主語は神。神がお召しになる

2013年2月10日 年間第5主日
・第1朗読:イザヤの預言(イザヤ6・1-2a,3-8)
・第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント15・1-11)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ5・1-11)

【晴佐久神父様 説教】

 ペトロの召命(しょうめい)の物語。今日は特に、この「召命」という言葉を大切に思い巡らしていただきたい。
 「召命」という言葉、ご存じですか? まだ知らない方もおられるかもしれない。「()す」という字に「(いのち)」ですね。「召す」は、召使いの「召す」で、偉い人がお召しになるとか、主人が自分の意のままに使うというような場合に使う字です。ですから、「召命」という言葉の一番の本質は、「偉い人が、下々の者を召す」、ここにあります。
 たとえば私も、「司祭の召命を受けました」とか、あるいは皆さんも「キリスト者としての召命を頂きました」とか、そういう使い方をしますが、そのときに一番肝心なことは、神が(・・)召したということです。
 「主語は神」っていうことですね。私たちの側で志願したのではないということです。

 ちょうど来週、洗礼志願式が行われますけれども、実をいうと、この「洗礼志願式」というのは誤訳であります。本来は「選びの式」と呼ばれていたもので、「神が(・・)選んで教会が受け入れる式」という意味合いが強い。この場合、「選び」の主語は神です。神さまがお選びになって、教会に受け入れられる。
 もちろん私たち人間の側も、一応志願はしてますし、信仰をきちんと表明もいたしますけれども、洗礼の核心部分はあくまでも、「神が(・・)お召しになる」です。神さまが選んで、神さまが受け入れてくださる。私たちの側で志願しているその思いも、実は聖なる霊の働きによるもので、神さまがそのような志願を起こさせている。・・・そういうふうに考える。
 だから、「洗礼志願式」っていうのは、ちょっと言葉としては的外れなんですよ。極端な言い方をすれば、受け入れる教会にしてみたら、皆さんの志願なんていうのは、どうでもいいんです。まったく志願していなければどうしょうもないですけど、まずは神が選んでくださっているかどうかを見極めることが重要。人間の志願なんて、いいかげんなものですから。人間の願望とか決心とかっていうのは、非常に相対的で曖昧なものですから。しかし、神の選びは絶対です。
 今、洗礼シーズンで、私、せっせと面接しては、「それでは、あなたの洗礼を認めます」と、受洗許可証にサインをしたりしてますが、そこにも、ちゃんと書いてあります。
 「カトリック教会はあなたを、神に選ばれた者として受け入れ、受洗することを認めます」あなたの志願以上に、神の選び、神からの召命が重要だってことです。
 それでいうならば、ここにいる皆さんはもう、神さまに選ばれた人であって、私たちから志願したわけではない。
 「志願兵」って言葉がありますけど、私たちはどちらかというと志願兵というよりは、もう召集令状をもらっちゃったってことです。召集令状って、あれ、「召す」っていう字ですよね? まあ、兵隊さんに例えるのはどうかと思うかもしれないけど、でも、「キリストの兵士」っていう言い方もありますしね。神のしもべとして、私たちは召集されちゃったんです。いやも応もない。有無を言わせないのが、この「召す」っていう言葉です。
 だって、「志願」っていうんだったらね、こっちから志願を取り下げたら、その志願は消えちゃうわけでしょ? 洗礼とか召命って、そういうことじゃありませんから・・・私たちは「召された」者なんです。

 今日の福音書におけるペトロの召命にも、まさにそれがよく表れている。ペトロ、志願してませんでしょ? むしろ、「主よ、わたしから離れてください。わたしは罪深い者なのです」って言う。ペトロの本音で言えばそうなんですよ。
 「私なんかは、あなたにふさわしくない。あなたのような尊い存在を前に、私のような罪深いものは何の役にも立たない。聖なるお方のそばにいることのできない、汚れた者だ。お願いです。私から離れてください」って言ってるんであって、要するに「あなたとはとても関われない」、ある意味、そう言ってるわけですよね?
 しかし、そんなペトロの思いにお構いなしに、イエスさまは、「わたしがあなたを選ぶ」という思いで、宣言します。「今から後、あなたは人間をとる漁師になる」と。
 いやも応もないんですよ。選択の余地がない。ペトロは、すべてを捨ててついて行かざるを得ず、そしてまさにその「今から後」の二千年間、ペトロの後継者である教会は、何十億、何百億という人を救ってきたじゃないですか。ちょうど漁師が水の底から魚を網で引き上げるように、教会は悪霊の世界から、何十億、何百億という人を救い上げてきたじゃないですか。これは、全面的に神がなさってるんです。
 「いやも応もない」
 これが一番の召命のポイントです。「召命」っていう言葉を思ったとき、「主語は神」っていうことを忘れないでいてください。人間は主語になり得ません。
 似た言葉で「献身」っていう言葉もありますけど、こちらの言葉ですと、「わが身を(ささ)げる」ですから、主語は人間になっちゃうんで、ちょっと弱い。「召命」と「献身」と、併せて覚えといてください。「献身」も大事ですけど、やっぱり本質は神が(・・)召してるっていうところにある。神の判断であって、本人の向き不向きは関係なし。その人の理解や決心、それすらも飛び越えて、神が(・・)召しておられる。
 でも、実はこの「召命」を全面的に受け入れられたなら、私たちはホントに安心なんですよ。だって、神がお召しになったんだから、責任者は召した側、「神」になるわけでしょ? この私の責任じゃない。私はただ、すべてを捨てて、その召命を受け入れる。

 明日の「世界病者の日」を前に、私たち、今日、こうして、病者のために祈るミサをお捧げしていますけれども、そのような信仰においていうならば、「(やまい)も召命」だっていうことになるんですよ。
 これは、現実につらい思いをしている人にはなかなか受け入れがたい言葉に聞こえるかもしれないけれども、しかし、信仰の核心です。・・・病も召命。
 病どころか、私たちの障害であれ、過ちであれ、さまざまな悪の問題すべてが、実は神の召命のうちにある。
 そもそもですよ、私たちが人間として生まれてきたことが、召命なんですよ。弱い人間、罪深い人間、ときに病を背負い、ときに障害があって、ときに絶望すら味わう、この苦しい「人間」というものを、私たちは「召命」として受け入れます。神さまが私を人としてお召しになった。その動機は、「愛」です。本当に何か素晴らしい愛のわざとしてお召しになっています。
 人は当然、病みます。そしてやがて、病の向こうに死が待っています。そのすべてが、愛のわざであり、召命です。神さまが、人をそのようにおつくりになり、そのようにお召しになっているんだから。私たちはそれを受け入れた日に、受け入れたときに、神さまの創造のわざに協力することになるんです。
 病気は治ってほしい。当たり前です。できるならば治しましょう。しかし、治らないこともある。大事なことは、治っても、治らなくても、病の苦しみを背負っていること自体が、もうすでに神の召命のうちにあって、神さまの偉大な栄光を現すための協力作業になっているということです。この召命によって、だれかが救われる、そんな信仰に支えられて、私たちは、病のときを、恵みのときに変えていくんです。

 私の一番身近にいた、病で苦しんだ人のことを思うなら、それは亡くなった私の母ですけれども、たくさんの手術を超えて、たくさんの痛みを抱えて、彼女はキリスト者として、よくこう言ってました。・・・「これが、私の仕事」。
 こういう言い方が、「召命」をよく表しますね、「これが私の仕事」。
 朝起きてから、治療に専念するわけですね。薬を飲んだり、さまざまな手当てをしたり、痛みに耐えたり、祈ったり、そんな中でも生活をして、そんな中でも他の人のためにさまざまな愛を注いでいく、「これが私の仕事」。
 「仕事」っていう言い方に、召命感がよく出ていますね。「仕事」っていうのは、これ、与えられたものですから、いやも応もない。ひたすら、こなさなきゃならない。そして、それを生きているときに、その仕事を与えてくださった方が、ホントに喜んでその仕事を支えてくださるし、その仕事の実りを、ちゃんと、永遠なる世界で輝かせてくださる。
 病気をしたことのない人はいないでしょ? これからも、必ず病気になるでしょう。そんなとき、たとえば風邪をひいたなんていうささやかな病気でも、苦しいなあ、早く治りたいなあ、痛いなあって思ってるとき、思い出してください。「ああ、これは召命だ!」と。
 もちろん病を治すために工夫はしますけども、まずは病んでいる「今」、「今」の召命です。治る前の話です。あるいは治らない前の話です。
 「この苦しみに耐えていることが、神さまの創造の業に協力してるんだ。この犠牲が、見えない世界で、いろんな人を助けることにもなる。この苦しみの中での祈りが、やがて完成する神の国の誉れとなっている。この一日を召命として受け入れ、希望を持って忍耐し、主のためにお捧げしよう」
 ・・・そう思ったなら、これはまさにキリスト者です。十字架の上でわが身を捧げているイエスとひとつになっている、正真正銘のキリスト者です。
 病がつらいのは、本人も周りも、もちろん神も、みんな知っております。でも、じゃあ、なぜそんなつらさがあるのか。
 それには(わけ)があるんだってことです。むなしく無意味に、ただつらいだけっていうんじゃない。もちろん元気なときも神に奉仕しているけれども、病気のときこそ、最も尊い奉仕ができているって、そう信じる仲間たちは素晴らしいって思いませんか? 祈り合い、支え合い、この召命をお互いに背負っている教会が、この世界において、どれほど尊い使命を果たしているかっていうことです。私たちの人生には、やがてそのような召命の実りのとき、究極の完成の日がある、そう信じて、今はこの召命を生きるんだっていう信仰、それこそが、人々に何よりの勇気、希望を与えてくれるんじゃないですか?

 「何のわけがあるのか」と、20代とかだと、よくそういう質問をしてくるんですよ。三日前の木曜日の「おやつの会」でも、ひとりの青年が来て、そういう質問をした。おととい大阪から電話してきた青年も、そういう質問をしてきた。電話でも答えましたけど、この説教をネットで読んでるようですから、改めて申し上げたい。お答えしたい。
 どちらも、おんなじ質問なんですよ、20代の質問。
 「自分は何で生きてるのか分からない」
 「どうして自分がここに存在しているのか、その意味が分からない」
 10代、20代は、よくそういうことを言う。特につらい時や試練の中ではそう思うわけでしょう。「この苦しみに何の意味が」とか。
 私は「おやつの会」のとき、みんなも聞いてましたけれども、はっきりと答えました。
 「それは、人間が答えることじゃない。神が答えることだ」と。
 なぜなら、人間を生んだのは神だから、その答えは神しか答えられないんです。いくら人間が、お互いに、「私は何で生きてるんだろう」とか、「人間の存在に何の意味があるんだろうね」なんて言い合っても、答えなんか出てくるわけがない。だって、自分で自分を生んだわけじゃないですし、人間が人間を造ったわけじゃないから。これはやっぱり、つくった側、つくった方に問わない限り、答えなんか出てくるわけないです。
 ですから、「それは、私に聞くんじゃなくて、神に聞け」と答えますし、そして、その神はこう答えてくださるよ、ということなら、私も答えられるわけで、それをお答えしました。「神はこう答えているよ」と。
 「わたしは、お前を愛するために生んだ。わたしに愛されるために、お前は生きている。お前の存在は、そのわたしの愛の働きに協力するため。わたしが、わたしの思いの完成のためにお前を召して、お前を使っている。わたしに任せなさい。あなた自身の考えで、『何のためか』などと悩まずに、わたしの愛、わたしの思いを信じてくれ」
 これが神さまのお答えでしょう。
 10代、20代ならね、そうして「何のために生きてるんだろう」「私の存在に何の意味があるのか」って言ってもしょうがないけれど、見たところここには、もう10代、20代、おられませんから。(笑)まあ、若干名いますけれど、皆さんは、もう分かっておられるはず。
 30年も40年も生きれば、「この苦しみには意味がある。私が生きているのは神さまに望まれたからだし、私が存在しているのは神さまに愛されるためだし、私が苦しんでいるのは、やがて神の国に生まれていって、本当に神さまとひとつになるためだし、全世界が、そのような喜びに(あずか)るために、私は今、神さまのお手伝いをして、この試練の世界を、試練の今日を、一日、また一日と生きているんだ」と、そうわかっているはず。50年も60年も生きたら、当然、神の思い、そのご計画は分かってるはず。
 信仰を新たにいたしましょう。誰においても、ちゃんと栄光のときが待ってるんだから。

 数週間前に、去年息子を亡くしたという方が私のところにお話に来られました。
 「10代の息子が、悪性リンパ腫で亡くなった。ちょうど1年前です。それ以来私は家からも出られない。ショックと悲しみのあまり、何もする気になれない」。・・・当たり前ですよね。
 「本人はあれほど闘病生活を頑張って、精いっぱい苦しみに耐えて、家族も必死に祈って、サポートしたのに、亡くなってしまいました。それ以来、私の心は閉ざされて、生きていく元気もありません。でも今日は、何とか救いを求めて家を出てまいりました」。そうおっしゃった。
 で、私は当然答えます、「息子さんは生きてますよ」と。そして、こう申し上げた。
 「息子さんは、死んだんじゃない。病気という尊い試練を超えて、今、天の国で神さまに迎えられ、その短くても充実した生涯を褒められて、誰よりも素晴らしい働きをしている。天において、地上にいた時よりもいっそう本当のいのちを生きて、悲しんでいるお母様の救いのためにも働いている。信じてください。あなたがもし、本当にそのことを知りたいなら、ミサに来てください。ミサは天国の門、天と地の交わるところだから、そこで息子さんに会えますよ。ミサこそは、すべての苦しみ、すべての闇が、喜びと光に変えられる、恵みのときです。ミサこそは、十字架から復活へ、死から命へ、苦しみから喜びへという、キリストの福音が真実であることの証しなんだから。・・・ミサに来ていただきたい。ミサで息子さんに会えます」
 翌週見てましたけど、そのお母様、来られていなかった。でも、翌々週、先週の日曜ですけど、来られてたんですよ。「来ましたよ」っていう顔で私を見て、涙ぐみながら礼をしてくれました。それこそが、息子さんが働いてる証拠です。息子さんは病気に負けたのではありません。勝利したんですよ。
 病は治ることもあれば、治らないこともある。そしていずれ、すべての人が、この世においては死を迎えます。しかし、どんな病であれ、それを召命として受け入れて、その苦しみを、神の栄光のため、人々の救いのために捧げるならば、それは天において偉大な勝利として迎え入れられる。

 先週のご葬儀、素晴らしかったですね。作曲家のご葬儀でしたから、彼を尊敬する演奏家たちが大勢集まって、この聖堂で演奏してくださいました。吹奏楽で有名な、彼の名曲を演奏してくださいました。何十人もの楽団に囲まれて、自分の曲で見送られて出棺っていうのは、見ていても感動的でした。彼の器楽曲が聖堂で演奏されて、彼の棺が聖堂からエントランスホールに出たところで、曲がちゃんと変わって、エントランスホールにいる合唱団によって、今度は彼の合唱曲が歌われるというメドレーになってるんですよ。まあ、よく練習してあるというか、準備してあるというか、ホントに彼を尊敬している人たちが、泣きながら演奏してましたから、泣きながら歌ってましたから、それは本当に胸打つ、感動的な光景でありました。
 しかし、私、その後でご遺族に申し上げました。
 「私たち、こうして一生懸命見送りますけれど、実を言うと、この世での演奏っていうものは、どんなに精いっぱいやっても、大したもんじゃない。本当の演奏は、まさに今、天で演奏されている。彼が天に生まれていって、そこで天使たちの群れ、すでに亡くなった彼の関わった演奏家たちが、賛美の歌と演奏で迎えている。彼がどれほどつらかったか、どれほど痛かったか、そしてその病の苦しみをどれほど祈って神に捧げていたか、それこそを、万軍の天使たちが褒め歌っている。天使と聖人の歌声に誉めたたえられながら、神の国に迎え入れられるんだ」
 ・・・これは、真実です。神に召される「死」こそ、究極の召命です。

 今日、こうして皆さんが書いてくださった病者のお名前をまとめて、イコンの前に捧げました。ここに書いてあるお名前の方たちは、今、こうしている今も、その苦しみに耐えて祈っておられます。
 私たちが彼らのために祈るのは当然ですが、召された彼らの祈りが、私たちを支えているのです。

2013年2月10日 (日) 録音/2013年2月16日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英