2014年6月29日聖ペトロ 聖パウロ使徒
・第1朗読:使徒たちの宣教(使徒12・1-11)
・第2朗読:使徒パウロのテモテへの手紙(二テモテ4・6-8、17-18)
・福音朗読:マタイによる福音(マタイ16・13-19)
【晴佐久神父様 説教】
今日は聖ペトロ、聖パウロ使徒のお祝い日(※1)。
6月29日が記念日ですけれども、時々、ちょうど日曜日に当たるんですよ。私はペトロですから、日曜日に当たると、なんかちょっと得したような幸せな気持ちになります。
今日、ペトロの方、パウロの方も、ここにも何人もおられるでしょうけれども(※2)、ぜひ、ペトロ、パウロの洗礼名を持っている方のために、お祈りをお願いいたします。
今日は主任司祭の霊名のお祝い日として、例年通り霊的花束(※3)を用意してくださっていると聞き及んでおりますが、ありがとうございます。ミサの最後に、皆さんのお祈りをまとめたカードを頂くことになっておりますが、先週、ミサのお知らせで、典礼委員さんが、
「今日が霊的花束の締め切りですが、どうも例年に比べてお祈りが少ないようですので、よろしくお願いします」と、本人を目の前にして言ってました。(笑) どういう顔していいのか分かんなかった。(笑) これはつまり、「あの神父は祈らなくてもだいじょうぶだろう」と買いかぶっているのか、「あれはもう、祈っても無駄だ」と、(笑)諦めているのか。
なんにしても、「祈り」って、日常のことですし、なんだか慣れっこになっちゃって、「祈り」っていうことの本当の力を、ちゃんと私たち、分かってないかもしれないですね。
もしも仮に「祈ったら、こうなる」っていう因果関係が分かっていたら、みんなすごく祈るんじゃないですか? でも、実際には目に見えない世界のことですから、この祈りが果たして役に立っているのか、意味ある正しい祈りを祈っているのかどうか分からない。それで、ちょっと祈る思いに、
もしそうだとするなら、ちょっと今日は、「祈り」の力を、もう一度信じて、「お互いのために祈り合う」っていうことをやりましょう。
まあ、主任司祭のためにもお祈りお願いしたいですけど、今日、たとえばミサの前にお話を伺った方は、「4年ぶりにミサにまいりました」と言っておられました。・・・「4年ぶり」です。幼児洗礼なんですけどね、いろいろつらい思いも抱えて、ご病気のこともあり、心も乱れて、信仰から、ミサから離れていた。でも今日、4年ぶりにこのミサに出ておられる。
そういう方のために、皆さん、今日は祈ろうではないですか。本人がどれほど励まされることか。
神さまが本当に、このミサにおいて大きな恵みで私たちを満たしてくださると、そう信じて祈りましょう。お互いのことはよく分からなくても、「すぐ隣りに、4年振りにミサに
あるいは、今朝メールが来ましたけれども、私の非常に親しい友人のおばあさまが、今朝の午前4時に亡くなったと。その彼は、このおばあさまに育てられてるんですね。だからまあ、実際には、母親を亡くしたといっていいんじゃないでしょうか。彼が今どんな気持ちでいるかということを、私はほぼ正確に理解できる者として、このミサを、彼のため、おばあさまのためにお捧げしているわけです。そんな、今、本当につらい思いをしている人のために祈りましょう。
もちろん、ミサでこう祈れば何がどうなるとか、その因果関係は具体的には分かりません。この祈りが彼の心にどういうふうに届くのか、彼の生涯をどんなふうに支えていくのか、おばあさまが神さまに迎え入れられることとどういう関係になるのか、人間には分からない。分かる必要もない。分かっているのは、祈りにおいてこそ人間は神と交われるし、その神を信頼することそのものが祈りだということ。だから、すべてを委ねて心から祈る。
ちょうどその私の友人も、洗礼名がパウロなんですよ。聖パウロの祝日に天に召されたおばあさまが、孫の「パウロ君」のために、天で一生懸命お祈りしていることは、これもまた明らかなことです。
たぶん、そんな目に見えない祈りの世界がチラリとでも見えたら、私たちは、ホントに
天の祈り、地の祈り、私たちのまごころからの祈り、ささやか~な小さな祈りを、祈りを必要としているお互いのために、今日、美しい霊的な花束として捧げ合いましょう。
第1朗読、もう一度見てください。(※4)
ペトロがね、もう捕まって殺されるかもしれないっていう、万事休すのとき。牢屋の奥で、鎖につながれてるそのとき、何て書いてありますか。5節、
「こうして、ペトロは牢に入れられていた。教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた」(使徒12:5)
当時の初代教会にとっては、ペトロは弟子たちの中心人物です。イエスさまに信仰を宣言し(マタイ16:16)、イエスさまから天の国の鍵を授けられた(マタイ16:19)、最も大切な使徒の頭として、人々から尊敬と信頼を集めていた。そのペトロが捕らえられて、牢につながれて、鎖で縛られて、そして、もしかして殺されるかもしれないなんていうときに、初代教会の人たちが、どれだけ熱心に祈っていたか。
これ、たった1行ですけどね、
「教会では彼のために熱心な祈りが神にささげられていた」(使徒12:5)とある。
「熱心な」って書いてありますよ。どんな思いで祈っていたかは想像つきますけれども、キリストにおけるその祈りが、どんな実りをもたらしたか。
「番兵たちが牢を見張っているのに、主の天使がペトロのそばに立って、光が満ちて、天使はペトロのわき腹をつついて起こした」(cf.使徒12:6-7)
「わき腹」ってとこがカワイイですね。チョイ、チョイッと、つついたんでしょうね。そ~っと起こしたっていう感じがよく出てます。
「起きなさい」・・・鎖は手から自然に外れ落ちる。「さあ、帯を締めて、履物を履きなさい」と言われ、「ついて来なさい」と言われ、ペトロは外について出ていく。(cf.使徒12:7-9)
「門がひとりでに開いた」とありますよ。 そして、「通りを進んで行くと、急に天使は離れ去った」(使徒12:10)と。
で、ペトロは我に返ります。
「今、本当のことが分かった。主が、あらゆる悪から、私を救いだしてくださった」(cf.使徒12:11)。
さあ、この出来事、教会の熱心な祈りと関係ないですか? そんなことないですよね。教会の熱心な祈りが、現実として実っている。ただの神話的な出来事じゃない。
今日だって、その実りの日なんじゃないですか?
ミサは4年ぶりというあなたのために、まごころからお祈りいたします、
「決してキリストから離れませんように!」と。
自分よりも大切なおばあさまを亡くした、一人のキリスト者のために祈ります、
「試練の中でも神の愛を信じることができますように!」と。
どんな悪も、たとえ地獄の門ですら、このキリストにおける祈りにかなうものはありません。
私たちの祈りは、キリスト経由でしょ? 「キリストによって」祈ってるんです。
「私たちの主、イエス・キリストのみ名によって。アーメン」
祈りの最後にそう付け加えるのは、「この私たちの祈りは、キリストの教会の祈りである」「キリストが私たちと共にあって、私たちのために最高の祈りを天の父に捧げてくださっている」「キリストにおける祈りは、必ず聞き入れられる」・・・こういう信仰によるものです。
先ほどの福音書で(※5)、ペトロが信仰を告白いたしました。美しい信仰告白です。
イエスさまから、
「あなたがたはわたしを誰だと言うか」と聞かれて、
シモン・ペトロは、
「あなたメシア、キリストです」と、そう答えます(cf.マタイ16:15-16)。
この宣言は、人類史上初のキリスト宣言ですね。神さまにしてみたら、「この宣言を生み出したくて地球をつくり、命を育て、人類を進化させた」と言っていいようなものです。
ご自分の愛、ご自分のいのちそのものであるキリストを人類のうちにもたらして、人類がそのキリストを知り、「あなたこそまことの神の子、救い主、キリストです」と、そう信じて受け入れることを、何よりも神は望んでおられる。しかし、どんなに素晴らしいキリストを与えたところで、人類の誰一人それを受け入れなかったら、キリストの教会は始まらない。救いの歴史は滞ったまま。・・・になっちゃう。
だから、人類が何億人いようとも、ともかく誰か一人でも、まず最初に、イエスに向かって「あなたが救い主、キリストです」と言ってくれないと。
今でこそね、何十億人っていう人が、「イエスは、キリストです」って宣言しますけれども、このときペトロがひと言そう言うまでは、誰もそんなこと言わなかった。
しかしついに、ペトロの口から、「あなたが救い主です」という言葉が出る。
この世界がどれほど悪い世界でも、この自分がどれほどひどい自分でも、
「あなたが救い主です」
「あなたがキリストです」
「あなたが神さまの救いを、この世界に完全に、完璧にもたらします」
「どんな悪も、罪も、あなたにかなうわけがない」という宣言。
・・・「あなたを信じます!」というこの宣言は、「あなたによる救いを受け入れます」という宣言です。「あなたは私を救ってくださった。もう他のどこにもまいりません。あなた以外のものにフラフラいたしません」という宣言です。それは、私たち一人ひとりの洗礼を受けたときの、まごころからの宣言のはずです。ペトロ以来、私たち、それを繰り返してきたんです。
「主、イエス・キリスト、あなたを受け入れます」
この宣言をした者は、もはや「キリスト標準装備」です。
「車にエアバッグが標準装備されてます」なんて言い方がありますけど、洗礼を受けた人すべてに、キリストが備わってるんです。もう「組み込まれて」るんです、キリストが。いやも応もない。もはや、わが身から外せない。
そのキリストが、私たちの中で働く。稼働する。
私たちが祈るとき、たどたどしい言葉で、貧しい理解で、「あの人のために」とか、「自分の苦しみを救ってください」とか、いろいろ祈るわけですけれども、「こんな薄い信仰、こんな弱い自分、貧しい理解で祈ったところで何になる」っていうような気持ちになりがちですよね。
だけど、皆さんにはなんと、「標準装備」でキリストが組み込まれてますから、ただもう「キリストによって」とひと言付け加えれば、もうキリストが、その貧しい思いや理解を清めて、ご自分の言葉、ご自分の愛で、天の父直結の祈りとして、天の父に祈ってくださる。ありがたいでしょう?
そもそも「ミサ」っていうのは、そういうことですね。
これはキリストが捧げてるんですよ、このミサは。私たちはそれに信頼して、私たちの祈りを「合わせる」。
皆さんの中に、そんな
キリストが、私たちの弱い部分をぜんぶカバーして、足りない所をすべて埋めて、完全なる祈りとして神さまに捧げてくださる。
「教会はペトロのために熱心に祈ってた」(cf.使徒12:5)とありますけれど、その教会の中心にいたのは「イエス・キリスト」ですし、このペトロのうちにもおられて、働いていたのは「イエス・キリスト」ですし、以後、二千年間、キリストの教会はイエス・キリストにおいて祈り続け、そしてどれだけ多くの人を救い、励まし、永遠のいのちの喜びで満たしてきたか。
今日も、「キリストによって」、熱心に祈りましょう。
ですから、このイエスさまの言葉は、まさに真実ですよ。
「このことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(cf.マタイ16:17)。
「このこと」っていうのは、「あなたは救い主です」っていう真理の宣言のことでしょう? つまり、私たちの信仰で
よかったですねえ、皆さん。天の父から信仰を頂いたんです。
たとえほんのかけらでも、天の父から頂いた信仰を宣言できるならば、何も恐れることはない。これはもう、最高のことじゃないですか?
パウロに言わせれば、今日の手紙でいうならば(※6)、「わたしは既にいけにえとして捧げられて」いて、「わたしを通して福音があまねく宣べ伝えられた」のであり、つまり働いているのは神でありキリストであるのです。そのパウロは「世を去るときが近づいた」と悟って、遺言のような手紙を残したわけですけれども、「わたしは決められた道を走りとおした」と、「信仰を守り抜いた」と、「今や、義の栄冠、神さまからのご褒美を受けるばかりだ」と、胸張ってそう言えるパウロ。(二テモテ6:7~8)
うらやましい気もしますが、パウロは、よく言うように、「わたしが生きてるんじゃない。キリストが生きてるんだ」って言ってるわけだから(cf.ガラテヤ2:20)、こうやって「走りとおした」っていうことも、何のことはない、実はパウロの中で、あの回心によって(※7)標準装備されたキリストが、完全に働き続けた、フル稼働し続けたってことでしょう。
その意味では、パウロくらい効率よく、自らに装備されたキリストを使いきった人はいないって言えるんじゃないか。
・・・どうですかねえ、私たちはこのキリストを、あんまり使ってないんじゃないですか、ちゃんと装備されてるのに。
自分の脳みそ使ったり、自分の肉体使ったり、なんかそんなことばっかりしていて、魂に装備されてるキリストを使ってない。そのキリストを受け入れてない。キリストを救い主として、ちゃんと信じていない。だから当然、いつも悩んだり、がっかりしている。・・・とするならば、もう洗礼を受けてるんだから、皆さんは。キリストをフル稼働させてくださいね。
天の父が、その、わが内なるキリストを通して恵みをくださるし、私たちはそのキリストによって働き、キリストを通して、天の父に感謝と賛美を捧げる。
「キリストによって、
キリストとともに、
キリストのうちに、
聖霊の交わりの中で、全能の神、父であるあなたに」
・・・と、後で祈りますからね。
「すべての誉れと栄光は、世々に至るまで」
「アーメン」って(※8)答えてくださいよ。
キリストが組み入れられた者として、どれっだけ祈っても構わない。そして、キリストをフル稼働させたら、もう奇跡でも何でも、いくらでも実現できる。そんな信仰を持って、ペトロの後に続いてまいりましょう。
イエスさまは、「あなたは岩。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。地獄の門もこれに勝てない」と、そう言いました。(cf.マタイ16:18)「
アレルヤ唱で、直訳の方を歌いました。(※9)
「あなたはいわお 地獄の門もこれに勝つことができない」〈cf.典礼聖歌277番(聖ペトロ・パウロ)〉
コワいですね、「地獄の門」。経験あるんじゃないですか? この先はもう、絶望の闇、虚無の海。この門から入ったら、もう二度と戻って来れないみたいな、そういう恐れを感じること、ないですか?
しかし、・・・その恐れは幻です。自らのつくりだす恐れです。
キリストを信じる者、神のいのちを信じる者、その信仰においては、こんな「地獄の門」、吹き飛びます。ただの幻だということに気づく。
「恐れ損」とでもいうべきか、「恐れただけ無駄だった」、そういうことなんです。
神の恵みのうちには、「地獄の門」なんて、何ほどのものでもない。それは、われわれ自身が勝手に生み出してるようなものです。
「地獄の門もこれに勝てない」という、その「いわお」の上に、私たちの教会、建っております。
ペトロに感謝したい。そしてこの、ペトロとパウロの記念日に、私たちも信仰を新たにして、
「主よ、あなたはわたしたちの救い主、キリストです」と、そう宣言したい。
何も持たない私たちにとって、最後の最後は、この信仰だけです。
この前、列聖式に行きましたけど、列聖式の後、サン・ピエトロ大聖堂に大行列して入りました。聖ヨハネ・パウロ2世教皇の
サン・ピエトロ大聖堂で、その教皇祭壇の所まで来たら、私はいつも上を見上げてですね、ぐるりと書いてあるラテン語を読みます。天井近くにぐるりと、ラテン語が書いてあるんですよ。・・・行ったことある方、ご存じですか? ありましたでしょ(※10)?
巨大な聖堂なんで普通の文字に見えるけど、あの一文字一文字、巨大でしょうね。金色のガラスモザイクで、帯のようにグル~ッと黒っぽい文字が書いてあるんですよ。ぜひ行ったら見てくださいね。私の老眼でも読めるくらいですから、かなりおっきい文字ですよ。
何て書いてあるか、お分かりですよね。そのために、あの聖堂建てたようなもんですから。
・・・先ほど読んだ所ですね、18節。ペトロの墓の上の、サン・ピエトロ大聖堂に、
「わたしは言っておく。あなたは岩。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。地獄の門もこれに勝つことができない」(cf.マタイ16:18)、
そう書いてあるんです。
・・・「地獄の門もこれに勝つことができない」
イエスさまのその宣言に守られて、私たちは今日も、この「岩」の上の教会で祈りを捧げております。
まごころから、祈っていただきたい。
祈りを必要としている方は、今すでにその祈りに支えられていると気づいていただきたい。
私も皆さんの祈りに支えられて、これからも司祭として働いてまいります。
司祭として働くということで、ひと言付け加えておきますが、カトリックニューズには書きましたけれども(※11)、私、大変元気です。先日、弟から電話がきて、
「神父さん、神父さんの体調が非常に悪いとある所で聞いたけれども、だいじょうぶか」、
そう、心配してるんですよ。
どっかで、そういううわさが流れてるんでしょうね、たぶん。ですから、私は即答いたしました。
「聖書に手を置いて誓うけれども、私、今、大変健康です。申し訳ないくらい」
どこでそんなうわさがながれたんだか。ご心配をおかけしないためにも、今も、ちょうどここに聖書があるから、ちゃんと右手を置いてお誓いいたしますけど、大変、私、健康です。
たぶん、こうして元気で働けるのも、魂がこんなに信仰の喜びで満たされているのも、皆さんの祈りのおかげです。
キリストにおいて、心から感謝申し上げます。
【 参照 】
※1:「今日は聖ペトロ、聖パウロ使徒の記念日」
・ キリスト教には、「聖人暦」というものがあり、1年間、各々の日に、特定の「聖人」(すでに世を去って神のもとにある者。信仰者の模範としたり、とりなしを願ったりたりする)を結び付け、関連付けた暦がある。
ある聖人の記念日とは、その、結び付けられた日を指す。1日に一人だけとは限らない。
聖人の記念日は、その聖人によってランクが決められており、重要度の高い方から、「祭日(大祝日)」、「祝日」、「義務の記念日」、「任意の記念日」の順となっている。
聖ペトロ、聖パウロの両聖人は、大祝日(祭日)で、毎年6月29日に祝われている。
***(参考)***
<聖人暦>
・ カトリック教会の聖人暦(ウィキペディア)
・ 聖人カレンダー(Laudate)・・・聖カレンダー、聖人月別リスト、聖人50音順トップページ
〈記事〉「聖人-無力を知り、神の救いを信じる人」(奥村一郎カルメル会司祭)
<聖ペトロ、聖パウロ>
・ 聖ペトロ、聖パウロ使徒(Laudate-教会カレンダー)
・ 聖ペトロ(シモン・ペトロ、ペテロ、ケファ<ケパ>、バルヨナ<ヨハネの子>)
>>>シモン・ペトロ(個人ブログ)、ペトロ(ウィキペディア)、聖ペトロ、聖パウロ使徒(Laudate)など
・ 聖パウロ(サウロ・サウル)
>>>パウロ(個人ブログ)、パウロ(ウィキペディア)、聖ペトロ、聖パウロ使徒(Laudate)など。
<聖人>
・ 「教会は、ある信者たちを列聖することによって、つまり、彼らが諸徳を勇敢に実践し、神の恵みに忠実に生きたことを荘厳に宣言することによって、自分のうちにある聖化の霊の力を再認識し、聖人たちを模範ならびに取り次ぎ手として信者たちに示し、彼らの希望を支えます」
(2002年『カトリック教会のカテキズム』カトリック中央協議会 828項)他、同本では、1173項、2045項など参照。
・ 『カトリック要理』、第一部「神と、キリストによる人間の救い」-第11課「諸聖徒の交わり・聖母マリア」(1979年『カトリック要理』カトリック中央協議会)
・ 「聖人崇拝」(2008年『岩波キリスト教辞典』岩波書店)など
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※2:「今日、ペトロの方、パウロの方も、ここにも何人もおられるでしょうけれども」
・ 西ヨーロッパでは、中世から、聖人の名前を、子どもの洗礼名や堅信名としてつけることが一般的となった。子どもの誕生日に祝日にあたる聖人の名前をつけることが多かった。
洗礼名や堅信名は、「霊名」といわれ、霊名の聖人の祝日は、自らのお祝いの日でもある。
この、「聖ペトロ 聖パウロの記念日」は、霊名がペトロ、パウロの人のお祝い日となる。
なお、現在、霊名は、自分の誕生日に寄らず、自由につけられることが多い。
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※3:霊的花束。
カトリック教会では、ロザリオや「主の祈り」「アヴェ・マリアの祈り」などの祈りや、何かを少し我慢すること(たとえば、たばこやお酒などを断つこと)を祈りの「花」と見立て、それらを集めて「霊的花束」ということがある。
特に、お祝いやお礼、お見舞いなどに、この「霊的花束」を贈る習慣があり、どのような「花」を何本ささげたかをカードに記し、「霊的花束」として贈ることもある。
また、個人としてだけではなく、教会として、教会に集う一人ひとりの「花」を「霊的花束」としてまとめて、特に、司教、司祭へのお祝いやお礼に贈ることが多い。
( カードの記入例 )
・主の祈り ××回
・アヴェ・マリアの祈り ××回
・ロザリオ ××連
・ロザリオ ××環
・十字架の道行 ××回
・聖体訪問 ××回 など
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※4:「第1朗読」
・ 本日(2014年6月29日〈聖ペトロ、聖パウロ使徒〉)の第1朗読箇所
「使徒言行録」12章1~11節
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※5:「先ほどの福音書で」
・ 本日(2014年6月29日〈聖ペトロ、聖パウロ使徒〉)の福音朗読箇所
「マタイによる福音書」16章13~19節
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※6:「今日の手紙でいうならば」
・ 本日(2014年6月29日〈聖ペトロ、聖パウロ使徒〉)の第2朗読箇所
「使徒パウロのテモテへの手紙二」4章6~8節、17~18節
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※7:「あの回心によって」
(参考)
パウロの回心
→ 使徒言行録22章3~16節、26章9~18節
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※8:「『キリストによって、キリストとともに、キリストのうちに、(中略)・・・』、『アーメン』って」
ミサは、①開祭、②ことばの典礼、③感謝の典礼、④閉祭と進むが、その中の③感謝の典礼の終盤、キリスト者の一致を祈り、教皇、司教をはじめとする全教会とすべての死者のために心を合わせて祈った後、栄唱として、この言葉で司祭が祈り、会衆は「アーメン」(そうでありますように)と応える。そしてすぐ、共に「主の祈り」を唱え、聖体拝領への準備が進んでいく。
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※9:「アレルヤ唱で、直訳の方を歌いました」
本日(2014年6月29日〈聖ペトロ、聖パウロ使徒〉)のアレルヤ唱は、典礼聖歌277番(聖ペトロ・パウロ)。
歌詞は、以下のとおり。
「アレルヤ、アレルヤ あなたはいわお この岩の上にわたしの教会を建てよう 地獄の門もこれに勝つことはできない アレルヤ、アレルヤ」
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※10:サン・ピエトロ大聖堂の教皇祭壇と天井近く
(参考画像:クリックすると、大きく表示されます。
今回は、すばらしい画像なので、いつもより大きめに掲載しました。ぜひクリックして、さらに拡大してご覧ください。)〈「壁紙自然派」管理者さま、掲載許可、ありがとうございました。〉
①サン・ピエトロ大聖堂の「ねじりん棒」と教皇祭壇
(本文)「ねじりん棒の教皇祭壇が聖堂の真ん中にある」
※画像出典:ブログ「壁紙自然派」(記事:サン・ピエトロ大聖堂の主祭壇、ベルニーニのバルダッキーノ (3)より)
②サン・ピエトロ大聖堂の身廊全景
(本文)「巨大な聖堂なんで」
(写真の下に写っている群衆と併せてご覧ください。その壮大さが伝わってきます)
※画像出典:ブログ「壁紙自然派」(記事:サン・ピエトロ大聖堂の身廊とクーポラ (13)より)
③サン・ピエトロ大聖堂のクーポラ(ドーム)
(本文)
「わたしは言っておく。あなたは岩。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。地獄の門もこれに勝つことができない」(cf.マタイ16:18)
※画像出典:ブログ「壁紙自然派」(記事:サン・ピエトロ大聖堂の身廊とクーポラ (13)より)
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※11:「カトリックニューズには書きましたけれども」
・ カトリック多摩教会の月報、「多摩カトリックニューズ」6月号の主任司祭巻頭言、「おうちミサ」参照
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