全人類に「おめでとう」

2011年12月18日 待降節第4主日(B年)
・第一朗読: サムエル記(サムエル下7・1-5、8b-12、14a、16)
・第二朗読: 使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ16・25-27)
・福音朗読: ルカによる福音書(ルカ1・26-38)

【晴佐久神父様 説教】

  天使の美しいあいさつを聞きました。「おめでとう、マリア」。まさに聖母は、そんなあいさつにふさわしい方です。でもこれは、実はマリアだけでなく、みんなに言われていることですよ。聖母は、人類を代表して受け止めてくださったのです。天使からの「おめでとう!」。
 現実には、おめでたくない出来事ばっかりだし、人から嫌なこと言われたり、それこそのろいのような言葉が飛び交っている中で、私たちが真に聞くべき言葉は、こんな天使の言葉でしょう。「おめでとう!」。天使の口からあふれてくる、この天の父の祝福をこそ聞くべきでしょう。
 人間同士の言葉は、あんまりムキになって聞くことないですよ。ま、だいたい聞いときゃいいんです。(笑)たいした言葉じゃないですからね、人間の言葉は。でも、その人間のうちに神様からの言葉が宿って、人間の口から神の祝福があふれて出てくるようなことがある。そういう言葉をこそ聞きましょう。実に私は今、そういう言葉を語っております。ガブリエルのように、神様からあずかった祝福の言葉、福音を語っております。こういう言葉を聞いて下さい。神様が皆さんに「おめでとう!」って言っているんですから。

  この世界は、神様に祝福されるに値する世界です。そもそも神様が造ったんだから、本来この世界は「おめでたい」んです。「おめでとう!」って言われるに値する、何の過ちもない素晴らしい世界です。しかしこの祝福を邪魔する力が、私を覆っている。私たちにフタをして分からなくしている。そういう現実を、キリスト教では、「罪」と呼びます。罪って、具体的な個々の悪い行いのことじゃなくって、そんな個々の悪い行いの原因の力、私たちを覆って神様からの祝福を邪魔している力が「罪」です。
 みんな勘違いしてるんですけど、われわれは本来は何でもないつまらない存在で、そこにありがたい祝福がやって来て「ああ、いい言葉聞いた」とか、どこからか幸運が訪れて「ああ、幸せが来た」とか、そんなイメージが皆さんあるかもしれないけど、それ、違うんです。何にも持っていない、つまらん自分に遠くから幸せがやって来るんじゃなくって、もともと皆さんは祝福で満たされている、「恵みあふれる」存在なんです。ただそれを邪魔する力が働き、その祝福を覆っている。だから、この邪魔を取り除くと、祝福があふれてくる。あるいはさらなる祝福が流れ込んでくる。それが真実ですよ。
 つまらない人間が、成長してだんだん立派になる。そう思ってるでしょ。違うんです。みなさんは本来祝福されているのに、つまらない自分だと思い込んでいるだけです。祝福を邪魔する「罪」が皆さんを覆っているだけです。そう思い込んでいるから、そのつまらない自分をはねのけようとして変に頑張っちゃったり、あるいはそんな自分を嘆いて「私なんか」と言っておとしめたり、ま、そんなことをしている。それが罪に支配されている状態ですね。

  そんな罪深い私たちの罪を吹き飛ばすように、今日、「おめでとう!」ってね、神からの祝福の言葉を聖母マリアが、すなわち全人類が「おめでとう!」ってね、言ってもらった。そういうふうにとらえてほしい。すると私たちは「自分はほんとに祝福されている存在なんだ」っていうことを知って、安心する。救われる。だからこの「おめでとう」、世界の本質を支える大事な言葉なんですよ。
 それで「天使祝詞」のお祈りでは、昔っから「めでたし、聖寵満ち満てるマリア」って、「めでたし」、「めでたし」、「めでたし」って繰り返しお祈りしてきた。ただこれを文語から口語に変える時、「めでたし」が翻訳しづらくって、まあ確かに「おめでとう」、「おめでとう」、「おめでとう」って繰り返すのはちょっと…ってことなんでしょう、翻訳する委員会がこの最初の祝福を省いちゃって、試行版では「恵みあふれる聖マリア」ってとこからにしちゃったんですよ。
 でも多くの人が、「やっぱり、そりゃないよ」と言い出して。この「おめでとう」忘れて、人類に喜びなんかありゃしない。神様から「あなたは幸いだ」、「祝福されてるんだ」、「今こそ、神の救い主が宿るんだ」という祝福をいただく、そんなひと言としての「おめでとう!」はやっぱり省けないねっていうことになった。ただ、確かに「おめでとう」って繰り返すのは日本語としてどうなんだろうかとか、いろんな考えもあって、じゃあいっそ、全世界で長い間唱えられてきたラテン語そのままに「アヴェ・マリア」にしましょうっていうことで、「アヴェ・マリアの祈り」に決定しました。いいんじゃないですか。アーメンとかアレルヤとか、大切な言葉は翻訳せずに使う習慣がありますし。ぜひ「アヴェ・マリア、恵みに満ちた方」ってね、繰り返しお祈りして下さい。良かったですよ。ちゃんと「おめでとう」が復活して。これで、「アヴェ・マリア」、「アヴェ・マリア」、「アヴェ・マリア」って祝福の言葉で祈れるようになりました。尊いひと言なんですよ。この「おめでとう」。聖母とともに、私たちみんなが受けているんですよ、この「おめでとう」は。

  じゃあ何が「めでたいか」っていえば、それはもう、ここに書いてあるとおりです。天使が一生懸命言ってるでしょ。「あなたは恵まれてる」、「主があなたともにいる」、「恐れることはない」、「あなたは神から恵みをいただいた」、「あなたは聖霊を受け、いと高き方の力があなたを包む」、「神にできないことは何一つない」って、これ全部天使の言葉ですけれども、だから「おめでとう」って言ってるんです。
 聖母マリアはその祝福を受け止め、それによって人類にイエス様が宿って、私たちは今日もこの「おめでとう」を、ちゃ〜んと聞くことができて、人類本来の「おめでたさ」を取り戻すことができる。これはまさに「福音」です。この「おめでとう」ひと言が究極の福音です。良かったですね、皆さんはほんとに「おめでたい」んです。神がおつくりになったその本質には何一つ問題がない。罪に覆われている現実はあるけれど、救い主が来られて、本来のおめでたさを取り戻すことができた、これが、キリスト教の信仰の本質です。
 「聖母マリアは原罪から免れている」。そういう神学的な言い方があるんだけど、今の話でよく分かると思う。つまり聖母マリアは、神からの「おめでとう」を、なにひとつ邪魔するものがない状態でそっくりそのまま受け止めましたって、そういうことなんですよ。そのおめでとうのうちに主が宿り、その主によってすべての人がおめでとうに目覚める。聖母において、もはや何も邪魔するものはない。
 よくね、「お言葉どおり、この身になりますように」っていうこのマリアの返事を、つらい現実も謙遜と信仰で引き受けましょう、というような忍耐の模範として受け止めるような解釈がありますね。確かにこの後、聖母は愛するわが子を失うわけですからねえ。未婚のまま身ごもることなど、自分には理解できないマイナス面も含めて、従順に謙遜に「この身に引き受けます」みたいなふうに解釈される箇所です。それはそれで全く問題ないんだけれども、でもごく素直に読んでみると、まず第一に、祝福を受け入れているんですよね、聖母は。神の祝福をそのまんま受け入れて、「お言葉どおりになりますように」って言ってるんだから、そこにはマイナスのイメージはなにもない。聖母マリアが、何の罪の邪魔もなく、すべてを神からの祝福として真っすぐに受け止めているっていうそこに、われわれ人類の希望というか、安心というものを読み取ってほしいんですよ。
 われわれはそこが邪魔しているから、神様の祝福を真っすぐに受け止めてない。祝福を祝福として受け入れられない。ついつい「こんな私はふさわしくない」とか「私はやがて不幸になる」とか、そういう恐れに覆われて、神の祝福に自分でふたをして、「おめでとう」を聞かせなくしてるんです。これが、われわれを支配している「罪」ですよね。だから、われわれには罪からの解放としての救いの洗礼が必要なんだし、罪から清められて、この「おめでとう」を真っすぐに受け止めて生きる信仰生活が必要なんだし、それによってすべての人を救うために働くのが教会なんだから、教会が人々を洗礼に招くのは、人々を本来の祝福に立ち返らせるためなんです。いま洗礼志願書受付時期ですけれど、洗礼についていろいろ思い迷っている方は、ぜひとも「こんな私はふさわしくない」ではなく、「こんな私だから洗礼が必要だ」という真実に目覚めていただきたいのです。

  今ね、そんな方々と面談していますけど、まあ、ほぼおんなじような感じのことを皆さん言うんですよね。「私のような人間はふさわしくないんじゃないか」とか「洗礼受けても信仰生活守っていくだけの自信がありません」とか「こんな罪深い私が洗礼受けちゃっていいんでしょうか」とか、そういうようなことを、みんな心のどっかで思ってる。
 まあ確かに、小さい頃から人から責められたり、失敗して自信をなくしたりっていうこと繰り返して、だんだん、だんだん、その最初の「めでたさ」から離れてきちゃってるっていうのは、仕方がないことかもしれない。でも、「だから」洗礼を受けましょうってお招きしているんですよ。そのめでたくない自分という罪の闇を払って、神様からの祝福をちゃんと受け止めましょうってお招きしてるわけだから、「罪深いから洗礼受けられません」っていうのは、最も矛盾しているんですよ。
 病院に来て、お医者様から「あなたは病気です。入院して下さい」って言われてるのに「私、病気だから、入院できません」って言ってるのと同じ。これ、おかしいでしょ。医者としては困るわけですよ。「いえ、ですからその病気を治すために入院するんです、ちゃんと治療しないと治りませんよ」「いえ、ですから、私今、重い病気なんで、とても入院できません」(笑)。
 でもこういうふうに思い込んでる人、信者にも多いですよ。まあ、教会も悪いんだよね。現にそう思わせるような教会あるからね。入り口に「罪人お断り」って張ってある(笑)ようなね。「病人お断り」っていう病院なんてありえないでしょう? でも、「あなたはうちの病院では扱えません、病気治してからいらっしゃい」みたいな、そういうことも教会内に実際にあったりするから、自分みたいな罪人はあの立派な人たちの集まりには入れないって思い込んじゃうんです。
 イエス様はおっしゃいました。「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。私が来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためだ」。まさに罪を病気にたとえているわけですけど、洗礼こそは、その罪の赦しなんです。あなたを覆っている本来の恵みから邪魔している力を、洗礼によって取り除こう、あなたがそれを信じることで、罪の闇から光の世界に生まれられるんだから、信じて、洗礼を受けて、真の「おめでとう」を知ってほしいっていう、お招きなんです。
 どうぞ皆さん、「こんな罪深い私はクリスチャンになんかなれない」とかいう人いたら、「いや違う」と伝えてください。「それじゃまるで、私、病気だから病院に行けないって言ってるようなもので、あなたが罪深いなら、まさに洗礼が必要なのよ」と、教えてあげて下さい。それこそは、福音だと思いますよ。

 第2朗読で、パウロが「そういう福音をちゃんと伝えることが、あなたがたを強めることになるんだ」っていうこと言ってましたね。その福音は「世々にわたって隠されていた、秘められた計画を啓示するものだ」と。人々が、この罪の闇の中で、「自分なんかは」と思い、「どうせ私は」と思っている時に、秘められていた神の「おめでとう」が、今、明らかになってきたんです。良かったですよ、イエス様に出会えて。そのイエス様がみんなを「大丈夫だ。あなたの罪は赦された」、そう宣言して下さって、私たちは、自分が本来「おめでとう」なんだという、その喜びを取り戻す。皆さん自身に言われていることです。聖母マリアとともに、「すべて祝福のうちにあるんだから、私、うれしい」と言って、大きな「おめでとう」を引き受けましょう。そのまんま、まるごと「おめでとう」として、受け止めます。

  先週、高齢の信者さんのお見舞いに行きました。ホームの自室で転んで骨折して、動けなくなって、一晩そのまま転がってたんですって。かわいそうに、一晩ですよ。悪いことに、食堂で夕食をとった後、自分の部屋に帰ってからのことなんで、翌朝まで誰も気づかなかったんです。何かにつまづいて転んで、ポキッっていっちゃって、手も足も怪我して身動きが取れない。大声も出ない。ただ苦しくて「う〜ん、う〜ん」ってうなるばかりで、どうしようもない。もちろん非常用のボタンがあって、ひとつはベランダの方、もうひとつはベッドのとこと、二カ所あるんだけど、そこまで這っていくのも大変なわけです。で、「あっちが近いか、こっちが近いか、同じくらいだな」って迷った時に、「そうだ、あれで決めよう」ってやったんですって。「どちらにしようかな、天の神様の言うとおり」(笑)。子どもの頃お遊びでやったでしょ。こう、指さしながらお菓子選ぶときとか(笑)。おばあちゃん、かわいいねえ、そんなことやったんですって。で、「言うとおり」ってやったらベッドの方だったんで、そっちに這って行って、そのボタンのとこまで起き上がろうとしたら、何と、そのベッドと壁みたいなところに挟まっちゃって、動けなくなっちゃった(笑)。それで、朝まで13時間半、ずうっとそこで挟まってたそうです。
 朝になって、食事出てこないからどうしたのかって見に来て発見されて、即入院したということですが。よほどつらかったんでしょう、彼女に「いやあ、そんなところに13時間、さぞかし苦しかったでしょう」って言ったら、即座に「13時間『半』です!」って(笑)訂正されました。そりゃあ、その13時間「半!」(笑)は、ほんとに今か今かの試練の時間だったはずです。
 でも、彼女はその間、ずうっとお祈りしてたんですって。しかも自分のためじゃなく、あの人のために、この人のためにってお祈りして、晴佐久神父さんのためにもお祈りしたって言ってましたし、いろんな人思い出しながら祈って、で、もう祈る人いなくなったら、また最初っから祈って、13時間半眠らずに祈り続けたそうです。で、彼女がこう言うんですね。「『天の神様の言うとおり』なんて、ちょっとふざけたようなことしちゃったから、それで間違ったほうに行っちゃったのかしら」。それで、「いや、そんなことないんじゃないですか」とお答えしました。「『天の神様の言うとおり』って信じたんだから、神様が与えて下さった方が絶対良いに決まってるって信じましょう。仮にもしベランダの方に行ったとしても、何があったかわかりませんよ。きっと、本当に神様の言うとおりでよかったんです」。
 もちろん早く助かったかもしれないけど、むしろその13時間半のお祈りが、どれほど尊い祈りであったか。それは、やはり神様の言うとおりなんです。皆さん、神様はちゃんと一番いいようにして下さるんだから、そう信じ続けて下さいね。「わたしは主のはしためです。お言葉どおりになりますように」ってね、心からそう言えば、その時こそ人生で最も聴くべき言葉、神からの「おめでとう!」が、本当に聞こえてくるんです。

2011年12月17日(土)録音/12月22日掲載
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