【カトリック浅草教会】
2018年2月18日 四旬節第1主日
・ 第1朗読:創世記(創世記9・8-15)
・ 第2朗読:使徒ペトロの手紙(一ペトロ3・18-22)
・ 福音朗読:マルコによる福音(マルコ1・12-15)
【晴佐久神父様 説教】
昨日のオリンピック、よかったですねえ。私、大ファンなんですよ。神さま、仏さま、
まあ、カッコいいというか、美しいというか、芸術的というか。フィギュアスケートは、特に応援しているスポーツのひとつなんですけど、あれはもう、「スポーツ」っていうより芸術ですね。なんでこんなに
だからこそ、努力もするし、訓練もするわけですけれども、やるだけやって、最後の最後は、恐れを乗り越えて、自分を信じて、・・・宗教的にいうならば、「今のこの自分を捧げよう」みたいなね、そんな思いが出てくるとき、その信じる心こそが、目に見える素晴らしい演技となって、現れる。音楽や振り付けの魅力も加わって、本人の心と見ている人たちの心が、響き合う。
その瞬間がね、やっぱり、ぼくには感動的。実際、見てても、「ああ、恐れてるな」って思ったら、こちらも恐れるし、「ああ、信じてるな」って思った瞬間、あの瞬間を何て呼んだらいいか分からないですけど、見ているこちらに何かが響いてきて、私は感動する。
こうして説教なんかしていても、私のうちに、不安とか迷いとか、いい加減な何物かがあると、相手に何も伝わらない。でも、「ここは譲れない」「これだけは信じて語ろう」、そう思ったときは、何かが響き合う。ぼくはアスリートではないですし、芸術家でもないですけれども、人前に立つ身である者として、あの気持ちがよく分かる。そして、そこできちんと恐れを越え、やることをやって、みんなに何かを届けようって思うところに、とても感動します。昨日は、あの金メダルに、ホントに泣かされました。
実は、私が昨日最も感動したのは、その金メダルへのプロセスを思ったからなんです。ひと言で言えば、「滑れてよかったね~」っていう、まあ、そこなんですよね(※2)。本人も言ってましたよ。「けがを乗り越えて、自分がこうして氷上で、また、みんなの前で滑ることができるという、その喜びを、ホントに深くかみしめているし、ホントに楽しんでいる」っていうようなこと。・・・そこなんですよ、感動の本質は。「自分を捧げる」という・・・。「金メダルを取らなきゃ人生終わりだ」とか、「負けたらぜんぶ無駄になっちゃうんじゃないか」とか、そういう個人の恐れや執着みたいなものが見えちゃうと、見ていても共感できない。「がんばれよ」とは思いますけど、心に響いてくるものがない。
でも、彼は違いました。今、ここで、また滑れることをホントに喜んでいた。彼、「戻って来たぞ!」って言ったんですよね、「Coming Back!」って。・・・そうでしょうねえ、果たして治るんだろうかって思ってた時期もあったって、インタビューで言ってましたよ(※3)。それがまた、氷の上に立っている。だから、とても透明感があったと思う。彼の中に、「滑れるのは、当たり前のことじゃない。ここにいるだけで、本当に自分はうれしいし、ここで、与えられたものをすべて捧げたい」、そんなような澄んだ思いがあるんですね。
あの人、そもそも、東日本大震災のときにリンクの上にいて、そのスケート場はつぶれちゃって、練習できなくなっちゃった。避難所暮らしもしたし、異例のことですけど、アイスショーをやりながら、全国回ったんです。練習を兼ねてね。で、そのころも、「もしかしたら、もう滑れないんじゃないか」っていう思いのときに、ホントに滑れることのありがたさを、つくづくと感じたって(※4)。まだ若くしてねえ。あれ、7年前でしょ。もうすぐ、その3月11日が来ますけれども、彼は、自分が滑れることのありがたさ、そういう「原点」っていうのを知ってるんですね。
努力は確かに大事だけれども、どんなに努力してもかなわないこともある。でも、今は確かに、努力の結果を神さまから特別に与えられているっていう・・・。その恵み、感謝、誇りを捧げる。そこなんですよ。それを今日は、どうしてもね、皆さんと、・・・私、感激屋さんですから、(笑) ・・・あの、共有したかった。
皆さんも、「自分の人生」っていうリンクに立ってるんです。誰が見てるっていうのを超えて、神に望まれた人生、自分がそこにあるべき人生っていうものに、ちゃんと立たせてもらってるんです。それはホントに素晴らしいこと。
「灰の水曜日」(※5)で、この前、額に灰を掛けましたけれども、そのときも、お説教で話したと思います。「あなたはちりであり、ちりに帰るべきものであることを覚えなさい」(cf.創3:19)って、昔はよく言ったもんです。本来、私たちは、ゼロなんですね、ちりだから。それを、神さまが、土をこねて人間にして、その鼻に命の息を吹き込んで、生きる者として、皆さんの「人生」っていうこの舞台に立たせてくれたんですよ(cf.創2:7)。(※6)
皆さん、その舞台で何をしてるんですか。食べて、飲んで、働いて、愛して、争って、和解して・・・と、まあ、いろいろやってますけれども、神さまに与えられた、この「自分の人生」というリンクの上で、実は、皆さん、演技中なんですよ。自分を表現してるんですね。そうして転ぶこともあるだろうけど、また滑りだす。演技中、この世に、この「私」という一人しかいない。まさに一人しかいない。羽生結弦も一人しかいない。彼は、彼にしかできないこと、それを精いっぱいやる。それこそ、そのリンクが終わり、もう、滑れなくなったら、その選手生命は終わるわけです。もう、二度と滑ることはできない。だから、今、ここ、リンクの上に立っているっていう事実が、どれほど素晴らしく、うれしいことかっていうことを、彼は知っている。
私たちも同じことです。今、与えられている人生っていうのは、これ、いつか終わる。ちりでつくられた私たち、「命の息を吹き込まれた」って聖書にありますけど(cf.創2:7)、その「命の息」を、私たちは、今も、息してますでしょ、意識してなくても。神さまが、息させてくれてるんですよ。私たちは、そうして、この「人生」っていう日々を、「自分」というアスリートとして滑ってるわけですね。でもいつか、その息も、最後のひと息っていう時が来て、最後のひと息をふ~っと吐いて、私たちは、この人生を終える。「この世」というリンクを終える日が来る。それはもちろん、神の国、天の国に生まれていくときでもあるんですけど、そこに至るまで、私たちは精いっぱい、頂いたこの「私」という恵みを表現して生きてまいります。この世においてはちりに帰る、その時まで。
だから、今日も「自分の人生」というリンクで滑れるっていうこと、これはホントに素晴らしいことだっていうこと、今日、目覚めて、ここに集まって来て、ここにこうして存在しているのは、ホントに素晴らしいことなんだっていうこと、それを感じていただきたいです。
今週は、教会に泊まってる青年がいる。しかも、二人。ひとりは、遠くアメリカに留学している学生ですけれど、長野に里帰りしているところだそうです。プロテスタントの信者で、心の病を抱えていて、牧師先生から、「東京に行って、晴佐久神父に会っておいで」って言われたって。偉い牧師でしょう? (笑) 「神父に会って来い」ですよ。私は感心しましたよ。彼が最初に会いに来たのは先週でしたけど、そのとき私は彼に、「今、私のところに、福音家族たちが毎日のように集まって来てるから、それを体験してほしい」って言いました。で、彼はその日の福音家族に出て、「明日の家族にも会いたいから今晩、泊っていいですか?」と言い、翌日も、「明日の集いも出たいから、泊っていいですか?」と言い、結局、五日いたんですよ。で、そんなに泊まるつもりなかったんで、いったん長野に帰って、また今週、今度は着替えとか、いっぱい持ってきた。で、木、金、土と三泊して、先ほど、「長野に帰らなきゃならない」って言って、帰って行きました。木曜日に来たときには入門講座に出て、みんなと一緒に過ごしましたし、金曜日は「福音家族講演会」に出て勉強してましたし、昨日の土曜日には「福音カフェ」っていう学生たちの集まりに出て、一緒に食事をしました(※7)。そして、自分が生きる道は、このような、この福音家族のような、神の国のしるしになるような、人々の集まりに奉仕することだと、そう目覚めたって言うんですね。
ですから私、昨日の夜、召命について話したんです、「神は呼び掛けています」と。「『はい』と答えるために、私たちは生まれてきたし、生きている。別に、『はい』と答えなくても、神の愛には何も変わらない。でも、答えたら、その先にどれほどの新しい世界、感動の世界が広がるか、あなたにはそれを知ってもらいたい。あなたにはその力があるし、信じて、『はい』と答えて、一緒に、福音家族、『ほんとうの教会』という恵みを生きていきましょうよ」って。
まあ、彼はもう洗礼は受けてるんですけど、ついさっき、このミサが始まる前、「ぼくは、『はい』と答えます」と、そう言いました。・・・召命ですね。別に「神父になる」「牧師になる」じゃないと思いますけれども、・・・まあ、そうかもしれない、分からない。でも、ともかくも、「自分は今まで、ただ、ぼんやり生きてたと思う。本気になったことがない。でも今、自分は燃えている。本気でやっていこうと思えるようになった」と、そういうようなことを言ってくれました。私は、それにすごく感動したし、よし、一緒にやっていこうって思うし、たぶん彼、また来週も、着替え持ってやって来るんじゃないかな。
そういうとき、面白いなと思うのは、神さまが不思議な出会いをつくってくれるんですね。
もう一人の宿泊者ですけど、先週のある夕方、他の教会の信者さんから電話が来たんです、「ひとりの二十代の男性が、家庭で暴力を受けている」と。虐待ですね。で、「頭を大けがして、もう、家に帰すことができない。緊急だし、シェルターとして預かってくれないか」って言うんです。ちょうど入門講座のときで、さきほどの長野の彼が来てたときです。「どうぞ、どうぞ。すぐいらしてください。ただ、入門講座がもうすぐ始まるから、そこに顔を出してください」ってお応えした。
そしたらね、講座中にその彼が連れられてきたんで、すでに泊まっていて、講座にも出ていた長野の彼に世話を頼んだら、「長野」は、もう勝手知ったるわが家のように司祭館の和室に連れてって、布団敷いてあげて、「だいじょうぶだよ」って世話してくれた。
まあ、頭に大けがしててね。自分の家が暴力を振るわれる場だなんて、これはつらいですよね。で、「もう、家には絶対に帰りたくない」って言うんですね。そりゃそうだろうって思います。その彼がなんとか家を出て自立できるように、これから考えていこうと、福音家族の仲間たちで話し合ったりもしてるんですけど、考えてみれば、そう話し合ったりする仲間たちがいるっていうのも素晴らしいことですよ。
以来、けがした彼も三日間泊まっていったんですけど、その間に、その彼と「長野」とは、もういろいろと、話し合ったりする仲になってるんですね、たった二日か三日で。さらには昨日、「福音カフェ」の学生たちの集まりにも参加して、この世に安心できる場所があるっていうことを体験して、ホッとしてくれてました。
人生って、いろんなことがあるけれども、結局、「教会」っていうところに触れて、自分が本来あるべきところはどこか、本来するべきことは何か、本来出会うべき相手とは誰か、そういう、「本来」のものに触れることができたりする。
洗礼志願者の方、ぜひですね、洗礼を受けるのは、神に選ばれてリンクに上げられて、本来の自分を生きていく、表現していく、その意味では、「召命」なんだっていうことを覚えておいてください。そもそもは、その洗礼、皆さんが願ったんじゃない。願ってもかなわないことって、あるんですよ。でも、神は望んで皆さんを生んだし、望んで今日まで生かしたし、望んで教会に出会わせたし、そして今、洗礼を授ける準備を始めようとしている。人生で「本当」にすべきことに招いて、ご自分の働きに協力させる準備を始めようとしている。こんな素晴らしいことはない。
それは、「神が」選んだんです。
「私を選んでください」って、こっちから願うんじゃない。向こうが、「私が選んだ。受け入れてくれるか?」って、聞いてるんです。皆さんは、答える側。それで、「はい」と答えます、洗礼式の日に。その「はい」のための準備を、今日から始めます。
私が生きてるんじゃない。神が生かしてるんだ。
私が受けるんじゃない。神が授けるんだ。
私が滑ってるんじゃない。神が今、このような演技をする恵みを与えてくださってるんだ。
そこにおいて、私たちは本当に、神の国の目に見えるしるしとなるし、人々を感動させ、人々を救うことができます。
「教会」という福音家族、恵みの場を、一緒にやってまいりましょう。神さまが、それを望んでおられるし、そんな皆さんによって、どれほど多くの人が、これからも救われるか。励まされるか。安心できるか。
皆さんを、神さまは選びました。
もちろん、力は限られているし、体力も才能も、とても小さなものではありますけれども、それを承知で、「そんなあなたを、わたしは選んだ」って、神さまは言ってるんです。
「神さま、あなたが私を用いて働いてくださるなら、私は何でもできます」
そう信じて、この道を行けば、必ず金メダルが待っています。
「神の国」という意味でいうなら、ホントに、皆さんを金メダルが待っています。それを、いつか、「天の国」、「神の国」の表彰台で、首に掛けてもらうんだっていう、そんな思いで、今から、神の国のリンクに上がります。
これから、皆さんのお名前をお呼びします。「はい」と答えて前に出ていただきますが、これ、神父が呼んでるんじゃない。「神さまが」呼び掛けているんだと、そういう思いで、自分の名前を聞き、神さまに返事をしていただきたいと思います。
浅草教会の洗礼志願式をいたします。名前を呼ばれた人は返事をして、前に出て来てください。
【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます)
※1:「昨日のオリンピック、よかったですねえ。私、大ファンなんですよ。神さま、仏さま、結弦さまと、そう呼びたいくらい」
晴佐久神父は、以前から、フィギュアスケートの羽生結弦選手のファンで、お説教にも何度も登場している。
その羽生選手が、2018年2月9日から25日に開催された第23回オリンピック冬季競技大会〔平昌オリンピック(ピョンチャンオリンピック)〕に出場。16日、ショートプログラム(SP)でトップに立ち、17日、フリーで206.17点をマーク。66年ぶりの2連覇で、金メダルを獲得した。
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(上の画像は5枚がスライドショーになっています =手動=)
(参考)
・ 「フィギュア 男子ショートプログラム」(「平昌オリンピック2018」 日本オリンピック委員会)
・ 「フィギュア 男子フリー」(「平昌オリンピック2018」 日本オリンピック委員会)
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※2:「私が昨日最も感動したのは、(中略)『滑れてよかったね~』っていう、まあ、そこなんですよね」
羽生結弦選手は、オリンピックが3カ月後に迫った昨年11月9日、NHK杯の公式練習中に右足関節外側靱帯(じんたい)損傷のけがを負い、以降、2カ月間、練習から遠ざかった。そのため、けがの回復具合や、オリンピックに出場できたとしてもぶっつけ本番ではないかなど、周囲から心配の声が上がっていた。
(参考)
・ 「羽生結弦14年劇的復活再び!1週間前から本格練習」2018 /1/25(日刊スポーツ)
・ 「平昌五輪でぶっつけ本番。今こそ羽生結弦には私たちの声援が必要だ」2018 /2/8(web Spotiva) など
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※3:「彼、『戻って来たぞ!』って言ったんですよね、『Coming Back!』って。(中略)インタビューで言ってましたよ」
(参考)
① 「『戻って来たぞ!』って言ったんですよね、『Coming Back!』って」
16日、フィギュアスケート男子、ショートプログラムで、羽生選手は、最終第5組のトップ(全体30人中25番目)で登場し、自己ベストに迫る点数で暫定首位となった。ほぼノーミスで演技を終え、リンクから戻ると、オーサー・コーチは、「Amazing!」と迎え、羽生選手は、「Coming Back!」とこたえた。
(参考)
・ 「羽生結弦『カミンバック!』ノーミス演技で111・68点」2018 /2/16(スポーツ報知)
・ 「羽生結弦 完全復活!異次元の演技でSP首位 フィギュアスケート男子ショートプログラム」(動画・gorin.jp)・・・「Coming Back!」のやり取りは、動画が始まって5分くらいで聞き取ることができます。
*****
② 「果たして治るんだろうかって思ってた時期もあったって、インタビューで言ってましたよ」
(参考)
・ 「羽生結弦・中居正広インタビュー全文・ケガ、オリンピックの思い語る/平昌五輪」2018/2/19(SAKUSAKU気分)
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※4:「そもそも、東日本大震災のときにリンクの上にいて、(中略)ホントに滑れることのありがたさを、つくづくと感じたって」
2011年3月11日の東日本大震災の折、羽生選手は、仙台市のアイスリンクで練習していた。大きな揺れを感じ、スケート靴を履いたまま外へ。そして、避難所生活を送った。リンクは氷がつくれなくなり、閉鎖。同年11月までに、約60回、練習の代わりに、各地のアイスショーに出場した。
今回、ショートプログラムの演技の後のインタビューでは、「けがなく滑れることがやっぱり楽しくて、幸せで。そういうことを感じながら滑っていた」と語っている。
(参考)
・ 「羽生『震災があって今がある』 支えてくれた人々に感謝」2018 /2/17(朝日新聞)
・ 「『滑れる幸せ感じた』=羽生との一問一答」2018 /2/16(JIJI.COM)
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※5:「灰の水曜日」 (既出)
◎「灰の水曜日」
四旬節の最初の日。復活祭の46日前(日曜日を除くと40日前)の水曜日にあたる。
この日は、「灰の式」が行われ、前年の受難の主日(枝の主日)に祝福された枝を燃やしてできた灰を、司祭が祝福。一人ひとりの額に、この灰で十字のしるしをしたり、頭にかけたりして、回心のしるしとする。
その際、司祭は、「あなたはちりであり、ちりに帰っていくのです」または、「回心して福音を信じなさい」と唱える。
灰は古代から悔い改めのしるしとして用いられており、初期のキリスト教もこの習慣を受け継いで、罪を犯した者が公に悔い改めを表すしるしとして、灰を頭や額に塗るようになった。信者がこの日のミサの中で灰を受けることは、11世紀末から始まっている。
この日から復活祭の準備期間である四旬節に入るに当たり、灰の式の中で自らの行いを悔い改め、福音に従う生活を送るように勧められる。
(参考)
・ 「灰の水曜日」(ラウダーテ)
・ 「灰の水曜日:教皇「四旬節を『立ち止まり、見つめ、帰る』機会に」2018 /2/15(バチカン放送局)
・ 「今日からレント、灰の水曜日」2017 /3/1(クリスチャントゥデイ)
・ 「灰の水曜日」(『岩波キリスト教辞典』 岩波書店、2008)
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※6:「『あなたはちりであり、ちりに帰るべきものであることを覚えなさい』(cf.創3:19)って、(中略)皆さんの『人生』っていうこの舞台に立たせてくれたんですよ(cf.創2:7)」
===(聖書参考個所)===
① 主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった。 (創2:7/赤字引用者)
② お前は顔に汗を流してパンを得る、土に返るときまで。お前がそこから取られた土に。塵にすぎないお前は塵に返る。 (創3:19/赤字引用者)
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※7:「木曜日に来たときには入門講座に出て、みんなと一緒に過ごしましたし、(中略)一緒に食事をしました」
①「木曜日に来たときには入門講座に出て、みんなと一緒に過ごしましたし、・・・」
◎入門講座
晴佐久神父の入門講座は、以下のとおりです。
🔸カトリック浅草教会 木曜日19時~、金曜日10時30分~
🔹カトリック上野教会 水曜日19時~、木曜日10時30分~、第一・二日曜日12時~
無料で、事前の申し込みも不要です。事前の知識もいりません。
単発での参加も可能なので、お気軽にどうぞ。
(参考)
・ 「浅草・上野教会入門講座 スケジュールカレンダー」(両教会の合同オフィシャルサイト)
・ 「風かおる丘で」(入門係のブログ)
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②「金曜日は『福音家族講演会』に出て勉強してましたし・・・」
◎『福音家族講演会』
2月16日(金)に行われた90分の講演会。聖学院大学総合研究所の主催で行われた。
主題は、「心の病をいやす『福音家族』」。
(参考)
・ 「晴佐久神父講演会のお知らせ」2017 /2/6(「福音の村」)
・ 「2017年度キリスト教カウンセリング研究講演会【2018.2/16開催】」(聖学院大学総合研究所)
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③「昨日の土曜日には『福音カフェ』っていう学生たちの集まりに出て・・・」
◎「福音カフェ」
福音を語り合い、一緒にごはんを食べる学生の集い。キリスト教に関心があり、福音的なつながりを求めている学生であれば、どなたでも。信者か否かは問いません。元気のない学生も、安心してご参加ください。
通常は、下記のとおりのスケジュールで行っていますが、お休みのときもあるので、ご確認のうえ、お出かけください。
🔸カトリック浅草教会 第3土曜日 18時~
🔹カトリック上野教会 第1土曜日 18時~
(参考)
・ 「『福音カフェ』のご案内」(「福音の村」)
・ カトリック浅草教会(電話:03-3851-4009)/カトリック上野教会(電話:03-3844-4477)
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