福音キャラメル

【カトリック上野教会】

2018年2月4日 年間第5主日
・ 第1朗読:ヨブ記(ヨブ記7・1-4、6-7)
・ 第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント9・16-19、22-23)
・ 福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ1・35-42)

【晴佐久神父様 説教】

 イエスさまが「悪霊を追い出された」というとこですね(cf.マルコ1:34,39) (※1)
 ちょうど節分ってことで、昨日は、「鬼は~外!」ってやってましたけど、あれは、いうなれば悪霊を追い出す、まあ、そういう儀式ですよね。ちなみに、成田山新勝寺では、「福は内」しか言わないって、テレビでやってました。お不動さんが、もう悪霊を追い出しちゃってるから、もう「鬼は外」は言わんでいいのだ、みたいな説明でしたけど(※2)。なるほど、それでいうんだったら、私たちの教会も、もうイエスさまが悪霊を追い出してくださったんだし、今もここにおられて、私たちの悪霊をぜんぶ追い出してくださっているから、ホントに安心(あ~んしん)っていう信仰を持たなけりゃね、ってことでしょう。
 新勝寺でも、芸能人とか、・・・お相撲さんでしたっけ? テラスから豆まきやってましたでしょ(※3)。あれ、私、一度やりたい。(笑) 思いませんか? あの豆まき、一度やってみたいなあ・・・と。手を伸ばして、ちょうだい、ちょうだいの方じゃなくって、あげる方って言うか、喜ばせる側っていいじゃないですか。さっき、来年のカレンダーを見たら、2月3日、節分の日が日曜日なんですよ。(笑) 聖堂前の庭でやりましょうよ、私が階段の上からね、「鬼は外~!」ってね、つまり、「悪霊よ、去れ~!」ってね、どうですか? (笑) イエスさまの言葉でいうなら、「黙れ。この人から出て行け」ですよね(cf.マルコ1:25、ルカ4:35)。「出て行け!」って。
 まあでも、言ったとおり、もうイエスさまが追い出してくれたんだから、そんなことする必要もないっていうのが、キリスト教の安心でしょう。こうして(あずか)る、(まい)ミサがね、毎回のミサが、悪霊を追い出してくれたイエスさまと一つになるミサですから、やっぱりね、「さあ、これから追い出そう」とか、「私の悪霊を追い出してください」っていうのは、ちょっと違うんですよね。もう、イエスさまは悪霊を追い出しちゃったんです。「ものを言うことをお許しにならない」(cf.マルコ1:34、ルカ4:41)んです。この、イエスさまの決定的な力、圧倒的な力に信頼して、安心してくださいな。
 もちろん、ちょっと怖くなっちゃうことはありますよ、現実には。「これ、悪霊の仕業(しわざ)か?」みたいに思っちゃうこと。何かひどく悪いことが起こってびびったり、あるいは、自分の中に悪い心が起こって苦しんだり、まあ、そういう思いに悩まされたりすることはある。でも、そんな時こそ、信仰に立ち返る気づきのときでしょ。「いや、ちょっと待てよ」と。「これは自分がそう恐れているだけであって、イエスさまは、もう、そういうものをぜんぶ追い出してくださったんだから、恐れることはないんだ。そうだ、信じよう!」と。そういう意味では、もう毎日節分みたいに、イエスさまがぜんぶ追い出してくださったことを感謝して、喜んで、そして、福音を信じる。
 私が小さいころは、わが家でも豆まきしましたけど、ちゃんと、母親が大豆を()ってるんですよ。香ばしいですよね。で、冷ましたやつを、父が会社から帰って来たら、まくんです。結構大きくなるまでやってたような気がする。ぼくがね、鬼のお面を描いて切って、耳のとこに輪ゴム着けてかぶったりしてね、みんな笑いながら、「鬼は~外!」って。
 そうそう、わが家の豆まきは、あれ、他でもそういう習慣、あるんですかね。豆と一緒にキャラメルもまくんですよ。そういうの、わが家だけだったんですか? (会衆に) 豆の中に、飴とか、キャラメルとかも入れてまくっていう習慣あります? わが家がそうだったっていう人ここにいますか? ・・・ああ、いますね。でも、ほとんどいませんね(※4)。まあともかく、あれは、だけど、そうすると子どもたちは、とーぜんキャラメルしか拾わないんですよね。(笑) 豆なんか拾いませんよ。最後は、母が豆をほうきで掃いてたのを思い出します。まあ、アメとムチじゃないですけど、子どもたちの楽しみをつくってくれたのかな。
 まあ、今にして思うと、親の気持ちとしては、なんかこう、キリスト者的な豆まきにしたかったっていうのもあったような気もしますけどね。やっぱり、悪霊を追い出すだけじゃなくて、もっと大事なこととして、福音を与えなきゃならないわけでしょ、喜びをね。「鬼は外」だけじゃなく、「福は内」なんですよね。いうなれば、「福音は内」なんですよ。キャラメルには、甘さ、喜び、神さまからの恵み、それを与える親という意味では、親心がそこに込められてるわけでしょ。子どもたちには、そんな福音として、キャラメルをあげようっていうことだったんじゃないかな。
 私たち、こうして「教会」っていうところに集まってきて、悪はぜんぶ追い出してもらう。これはもう、ホントにそうです。追い出してもらってる。・・・信じましょうね。でもそれだけじゃなくて、さらに、福音を頂いている。「あなたを愛してるよ」という、神さまからの「福」ですよ。その「福」がここにあるっていう意味で、「福は、内」です。「あなたをホントに愛してるよ」と、「だれが何と言おうと愛してるよ」と、「間違いなく、愛してるよ」と、それを徹底して、やっぱり神さまから頂くんです。毎日曜日の毎ミサが、そうなんですよ。それはもう、慣れっこになっちゃって、なんとな~くミサに参加している方もおられるやもしれませんけどね。
 でも、これだけの人が集まっていますとね、こうやって見ていても、ああ、あの人苦しんでるな、この人も大変だなって分かる人が大勢いますし、まあ、ともかくみんな、ホントに大変なんですよ、一週間生きていくだけでも。心の問題、環境の問題、などなど。中には、いつもは元気だったけど、ちょうど先週は苦しかったっていう人もいるでしょう。だからこそ、ここに集まってきて、恐れを追い出してもらって、そして、「福は内!」ですよ。福音を、心にいっぱい入れてもらいましょう。それこそ、神さまがパラパラッとまいてくださったキャラメルを握りしめます。そこに喜びを得て、「これだけは放さないぞ!」ってしっかり握って、新しい一週間に歩み出していく。恐れちゃいけません。

 第1朗読(※5)、さっき読んでて、ちょっと面白かったんですけど、ヨブ記ですから、なかなか悲惨な内容なんですよね。ヨブはひどい病気にかかっちゃって、苦しみ(もだ)えていて、「この地上に生きる人間は兵役にあるようなもの」(ヨブ7:1)って言い出すでしょ。で、最後に、「私の一生は望みもないままに過ぎ去る。忘れないでください、わたしの命は風にすぎないことを。わたしの目は二度と幸いを見ないでしょう」(cf.ヨブ7:6-7)って言う。で、朗読が言わると、いつものように全員で、「神に感謝」って言うんですよね(※6)。(笑) 「二度と幸いを見ないでしょう」で、「神に感謝」・・・。
 この、「わたしの目は二度と幸いを見ないでしょう」(ヨブ7:7)っていうひと言ね、これが悪霊なんですね。悪霊が、そう思わせる。そう言わせる。「わたしの目は二度と幸いを見ないでしょう」、それは悪霊の仕業(しわざ)です。ヨブ記はね、この後、神さまが創造のみわざを語って、ヨブは、「あなたは全能で、あなたがすべてです。私が勝手に恐れていたことは、私の間違いでした」みたいなことで終わるわけです。
 私たち、この、「二度と幸いを見ないでしょう」みたいな、まあ、「絶望」ってやつですね、これは一生のうち、何度かあるかもしれませんけど、覚えていてほしいことがあります、絶望する前にね。
 ・・・「絶望」って、この世界にないんです。
 「絶望だ」って、あなたはそのように思い込んだかもしれないけれども、そして、「二度と幸いを見ないでしょう」って言うかもしれないけど、そんなことはない。神は幸いを創造したし、すべての人に幸いを与えているし、あらゆる産みの苦しみの先に真の幸いを用意して待っているし、ぼくらをちゃんと導いておられるんです。それは神のなさっていることであって、この世界に「絶望」っていうことは、あり得ない。それを、「ああ、もうだめだ・・・」って思いこませる、絶望させる、これが悪霊なんですね。悪霊が、そう思わせるわけです。ぜんぜんダメじゃないのに、本人に、もうダメだと思わせる。まさに、私たち、「鬼は外」って言ってもらわなきゃならない状況なんです。だからこそ、こうして共に福音を聴いて、こうして神さまからの「もうだいじょうぶ!」っていう宣言を聴いて、ちょっと心を落ち着かせて。・・・これ、大事ですね。
 ですからね、絶望しかけたら、やっぱりミサですよ。家に閉じこもって恐れてないで。たとえば、おなかが痛かったら薬を飲むとか、歯が痛かったら病院に行くとかしますでしょ。絶望しかけたら、ミサに行きましょう。「そんなもの、何の役に立つか!」なんて思わないで。ともかくまずは福音を聴いて、イエスさまと一つになる。すると実際、思いのほか、新しい道が開けたりするんです。その日読まれた福音書の一節がね、生涯忘れられない一節になったりする。そういうことがホントにありますから、絶望しかけて、「もう二度と幸いを見ないでしょう」なんて思っちゃったら、最後の最後に重い腰を上げて、ミサにね、来てくださいよ。イエスさまはお優しいですから、そんなあなたのことを、すべて知っておられますし、必ず、今まで味わったことのないような救いの恵み、それを与えてくださる。これが「希望」っていうことですね。

 昨日は「福音カフェ」(※7)をやりましたけど、学生たち、やっぱり、いろんな思いをしてる中で、集まってきます。福音カフェは、そんな学生たちに、福音を語ります。
 昨日も、初めて来た学生が二人いましたけど、ひとりは中央大、もう一人はアメリカのコロンビア大学でした。今、休学中で、日本に戻ってるとか。いつもは上智や早稲田が中心なんだけど、最近は東大や芸大も来てます。東大は航空宇宙工学だったか、なんかそんなような難しい学問やってる学生です。みんな、勉強熱心なんでしょう。われわれが逆立ちしても分かんないような学問を熱心にやってます。公認会計士を目指してるっていうのもいました。そういえば、昨日か今日か、国家試験やってるんですよね。上野教会の学生にも国家試験受けてるのがいますよね。(会衆に) えっ? 今日? じゃあ、もう、みんなで、「彼が国家試験、受かりますように!」って念じましょうよ。・・・今ごろやってんのかな? 緊張しないで、間違えないように、だいじょうぶ! 必ず通るってね、みんなで祈ってあげましょう。
 試験、試験で、学生はホント、大変です。レポートに卒論、大変です。たっくさん、勉強している。それはそれで、素晴らしいことです。おかげさまで、私たちも恩恵を被っている。だけど、やっぱり、一番学ばなきゃならないこと、それを学ばなかったら、「二度と幸いを見ないでしょう」っていうことになっちゃうんですよ。どれだけ航空宇宙だか航空物理だか勉強しても、どれだけ会計や経済の勉強をしても、「この私は、神に望まれて生まれてきたんだ」と、「愛されて生きているんだ」と、そして、「私のこの魂は、永遠なる存在なんだ」と、そういうことを知らなかったら、ホントに、「二度と幸いを見ないでしょう」って言っちゃうんです。
 どんなに勉強して、どんなに頑張って、どれほど尊い仕事をしていても、本人が「二度と幸いを見ないでしょう」って言っちゃったら、まさに、悪霊の思うつぼなんです。素晴らしい人生を生きていけるはずなのに、その心に絶望を、ちょいと吹き込む。・・・意地悪ですよね、悪霊の力。でもそれは、悪霊にそそのかされて、自分で生み出しちゃった恐れなんであって、「もう二度と幸いを見ない」って「思い込まされた」っていうことなんですよね。
 「福音カフェ」の仲間たち、月に二度集まってますけど、私は福音を語ります。希望を語ります。
 「ぼくらのこの世界は、必ず、いい世界になっていく。いい世界をつくっていくことができる。神がそれを望んでいるし、そのような力も希望も与えてくださっている。信じて、身の回りの小さなところから、一つひとつ、希望を持ってやっていこう」
 学生たちに、そう呼び掛けます。彼らがこれからの世界をつくっていくわけですから。
 皆さん、悩んでいる学生、引きこもっている学生、自分の甥っ子、姪っ子でもいい、ぜひ、「晴佐久神父のところに行きなさい」って、首に縄付けてでも、無理やり連れて来てください。
 昨日来た一人の学生は、去年、プロテスタントの洗礼を受けたっていう学生です。で、牧師先生に、「晴佐久神父のところに行きなさい」って言われて来たって言ってましたよ。・・・偉いねえ、その牧師先生も。(笑) いや、偉いと思うよ。「カトリックの神父のとこに行け」って言うんだから。もちろん、その先生が言いたかったのは、「カトリックに行け」ってことじゃない。悩んでいる学生に、「福音を聴いてこい」と、「福音があなたを救うんだから」って言ってるんです。そういう信仰、信念は、本物です。これ、世界で一番大事なものです。それさえ握っていれば、もう、あとは何があったって大丈夫なわけですから。これからこの世界を生きていく学生たちには、特に、「二度と幸いを見ないでしょう」なんて思いかけたときに、「実は、もう、自分はその福音を握りしめてるんだ」っていうことを思い出してほしい。小さいころ、手で握りしめていたキャラメルみたいに。私たちが何歳になっても、絶対に手放してはいけない福音、ありますよ。

 昨日、この聖堂で、かつてこの教会で活躍なさったデュレック神父さまの追悼ミサをいたしました(※8)。遠くからも、お世話になった人たちが集まって、お祈りしました。デュレック神父さま、本当に素晴らしい方だった。私思うんですけど、変な言い方ですけど、ちょっと素晴らし過ぎたんだと思うんですね。っていうのは、戦後、背の高い外人の宣教師が来て、ホントに立派なお働きをしていると、みんな、それは別世界から来た特別な人であって、自分は到底そうはなれないって思っちゃって、ただ、崇拝しちゃう。その後の教会は、どこもそのようにして、信者さんはもう、「神父さまは素晴らしい方。私たちは、その方から豆をまいてもらうほう」みたいな気持ちになっちゃってるんですよ。
 もうず~っと長いこと、この追悼ミサを続けてきたこともあって、参加者の高齢化が進んでいるわけですけれども、今回の、この追悼ミサの案内書に、手違いで、上野教会の前任の神父さまの名前が載っちゃってたんですって。ご存じ、前任は立派なおひげの神父さまでしたから、久しぶりに参加した方が、私に言うんです、「おひげを()ると、ずいぶん雰囲気、違いますね」って。(笑) だから、「いえいえ、私、晴佐久神父です」ってあわてたりして。(笑) まあ、ず~っと歴代の神父さまが、デュレック神父さまの追悼ミサをなさってきたわけです。だけど、どうなんでしょう。追悼は素晴らしいことですけど、追悼するってことは、受け継ぐ気があるってことでしょう? 私は昨日、説教で申し上げました、
 「福音宣教しましょう」と。
 デュレック神父さまがなさったように。
 「福音を語ろう」と。「年齢、関係ありません」と。80になろうと、90になろうと、そんな数字、神さまのみ前では、まったく関係ない。体が弱かろうが強かろうが、まったく関係ない。豆まきくらいならできるでしょう。キャラメルも混ぜて、パラパラッと。誰でもできること。周囲の人々に、「これさえ握っていたら、もう、何にも怖くないんだよ」っていう、その恵み、世界でもっとも尊い、「福音キャラメル」をまいてほしい。
 来年、2月3日、教会豆まきやるんだったら、やっぱり、私、遠慮しなきゃダメですね。神父が信者にまくんじゃないんです。皆さんこそが、近隣の人たちに、「絶望は外! 福音は内!!」と、まいてほしい。そういう教会が、これからどれだけね、人を救っていくか。

 上野教会、去年は4人洗礼を受けましたけど、今、洗礼を準備している方、8人いますよ。どうですか? 4、8、ときたら、次は16にしましょうよ。この一年、皆さんが福音をまけばまくほど、救われる人が、ここに集まってまいります。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます)

※1:「イエスさまが『悪霊を追い出された』というとこですね(cf.マルコ1:34,39)
この日、2018年2月4日(年間第5主日)の福音朗読より
 マルコによる福音(マルコによる福音書)1章29~39節
 〈小見出し:「多くの病人をいやす」「巡回して宣教する」〉
===(聖書参考個所)===
① 
イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやし、また、多くの悪霊を追い出して、悪霊にものを言うことをお許しにならなかった。悪霊はイエスを知っていたからである。 (マルコ1:34/赤字引用者)
② 
イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」そして、ガリラヤ中の会堂に行き、宣教し、悪霊を追い出された。 (マルコ1:38-39/赤字引用者)
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※2:「ちょうど節分ってことで、(中略)もう「鬼は外」は言わんでいいのだ、みたいな説明でしたけど」
 2018年の節分は、2月3日(土)で、この説教のあった日の前日に当たった。
 「成田山新勝寺」(真言宗・千葉県成田市)で、「鬼は外」を言わないのは、「御本尊自動明王の前では、鬼さえもその大慈悲により心を入れかえてしまうから」という説明がされている。(「大本山 成田山」オフィシャルサイトより)
 節分や豆まき、口上について、以下に少しご紹介。   (文中へ戻る
===(もうちょっと詳しく)===
◎「節分」
 節分は、本来、「季節を分ける」という意味がある。
 「季節を分ける」日は一年に4回(立春、立夏、立秋、立冬)で、その前日を「節分」という。しかし、江戸時代以降は、「節分」というと、「立春」の前日のみを意味するようになった。
 これは、旧暦の元日は、ちょうど「立春」のころで、その前日の「節分」は、現在の大晦日のような、特別な意味を持っていたためといわれている。
◎「豆まき」
 季節の変わり目、特に年の分かれ目には、邪気(鬼)が入りやすいと考えられていた。
 古代中国で行われていた、大晦日に当たる日の悪鬼や疫病を追い払う行事が、奈良時代に日本に伝わり、平安時代には宮中行事に、室町時代には現在のような「豆まき」の行事に、そして江戸時代には庶民に広まった。
 豆は、節分は旧年の厄災を負って払い捨てられるものであるため、まいた豆から芽が出ては縁起が悪い。そこで、必ず炒ってから使用する。(現在、節分用に市販されている大豆は、ほとんどあらかじめ炒ってある)
◎「『福は内』しか言わない」
 節分の豆まきでは、「福は内、鬼は外」が一般的だが、その他にもさまざまな口上がある。
 ここでは、説教中の「成田山新勝寺」を含め、「福は内」のみという所を、少しご紹介。
 ○ 成田山新勝寺(千葉県成田市):「御本尊自動明王の前では、鬼さえもその大慈悲により心を入れかえてしまうから」
 ○ 所澤神明社(埼玉県所沢市):「神社には鬼はいないので」
 ○ 大須観音(愛知県名古屋市):「伊勢神宮の神様から授けられた鬼の面を宝としているため」
 ○ 浅草寺(東京都台東区):「千秋万歳福は内」:「観音さまの前には鬼はいないから」など
(参考)
・ 「節分の由来や意味は?なぜ豆まきをするの?豆まきの正しいやり方は?」(Today’s Trend News)
・ 「旧正月2018はいつ?節分や立春との関係性や違いは何?」(豆知識PRESS)
・ 「節分」(ウィキペディア)
・ 「追儺(ついな)」(コトバンク)
・ 「節分は福は内だけ?鬼は内や悪魔外だってあるぞ!」(知りたいことググりました)
・ 「成田山 節分会」(大本山 成田山)
・ 「節分会」(浅草寺)
・ 「節分会 『鬼は外』は禁句 名古屋・大須観音2018/2/3(毎日新聞)
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※3:「新勝寺でも、芸能人とか、・・・お相撲さんでしたっけ? テラスから豆まきやってましたでしょ」
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 (上の画像は5枚がスライドショーになっています =手動=)
 千葉県の成田山新勝寺(真言宗)では、毎年2月に、災厄をはらい、一年の幸福を祈る「節分会」が開催される。今年(2018年)も2月3日に、「国土安穏・万民豊楽・五穀豊穣・転禍為福」に加え、「東日本大震災被災地復興」を祈願、奉修した。
 また、特別追儺(ついな)豆まき式が行われ、この豆まき式に、特別年男として大相撲の力士やNHK大河ドラマの出演者などの芸能人が参加する。
 ※「追儺」(ついな)は、元来、「鬼をはらう」という意味。「鬼やらい」ともいう。
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※4:「わが家の豆まきは、あれ、他でもそういう習慣、あるんですかね。豆と一緒にキャラメルもまくんですよ。(中略)でも、ほとんどいませんね」
 北海道では、豆が大豆ではなく落花生だったり、キャンディーやガム、キャラメルがまかれたりするご家庭が多いという。晴佐久神父のお母さまは、北海道出身ということなので、その辺が影響しているのかもしれない。
(参考)
・ 博学こだわり倶楽部編 『雑学の特上ネタ300皿』(河出書房新社、2005)
・ 「節分に落花生をまくって、有りですか?(p.3)」(All About 暮らし) ほか
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※5:「第1朗読」
この日、2018年2月4日(年間第5主日)の第1朗読は以下のとおり。
 ヨブ記7章1~4節、6~7節
  〈小見出し:「ヨブと三人の友の議論 一」4章~14章から抜粋〉
===(聖書参考個所)===
 
〔ヨブは言った。〕「この地上に生きる人間は兵役にあるようなもの。 傭兵のように日々を送らなければならない。奴隷のように日の暮れるのを待ち焦がれ、傭兵のように報酬を待ち望む。(中略) わたしの一生は機の梭(はたのひ)よりも速く、望みもないままに過ぎ去る。 忘れないでください、わたしの命は風にすぎないことを。わたしの目は二度と幸いを見ないでしょう (ヨブ7:1~2、6~7/赤字引用者)
 ※「機の梭(はたのひ)」:機織りのときに横糸を通すために使われるもの。左右から投げられるように通す。
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※6:「朗読が言わると、いつものように全員で、『神に感謝』って言うんですよね」
 ミサは式次第に従って進み、朗読が終わったときの所作、文言も決められている。
 ミサでは、第1朗読、第2朗読、福音朗読と、3回聖書の朗読があり、第1朗読と第2朗読の朗読者は、聖書朗読が終わると、朗読の終わりを示すために聖書に一礼する。脇に立つ祭壇奉仕者は、それに、「神に感謝」と答える。会衆は、何も唱えず、沈黙のうちに神のことばを味わう。(参考:『ともにささげるミサ〔ミサ式次第 会衆用〕』オリエンス宗教研究所、1989)
 しかし、『ローマ・ミサ典礼書』ラテン語版、つまり教皇庁の典礼秘跡省から出されている各国語版の底本では、朗読者が「Verbum Domini (ウェルブム ドミニ)」=「主のことば」と唱え、会衆が「神に感謝」と答えると規定されており、大部分の各国語版もそれに従っているため、外国人の司祭をはじめ、そのやり方が踏襲されている教会も見受けられる。
 あるいは単に、祭壇奉仕者が「神に感謝」と言うことに対し、会衆が何か答えないと落ち着かないために、「神に感謝」と呼応する教会もあり、厳密には統一されていないのが現状となっている。
(参考)
・ 『ともにささげるミサ〔ミサ式次第 会衆用〕』(オリエンス宗教研究所、1989)
・ 「《対話で探求》ミサはなかなか面白い 40:朗読後の『神に感謝』2017/11/10(AMOR-陽だまりの丘)
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※7:「福音カフェ」(既出)
 「キリスト教に関心があり、福音的なつながりを求めている学生であれば、信者か、そうでないかは、問いません。元気な学生も、元気のない学生も、共に集まっています。一緒に、福音家族づくり、しませんか? お待ちしています!」(晴佐久神父)
 原則、毎月、第1土曜日18時(@カトリック上野教会)、第3土曜日18時(@カトリック浅草教会)で開かれています。
 ご興味のある方は、「福音の村」サイト内、「福音カフェ」のご案内のページをご覧ください。
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※8:「デュレック神父様の追悼ミサをいたしました」
 「デュレック神父さま」(パリ外国宣教会)は、カトリック上野教会に、1950年(昭和25年)に着任した、初代主任司祭。戦後の貧しい時代、保育園を開設したり、「都会の子ども達を、自然に親しませたい」と鳥取に二千坪の土地を求め、海の家を造って遊ばせたりと、子どもたち、青年たちをはじめ、教会のために精いっぱい働かれた。
(参考)
・ 「カトリック上野教会」-「歴史」(東京大司教区、教会案内)
・ 「私の正義が人を傷つける」(「福音の村」2017/1/29説教、上から2段落目(この辺~)、9段落目(この辺~)
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2018年2月4日(日) 録音/2018年3月13日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英