2013年2月17日 四旬節第1主日
・第1朗読:申命記(申命記26・4-10)
・第2朗読:使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ10・8-13)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ4・1-13)
【晴佐久神父様 説教】
教皇さまが自らお辞めになりました。残念というか、摂理というか。
この8年間、ミサでもずっと「ベネディクト16世」のためにお祈りしてきたわけですから、感慨があります。もう、2月いっぱいですね、ミサの中で「私たちの教皇ベネディクト16世」って祈るのも。
また、コンクラーベがあります。私たちの人生に、何度かこういうときがある。教皇さまが代わって、コンクラーベで新しい教皇さまが選ばれます。次はどんな方が、新しい時代をどんなふうに導いてくださるか。ぜひみんなでお祈りしたいと思います。
これまでベネディクト16世教皇が、私たちのためにしてくださったこと、祈ってくださったことを大切に思いますし、さあ次は誰かっていうことですよね。新しい名前が出てくるわけですよ。「ハレレ1世」とかね。(笑)どんな方でしょう、楽しみですね。
ただ、まあ、おもしろいですね、カトリック教会の、この「辞任が600年ぶり」っていうのは。それがニュースになって、一般の新聞1面に載ってますからねえ。カトリックらしいっていえば、そうなんでしょう。当たり前のように「600年ぶり」とかって言えちゃうのは、二千年続いているカトリックらしいですよね。
600年前って、だってまだ、フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教、伝えてませんよ。応仁の乱よりも昔ですよ。そんな昔のことが、ごく普通に「教皇が自ら辞任するのは600年ぶりです」ってさらりと出てくるのが、カトリックっぽい。
私は今回のこの出来事で、千年、二千年っていう流れの中にある教会のことを、改めて身近に思わされました。要するに「目先のことじゃないよ」っていう話です。目先のこと、今、私たちが手にしてるもの、目にしてるものではなくて、もっと遥かなるものを教会は大切にしているよっていうことを思わされました。
たとえば、ヨハネ・パウロ2世教皇、前の教皇さまは、パーキンソン病で非常に苦しんでいても、決して教皇を辞めることなく、ず〜っと車椅子の上で、人々の前に身をさらしておられました。で、周囲が「もうお辞めになったら」と、「教皇として仕事を続けるのは難しいのではないか」と言っても、彼はこう言った、
「キリストは、十字架を降りられただろうか」。
それは美しい信仰宣言でしたし、なるほど、キリストから二千年続く教会とはそういうものかと、みんなを感動させた。
しかしこのたび、ベネディクト16世は、
「これ以上教皇職を続けるのはみんなのためにならない。教会の未来のためにならない。今、この激動の時代にあって、千年、二千年の計で、私は辞任する」というような理由でお辞めになった。
これもまた、英断というべきか、周囲をすごく感動させました。
これ、どっちがいいかっていう話じゃないんです。どっちもいいんです。
二千年前のイエスさまの十字架を思って、車椅子の上で、息絶えるまで教皇職を続ける。これも素晴らしい。
と同時に、二千年後の教会を思って、さまざまな苦しみを一人で背負ったまま、教皇職を辞するという苦渋の決断をする。これもまた素晴らしい。
この、「どっちも素晴らしい」っていうのが、とっても教会的だと思う。大きな流れの中で、私たちは目先のことに惑わされずに、二千年前を思い、二千年後を思って、永遠なる世界を眺める。この「手前に惑わされるな。遠くを眺めろ」っていうのは、キリスト教の、やがて永遠なる天に向かっている私たちの、信仰の要ですよ。
「目先に迷わされるな」「身近なものに惑わされるな」。ここに、今日の福音で語られていた悪の問題が、しっかりと含まれています。
悪魔がね、イエスを誘惑するでしょ。「さあ、腹減ってるんだったら、この石をパンに変えたらどうだ」。これ、非常に目先の話でしょう? 「おなか空いてるから、なんかおいしいもの食べて、おなかいっぱいになろう」・・・それ自体は、そう悪いことじゃない。悪いことではないけれども、イエスさまが答えたのは「人はパンだけで生きるものではない」。マタイの福音書によればさらに続けて、「神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」と、そうイエスさまは答える。
つまり、目先のパンを食べれば幸せか。そうかもしれないが、それだけじゃないだろう。そりゃ確かに束の間幸せだけれども、そのもっと向こうに、神のみ言葉の世界がある。永遠なる天がある。神さまのご計画、神さまが完成してくださる神の国、その喜びが、その向こうに輝いている。それをこそ求めるべきじゃないか。もちろんパンを食べなければ生きていけないけれども、そんな手前の「おなかいっぱい」だけを見ていたら、私たちはその先の神の国を見損なう。
この「向こう」と「手前」っていうのが、これが実は、善悪の問題なんです。よく「善は右で、悪は左」みたいにね、対立概念として考えちゃう。でも私、その二元論っていうのが一番嫌いです。「あっちが善で、こっちが悪だ、さあどっちにするか」みたいな。あるいは「俺が善で、おまえは悪だ、滅ぼしてやる」とか。二元論って、こう、何もかも切り裂くでしょ? 「どっちか」の問題になっちゃう。
そうじゃないんですよ。善悪を左右に並べちゃいけない。前後なんです。右か左かっていう二元論じゃなくって、たとえ手前に悪があっても、それはやがて向こうの善に向かっている、善に変わっていくっていうふうに、善悪は、前後に並べてほしい。
善は向こうにある。神さまの世界が完成するのはこれからだ。で、手前は、その善に向かう不完全さなんだ、と。だからその手前は、悪っていうよりは、「未善
「右か左か」じゃない。「遠くか手前か」っていうことなんですよ。
だから、悪魔はいつでも身近なものを見つめさせる。そうして「これがすごい善だぞ。さあ、これを握れ」って言うわけです。「おいしいぞ」「権力だぞ」「繁栄だぞ」って。でもそんなもの握っちゃったら、どのみち権力だの繁栄だのは滅びますから、一緒に滅びちゃうわけでしょ? つまり、悪って、手前だけ見つめることなんです。もっと永遠なるもの、完全なるものを、その向こうに見ているのが、われわれキリスト者。二千年、二万年の計で、目先のことに迷わされない。
私の身近にいる人間が、よくポテトチップを食べるんですよ。誰って話じゃないですよ。(笑)身近にいる人間です。で、「さあ、今晩みんなで焼肉だよ」って言って準備しているのに、ポテトチップをパリパリ食べてる。それ自体は悪いことじゃない。だけど私は、「今こんなときにポテトチップ食べないで、ちょっと我慢して、あとでみんなで『乾杯!』っておいしく焼肉食べようよ」って思うわけですよ。
ポテトチップを食べるのは悪いことじゃないですよ。どうぞ、おいしく食べたらいいんだけれども、やっぱりその向こうの宴を考えたら、なにも今、その不完全な喜びをムキになって求めなくっても、もっとホントによいもの、ホントにみんなで喜べる宴
なのに、われわれはいっつもその手前で、「ああ、ポテトチップがほしい」と言い、「もっとポテトチップをくれ」と言う。
善悪って対立概念に思われがちだけど、悪は「ホントの善が足りない状態」って思っていただきたい。だから、ひどい悪に思えたとしても、実は大した悪じゃない。真の善を脅かすほどのものじゃない。その向こうの真の善に向かっての途中のことなんです。それを信じられたなら、「もっと今の状況を忍耐しよう」とか、「もっとあいつを受け入れよう」とか、「こんな自分勝手なものにこだわるのを止めよう」とか、思えるようになる。
先を見ましょう。千年、二千年の計でね、神さまがおつくりになってくださる素晴らしい世界をわれわれは夢見ます。手前に留まってちゃいけない。目先だけ見てちゃいけない。
昨日私を訪ねてきた方は、初めてお会いした方ですけれど、数年前に亡くなったある神父さんと親しくしていた方でした。もともと、プロテスタントのある教会で洗礼を受けたんですけど、そこで長続きせずに出てきちゃって、それ以来どこの教会にも行ってなかったんですね。ただ、この亡くなった神父さんとは非常に親しくしていて、気が合ったみたいで、その神父がいっつも「晴佐久神父っておもしろいぞ」って、私の話をしていたとか。だから、その神父が亡くなって寂しい思いをしていたので、「そういえば、よくそう言ってたなあ。晴佐久ってどんな神父だろう。会ってみたい」って思って来られたんです。
で、昨日お会いしたんですけど、おもしろい方でした。いろいろお話聞いている中で、どうして、その洗礼を受けた教会を出て行っちゃったかっていう話をしてくれました。
あるとき、そこの牧師先生が勉強会でいろいろ教えておられたんですが、そこにいた若い女性がこう質問したんですって。
「でも先生、それじゃあ、マザー・テレサも地獄行きなんですか?」
すると、その牧師先生が、
「はい、そうです」って答えた。
「なぜですか?」って聞いたら、
「カトリックだからです」(笑)
それを聞いた瞬間、「ああ、もうここに通うのは止めよう」と思ったそうです。
これが、善悪二元論ですね。右は天国行き、左は地獄行きみたいな話。非常にシンプルですよね。カトリックは地獄行き。失礼しちゃいますよね。(笑)
今日は、この説教の後で洗礼志願式ですけれども、私は志願者の皆さんを地獄にご案内っていう話になっちゃうわけでしょ?(笑)
聖書を読めばね、さっきも第2朗読で、パウロが言ってました。
「主を信じる者は、だれも失望しない。ユダヤ人とギリシア人の区別もない。すべての人に同じ主がおられる。主の名を呼び求める者は、だれでも救われる」
そういう聖書を信じているはずのキリスト教が、「カトリックは地獄行き」って、あまりにも単純な二元論ですね。
ただですね、あえて言わせてもらえば、おっしゃるとおりなんです。昨日も私、その彼にお話ししました。「実はマザー・テレサ、地獄行ってるんですよ」と。実際、彼女自身がそう言っている。ホントのことですよ。彼女の言葉ですけど、
「私が死んで、もし聖人になるなら、『暗闇の聖人』になるでしょう。天国を留守にして、暗闇の中にいる人を救いに行きますから」
カッコイイですよね〜。「私、地獄に行きますよ」って。「天国を留守にして」。・・・これが救いでしょう? これがキリスト教でしょう? 「天国」とか「地獄」とかいうお粗末な二元論を超えた、本当の神さまの国。われわれがイメージしている「天国」とか、われわれが考える「地獄」とか、そういうものをはるかに超えた、真の神の国の豊かさでしょう。
手前にね、「これが天国」とか「あれが地獄」とかっていうふうに思えるものがあっても、はるかその先に、神さまがおつくりになっている、誰もが本当に喜びに与
実際、その方も言ってました。「でも、実を言うと、その教会に通っていた時の方が、楽と言えば楽でした。なぜなら、すべてもう答えが決まってましたから。牧師の言うことだけ鵜呑
しかしそれは、ただの盲信っていうことです。目先の律法だけ守ってれば救われるという原理主義ってことです。それに比べると、遠いものを見つめて、手前の善悪を超えていくのは、実に忍耐のいることですよ。でもそれは、なんと甘美な忍耐か。簡単ではないけれども、それはなんと素晴らしい努力か。それを重ねていくことで、神さまの創造の業
善悪を超えた世界、私はそれを信じますし、特に洗礼志願者の皆さん、このあとの洗礼志願式で、皆さんは今年の復活祭に洗礼を受ける決意をみんなの前で表明します。その決意とは何かといえば、もはや、この手前のこと、目先のものに惑わされないという決心です。「これが善だ」とか、「あれは悪だ」とか、「俺はだめで、あいつはいい」だとか、「こんな世界は悪で、こんな私は滅びる」とか、そんな手前のこと、目先の考えからですね、もっと永遠なるものへと生まれ出ていく、その決心をするわけですよ。神さまがそのように私たちを招いてくれる。だから、私たちにはもう絶望はありません。手前にいくら十字架が立っていても、その向こうの復活の栄光を私たちは信じるから。
十字架だってね、ほんの数時間。墓に入ったってね、たかが三日。その向こうに何千年の復活の主の歴史が始まるわけでしょ? 目の前のものに迷わされてはなりません。「ただ主を愛しなさい。ただ主を信じなさい。ただ主にのみ仕えなさい」と、イエスさまはそうおっしゃる。悪魔のささやきに耳を傾けちゃいけないってことですよ。
私たちの教会家族である一人の信者が亡くなって、今日、日曜日の午後、この聖堂で葬儀ミサが行われます。洗礼名はミカエルでした。ミカエル君。40代、まだ若かった。数カ月前に私たちの教会に転籍してきたばかりでしたので、よく知らないという方もいるとは思いますが、顔を見たらわかると思います。
入門講座のお手伝いをはじめ、「おやつの会」や、知的障害の方たちのグループ「みんなの会」など、いろんな集まりに出ておられました。元気な方でね、おしゃべりでね、人懐っこくてね、世話好きでね、いっつもみんなに関わって、いろいろなことを教えたり、いろいろな物を分けあったりしてたもんだから、すぐに人気者になって、知り合いも増えて。だけど、持病もあって、あっという間に亡くなっちゃいました。ほんの数カ月でしたが、多摩教会を吹きぬけていった、その彼の葬儀ミサがこの後行われます。
突然死だったんですよね。で、一人暮らしだったもんだから、発見されるのに少し時間がかかったんですけれども、親を知らずに施設で育ったということもあって、まったく身寄りがない。だから、発見されて警察の検死が終わった後、行政の責任になり、市役所の世話になったわけです。とはいえ、いくら身寄りがなくとも、私たちは教会家族ですから、ぜひ葬儀ミサをしたい。でも、やっぱりこれ、担当が行政に移ると、なかなか簡単にはいかないんですよ。それで、市役所と掛け合ったんですけど、担当者が、
「もう、来週月曜日の午前9時から火葬場で火葬することに決まりました。もしお祈りしたいなら、火葬場で10分ほどのお祈りはできます。お骨はその後、無縁仏として指定の墓地に埋葬されます」というお返事でした。ですから私、
「でも、私たち、信仰の家族ですし、家族同然ということで、前日の日曜日に多摩教会で葬儀ミサをして差し上げたいんだけれども、できませんか?」って聞いたら、
「それは難しい」って言う。
「どうしてですか?」
「費用に限りがあるんですよ」
「いや、費用はだいじょうぶです。彼はうちの信者なんで、足りない分は教会家族である私たちが当然負担しますから、だいじょうぶです。ぜひ、前日の日曜日に葬儀ミサさせてください。その夜は教会でお預かりして、翌朝出棺しますから」
「でも、そうすると、お骨はどうするんですか?」、そう聞かれるんで、
「もちろん私が火葬場から引き取って教会に安置して、しかるべき時にカトリック霊園の多摩教会共同墓地に、ちゃんと納骨します」って申し上げたら、
「費用に限りがあるんですよ」(笑)
「いや、ですからその費用も、もちろん私たちで。あの、何度も申し上げますけど、私たち家族なんですよ。お分かりいただけますでしょうか。お願いいたします」と言ったら、
「では・・・上司と相談します」(笑)
まあ、でも数時間後には、「了解しました」とのお返事をいただいて、葬儀社がこちらに運んでくれることとなり、今日の午後、ここでの葬儀ミサが可能になりました。
まあ、ホッとしたわけですけれど、行政とか、あるいは、この世はだいたいそうなんでしょうけれど、やっぱりこういう、「信仰の家族」とか、「教会家族」っていうのは、なかなか今はピンとこないんでしょうね。すべてが法律と効率ですし、すべてが費用に換算ですから、こういう「私たちは天の家族だから当然だよね」なんていう世界のことは、なかなかわからないのかもしれない。
今日はでも、前の教会の神父も、彼の友人も、また、彼がお世話になった施設の職員の方もいらして、少しはにぎやかに送って差し上げることができそうで、うれしいです。もちろん、どんな葬儀だろうと本人はもう天国ということは変わらないわけですけど、どんな葬儀をしているかを見れば、それがどんな家族かはすぐわかるわけで、ぜひ今日は、心を込めて、私たち教会家族で、家族葬を捧げましょう。
彼は今、きっと、ミカエルっていう洗礼名のままに、天国で大天使ミカエルに迎え入れられて、「ああ、なかなかに大変な人生だったけれど、信じて生きてきてよかった。目先のことだけじゃなく、永遠なる世界を信じて生きてきてよかった」と、「イエスさまの約束は本当だった!」と、ホントに喜んでいるでしょう。
私たちも、今日の葬儀ミサで、目先の善悪だの費用だのではなく、はるかなる永遠なる天を仰ぎ見て、彼のように、やがて天使たちに見守られ、神に迎え入れられる日を待ち望むんです。
洗礼志願者の皆さん、どうぞ安心して亡くなってください。(大笑)私たち、教会家族がちゃんと面倒を見ます。いやいや、「面倒見る」なんてのはしょせんこの世の話だ。葬儀ミサはもうすでに、天の国の始まりなんだし、そもそも私たちは洗礼を受けるときに、もうすでに天に生まれているんだから、何の心配もいらないんです。その意味では、今度の洗礼式は、皆さんの生前葬みたいなもんです。
教会家族に見守られて安心して洗礼を受け、聖徒の交わりに入って、いつの日か神さまの御国に迎え入れられる日を待ち望みます。
では、洗礼志願式をいたしましょう。洗礼を受ける決心をなさった洗礼志願者は、その場にお立ちください。
Copyright(C)晴佐久昌英