ああ、私は選ばれてるんだ

2012年11月18日年間第33主日
・第1朗読:ダニエルの預言(ダニエル12・1-3)
・第2読:ヘブライ人への手紙(ヘブライ10・11-14,18)
・福音朗読:マルコによる福音(マルコ13・24-32)

【晴佐久神父様 説教】

 素晴らしい福音を聞きました。すべてをご存じでおられる天の父が、私たちを「選んで」くださったと。私たち、「選ばれた人たち」なんですよ。そのことを感謝して、誇りに思って、安心しましょう。神さまによって選ばれた。これ以上の安心はないです。

 私たち、この世では選ばれないことが多いじゃないですか。就職とか、受験とか、オーディションとか、あるいは、彼は私を選んでくれなかったとか、なんか選ばれないことがたくさんあるから、だんだんだんだん、「私って選ばれてないのね」っていう気持ちになっちゃってるんですよ。
 それを神さまにまで当てはめてね、神も選んでくれてないんじゃないかって思うとしたら、大間違いですよ。神の選びが人間の選びとおんなじようなものだと思ったら、それは神さまに失礼。神の選びは、人間の相対的な選びとは全然違う、いうなれば「絶対的な選び」なんです。人間のは相対的な選びだから、この人とこの人は選ぶけれど、この人はいらないっていうようなことをしますけれど、神さまは、「選ばない」ということをしない。「しない」というか、神が選ばなかったらこの世に存在しないんです、そもそも。
 皆さん、神さまに選ばれたから存在してるんでしょ? そういうのを「絶対的選び」といいます。神が選ばなかったらこの世にいないんであって、いないものはしょうがない。神に選ばれなかったら、これはもうどうしようもない。初めからいないんだから。でも、神は選んでこのような世界をつくってくださった。選んでわれわれを生んでくださった。この世界は神の選びによって成立してるんです。だから、人間の選びのように、こっちは選んだけれども、こっちはいらないっていうようなことが、本質的な意味で、神においてはありえないんですよ。
 想像したらわかりそうなもんですよね。神さまが誰かを、「あなたは選ぶ、あなたは選ばない」。どうですか? 想像できますか?
 「佐藤さん、山田さん、鈴木さん、ハイッ あなたがたを選びました」。
 「晴佐久さん、あなたは、ちょっと・・・。ごめんね」(笑)
 これ、ちょっと変な神ですよね? そんな神をはたして「神」と呼んでいいのかどうか。それは「神」とは呼べないんじゃないか。むしろ、そういう神だと思いこんでること、もしかしたら、それが罪なのかも。だって、「罪」って、選ばれている喜びを邪魔する力でしょ? 神が無償の愛で私を生かしていることに気づかせない力、そういう邪魔のことを「罪」っていうんです。選ばれているにもかかわらず、私は神に選ばれていないって思うこと、これほど悲しいというか、残念なことがあるでしょうか。
 マルコの福音書でイエスさまが言いました。「そのとき、人の子は天使たちを遣わし、地の果てから天の果てまで、彼によって選ばれた人たちを四方から呼び集める」。ここには「選ばれた人たち」ってあるから、ぼくらの相対的な感覚だと、「じゃあ選ばれなかった人もいるのね」って想像して、で、「私もそうかも・・・」って恐れるとするなら、やっぱりそれ、この聖書の言いたいことと違うと思いますよ。むしろ、「神の選び」という最高の方法によって、地の果てから天の果てまで、天使たちによって神の子たちを細大漏らさず呼び集めようとする神の絶対的な意志を感じさせる言葉です。
 「神によって、キリストによって、選ばれた人たち」、それは、私たちです。神の子たちみんなです。神によって選ばれて、とりわけ今日、ここにこうして集められ、この主日にこうしてミサに(あずか)っているなんていうのは、まさに「そのとき」の始まりでしょう。これはやがて訪れる完成の集いの先取りなんだから。やがて神さまが、すべてをお集めになって、素晴らしい神の国の集いを完成なさる、そのひな形というか、先取りの宴をもうここで始めちゃいましたっていう、聖なるミサの集まりはそういう集まりですから。ここに集められた私たちはもう、なんでしょうねえ、・・・「そのとき」の練習をしてるようなものです。練習どころか、「そのとき」をもう始めちゃって、先に喜んでいる。
 この集まりを心から感謝して、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」という、このイエスさまの宣言に信頼を置きましょう。この世界は相対的な世界だからいずれ滅びるけれど、「あなたを選んだ」という神の選び、「あなたを愛している」という神の言葉は決して滅びないのだから、その言葉にさえ信頼していれば、私たちは永遠に生きるものとなるのです。
 選ばれないこと、つらいことってたくさんありますけれど、そういう意味では、別にこの世で選ばれなくっても、大したこっちゃないって思ってください。「私を選ばない方が悪いのよ」って、それくらい開き直ってね。神は私を選んでるんだから、私はこの世で誰に選ばれなくても平気ってね。もっといえば、神さまが選んでくださってるんだから、みんなと出会えているし、大きな意味では、実はみんなも私を選んでくれてるんだ。そういう深〜い気づきでね、安心してみんなと仲良くしたらいいと思います。
 この世に生まれてきたときはね、私たち、疑わずに、私は望まれて生まれた、愛されてここにいるっていう、「選ばれている自分」を知ってたのに、その後だんだん、冷たくされる体験をしたり、見捨てられたりすることを積み重ねて、だいぶ心が閉ざされちゃってるんじゃないですか?

 毎日新聞の川柳欄が、私大好きで、その中から毎月の「月間大賞」ってのが選ばれるんですよ。で、先週、10月の月間大賞が発表されたんですけど、これがかわいいんですよ。
 「離乳食 疑いのない 口を開け」
 かわいいでしょう? 「離乳食 疑いのない 口を開け」・・・なんかこう、子ども育てたことのある人ならわかりますよねえ。赤ちゃんが離乳食を食べようとして、無心に口を開けている様子。まさに「疑いのない口」を小さく開けてね。親が「ハイ、ア〜ン」って与えると、こどもは「ア〜ン」って口を開く。何も疑わない。それは私たちが本来持っている力です。与えられた恵みをそのまんま真っすぐに、素直に受け止める。そういう力を、神さまはみんなに与えてくれているからこそ、だれもが「ア〜ン」って口を開ける。お母さんが「ハイ、いい子ね〜」って食べさせる。そこに親子のつながりが生まれ、真の命が育まれ、私たちは喜びで満たされる。
 赤ちゃんは、疑いません。「選ばれなかった」っていう体験してませんから。何も疑ってないでしょ? 「この大豆は遺伝子組み換えですか?」とか、(笑)「セシウムは計りましたか?」とか、余計なことは何にも考えない。そこで私も、一句作りました。
 「御聖体 疑いのない 口を開け」
 いいでしょう?(笑)
 神から与えられ、口に入ってくる神の恵み、永遠のいのちの糧を、疑ってはいけません。
 「こんな私が救われるんだろうか」とか、「こんな私が聖なる秘跡を頂いていいんだろうか」とか、「本当に神さまは私たちを救うんだろうか」・・・などなど、疑ってはいけません。疑いのない口を開けて、神の愛をパクッて頂きます。
 そうして、私たちが人生で与えられているすべての恵み、それは、神さまから頂いている、神さまが選んで(・ ・ ・)与えてくださっているものだという、そういう信頼と感謝を神さまに捧げます。私たちの人生の始めから終わりまで、宇宙の始めから宇宙の完成まで、ぜんぶ神さまの選びによって成立してるんだから、先週のお話じゃないですけど、その途中なんだから。
 「始め良ければすべて良し」って言うじゃないですか。すべての初めに、神さまが望んで、選んで、この世界をおつくりになった。そして「良し」となさった。始め良ければすべてが良いんです。その後のものは、みんな良いんです。われわれは「悪い」と思ったり、「暗い」って不平言ったりするけれど、でもそれはまだ途中なんであって、悪いものも良いものに変えられながら、だんだんだんだん完成していって、そして最後、「終わり良ければすべて良し」なんです。イエスさまの言う「そのとき」っていうときが必ずくるわけでしょ。「そのとき」が。そのとき、すべてが完成する。すべてはこのときのためだったとわかる。そして「終わり良ければすべて良し」です。
 「始め良ければすべて良し」で「終わり良ければすべて良し」なんだから、私たちのこの人生は、どこにおいても「すべて良し」なんですよ。どんなことに出合おうと、どんな試練があろうと、「それもまた良し」ってね、信じていたらいいんです。

 さっきの話の続きですけど、月間大賞には「次点」みたいなのもあって、10月はこんなのもありました。
 「あんな嫁 きたらどうする レディー・ガガ」(笑)
 「レディー・ガガ」ってご存じですか? 奇抜なファッションと突拍子もない行動で知られる、超有名な女性歌手、大スターですね。ものすごい奇抜な格好でね、ホント、突拍子もない行動をする。今や知らぬ人もいない「レディー・ガガ」ですけど、「あんな嫁 きたらどうする」って、私にいわせれば、それはそれでまた神の選びだって受け入れたらいいんですよ。われわれはいつも、「そんなものは到底受け入れられない」とか「これは理解できない」とか「時代は変わった、ついていけない」とか「こんなものはいらない」とか、まあ簡単に切って捨てたり裁いたりするけれども、世界はやっぱりこう、複雑に絡み合っていて、良いこと悪いことに見えることがさまざまに絡み合っていて、そして、「終わり良ければすべて良し」に向かって、神さまがちゃんと選んでくれているんだから、「こんな嫁さえいなければ」っていうのは間違いなんです。「あんな嫁きたらどうする」って、答えはひとつ、「あんな嫁 きたら喜べ レディー・ガガ」(笑)でしょう。
 確かに来た瞬間はすぐには喜べないかもしれないけれど、すべてに意味がある、神が選んでくださってるんだっていうことを信じてないと、私たちはつまらない人間の選びで、神の選びを無駄にしてしまうことになりかねない。こんなもったいない話、ないですよ。神さまから頂いた恵みをホントに深〜く味わうことを邪魔をする、罪。人間の選択には、そういう罪、ありますね。

 昨日のいやしのミサ(*)の後、すぐこっちのミサがあるから帰んなきゃなんないんですけど、どうしても相談したいっていう方の話聞いてて、結局昨日の夜のミサ、5分遅れちゃったんですけど、その方のご相談っていうのが、「私が結ばれたいと願っている、愛する男性がいるんですけど、なかなか結ばれない。どうしたらいいでしょうか」っていう相談なんですよ。
 「もう3年も神に祈り続けているけど結ばれない。どう考えたらいいでしょうか」と。これにどう答えていいか。「あきらめずに頑張って、もう3年祈り続けなさい」って言うのか、「そろそろ見切りつけた方がいいんじゃないの?」って言うべきか。
 それで、「一生懸命お祈りするのもいいけど、3年願って駄目だったら、果たして神のみ心があるのかないのか、そろそろ判断しないとね・・・」と申し上げたら、「そのみ心が、分からないんです。だから困ってるんです」と言う。ですから、「そうですねえ、神のみ心って、そんな簡単に右か左かってわかんないですよね。そこはもう、あなたが信じるかどうかっていうことだから。う〜ん、でもその方も、3年もたってお返事くださらないっていうのは、なかなか難しいかもねえ」って言ったら、「いえ、まだ彼には告白してないんです」って。
 「それじゃあ、まず、告白してみたらどうでしょうか。・・・それで、お返事がイエスかノーかでね、『神さまのみ心、この結果にあり』って信じられたらスッキリするかもね」と、そんなアドバイスをしました。
 でも、帰り道々、私、車の中で思ったんですよ。結局ね、私がやっぱり一番答えるべきは、「どっちだっていいじゃん」だったな、と。その方がこの説教を読んでくれているといいなと思うんですけど、「結ばれようが結ばれまいが、どっちもみ心だよ」とお答えしたい。
 だって、「右が神のみ心か、左が神のみ心か」って、やっぱりちょっとおかしいって思うんです。すべてはみ心の内にあるんだし、神のみ心はある意味、もう実現してるんですよ。神が選んで私たちは生まれてきて、「ここに私がいる」っていうのが神の選びですから。
 そして、神さまが「始め良ければすべて良し」「終わり良ければすべて良し」っていう歴史を司ってるんだから、右の道を行こうが左の道を行こうが、「すべて良し」につながっているんです。これ、仮に右行ったら天国で、左行ったら地獄行きだったら、選ぶの大変ですよね。そんなの怖くって選べないんじゃないですか? 「どっち行っても救われる」。・・・これこそが、本当の、神の選びのうちにある者の生き方じゃないかなあ。
 この世ではね、「やっぱり右の方がいいだろう」って思ったり、「左はやめときな」ってみんなが言ったり、いろいろするんだけれど、どっちだって、神さまのみ心のうち、み手のうちにあると信じていたら、恐れずに、どっちかを選んで、あとは信じ続ければいい。選び方は、それこそ、サイコロ振るでもいいじゃないですか。同じことですよ、信じていれば。「ああ、ちょうど母の命日に出会った人だからご縁を信じて大切にしよう」とか、そんなような信じ方も素敵ですよ。サイコロじゃちょっとって言うんなら、聖書をパッと開いて、ちょうど出てきたみ言葉で決める、みたいなのでも構わない。何だっていいです。「神の選びのうちにあるんだ」っていう安心、信頼、希望さえあれば。
 まあ、この世界は、あっち選んだり、こっち選ばなかったりで、世はもうすぐ総選挙っていうことですしね、ともかく、なんかは選ばなきゃなんないわけですよ。ですから精いっぱい私たち、選びますけれども。でも、私たちが本当にこの世界で選べることっていうのは、大したことじゃないんです。本当に選ぶべきは、神が選んでるんだし、あえて言うならば私たちが選ぶべきは、神さまが私たちを生かしているという、その信仰の道です。その信仰の道さえ選んでいれば、後はその道を歩んでまいります。安心して。信頼して。

 第2朗読では、イエスさまが、もう一度っきりで唯一の献げ物をしてくださって、私たちを聖なる者とされたって、そのように読みました。この14節、「聖なる者とされた人たち」って誰のことですか? もちろん私たちです。キリストが唯一の献げ物、十字架という、ご自身という捧げもの、それこそ神の恩寵(おんちょう)によって聖なる者とされたんです。「聖なる者とされた(・ ・ ・)人たち」って、もう過去形でしょう? 私たち、もう「聖なる者」とちゃんとされてるんです。で、そんな私たちを「永遠に完全な者」となさっている。もう罪も不法もゆるされてるんだから、罪のための供え物なんていうのは必要ありませんよって、最後に書いてある。
 私たちが、救いのためにあれやこれやする以前に、神さまが救ってくださっているという恩寵に心を開いて、目覚めた者となってください。そのように目覚めた者となったらですね、第1朗読の最後にありました。「目覚めた人々は大空の光のように輝き」とあります。「とこしえに星と輝く」とあります。こんな私でも、大空の光のように永遠に輝けるんです。救いに目覚めてください。小さな目覚めでも、その目覚めこそが・・・。

 先日相談に来られた方は、10年前にある教会で洗礼を受けて、洗礼を受けてからうつ病になったって、そう言ってました。ちょっとショックでした。洗礼を受けたらうつが治ったって言うんならわかるけど、洗礼を受けたらうつ病になっちゃったって。
 で、どうしてかっていうと、教会の人はみんな立派に見えて、私みたいな弱い信仰で、ちゃんと理解もしてないのに洗礼受けちゃって、こんな自分はダメだって思うようになっていったと。みんな熱心な信者でね、がんばって努力してて、キラキラしてて、「神に感謝、キリストに賛美」ってやっている。私には到底そんなことはできない。こんな私は駄目なんだ、救われないんだって、思うようになっちゃった。
 でも、そういうのってあるでしょうね。教会って結構、まあ、元気な人たちがやっぱり集まってますし、目立ちますし、中には「あなた、救われてるんだから、そんな暗い顔してちゃ駄目よ」とかってねえ、簡単に言っちゃったりするじゃないですか。
 そんな励ましが役に立つときもありますけど、やっぱりもっと、選ばれた者として、安心して、信頼して、「そんなあなたも選ばれてるんだよ。イエスさまによってそんなあなたが救われてるんだよ」っていうことを示し、静かに優しく時間をかけて、目覚めさせてあげるべきでしょう。みんなが本当に「ああ、私は選ばれてるんだ」ってことに気づいて、輝きだせるような、そういうチームでありたい。そういう多摩教会になりましょうよ。
 「あ、選ばれた人が来た」、そう思って、新しい人を迎えます。
 「あ、この人を通して、私も輝ける」「この人との出会いによって、この教会が輝く」、そういう思いで迎えます。
 「今日は神さまが選んでくださったどなたかが、新しくこの教会に来ておられます」、そんな思いで私たちはお互いを受け入れ合います。・・・選ばれた多摩教会。


【 参照 】

(*)いやしのミサ(いやしのためのミサ「おかえりミサ」)
毎月第三土曜日 15:00〜 祈り / 16:00〜 ミサ 援助修道会聖堂(新宿区市谷)で行われている。
>>> 詳細(地図・住所・連絡先)は こちら へ 
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2012年11月18日 (日) 録音/11月23日掲載
Copyright(C) 晴佐久昌英