道行く人を救いましょう

【カトリック浅草教会】

2016年5月29日 キリストの聖体
第1朗読:創世記:(創世記14・18-20)
・ 第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント11・23-26)
・ 福音朗読:ルカによる福音(ルカ9・11b-17)

【晴佐久神父様 説教】

 今日も皆さんは、ご聖体(※1)をいただきます。・・・皆さんは、何枚目ですか?
 まあ、数えている人はいないでしょうが、実は分かる方もいるんですよ。この春、洗礼を受けたっていう方。「あれから、そうだ、ちょうど10枚目だ」とかね。
 私は、大勢の方に洗礼を授ける召命(しょうめい)(※2)をいただいて、せっせと奉仕しておりますが、洗礼式で水をおかけするとき、もちろん感動しますが、そうしてカトリック信者となった方が、そのすぐ後で行列して聖体拝領(※3)(あずか)るときにも、感動します。その人にとっては、ある意味、初聖体(※4)ってことになるわけですが、何十人もの方の洗礼式を司式していると、初聖体を頂く行列(※5)も、最初の数十人は初聖体の人たちばっかりなんですよね。
 復活徹夜祭の、あの、聖体拝領。これに、私は感動するんです。一人ひとりに、「キリストの御体(おんからだ)」って宣言して、ご聖体を渡すとき、初めて食べるわけですよね、その人が。食べる方も感動してるけど、渡す方も感動する。
 そのときの私の思いとしては、「よかったね~! もうだいじょうぶだよ。これから生涯、この恵みから離れちゃダメだよ。これが天の食事の始まりなんだ。あなたは救われている。安心して、恐れずに、あらゆる試練を、このご聖体を握りしめ、食べ続けて超えていこう。こんな素晴らしい仲間たちが一緒に食べて、キリストの体として一致してるんだから」と。・・・もう、そんな思いになるので、まあ、宣言する声も震えるって感じになるんですよね。
 だって、その一人ひとりが、それまで苦しんできた道筋とか、救いを求めて初めて教会に来たときとか、福音を聴いてみるみる元気になってきた様子とかを、ずっと一年間見てきてますから、「よかったねえ・・・」っていう思いで渡すとき、こちらも込み上げてくるものがある。
 成人洗礼でしたら初めて頂いた日、幼児洗礼でしたら初聖体の日、皆さん、覚えてますか? 感動して初めて食べたそのときの気持ちを忘れないでくださいね。
 天国に行ったときにはね、そのすべてが分かるわけですけども、自分が地上で頂いていたご聖体が、どれほど尊いものだったか、その力、その恵み、そこに込められた神さまの愛が、どれほど聖なるものだったかを知って、もう、感動して、感謝すると同時に、「ああ、もっとちゃんと頂けばよかった・・・」と、必ずそう後悔するんじゃないかな。まあ、いわゆる煉獄(れんごく)(※6)って、そんな感じなんでしょうね。そういう清めのプロセスをくぐり抜けて、純粋に神さまを賛美する天国に入っていくんでしょうけど、天国の入り口で、必ず後悔すると思いますよ。「あれほどの恵みを、私はこの世のことで心をいっぱいにして、ただなんとなく頂いていたなあ・・・」と。
 今日はご聖体の主日(※7)ですから、本心に返って、これほどの恵みに与る者としていただけたことに、(おそ)れ多いという思いと、自分はそれほどの選びを受けているんだということへの誇りを持って、しっかり食べていただきたい。司祭は、一枚一枚まごころ込めて、「ここに救いがある!」と、そういう思いでお渡ししますから。
 ご聖体の尊い恵みに与っているという、その誇りは、いかばかりか。

 今日この後、上智大学で講演会があるんですけど(※8)、「高山右近(※9)についてしゃべってくれ」って。だから私、最初の電話では断ったんですよ。「すいません、私、高山右近のこと、よく知らないんです」って。すると主催者が、「いや、いいんです」と。「最初ちょっと触れて、あとはお好きなようにお話しください」って。(笑) ・・・今日、だいじょうぶですかね、それで。(笑)
 まあでも、私、今こうして話しながら、ふと気がついた。高山右近だって、ご聖体を頂いたわけでしょう。迫害を受けながら、どんな思いで頂いていたのか。禁教令ともなれば、ご聖体もいただけない日々もあったでしょうけれど、どんな思いで過ごしていたのか。国外追放されて、フィリピンに着いて、病気になって熱にうかされて、何十日かで亡くなっちゃいましたけど、いよいよ天に召されるという思いの中、異国の地で頂いたご聖体に、どれほどの喜び、感動、希望を持ったか。・・・想像します。
 そうして右近は殉教し、そのころから後、日本では、ミサがなかったんですよね(※10)。二百数十年間、隠れキリシタンたちはご聖体を頂いてないんですよ。七代にわたってですって。自分のおじいちゃんのそのまたおじいちゃんは、ご聖体を頂いていたと聞いている。・・・そんな人が大勢いたわけです。「その恵みのパンを、いつの日か、自分の孫のそのまた孫のころには食べられる日がくるのかもしれない・・・」と希望を持ち続けた人たち。
 隠れキリシタンの時代、「カトリック信者でありながら、生まれてから死ぬまで、一度もご聖体を拝領しなかった」、そういう人が、どれだけいたと思います? ・・・ねえ、何の心配もなくご聖体をいただける現代の私たち、もう少し、ありがたくいただくべきでしょう。せっかくご聖体頂けるというのに、「今日はちょっと仕事が忙しいから、ミサはサボっちゃおう」なんて言ったら、天国の隠れキリシタンたちが、「おい、おいっ!!」ってツッコんできますよ。
 イエスさまが(のこ)してくださった、大切な大切な、この秘跡。ご聖体はイエスさまの体そのものですけれど、カロリーでいえば1カロリーもない。食べたから物理的にどうなるっていうものではない。でも、キリストの体であると信じる者にとっては、かけがえのない聖なるしるしです。そのしるしを通して、私たちは神の愛をまっすぐに受け止める。だから尊い。
 信じない者にとっては、このパン一つをただ見ても、「これ、何だろう?」っていうだけで、意味がない。しかし、信じる私たちにとっては、ただのパンじゃない。そのパンに込められている宇宙全体、神の愛そのもの、この私を生かしているすべての恵みを、しっかりと受け止めて、永遠の命の糧とするのです。
 「しるし」っていうのは、ありがたいですよ。被災地のことを想像してください。被災地でね、もう三日間食べ物がありません、今後どうなるのかも分かりませんっていうところへ、命がけの救援隊がやって来て、ついにおにぎりが届きましたっていうとき、このおにぎり、どれほどおいしくて、うれしくて、ありがたいか。でもそれは、ただの一個のおにぎりじゃないでしょう。とても尊い希望のしるしなんじゃないですか。
 「ああ、もう救われたんだ。ここから先、みんなが助けてくれるんだ。また新しい生活が始まるんだ。苦しみは、いつまでも続くものじゃないんだ。私は、今日から、この試練を乗り越えて生きていけるんだ」っていう、希望のおにぎりなわけでしょう。おにぎり自体は、何カロリーかに過ぎないですよ。でも、その一個のおにぎりに込められている、愛と希望、その救いの恵みは、これはもう、他の何にも代えられない。だからみんな、涙流して食べるわけですよね。
 われわれが頂いている、このご聖体は、精神的な被災地のようなこの現実社会の中で、そのような希望のしるしなんじゃないですか。このご聖体を一枚頂いただけで、永遠の希望が溢れてくるというような、恵みのパンですから、それはもう、心してしっかり頂いてくださいよ。

 昨日、「永代働く人の家」に行ったんです。ときどきミサのお手伝いをしてくださるペラール神父さん(※11)、ご存じでしょ? あそこで働いておられますけれども、一度はちゃんと、お訪ねしてお礼を言わなきゃならないと思っていたし、いっつも来ていただいているのに、こちらからはなかなか行けないでいたもんだから、申し訳ないなと思ってたら、そこに出入りしている青年が、今度の土曜日はペラール神父さんの誕生日で、夕方、誕生祝いをするって教えてくれた。で、私、心から尊敬している司祭ですし、いい機会だし、お祝いに駆けつけようって思ったわけです。
 ただね、どうせだったら、なにか思いを形にしたいなって考えた。ただ行って、「おめでとうございま~す!」って言うんじゃなくって、「心からのお祝いの気持ちを込めて来ましたよ」と、・・・青年たちも大勢集まってるでしょうしね、みんなにそれを表そうと思って、結構そういうの好きなんですけど「サプライズ訪問」をしちゃいました。
 「サプライズ訪問」って、来るはずのない人が突然現れて、みんなびっくりして喜ぶってやつですけど、どうせなら変装していこうと思った。あの、私、リスの着ぐるみを持ってるんですね。(笑) 「着ぐるみ」ってご存じですか? 全身リスの恰好で、リスの顔をスポンってかぶって、誰だか分からない。ディズニーの「チップ&デール」のチップですけど、とってもかわいい(※12)。・・・なんでそんなものを持ってるかはともかくとして、(笑) これを持ってってですね、「働く人の家」のガレージで人目を忍んで着てですね、これ、誰かに見られたら警察沙汰にならないかという感じでしたけど。(笑)
 それで、ピンポーンと鳴らして、あらかじめ用意してあったドングリの大きなカードにね、「ペラール神父さま、お誕生日おめでとうございます」って書いたのを手に持って、インターホンのモニターのカメラに見せたら、見てる青年が中で笑ってるんですよ。(笑) で、「どうぞお入りください」って言ってくれたんですけど、中では「なんか来たよ~!」って騒いでるんです。そうして会場に入ってっいったら、みんなビックリしてましたね~、「え~、誰? 誰?」って口々に言っててね。
 そのカードはね、1時間かけて作ったんです。絵具で、ドングリカード5枚。1枚ずつめくっていくようにしたのを、しゃべったらばれちゃうんで、めくっていったら、みんな声に出して読んでくれました。
 一枚目が、「ペラール神父さま、お誕生日おめでとうございます!」
 で、次をめくると、
 ・・・「神父さまは、面白くて、優しくて、」
 で、また1枚めくると、
 ・・・「イエスさまみたいだから、」
 また1枚めくると、
 ・・・「大好きで~す♡」
 って、ハートマークも書いてある。で、最後をめくると、
 ・・・「一緒にワイン飲みたいです。晴佐久神父」(笑)
 「え~っ!?Σ(・ω・ノ)ノ」ってね、みんなが言って、そこで顔を出すと、「わ~! 晴佐久神父さんが来た~♪ あ~びっくりした~」ってことで、大成功。
 まあ、「時間かけて用意して、精いっぱい何かを表したい」っていうその気持ちは伝わったと思います。どんなこともそうですよね、時間をかけて、心を込めて用意すると、ちゃんと伝わるってのは、お付き合いの基本です。これをね、「面倒だから簡単に済ませちゃおう」とか、「形だけつけて、こんなんでいいや」っていうことになると、だんだんだんだん、関係が死んでいくんですね。「去年もこれでいったから、今年もこれでいいだろう」とか、「どうせ何も残んないから、まあ、こんなところでいいかな」とかね、しまいには、「前やったから、もう今回はやめよう」って、そんな話になってくると、もう、どんどんダメになる。「教会家族」なんていうものも死んでいっちゃう。
 むしろ、私は、「1.2割増し」って、いつも言ってるんですけど、前の年と同じで済ませるんじゃなく、「1.2割増し」の思いでやれば、それでようやく現状を保てる。
 何かを丁寧に心込めてやると、通じるんですよ。
 ・・・ペラール神父さまの喜んだこと! 「驚きました、晴佐久神父さんが来てくれた*^^*」って言ってね。で、ワインを1本プレゼントして。みんなに祝福されて幸せそうな神父さんと、ワインを飲みながらおしゃべりできて、私もうれしかった。

 それにしても、あそこに集まった仲間たちが、ペラール神父さんのためにそれぞれたくさんの用意をして、準備をして、お祝いしてる姿を見ていて、もう、すぐに分かりました。この神父が、どれほどみんなに愛されているか。どれほどみんなに尊敬されているか。それはイコール、この神父がどれほどイエスさまのお手伝いをちゃんと「かたち」にしているか、ってことなんでしょうけど、それは、すぐに分かる。
 「永代働く人の家」というのは、カトリック青年労働者連盟(※13)の活動です。今の若い人たちが、どれほど仕事のことで苦しんでいるか、あるいは、仕事に()けないでいるか、その労働環境が、どれほど劣悪か、そして、使い捨てにされて傷ついているか。カトリックの青年労働者たちが団結して、そのような世の中を少しでも変えていこう、あるいは、そのように苦しんでいる仲間を少しでも救っていこう。・・・ペラール神父さんは50年、その活動を続けていらっしゃるんですよ。
 昨日、スライドを見せながら、ご自分の半生を語ってくださいましたけども、ビックリしました。叙階式の2週間前に、どこに派遣されるか発表されるんですって。で、2週間前に、「日本に行け」と言われた。「えっ?・・・日本!?」って、ちょっとビックリしたけれど、その2週間後には神父になり、その3カ月後には、もう日本に来てるんです。・・・以来、50年ですよ。
 昨日の誕生会は、喜寿、77歳のお誕生会でしたけども、大勢の青年たちに囲まれてお祝いされながらも、彼は、今の青年たちの現状がどうなっているか、どいうふうに苦しいか、どこに問題の根っこがあるのかと、スライドでね、きちんと、みんなに教えてましたよ。ご自分の誕生会でも、愛する青年たちを育てるために、丁寧なお仕事をなさっているんです。そうしてみんな、少しずつ教育されて、本当にこの世界を変えていこう、今つらい思いをしている一人の青年をなんとかしようっていう動機を育てられている。・・・これこそ、教会の使命ですよね。
 ペラール神父さんのお働きは、もうまさに、神の国の先取りですし、その意味では、神父さまご自身が、まるで一つのご聖体のように、この日本にもたらされてるんですよね。・・・秘跡を頂いている人もまた、秘跡なんです。神の愛の目に見えるしるしとひとつになって、自らも目に見えるしるしになるんです。

 先週お話しした、スリランカから来たラシャン君、今日も、このミサにあずかっていますけど、ペラール神父さんの誕生会に、あの日の歓迎会で友達になった青年たちに連れられて来てたんですよ。「あれ? ラシャンがここにも来てた!」と思ってうれしかったですよ。連れて行った青年たち、えらいですよ。キリスト者ですよ。ラシャン君もいいバイトが見つかるといいですね。留学生のバイトを紹介したいという人が現れて、その連絡先を渡しましたけれども。
 私たちすべてのキリスト者が、一人ひとりの、つらい現実を生きている人に、福音を語り、ご聖体の恵みを広めていく者であってほしい。
 皆さん、ご聖体ってね、これさっき、ルカの福音書にあったように(※14)、みんな、「自分で食べ物を見つけに行かせて」(cf.ルカ9:12)なんて言っちゃいけないんですよ、私たち。ご聖体を頂いた皆さんが、みんなをご聖体のもとに呼び集めて、皆さんが、みんなに神の恵みを分かち合わないと。
 弟子たちは、「解散させろ」って言ってるでしょ、「自分で食べ物見つけろ」って(cf.ルカ9:12)
 ・・・しかし、それは過ちです。「自分で」、恵みは得られないから。
 イエスさまは、言います、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」。
 恵みは、頂きものです。そして、私たちは頂いている。「パン五つと魚二匹」(ルカ9:13)かもしれないけれども、それで十分。神さまから頂いたその恵みを、「イエスさまが」「私たちに」「渡す」んですね。
 「裂いて弟子たちに渡しては(・ ・ ・ ・)群衆に配らせた」(ルカ9:16/強調引用者)
 イエスさまが、恵みを、私たちに渡して、私たちはそれを「頂いて」、群衆に「配る」。これが私たちの使命です。
 恵みは、もうすでにここにあるんですよ。それを、渡す。そんな難しい話じゃない。「ご聖体でどれほど生かされてるか」っていうことを、ひと言誰かに伝えるだけでも十分。「あなたも食べてくださいよ」と、「入門講座に来ませんか?」と。・・・簡単な話。
 悩んでる人に、一日に一人は会うでしょ? ぜひ配ってください。ご聖体はその日のうちには渡せませんけど、福音は語れるし、教会には招けるし、やがては洗礼の恵みにまで導けます。

 上野教会の先々週の入門講座で、私、外の道を人がいっぱい歩いてるから、「道行く人を救いましょうよ。中でキリスト教の講座開いてますって、カフェボード出しませんか」って入門係の人に言ったんですよ。そうしたら、えらいんですよ、先週、入門係が、すぐにやってくれたんです。・・・この辺、売ってますもんね。浅草橋とか。・・・「カフェボード」(※15)、ご存じでしょ。黒板で、喫茶店の店先なんかに、よくコーヒーの絵か何か書いて、置いてあるでしょ。脚を開いて、三角形にして立てるやつね。
 それを買って来て、「今、入門講座やってます。どなたでもどうぞ。10時半からです。分かりやすい神さまの話です」って書いて、教会の外の歩道に出してくれた。・・・なんと、それ見て来ましたよ。
 初めて見る方が座ってたんで、「どちらから来られました?」って言ったら、
 「カフェボードを見て来ました。いつもは上野の郵便局に入谷の方から来るんだけれど、今日はなぜだかぐるりと回って上野側から来てみたら、教会の前にカフェボードが出ていたので。最近、親を亡くして、すごく寂しい気持ちでいて、何か宗教を求めていて、先週は明治神宮に行ってお参りしてきたんですけど、今週はカフェボードが出ていたから、寄ってみました」って言う。
 私、もう、喜んでね、いつもの1.5割増しの福音を、(笑) ガーッとしゃべってね、本人もすごく喜んで、「来週も来ます」と。私、あの人が来年、上野教会で洗礼式に並んでいても、何も驚かない。今まで30年間ずっと、そういうことをしてきましたから。でも、なかなかそういうことって、日本のカトリック教会は見ていないので、私は、皆さんにもお見せしたいんです。
 「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(ルカ9:13)
 頂いた恵みを分けること、ぜんぜん、簡単なこと。・・・ひと言なんです。
 「いいから、信頼して、ここにおいでよ」と。
 浅草でもカフェボード、出しましょう。出せば道行く人が救われるんだから。この恵みの大きさたるや・・・!

 浅草教会のある信者さんが、今、大変つらい闘病生活をしておられますが、つい先日、病者の塗油(※16)のためにお訪ねいたしました。その方、ベッドの上で、こう言っておられました。
 「神父さま、私は、ホントに今、苦しい状態だけれども、心が穏やかなんです」と。「私は今、息をすることしかできない。でも、呼吸することが、どれほどありがたいか。私はいま、息できるだけで幸せ。吸って、吐いて、吸って、吐いて・・・」
 皆さん、何でもそろっているつもりでも、元気に働き回っているつもりでも、誰も「いま、息できるだけで幸せ」なんて、考えてないでしょ。今日起きてからここに来るまでの間に、「私、息できていいな」って思った人、いないでしょ。無意識に、当たり前のように、吸って、吐いて、吸って、吐いて・・・。
 神の愛は、いつも私たちの内に来ています。でも、われわれは気づいていない。すべてを失ったかのように見えても、神の愛に目覚めているとき、本当の喜びが、そこに生まれる。・・・ご聖体の神秘ですよ。
 病者の塗油をお授けして、ご聖体をお渡ししたら、ご聖体を頂いて、涙をこぼしてましたよ。試練の中で、どれほどの感謝、感動を持って、神の愛を、キリストの体を、永遠の命の糧を、口にしたことか。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)

※1:「ご聖体」
◎ 聖体  〔ラ〕sanctissimum sacramentum 〔英〕Blessed Sacrament
 カトリック教会の用語で、ミサで聖別されたパンのこと。その形態の中に復活の主キリストが現存すると信じられ、祈りと礼拝の対象とされている。
 特にカトリック教会の信仰生活と霊性に決定的な意義を有しているが、それだけにその理解も用語も、歴史の中でさまざまに変遷した。
 当初はミサに参加できなかった人のために聖別されたパンが保存されていたものが、次第に食事の儀式であるミサから独立して、それ自体で「キリストの体」として礼拝の対象とされるようになった。その神学的理解に関しては、歴史の中でしばしば議論され、聖体におけるキリストの臨在の在り方が実在か象徴かが論じられてきた。第4ラテラノ公会議(1215)では、実在的な臨在の理解が教義とされ、トリエント公会議(1545-63)においても、実在説が改めて明言され、聖体に関する信心が奨励された。
 現代のカトリック教会では、第2バチカン公会議による典礼刷新を経て、すべての聖体への信心をミサに向けて位置づけているが、「現存しておられる」という立場は変わらない。

*** 以下、『カトリック教会のカテキズム』(カトリック中央協議会、2012)からの引用 ***
・ 「パンとぶどう酒がキリストのからだと血に変わることによって、キリストはこの秘跡に現存するものとなられます」(1375番、部分)
・ 「存在しなかったものを無から造り出すことができたキリストのことばは、存在しているものを別のものに変えることができないのでしょうか」(1375番、部分)
・ 「パンとぶどう酒の聖別によって、パンの全実体がわたしたちの主キリストの実体となり、ぶどう酒の全実体がその血の実体に変化します。聖なるカトリック教会は、この変化をまさしく適切に全実体変化と呼びます」(1376番、部分)
・ 「聖体におけるキリストの現存は聖別のときに始まり、その形態が存在する限り続きます。キリスト全体がそれぞれの形態のうちに、またその部分のうちに全体として現存されます。したがって、パンを割いてもキリストが分割されることはありません」(1377番)

(参考)
・ 「聖体」(『岩波 キリスト教辞典』、岩波書店、2002-2008)
・ 『カトリック教会のカテキズム』(カトリック中央協議会、2012)
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※2:「召命」
◎「召命」 〔ラ〕vocatio 〔英〕vocation
 神から召されて特別の使命を与えられること。
 イスラエルの歴史には、アブラハム、モーセ、イザヤやエレミヤなど、神から特別に選ばれ、民のために特定の使命を受ける物語が数多く伝えられている。その際、神の創造の息吹である聖霊が注がれ(しばしば油を注ぐという儀式によって表現される)、その人に使命遂行のための力を与えている。
 この伝統の上で、イエス自身も終末論的な預言者として神の民を呼び集める使命を自覚した(マルコ1:16-20、2:13-14など)。イエスの弟子たちもまた、イエスによって神の協働者として呼ばれ、パウロは復活のキリストによって召し出され、使徒としての使命を受けた。
 すべてキリストの信者は平等だが、キリストが弟子たちの中から使徒を選ばれたように、神の民の中には種々の役目があり、その歴史からも、司祭、助祭など教会の奉仕職に与る者や、修道士、修道女などの修道者は、神からの呼び出しを受け、その使命を与えられていると考えられている。これを、狭義にける「召命」という。
 しかし広義において、信徒一人ひとりは、聖職者や修道者ではなくても、洗礼と堅信によってキリストから教会に託された使命である「使徒職」の召命を、また、それぞれの生活の場で神の望みを行うという「召命」を受けている。
 ルターは特に、召命という概念を聖職者や修道者に限定せず、一人ひとりが神から使命を受けていること、世俗のただ中で従事する職業も神から受けた使命であることを強調した。
(参考)
・ 「召命」(『岩波 キリスト教辞典』岩波書店、2008)
・ 「召命」(ウィキペディア)
・ 「召命-種々の道」(カトリック召命チーム
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※3:「聖体拝領」
◎「聖体拝領」  〔ラ〕communio 〔英〕Holy Communion
 日本カトリック教会の用語で、キリスト者がミサの中で聖別されたパンとぶどう酒を共にすること。
 原語は「交わり」を意味し、キリストの名において集い、食事を共にすることを通して象徴される、キリストの命の糧に生かされた共同体の形成をいう。
(参照)
・ 「聖体拝領」(『岩波 キリスト教辞典』、岩波書店、2002-2008)
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※4:「初聖体」
◎「初聖体」 〔英〕first communion
 洗礼を受けた後、初めて聖体拝領する機会のこと。
 カトリック教会では、教皇ピオ10世が1910年に、子どもの初聖体の年齢を、理性を働かせるよういなる7歳ごろと定めた。83年に公布された教会法では、特に具体的な年齢は定められていない。成人の場合は通常、洗礼式が行われるミサの中で初めて聖体を受ける。
(参考)
・ 「初聖体」(『岩波 キリスト教辞典』、岩波書店、2002-2008)
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※5:「初聖体を頂く行列」

左の画像は、数年前の復活徹夜祭で洗礼を受け、初聖体を頂く行列に並ぶ、新受洗者たち(@カトリック多摩教会)

(<< 画像はクリックで拡大表示)
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※6:「煉獄」
◎「煉獄」  〔ラ〕purgatorium 〔英〕purgatory
 小罪(小さな事柄であったり、人の意識や自由がはっきりしていない状態で、神の意志に背くこと)のある人(または「霊魂」。以下同様)、もしくは罪の償いを果たさなかった人は、死後、永遠の命こそ保証されているものの、天国の喜びに与るために必要な聖性を得るよう、最終的浄化を受けることになっている。この浄化を、「煉獄」という。この世の命の終わりと天国との間に多くの人が経るとされている。生者はミサ、祈り、信心業などによって煉獄の魂の苦しみを和らげたり、短くしたりすることができる。
 カトリックは煉獄の存在を、マタイ12:32や、一コリント3:11-15にみるが、東方正教会は来世で人間が清められる状態と考え、プロテスタントは煉獄の存在を聖書に記述がないものとして否定している。
(参考)
・ 「終末と永遠のいのち」(『カトリック教会の教え』、カトリック中央協議会、2011)
・ 「最終の清め・煉獄」(『カトリック教会のカテキズム』、カトリック中央協議会、2012)
・ 「煉獄」(『岩波 キリスト教辞典』、岩波書店、2002-2008)など
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※7:「ご聖体の主日」
 この日はカトリック教会の「祭日」に定められており、「キリストの聖体」の祭日と呼ばれている。
 本来は、「三位一体の主日」(祭日)後の木曜日に記念されているが、日本のようにキリスト教の信者が少ない国では、平日にミサに与るのは困難なため、その次の日曜日に祝うように配慮されている。
 この祭日が定められたのは、聖体に対する信心が最高潮に達した13世紀で、教皇ウルバノ4世が教令を発布した1264年から、ローマ教会全体で祝われるようになった。
・ 「聖体」(『岩波 キリスト教辞典』岩波書店、2002-2008)
・ 「C年 キリストの聖体」(「教会カレンダー」<「ラウダーテ」)
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※8:「今日この後、上智で講演会があるんですけど」
 この日(2016年5月29日)上智大学で行われた「ASF2016(「オールソフィアンズフェスティバル2016」)で、晴佐久神父が講演者として登壇した。タイトルは、「信じて生きる! 高山右近の列福を通して」
(参考)
・ 「ASF2016(「オールソフィアンズフェスティバル2016」)
・ 「講演者一覧
・ 「『SOPHIANSNOW』No.179 p.7」(デジタルブック-Flash)

                      (画像はクリックで拡大表示)
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※9:「高山右近」
◎高山右近 (1552-1615)既出
 代表的なキリシタン大名。飛騨守(ひだのかみ)・高山友照(たかやま・ともてる)の長男。
 1564年、キリシタンの洗礼を受けた。洗礼名は「ユスト(ジュスト)」(ポルトガル語で「正義の人」の意味)
 73年、荒木村重の支援を得て摂津高槻城主になった。村重が織田信長に叛いた際、信長はキリシタンに迫害を加えると脅し、右近は抗したが、結局、イエズス会の宣教師、G・オルガンチノのすすめで降伏。信長の武将となり、85年播磨明石6万石を与えられた。
 87年、豊臣秀吉はキリシタン禁令を発布したが、右近は棄教に同意せず、信仰を守ることと引き換えに領地と財産をすべて捨てることを選んだため、改易〔かいえき/身分を平民に落とし、家禄や屋敷を没収する罰。切腹よりは軽いが、蟄居(ちっきょ)より重い〕に処せられ、小豆島や肥後などに隠れ住んだ。
 88年、右近は前田利家の招きで客将のかたちで金沢に行き、おそらく1万5千石を受けたとされる。そこで26年間、天と地のために働いた。
 1614年、徳川家康による幕府の禁教令、キリシタン国外追放令により、一族と共にマニラに追放され、到着後、約40日後の1615年2月3日、同地で熱病のため帰天。63歳。生涯を通して敬虔な信仰生活を貫いた。
 茶人としても著名で、南坊と号し、利休七哲の一人と称された。
 右近の列福運動は戦後本格化され、2011年に、申請理由を証聖者(しょうせいしゃ:殉教によらず、信仰を証しする生涯を送った聖人)から、殉教者に改めることが認められた。2014年、ローマの申請代理人が正式な列聖申請書を教皇庁列聖省に提出。さまざまな審査を終え、本年(2016年)1月21日、教皇フランシスコが
列福を承認、バチカンが翌22日に発表した。
(参考)
・ 2008年『岩波 キリスト教辞典』岩波書店
・ 「高山右近について」(カトリック高槻教会/大阪府高槻市野見町)
・ 「ユスト高山右近」(カトリック金沢教会/石川県金沢市広坂)
・ 「高山右近」(ウィキペディア)
・ 「高山右近福者に」(バチカン放送局、2016/01/22/12:56) ほか
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※10:「そのころから後、日本では、ミサがなかったんですよね」
(簡易年表)
1549年: フランシスコ・ザビエル来日、信徒が増えていく。
1614年: 徳川家康による禁教令
1615年: 2月3日、高山右近、追放先のマニラで、熱病により殉教
1637年: 島原の乱。この前後から幕府による取り締まりが厳しくなる
1644年以降、カトリックの司祭が一人もいない状態になる。
(一部の信徒が潜伏キリシタンとして信仰を守り続ける)
1865年: 長崎で信徒発見
(ただ、未だ禁教令のもとにあり、信仰を表した信者には拷問、投獄などで弾圧があった)
1873年: 諸外国の非難を招き、「キリシタン禁教令」が解かれて信仰の自由が認められる。
パリ外国宣教会などが、再宣教に来日。
☆上記の歴史をみると、少なくとも1644年から1873年の230年ほど、ミサのない状態だったと考えられる。
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※11:「ペラール神父さん」
◎ピエール・ペラール(仏 Pierre Perrard)神父  (パリ外国宣教会)
 1939年6月生まれ。パリ大学卒業後、1965年25歳で来日。6月29日叙階で、昨年(2015年)、金祝(司祭叙階50周年)を迎えられた。働く若者たちの活動をサポートするカトリック青年労働者連盟(JOC)の協力司祭。
 岡田大司教は、金祝ミサの説教の折、「誰かを愛するとはその人を大切にすること、それはその人のために苦しみ、そしてその苦しみの代償をその相手に求めないこと」と語られたうえ、「ペラール神父さんは、この神の愛を人々に告げ知らせ、愛のネットワークをつくるために50年の司祭の働きを奉げてくださいました」と感謝の言葉を述べられた。
(参考)
・ 「ペラール神父司祭叙階金祝ミサ説教2015/5/10」(岡田大司教メッセージ・説教カトリック大司教区)
・ 『日本カトリック司教協議会 イヤーブック2009』(カトリック中央協議会) ほか
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※12:「『着ぐるみ』ってご存じですか?(中略)ディズニーの『チップ&デール』のチップですけど、とってもかわいい」
 「チップ&デール」は、ディズニーの、シマリスのキャラクター。チップは黒い鼻で、歯が中央に1本。デールは赤い鼻で歯が2本ある。性格は正反対なのに、いつも一緒で、プルートやドナルドダックとの共演が多い。双子の兄弟などの血縁ではない。
 ナイトクラブの歌姫クラリスに憧れているそう。
 (← チップとデール。「着ぐるみ」姿で。)
    (<< 画像はクリックで拡大表示)
(参考)
・ 「チップ&デール」(ディズニー・キャラクター)
・ 「チップとデール」(ウィキペディア)
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※13:「カトリック青年労働者連盟」
◎ カトリック青年労働者連盟(JOC)
20代前後の、働く、働こうとする、若者の活動。「JOC」はフランス語の
Jeunesse Ouvrière Chrétienneの略で、英語では「YCW」といわれ、Young Christian Workersの略。
詳細は、下記のホームページをご覧ください。
・ 「日本JOC」(カトリック青年労働者連盟「札幌JOC」「東京JOC」「大阪JOC」「高砂JOC」「広島JOC」)
・ 「東京JOC」(カトリック青年労働者連盟「東京JOC」のホームページ)
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※14:「これさっき、ルカの福音書にあったように」
この日、2016年5月29日(キリストの聖体)の福音朗読箇所は、以下のとおり。
 ルカによる福音書9章11b~17節
  〈小見出し:「五千人に食べ物を与える」9章10~17節から抜粋〉
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※15:「カフェボード」
  「カフェボード」サンプル画像

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※16:「病者の塗油」〈もう少し詳細は既出
 七つの秘跡(キリストによって制定され、教会に委ねられた、秘められた神のわざを示す感覚的しるし)の一つ。司祭が病者に油を塗って祈る式、また、その秘跡のこと。
 重病あるいは高齢のために困難があるとき、死の危険が迫っているときに、病人の額と手に司祭が祝福された油を塗り、神の癒やしといつくしみ、聖霊のたまものを祈る。
 12世紀ごろから次第に臨終の病人のみに限られるようになり、「終油の秘跡」と呼ばれるようになっていったが、第二バチカン公会議を経て、現在では臨終の時に限らず与えられ、「病者の塗油」という名称に改められている。
 教皇フランシスコは、2014年2月26日の一般謁見演説の中で、この「病者の塗油の秘跡」について言及し、「人間に対する神のあわれみに、手で触れることを可能にしてくれる」と述べ、改めて「この秘跡が、イエスが病者や高齢者に寄り添ってくださることを確かなものとすること、また、65歳以上の人ならだれでも受けることができること」を伝え、「慰めと、前に進むためのイエスの力を与えて」もらうようにと勧めた。
(参考)
・ 「第24回「世界病者の日」教皇メッセージ(2016年2月11日)」(カトリック中央協議会)
・ 「病者の塗油の秘跡」
   『カトリック教会のカテキズム』(カトリック中央協議会、2002年)
    「病者の塗油の秘跡」1500番~1532番
・ 「病者の塗油」(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008年)
・ 「病者の塗油」(ウィキペディア)
・ 「病者の塗油の秘跡」(キリスト教マメ知識>ラウダーテ)
・ 「病者の塗油の秘跡()()(この秘跡を受ける者、授ける者)(この秘跡執行の効果)」
   (カテキズムを読もう>ラウダーテ)
・ 「ためらわず『病者の塗油』を」(カトリック新聞オンライン 2014年3月6日)
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2016年5月29日 (日) 録音/2016年6月22日掲載
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