておられるはず。
そういえば今、ある出版社で、新書の企画があって、「ぶっちゃけキリスト教」みたいな本を出したいと。キリスト教のリアルをね、一般の人たちにも知らせたいみたいな、まあ、そういう企画です。3人の牧師とひとりの神父で座談会をして、それを本にしようっていうわけで、私がその「ひとりの神父」として招かれて、出版社の応接室なんかで、その4人で会ってはペチャクチャ好き勝手なことしゃべってるんですよ。
で、まあ、あまりにも盛り上がりすぎて、「これ、本にならないね」って、4人でいつも言ってるんですけど、編集者も困り果ててる様子なんですね。もう、みんな、大脱線していくから。
その中で、「神学校で一体何を学んでいるのか」っていう話題になったときに、今の神学校は学問に偏りすぎているっていう話になりました。専門的で高度な神学や、それこそギリシャ語、ヘブライ語に至るまで、勉強がとっても大変で、でもその学問をクリアしていかないと「いい牧師」とは呼ばれないという傾向があって、おかげで頭でっかちな牧師ばっかりになっちゃったっていう話になった。
そのときに、ある牧師が言ったんですね。「今の神学校の先生の中には、『ギリシャ語が読めない牧師は聖書が読めない』って言う先生もいるんですよ」って。それで、私、即座に、「『ギリシャ語が読めない牧師は聖書が読めない』と言うような牧師は、聖書が読めない」(笑)、そう申し上げました。なんだかみんな喜んじゃってね、それをもっとみんなに言ってくれって言われましたけど。
私、ギリシャ語、まったく読めません。自慢するようなことではありませんが、まったくダメ・・・。いや、やる気はあったんですよ。でも得意、不得意ってありますでしょう? 私には無理だった。頑張ったんですけどね〜、最初から投げたわけじゃない。そういうとこ、私、結構意地っ張りですし。・・・。でも、やっぱり無理。できないものは、できない。いまだに「何なの? このクニュクニュした文字は・・・??」レベル。(笑)
どうでしょう、でも、私は聖書が読めてないんでしょうか。
もちろん、学者がきっちり翻訳し、学者がギリシャ語の本質を分かりやすく伝えてくれる、そういう努力があればこそ、私も聖書を読んでこれたので、その学者たちには敬意を表しますが、翻訳の聖書しか読めない私は、聖書が読めてないんでしょうか。福音が語れてないんでしょうか。
・・・つい先週お母さんから聞いた話ですけど、まだ小さな娘さんが、イエスさまの十字架を見て、「イエスさま、かわいそうだよ〜、助けてあげようよ~」って言ったっていう話を聞きました。・・・ギリシャ語の「ギ」の字も知らない子どもです。でも、キリスト教の本質である愛を知っている。
「イエスさまを助けてあげたい」そんな素朴な思いが、信仰の始まりです。
そんな思いが、「神さまの愛を信じる」信仰につながるし、そのときこそ、イエスさまが助かります。・・・これはもう、聖書の本質でしょう?
十字架っていうのは、神の愛の表れです。この十字架こそが、ホントに神さまの愛だ、必ず助かるんだ、そう信じて握りしめるとき、そこに、イエスさまの本当の意味が表れて、イエスさまが救われる。いや、「イエスさまが」救われるんじゃない。「全人類が」イエスを通して救われる、・・・ですよね。
おとといの金曜日に、電話が一本ありました。この方は、娘さんが障害を抱えていて、非常につらい毎日を生きている、そういうお母さんです。今、大変な状況で、そのために、うつになっちゃった。で、教会にもなかなか来られない。
そんな中、ある方が、『家庭の友』(※6)っていう雑誌を、くれたそうです。1ページ目を開けると、巻頭に、私の創作の祈りが載ってるんですね。写真にお祈りを付けるというものです。今回のそのお祈りのタイトルが、「心の病に苦しむ人のいのり」っていうタイトルでした。9月号(※7)です。
そのお祈りで救われたという、お礼の電話です。このお祈りを読んだ瞬間に、うつのことを分かってくれてることがうれしくて、「私も、だいじょうぶだ。やっていこう」と、そう思えた。「心の病に苦しむ人のいのり」。
こういう祈りです。
起きることができません
眠ることもできません
食べることができません
祈ることもできません
もう消えてしまいたいのに
消えることもできません
ほんとうに何もできないのです
できることはただひとつ
十字架を握りしめることだけです
何もできない者の主よ
あなたの十字架を(「心の病に苦しむ人のいのり」 晴佐久昌英)
<『家庭の友』2015年9月号、発行:サンパウロ/掲載許可済>
私の身近にいる、病んでいる人たち、みんなが口をそろえて言うことを、ただ並べただけですけれども、最後の最後、「十字架を握りしめて」、すなわち、神の愛を握りしめて、すなわち、神の愛の表れである教会が差し出す福音、・・・「一杯の水」を握りしめて、人は生き延びることができる。
まあ、「0点」でも、ギリシャ語が読めなくても、もう死にたくなっている人を励まして、救うことはできます。
・・・そういうのが、シニアの方々の「使命」ですね。
イエスさまの救いを、今、目の前で救いを必要としている人に「一杯の水」として差し出せば、必ずその報いを受ける。・・・やってこうじゃないですか。
今、「教会家族委員会」なんていうのを、先週から始めて、あれこれ話し合っておりますけども、ま〜あ、大変ですよ。ひとりの人をね、励まして、救って、なんとか今の苦しみから解放しようとするならば、まあ、現実には大変ですよ。でも、あきらめちゃいけない。
教皇フランシスコが、「各教会、それぞれ1世帯の難民を受け入れろ」って言った話を先週しましたけども(※8)、ヨーロッパの話だと思ってたらいけない。この私たちでいうなら、東京教区の岡田大司教が、東京教区の各教会に、「各教会一人ずつ、ホームレスを引き受けろ」って言ったようなもんですよ。
これ、現実にやろうとしたら大変ですよ。でも、具体的に、「一杯の水」を差し出すこと、具体的に、その人を励ますひと言を差し出すこと、これ以外に、教会の使命なんてあり得ない。
確かに大変です。ところが教皇さま、「『いや〜、それは難しい。無理です』ってあなたたちは言うかもしれない」って、先回りして言うんですね。この前、私が聴いた講話ですよ。バチカンで聴いた講話(※9)で、そう言ってるんです。教皇さま、こう言ったんですよ。「あなたがたは、こう言うかもしれない。『私には無理です』とか、『神父さま、でも、わが家も問題をいっぱい抱えてて、貧しいんです』、そう言うかもしれない」って先回りして言って、退路を断つんですね。
「あなたがた、そう言うかもしれない。でも、だいじょうぶだ。信じる者に、主は、奇跡を起こしてくださる」
そうおっしゃった。
・・・私は、その奇跡を見たい。
福音書にあったように、悪霊を追い出している、そういう奇跡を行っているというのに、「わたしたちに従わないから、やめさせようとしました」なんて、ヨハネは言ってますけれども(cf.マルコ9:38)、そんな、自分の利益とか、自分のグループの名誉とか、自分たちの神学の正しさとか、そういうことにとらわれていては、私たちは、「一杯の水を差し出す」という普遍性から離れてしまう。
シニアの皆さん、今から、病者の塗油(※10)の秘跡をお授けいたしますけれども、およそ「秘跡」というものは、人を力づけ、強め、励まして、起き上がらせ、送り出すものです。
・・・覚悟は宜しいでしょうか。
「ご苦労さま、ご褒美です」なんていう秘跡じゃないですよ。「そろそろ本番を始めていただきたい」という、そのような、励ましの秘跡です。
受ける覚悟のある方は、どうぞ、前にお進みください。
【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)
※1:「今日はシニアの方々のために祝福を祈るミサなので」
カトリック多摩教会では、翌年(2016年)の4月1日までに75歳になられる方、およびそれ以上の方を「シニア」とし、9月26日(土)、27日(日)の主日のミサを、その方々のためのミサとして捧げた。(多摩教会で対象の方は約150名)
27日(日)のミサは、シニアの方の典礼奉仕で行い、ミサ中、信徒全員で、シニアの方々のために祈った。また、病者の塗油も行われた。ミサ後も、そのまま聖堂で、シニア代表の方からのお話、子どもたちの答辞や歌、グループによる合唱などで祝い、その後は場所を移し、信徒館で昼食会が開かれた。
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※2:「倉庫にしまってあった足踏みのリードオルガン、ストップが七つ付いている懐かしのオルガン」
◎(足踏みの)リードオルガン
「リードオルガン」とは、リード(しんちゅうの薄い板)に空気を当てて振動させる仕組みのオルガン。学校の教室にある足踏みオルガンは電気・電子オルガンを除けばリードオルガン。
晴佐久神父が「七つある」と言った「ストップ」とは、ノブ(タブ、レバー)の形になっていて、これを操作することによって、音色や音量などを調節できるようになっている。
(参考)
・ 「リードオルガン」(weblio辞典)など
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※3:「今日の第1朗読」
本日(2015年9月27日〈年間第26主日〉の第1朗読箇所)
民数記11章25〜29節
〈小見出し:「民の不満」11章1〜30節の抜粋〉
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※4:「イエスさまが、さっきこう言いました」
本日(2015年9月27日〈年間第26主日〉の福音朗読箇所)
マルコによる福音書9章38〜43節、45節、47〜48節
〈小見出し:「逆らわない者は味方」9章38〜41節、「罪への誘惑」42〜50節の抜粋〉
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※5:「先週も、『一番先になりたい者は、一番後になりなさい』(cf.マルコ9:35)って言ってたじゃないですか、イエスさま」
先週(2015年9月20日〈年間第25主日〉の福音朗読箇所)は、マルコによる福音書9章30〜37節。
弟子たちが「だれが一番偉いか」と議論し合っているのを知ると、イエスは次のように言われた。
「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(マルコ9:35)
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※6:『家庭の友』
◎月刊誌『家庭の友』(発行元:サンパウロ)
1949年創刊。聖パウロ修道会が、福音のメッセージを伝えるために発行している月刊誌。
晴佐久神父は、2007年4月から、現在(2015年10月現在)に至るまで、菅井日人氏(2015年5月帰天)の写真に添えるかたちで、巻頭に、詩(現在は祈り)の掲載を続けている。
コーナー名: (詩)「一行目は光」→(祈り)「いつものいのり」
(今回掲載の晴佐久神父の「いのり」は、サンパウロの許可を得て掲載させていただきました)
(参考)
・ 月刊誌『家庭の友』(発行元:サンパウロ)
・ 「今、ここで、信じます」(「福音の村」2015年6月7日説教)
>>> 説教の下から2段落目で、掲載をスタートしたいきさつに触れています。(この辺〜))
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※7:『家庭の友』(2015年9月号)
『家庭の友』(2015年9月号)〔発行:サンパウロ〕
パウルスショップ価格 300円(税込)
特集:世界遺産候補―長崎の教会群とキリスト教関連遺産―
他、連載多数。
詳細は、>>>こちら をご覧ください。
―――――――
※バックナンバーは、>>>こちらです。
(画像はクリックで拡大表示)
★お求めは、上記パウルスショップ(『家庭の友』2015年9月号)他、お電話でも購入可能です。
・・・『家庭の友』業務部:電話番号:03-3359-0451
また、お近くのキリスト教書店などでもどうぞ。
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※8:「教皇フランシスコが、『各教会、それぞれ1世帯の難民を受け入れろ』って言った話を先週しましたけども」
教皇フランシスコが、2015年9月6日『お告げの祈り』の際に呼び掛けた。
(参考)
・ 「教会と呼んではいけません」(「福音の村」2015年9月20日説教)
>>> 説教中〜後半、下から3段落目、この辺からお読みください。
(以下、既出)
・ 「教皇フランシスコ、2015年9月6日『お告げの祈り』でのことば」(カトリック中央協議会)
・ 「教皇、難民の家族の受け入れをアピール、全ヨーロッパのカトリック教会に」(2015/9/7 15:01「バチカン放送局」)
・ 「欧州の教会は難民受け入れを」 (2015/9/11 「カトリック新聞オンライン」)
・ 「教皇フランシスコ 危機的難民の受け入れ ‐欧州の全教会に訴える‐」(『カトリック新聞』2015年9月20日 (1))
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※9:「バチカンで聴いた講話」
教皇フランシスコ、2015年9月9日一般謁見演説。
===(以下、部分的に引用)===
今日、家庭とキリスト教共同体の間の結びつきを強めることは、急を要する、不可避なことがらです。このきずなを新たにすることに対する理解と勇気を得るには、豊かな信仰が必要です。
家庭はときに、しりごみして、そんなことはできないと言います。「神父さま、わたしたちは貧しい家庭で、着るものもろくにありません。」「そんなのは無理です。」「我が家はもう、たくさんの問題を抱えているのです。」「そんな力はありません。」確かにそうでしょう。しかし、価値のない人、何もできない人、何の力も無い人などいません。
神の恵みがなければ、わたしたちは何もできません。あらゆるものが、わたしたちに与えられます。しかも無償で与えられます。主は、奇跡を行わずに新しい家庭に来られることは決してありません。主がカナの婚宴でされたことを思い起こしましょう。そうです。もし、わたしたちが自らを神の手にゆだねるなら、主はその家庭の中におられ、わたしたちのために奇跡を起こしてくださいます。それは日常生活の中で行われる奇跡なのです。
(「教皇フランシスコ、2015年9月9日一般謁見演説」〔カトリック中央協議会訳〕より/赤字強調引用者)
・ 「教皇フランシスコ、2015年9月9日の一般謁見演説」(カトリック中央協議会)
・ 以下の説教でも、その演説について触れています。
「教会と呼んではいけません」(「福音の村」2015年9月20日説教)
>>> 説教、下から2段落目をお読みください。
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※10:「病者の塗油」〈既出 ほか〉
七つの秘跡(キリストによって制定され、教会に委ねられた、秘められた神のわざを示す感覚的しるし)の一つ。司祭が病者に油を塗って祈る式、また、その秘跡のこと。
重病あるいは高齢のために困難があるとき、死の危険が迫っているときに、病人の額と手に司祭が祝福された油を塗り、神の癒やしといつくしみ、聖霊のたまものを祈る。
12世紀ごろから次第に臨終の病人のみに限られるようになり、「終油の秘跡」と呼ばれるようになっていったが、第二バチカン公会議を経て、現在では臨終の時に限らず与えられ、「病者の塗油」という名称に改められている。
教皇フランシスコは、2014年2月26日の一般謁見演説の中で、この「病者の塗油の秘跡」について言及し、「人間に対する神のあわれみに、手で触れることを可能にしてくれる」と述べ、改めて「この秘跡が、イエスが病者や高齢者に寄り添ってくださることを確かなものとすること、また、65歳以上の人ならだれでも受けることができること」を伝え、「慰めと、前に進むためのイエスの力を与えて」もらうようにと勧めた。
(参考)
・ 「病者の塗油の秘跡」
『カトリック教会のカテキズム』(カトリック中央協議会、2002年)
「病者の塗油の秘跡」1500番〜1532番
・ 「病者の塗油」(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008年)
・ 「病者の塗油」(ウィキペディア)
・ 「病者の塗油の秘跡」(キリスト教マメ知識>ラウダーテ)
・ 「病者の塗油の秘跡(1)(2)(この秘跡を受ける者、授ける者)(この秘跡執行の効果)」
(カテキズムを読もう>ラウダーテ)
・ 「教皇フランシスコの2014年2月26日の一般謁見演説」(カトリック中央協議会)
・ 「ためらわず『病者の塗油』を」(カトリック新聞オンライン 2014年3月6日)
・・・< 文中へ戻る >
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