2013年6月2日 キリストの聖体
・ 第1朗読:創世記(創世記14・18-20)
・ 第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント11・23-26)
・ 福音朗読:ルカによる福音(ルカ9・11b-17)
【晴佐久神父様 説教】
いよいよ、初聖体の日を迎えました。
初聖体を受ける子どもたちは、本当に今日が、自分の人生でも最高のときだって思ってください。ついにご聖体を頂けるんですよ。神さまの愛を食べるんですよ。
晴佐久神父さんが子どものとき、ご聖体を初めて頂く前に、神父さんから、「ご聖体はホントにおいしいんだよ」って言われました。いよいよその味が、今日、明かされます。
晴佐久神父さんが最初に食べたときは、正直言って、「ふ~ん、こんな味か」って思いましたけど、(笑)その後その味は、年々、年々おいしくなっていって、今は本当にご聖体を食べるのが楽しみだし、ご聖体のおいしさは、大きくなればなるほどわかります。
皆さん、今日は「これが神さまの愛の味か」って思って、しっかり食べてください。ともかく神さまは、ど~してもご自分の愛を、皆さんに食べさせたいんですよ。神さまがですよ、ご聖体を皆さんに、ど~しても食べさせたい。それで今日、この初聖体式があります。
赤ちゃんが最初にお乳を飲むとき、お母さんはすごく感動して喜ぶものです。わが子がついにお乳を飲んでくれた。それはもう感動するし、ホントにうれしい。皆さんが初聖体を頂くとき、皆さんの本当の親である神さまも、おんなじ気持ちなんですよ。・・・ああ、わが子が、ついに私の愛であるご聖体を食べてくれた!
そのことは、教会家族みんなも、同じ思いでお祝いいたします。
赤ちゃんが、何日目ですかねえ、いよいよご飯、離乳食をね、食べ始めるときに、「お食い初め(おくいぞめ)」っていう、儀式をします。3カ月か4カ月たった頃ですか、親戚みんな集まって、立派な、大人のお膳並べてお祝いする。もちろん赤ちゃんはそれを食べられませんけど、食べさせるまねをして、お食い初めの式っていうのをやるんですよ。
ひとりの人間が生まれて初めてご飯を食べる、それがどれほどうれしいことか、感動的なことか、それはもう、大人たちはわかってるわけですよ。これからちゃんと食べて、どんどん大きくなるんだよ、と。でも、何にせよ、最初のひと口が始まらないことには、次のひと口もないわけですよね。だから、最初のひと口ってときに、親戚一同集まって、お祝い膳。
今日が、その日なんです。子どもたちが、最初にご聖体を食べる日。こうして教会家族がみんな集まってお祝いをしています。うれしい、うれしいお祝いです。
ミサの後は、信徒会館で、手作りのお料理いっぱいのパーティーもあります。中高生とリーダーが、お部屋をすごくきれいに飾ってくれましたよ。なんでそんなにお祝いするかというと、皆さんが、神さまの愛をちゃんとこうして初めて食べるとき、それは、これから皆さんがどれほど素晴らしい人生を生きていくか、神さまの愛を食べ続けて、どれほど幸せに生きていくかっていう、そのうれしい人生の始まりだから。「これを祝わずにはいられません!」っていう、そういうお祝いの式です。
教会は、ホントに喜んでいるんです。皆さんが神の愛を食べ始める日を。今日は、神の愛をしっかり食べて、神の愛を深く味わってください。
昨日、名古屋で講演会をしてきましたけど、名古屋駅に着いて新幹線降りるときに、デッキの所で、デーブ・スペクターさんにお会いしました。(笑)ご存じですか、テレビでいつもおやじギャグだか、駄じゃればっかり言ってるおもしろい人ですよね。何言っても嫌みがないというか、不思議な魅力のある人。私の好きなコメンテーターの一人です。すぐ隣にいたんですけど、写真撮らせてくださいとも言えず。ところが、隣に男性の連れがいて、お友達なのか、お仕事関係なのか、ともかくその連れの人が私を見るなり、「あの、晴佐久神父さんですよね」っていうんですよ。(笑)
「お忘れですか? 高円寺教会の入門講座で大変お世話になり、洗礼を受けました。母もお世話になりました。その節は本当にありがとうございました」って言って、「ああ、こんなところで会えるなんて! すいません、写真撮っていいですか?」(大笑)・・・私も有名になったものだと(笑)思いましたけれども。新幹線降りてから、名古屋駅のホームで、デーブさんと並んで写真撮りました。
その彼が、私のことをデーブさんに「お世話になった神父さんです」って紹介するんで、デーブさんが「名古屋はお仕事ですか?」って聞くから、「ええ、講演会でお話しするんです」って。・・・そのとき、せっかくだからここでなにか福音をひとつ語らねば、と。(笑)私、そういうタイプなんで、ひと言付け加えて、「名古屋の信者さん達に『神は愛だ!』って伝えに行くんですよ」って言ったら、すかさず言われちゃいました。
「そうですね、まだ6月、上半期ですから」(大笑)
「絶好調ですね」って、とりあえず、褒めておきましたけれど。・・・私、そういうタイプなんですよ。どんなときでも福音を伝えたいっていう「意地」みたいなものがある。そうして意地張り続けていれば、「神は愛だ!」って広まるはずなんです。デーブさん、テレビで言ってくれないかなあ、ひとこと「神は愛だ!」って。
ただ、「神は愛」って、これ、たった3文字ですよね。「神」「は」「愛」。単純なようでいて、なかなかこう、みんな実はピンときてないんじゃないですか。皆さんは「神は愛」ってわかってますか? 実感してますか?
たぶんみんな、ちゃんと分かっていないからこそ、神さまは皆さんに、「どーーしても伝えたい!! どうしたら伝わるだろう??」って、思うわけですよ、真の親としてね。どうしたら「私は愛そのものだ」って伝えられるかって思う。で、「これが一番だ! これしかない!!」っていうことで、神の愛そのものであるイエスさまを与えてくださったし、イエスさまそのものであるご聖体を与えてくださったんです。
今日、初聖体の子どもたち、あなたたちに、神さまが、どーーしてもご自分の愛をわからせたくて、このご聖体を与えてくださるんです。こんないい方法、他にないんですよ。食べればわかる。「私がどれほどあなたを愛しているか」という神の愛が、食べればわかる。
皆さんがそれを味わってくれることを、心から望みます。
イエスさまが、さっきの福音書で、パンを増やして、みんな、おなかいっぱいになりましたでしょ? あのパン、どこから来たのかっていったら、これは手品でも超常現象でもない。神さまがみんなに、当たり前のように与えてくださったパンなんです。
みんなはビックリしたり、感動したりしてるけれど、神さまにしてみたら、当たり前のことです。愛するわが子に、何としても、ご自分の恵みを心行くまで味わわせたいってこと。
だって、親が子どもにおなかいっぱい食べさせる、そんなの別に不思議でも何でもないでしょう? 誰もそんなことに感動もしないし、奇跡だとも言わない。親は子どもにおなかいっぱい食べさせたいし、子どもは実際におなかいっぱい食べましたっていう、それだけのことなんですよ、この聖書の出来事は。神さまがイエスを通して私たちに、ご自分の恵みをおなかいっぱい食べさせてくれている。
子どもたちは、そのことを当たり前のように思って食べてますけど、当たり前でいいんです。子どもって、そういうものだから。子どもから毎食、「ああ、これはどうも、ありがとうございます! こんなにしていただいて」(笑)なんて言われたら、親としても、なんかヤでしょう。別に感謝されたくて食べさせてるわけじゃない。当たり前のことなんです。わが子におなかいっぱい食べさせたいだけ。
先週だったか、餓死した親子のニュース、ありましたね。部屋の中でお母さんと幼子が餓死していて、メモが残っていた。「食べさせてあげられなくてごめんね」って。胸詰まる出来事ですけど、誰だってその親の気持ちがわかるはずですよ。親が子に、ちゃんと食べさせてあげたいっていう気持ち。
神さまも同じだし、そして神さまは、絶対にわが子を餓死させたりするわけがない。もちろん、霊的な意味ですよ。人はパンだけで生きるものではありません。すべての人に、無尽蔵に、永遠に、愛といのちの恵みを与え続けている。今までもそうしてきたし、今もそうだし、これからもず~っと恵みを与え続けてくださる。そういう方でなかったら、「神」と呼んではいけません。親が子どもに食べさせる。当たり前のこと。私たちはそれに気づいて、神の愛を知らなければなりません。
だけど、この弟子たちはね、「群衆をそろそろ解散させましょう。みんなおなか空いてるようですし」なんて言っちゃう。さみしい話でしょ? 「私たちは、みんな天の父に愛されている家族だ」っていうお話をイエスさまがしてるのに、「さあ、みんなもう、おなか空いてるようですし、解散させましょう」って言うなんて。
本当の家族になぞらえたらわかるはず。家族みんながおなか空いてきたときに、「さあ、そろそろおなか空いてきたし、それぞれ勝手に食べに出かけよう」って言うとしたら、変な家族ですよねえ。そこは、「さあ、そろそろおなか空いてきたし、ご飯作って一緒に食べましょう」って言うとこでしょ? それが家族ってもんじゃないですか。なのに弟子たちは、「解散させましょう」。つい、やっちゃうんですよ、こういうこと。
教会も気をつけた方がいいですね。つい、こういうことをしちゃう。そういうときに、本音が見えちゃう。「教会は家族だ、信仰の仲間だ」なんて言いながら、いざってときはバラバラ。どこが家族だっていう話ですよ。むしろ、みんながバラバラになりかけるときこそ、家族として一緒になって、神の恵みを分かち合って、共に感謝する。これこそが、教会なわけでしょ?
イエスさまは、当然こう言う。
「あなたがたが、みんなに食べさせなさい」
弟子たちは困って言いわけする。
「だって、私たち、パン五つしか持ってないですよ」
これ、実は、心の中でこう思ってるわけですよね、「これ、ぼくらのパンだよね・・・。これをみんなに分けちゃったら、ぼくらの分なくなっちゃうよ~」って。
つまり、「みんなおなか空いたようだし」とか言ってるけど、ホントは「ぼくら、おなか空いたんですけど、みんなはそれぞれってことで、うちらはそろそろ食べませんか?」って言ってるんじゃないですか?
私たち、ついやっちゃうんですよ、これを。自分のことが第一で、なかなか「みんなで分かち合おう」っていうふうにいかない。
だけど、親心は、違う。親は「私の分はいいから、あなたたち食べなさい」って、自分の分まで子どもたちに分けるんですよ。「親心」ってそういうもんですよね。子どもがおなかすかせてるのに自分だけ食べる親なんて、親とは呼べない。そんな神の親心を、イエスさまは弟子たちにわからせたい。
だから「いいから、そのパン五つ持って来い」と。「これを、分けちゃえ」と。「だいじょうぶ、だいじょうぶ。分けてごらん」と。弟子たちは「ホンマかいな??」って思いながら、イエスさまが裂いたパンをみんなに分けていったら、全員がおなかいっぱい食べました。
これ、自分たちだけでモグモグと五つのパン食べてたら、それで終わりなんです。だけど、五千人に分けたら、自分たちはもちろん、みんながおなかいっぱいになった。ここがね、神の国の秘密なんですよ。科学的には無理。経験からしても、あり得ない。でも、神さまの無限の愛を信じていたら、可能なんです。それがキリストの教会。
そのパンがどこから来たかというと、神がわが身を削って与えているんです。神がわが子イエス・キリストを与え、キリストを通して無償の愛を与えているんです。神は、ご自分が傷ついても、犠牲になっても、すべてのわが子を生かしたいんです。
これは、神さまが余裕しゃくしゃくで、ただパンを増やして「さあ、どうぞ」って言ってるっていう話ではなく、神さまご自身が、わが身を削るほどの親心で、尽きせぬ愛で、神の子たちをおなかいっぱいにさせてくれているっていう話です。だからこそ、ぼくらもまた、自分が食べるだけじゃなく、いくらでも、だれにでも分け与えることができる。
そういう感覚っていうのがないと、教会の喜びがなくなっちゃいますよ。どんどん分け与えると、どんどん増えてみんな満腹するっていう、それをやっていきましょうよ。
名古屋でもね、その講演会で、30分くらい前ですかね、主催者が「大変です!」ってやって来て、「集まり過ぎました」って。(笑)こんなに来るって、思ってもみなかったと。階段固定椅子のホールが、もうぎゅうぎゅう詰めでね、後ろに立ち見が出ちゃって、しょうがないから、別の部屋のモニターで見てもらいますって言うんですよ。
だから私、それはやめましょうと。結構遠くからも来てるんですよね、名古屋って。北陸から来てる人たちもいました。そういう人たちがモニターじゃ、あんまりじゃないですかって言って、ふと思いついて、希望者をステージに上げちゃいました。
いつか、・・・ポリーニだったかな、ピアノのコンサートに行ったら、ピアノの周りに椅子をダーッと置いて、そこに何十人も音大生を座らせて、自分が弾いてるのを間近に見せてるんですよ、普通のコンサートで。それ思い出したんです。
こんなにステージが広いのにね、私がひとりでしゃべってて、別の部屋でモニターで見てる人がいるなんて、そんなのやめましょう、ステージに椅子並べちゃいましょうって、私、言いました。で、開演前のステージにのこのこ出て行って、舞台裏にあったパイプ椅子を自分で並べ始めたら、みんなビックリした顔して見てましたけど。で、会場の皆さんに言いました。
「あの~、今日満席で入れない方がいるので、自分はステージ上で聞いてもいいっていう方、ここに座っていただけますか。特等席ですよ~」って言ったら、ちゃ~んとね、20人近くステージに上がってくれました。いいじゃないですか、かぶりつき。
考えてみたら、ステージの上で、合唱団のコンサートとかってあるでしょう? あれって、客の人数に入ってないですもんね。でしょ? ひとりじゃもったいないですよ。
講演会の始めに「この人たちは神が選んでくれた私の仲間です」って宣言して、お話を始めました。初めての経験ですけど、大勢の人に囲まれてお話しできて、ホントにうれしかった。もう、なんかね、ミサみたいな感じになるんですよ、演台が祭壇でね、まわりに侍者がいっぱい並んでるみたいで。(笑)「これ、ミサですねえ。やっぱり『家族』っていうからには、一緒の部屋でね、神さまの愛を分かち合うのが当然でしょう」ってお話しました。この、「当然でしょう」っていう感覚、すごく大事。その感覚があれば、何でも可能だし、その感覚が、かたちに表れるんです。
今日、初聖体の子どもたちをお祝いして、こうしてみんなで一緒にご聖体を頂く。この「かたち」が大事。・・・理屈じゃない。「一緒に」喜んで、「一緒に」食べる。初めて食べる子どもたちを、素晴らしいパーティーまで用意して、みんなでお祝いする。それは、神がわが子を愛するという当たり前のことをかたちにし、その愛を私たちも分かち合うという当たり前のことをかたちにしてるんですよ。
そんな現実を、神さま、どれほど喜んでいるか。尽きせぬ恵みを与え続けている神さまが。
この前、大学の授業の話をしましたけど、先週の授業で、こんな質問が出たんですよ。質問コーナーを設けてるんで。無記名ですけどね。
「私は建築学科で、将来建築士になって、自分の事務所を持ちたいと考えています。しかしそこに至るためには、まだまだ長い時間が必要です。今、年間180万円の学費を親に負担してもらっていますが、これからまだ当分の間、親には恩返しもできず、仕送りもできず、まともに構ってあげることもできません。それが心苦しいのですが、親孝行についてどうお考えでしょうか」とまあ、そんな質問です。
私ね、ちょっと感動してね、いい質問っていうか、こんないい息子を持ったら、親も幸せだろうなって。ねえ、「親孝行したい」って言ってるんだから。
でも、私は、即答いたしました。
「申し訳けないけれども、あなたは恩返しできません。親孝行もできません。また、親もそれを望んでいません。それを望んでいるような親だったら、もはや親とは呼べません」
ドキッとした親、いる?(笑)
「子どもから恩返ししてもらおうなんて思う親がいたら、それは親ではない。親孝行しようとしても、本質的にできるはずがないし、する必要もない。なぜなら、親というものは、子どもにすべてを与え尽くして、何ひとつ見返りを求めずに、子どもの犠牲になって死んでいく存在だから。それを喜びとし、それを使命としているのが親だから。
だから、子どもはただただ、親のすねをかじり、ただただ親に甘え、親を食い尽くして生きていっていい。申し訳なく思うのは当然だけれど、泣きながら、父さんごめんね、母さんごめんねと言いながら、親を食い尽くしていい。親もそれを望んでいる。
ただし。その代わり、ちゃんと成長して、自分に子どもができた時には、今度は自分が食い尽くされなさい。何ひとつ文句言わず、ただただ子どもに、あるいは次の世代に無償で与え尽くして、食い尽くされて死んでいきなさい。それこそが『親孝行』っていうことだ」
親の愛ってそういうことでしょう? 自分だってその愛を食い尽くして生きてきたんだから。神さまがそういう仕組みに作ってるんだから、もう、しょうがないんです。「親から何かもらいました、それを親にお返ししました」って、これじゃ取り引きじゃないですか。そんな閉じた空間を親子で作ったって、何にも起こらない。未来がない。愛の流れがない。
親は子どもに愛を与え、子どもはさらにその子に愛を与えて、初めて愛が流れるわけですよね。それが親子というものだし、そのような親子の流れの中で、私たちは初めて生きるものとなる。私たちは、ただひたすらに親からもらって、子どもに与える。
それこそが、「神」と「神の子」の親子関係ですよ。
人間の親子ですらそうなんだから、まして神と人はそうなんです。これをお忘れなく。神さまは惜しみなく、自分を与え尽くしています。それを私たちは、ただただ食べ尽くしています。だからこそ、私は誰かに分けてあげられる。
「この五つのパンは、神から頂いたものだ。みんなのものだ。惜しみなく分けてあげよう」、そう思ったとき、そこに神の国が実現します。イエス・キリストの体は、そのような、神の愛の目に見えるしるしですから、今日、ご聖体をたっぷりと食べて、そして、誰かに、この神の愛を分けてあげましょう。
さあ、子どもたち、もうすぐ、ご聖体拝領です。神さまの愛をパクリと食べて、これからもずーーっと、この愛を食べ続けてくださいね。神さまの愛を食べ続けていれば、だんだん、だんだん、「神さまの愛って、こんなにおいしいのか!」ってね、どんどん、その味がおいしくなっていきますよ。だから今日は、パクッと食べて、「ふ~ん、こんな味かぁ」って思ってもいいですよ。
Copyright(C)晴佐久昌英