2016年3月20日受難の主日(枝の主日)
・入城の福音:ルカによる福音(ルカ19・28-40)
・第1朗読:イザヤの預言(イザヤ50・4-7)
・第2朗読:使徒パウロのフィリピの教会への手紙(フィリピ2・6-11)
・受難の朗読:ルカによる主イエス・キリストの受難(ルカ23・1-49)
【晴佐久神父様 説教】
毎年思うんですけど、皆さん、朗読お上手ですね(※1)。「十字架につけろ! 十字架につけろ!!」(cf.ルカ23:21)っていう、このシュプレヒコール。
それまでは枝をふって歓待していたのに、扇動されて「十字架につけろ、十字架につけろ」って。なんだか、今の政治状況じゃないですけれど、人間の中に潜んでいる「悪魔的な力」を感じさせられます。
皆さん、「十字架につけろ」って声を合わせてるとき、ちょっと気持ち良くなかったですか? だいじょうぶですか?(笑) 気に入らない人を排除する「悪魔的な力」って、実はだれもの中にあって、それにどうやって打ち勝つかっていう、キリスト教はもう、そこにかかってるわけですよね。
どうやって、そのような「悪魔的な力」「群衆の暴力」「無知の闇」「結局は自分のことだけ考えてしまう愚かさ」「異質なものへの恐れ」、そこから逃れることができるのか。キリスト教の意義は、
で、イエス・キリストの方法は、はっきりしております。
敵を愛する。
「父よ、彼らをお赦しください」(ルカ23:34)と祈る。
「自分が何をしているのか知らないのです。あれはただの無知なんです」(cf.ルカ23:34)と、
「人間は、これほどまでに弱い者なのです」と、
「父よ、あなたを信じます」と、
「あなたがすべての人を救ってくださいます」と、
「あなたの愛に、すべてをゆだねます」と祈る。
・・・まあ、「やられても愛を返す」っていうのは、なかなか難しいことですけれども、この世を救う道の一番本質には、それがあります。「やられたら、やり返せ」という暴力が、どこまでいってしまうか、その恐ろしさをぼくらは知っておりますから。もう見てきたはずです、
やられたけれども、・・・やり返さない。
むしろ、愛をもって、ゆるしをもって、そして、忍耐をもって、共に生きていこうとする。
そのような道を、イエスさまから示されました。私たちは、その道を歩みます。
2016年の聖週間(※2)、この一週間を、今までにも増して、特別なときとして過ごします。
特に洗礼志願者の皆さんは、「死からいのちへ」向かう一週間です。今までの、罪の闇にとらわれていた世界から、自分では逃れられない悪魔的な力から、神さまの愛によって、神さまの恵みによって抜け出していこう、解放されようという一週間。
洗礼志願者の皆さんは、この一週間を「
聖週間の心は、「死からいのちへ」です。
・・・よろしいですか、「いのちから死へ」ではありませんよ。
「私たちは今生きていて、やがて死ぬ」っていうのは、幻想です。むしろわれわれは、まだちゃんと生きていない。本当は生まれてさえいない。その意味では、死の世界。ここから、真の誕生に向かって、大切な準備の日々を生きていく。・・・この一週間は、特にそういうときです。
他の51週の間は、それこそ自分は生きていると思い込んで、さまざまな情報に惑わされ、さまざまな欲望に振り回され、自分は死んでいくという恐れにとらわれて生きていたとしても、この聖なる一週間だけは、「われわれは、死からいのちへ向かっている」という真理を生きてまいりましょう。
そのためにも、地上にあるこの私たちのことだけではなく、今は天上にある方々のことを、この一週間、特に思います。
その中心におられるのが、今も生きておられるイエス・キリスト。
イエス・キリストというのは、そのような、「死からいのちへ」という恵み、そのものです。われわれが、「ただ死んでいく者ではない、神の世界へ誕生していく永遠なる存在だ」という真理、そのものです。
・・・「イエス・キリストを信じる」っていうのは、「まことのいのちを信じる」ということです。
さっき、パウロが第2朗読(※3)で、言ってましたでしょ。
「天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に
「天上のもの、地上のもの、地下のもの」、・・・もうすでに神さまに召されていった人たち、今この世で天へ向かう準備をしている私たち、そして、これから生まれてくる人たちも、ぜ〜んぶ含めて、「イエスの御名にひざまずく」。
でもそれは、何か「特定の宗教の、特定の神」にひざまずくなんて話じゃない。・・・「真理」にひざまずくんです。
私たちが、死からいのちへ向かっているという、私たちが、すべて神さまの恵みのうちに迎え入れられるのだという、そのために準備しているこのすべての日々が祝福されているのだという、そのような
真理ならざる、この世の特定の神やら宗教やらにひざまずくとどうなるかも、われわれは、よ〜く見て知っております。「イエス・キリスト」という究極の普遍の真理、私たちはそれを「公に宣べて、すべての人の父である神をたたえるのです」。(cf.フィリピ2:11)
さっき、皆さんがかざした枝を祝福しましたけれども、ユウイチ君が枝をふってたの、良かったですよ。みんなは、じっとかざしてるだけでしたけど、ユウイチ君だけ、こうして、枝をふってたんですよ。(笑) ・・・いいですねえ。枝を持った皆さんを祝福するお祈りにも、「枝ふりかざして」ってありましたしね(※4)。主をお迎えする喜びをもって、「主よ、私たちのもとへ来てください!」って枝をふる。私、君がうれしそうに枝をふってるのを見て、来年は、「皆さん、枝をふってください」って言おうかなと。(笑) やっぱりその方が、なんか雰囲気が出るんじゃないでしょうかね。
「主イエスよ、来てください!」
「苦しむ私たちを、救いに来てください!」
私たちの祈りです。・・・まごころからの叫びです。なんとか、「救い主」に、「永遠のいのち」に、「神の国」に、・・・「すべての人を救う本もの」に、来てほしいと願う。
さらに言うならば、天の国ではすべての人が枝をふりかざしているという真実。・・・ヨハネの黙示録にもある(黙7:9-10)(※5)。なつめやしの枝を、みんながふっている。皆さんが、こうしてミサに
・・・天上のものと、地上のもの。その交わりをこそ、「聖徒の交わり」という。
この前もお話しした使徒信条(※6)の「聖徒の交わり(※7)」ですけど、かつては、「諸聖人の
「コムニオ」(communio)っていうのは、単なる交流、人間的な交わりじゃない。神の恵みによる完全なる一致です。人の力では、もはや分けることができない。そして「サンクトルム」(sanctorum)は「諸聖人」ですから、天国にいる聖人たち、また恩寵によって聖なるものとされたすべての死者と「分けることもできないほどに、一致している」と信じるんです。そのような一体感、神の恵みの内にあって、生ける信徒はもちろん、死せるすべての者とも共にあるという一体感、これが、「諸聖人の通功」、「聖徒の交わり」の
主イエス、すなわち「真理であるお方」に向かって、天において枝をふりかざしている人たちと、私たちは
イエスさまは、「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)と宣言してくださいました。これ、ルカの福音書なので、受難の主日ではC年にしか読まれません。3年に一度巡ってくる(※8)。
以前、「国際聖書フォーラム」っていうイベントでお話をしたことがあります(※9)。
国内外の有名な聖書学者や神学者たちが大勢来られて講演し、聖書についてのシンポジウムを行ったりする大きな国際フォーラムです。なぜだか私も招かれて、そこで「福音宣言」についてお話ししました。そのテーマで話したのはこの時が初めてで、とても反響があったので、それをもとにして『福音宣言』(※10)という本を書いたんですけれども、実はその前日に、私、何を語ればいいかわからなくなり、大変
で、よせばいいのに、前の晩になってですよ、『聖書学の現在』みたいな本を開いて、(笑)読み始めて。一夜漬けの学生じゃあるまいしねえ。翌日講演するっていうのに。やっぱり、学者や専門家もいるところで話すのは怖いですよ。とにかく、自分の無力さに打ちひしがれておりました。
・・・そんな夜に、電話がきたんですよ。
あの電話は、ホントにうれしかったし、勇気をもらった。そのことは、翌日の聖書フォーラムでもお話しいたしました。「実は昨日の夜、電話がありまして・・・」と。講演録にも残っております。
それは、かつて親しくしていた青年信徒からの電話でした。十数年間、一度も連絡はなかったんですが、ある出来事があって、それをどうしても私に語りたいと言って電話してきたんですよ。・・・話を聴いてびっくりしました。
彼はよく教会に来ていたんですが、その後結婚して地方に転勤しました。息子さんが生まれたんですけど、その息子さんを9歳のときに白血病で亡くしたんですね。彼は、愛する息子を亡くしたことで絶望し、信仰も失いました。・・・「神も仏もあるものか」っていうことですしょうね。
そんな、荒れた生活をしていたときに、仕事上の機密を漏えいしてしまったんです。まあ、漏えいさせようとする方も、非常に巧妙なんですね。荒れている彼に優しく近寄ってきていろいろと世話をし、信頼関係を作り、ついには機密を聞き出したわけです。そのことで彼は逮捕され、10カ月間服役しました。彼は生涯最悪の絶望を味わったのです。
・・・愛する息子を失い、信仰も失い、仕事も失い、社会的信用も何もかもみんな失って、刑務所にいる、一人の若者の姿を思い描いていただきたい。
そんなある日、突然、この、イエスの隣で十字架につけられた犯罪人が現れたんですって。
・・・先ほど、お読みした福音朗読で、「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」 (ルカ23:42) って言った犯罪人です。
もう片方の犯罪人は、「我々を救ってみろ」 (ルカ23:39) なんて言ってますが、これは、自分の力で自分を救おうとする人間の「罪」というか、「弱さ」というか、そのとらわれをよく表しています。現に、議員たちもあざ笑って、「自分を救うがよい」 (ルカ23:35) と言い、兵士たちも侮辱して、「自分を救ってみろ」 (ルカ23:37) と言う。この犯罪人もイエスをののしって、「自分自身と我々を救ってみろ」 (ルカ23:39) と言う。・・・これこそは、罪深い人間の姿ですね。
しかし、このもう一人の犯罪人は、
「神を恐れろ」 (cf.ルカ23:40) という。
「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出してください」(ルカ23:42)と願う。
・・・自分で自分を救うことはできません。救いは神からくるのです。
この信仰に、イエスは答えます。
「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」 (ルカ23:43)
・・・つまり、「あなたのその信仰のうちに、もう楽園は始まっている」と、宣言している。
ほんのわずかの時を経て、彼は死ぬでしょう。しかし、その死ぬまでの時間、これは、この犯罪人にとっては、生涯で最も尊い、美しい時間だったに違いない。
この犯罪人が、突然現れたというのです。
・・・刑務所の中で、ですよ。そして、彼に、こう言ったんだそうです。
「私は、十字架の上で、救い主に会えた。それまで私は、生きていたけれども、死んでいた。しかし十字架の上で、死んでいたけれども、生きることができた」
・・・こう言ったんですって。
で、彼は信仰を取り戻し、自分も、この十字架の上で、救いに出合えた。この最悪の状況で、初めて、自分は「生きるもの」だと気がついた。今までは、この犯罪人が言ったように、「生きていたけれども、死んでいた」。でも今は、「死んでいるけれども、生きている」。
このような体験を、彼はどうしても私に伝えたくて、電話をしてくれた。そして、こう言いました。
「あの犯罪人は、息子が遣わしてくれたんだと思う」と。
9歳で亡くなった息子が、パパを励ますために、救うために、生かすために、この聖人を遣わしてくれた。
・・・ご存じですか? カトリック教会では、この犯罪人、聖人なんですよ。「聖ディスマス」っていう名前で呼ばれてます。まあ、ホントの名前は聖書に載ってないので分かりませんけれども、一般に、そう呼ばれている。言うまでもなく、受刑者の保護の聖人なんです。
もうまさに、息子が遣わしてくれた、その聖人のひと言で、受刑者の彼は、生きる者となった。
で、私もね、「実は明日、かくかくしかじかで、今、怯えて恐れて、本当にどうしようもない状況だったんだ」って言うと、「神父さん、神父さんがどれほどみんなを救ってるか、知ってますか? 口を開いてください。信じて福音を語ってください。神父さんらしくもない」と、言われました。
・・・私は、彼の息子さんの取り次ぎで、聖人が私にも語り掛けてくれたと、そう悟って、勇気を取り戻し、翌日、ま〜あ、すごかったですよ。もう、福音語りまくり。牧師先生とか聖書学者とか、いっぱいいる前でね、「あなたも救われている!!」ってね。(笑)
そこはもう、晴佐久節ではありましたけれども、それは、「生ける人」と「死せる人」(※11)、われわれの共同作業でしょう。地上の自分たちだけが生きてるわけじゃない。地上よりも、もっと本当に生きてる天上の人たちに、生かされてるんです。・・・亡くなった方々と交わらないっていうことは、生きてる人たちも交われないのです。
今日の午後3時から、峻君の一周忌のミサをいたします(※12)。
峻君は、来週洗礼を受けるご夫妻の息子さんです。23歳で亡くなりました。去年の3月22日です。最愛の息子を亡くして絶望しているなか、ひと月たたないうちに、この教会を訪れて、晴佐久神父から、「息子さんは生きています」と宣言されて、信仰に入ったご夫妻です(※13)。
来週の復活祭に、このお二人が洗礼を受けますけれども、明後日、ちょうど息子さんの一周年なんですね。それで、今日午後3時から、一周年のミサを、ほとんど葬儀ミサという思いも込めて、お捧げいたします。
峻君、今、天国で働いてるんですね。私は、最初にお会いしたときに申し上げた。
「峻君が、お二人を、この教会に導いたんですよ」と。
「生ける者」と「死せる者」の共同作業。神の国を共につくっていくこの恵みが、ミサにおいて実現しております。
私たちは、死に向かって生きているのではありません。誕生に向かって、いまだ死んでいるような人生から真に生きるものとなるために、生きてまいります。
聖週間を始めましょう。
この一週間は、「死からいのちへ」という恵みのときです。
特に洗礼志願者は、「もうすぐ、本当の自分に誕生していくんだ」「本当の自分がやがて完成する、その先取りとして、洗礼を受けるんだ」、そのような信仰を持って、このミサをお捧げいたします。
亡くなられた方々が、今日、特に、皆さんを守り、導いてくださいますように。
【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)
※1:「皆さん、朗読お上手ですね」
この日は、四旬節第6主日で「受難の主日(枝の主日)」にあたっていた。
この「受難の主日」には、主の「エルサレム入城の記念」と「受難」という、二つの出来事を記念するため、福音書も2回朗読される。
まず、通常のミサに入る前に、「主のエルサレム入城の記念 行列または盛儀の入堂式」が行われ、ここで、「入城の福音」が読まれて主のエルサレム入城を記念し、その後、通常のミサに入り、「受難の朗読」が行われる。
この「受難の朗読」は、福音朗読の中でも、最も大切なものであるため、特別に長い朗読になっており、主の受難の出来事を、より生き生きと再現するため、通常のように、司祭だけが朗読するのではなく、司祭が「キリスト」を、第一朗読者が「語り手」、数人か会衆一同が「群衆」、第二朗読者が「その他の登場人物」をなど、皆で分担して読む伝統がある。
************
晴佐久神父の「皆さん、朗読お上手ですね」は、この「群衆」の箇所を読む、多摩教会の会衆一同に対して言われたもの。
2016年3月20日〔受難の主日(枝の主日)〕の福音朗読箇所
①「入城の福音」
ルカによる福音書19章28〜40節
〈小見出し:「エルサレムに迎えられる」19章28〜44節の抜粋〉
②「受難の朗読」(ルカによる主イエス・キリストの受難)
ルカによる福音書23章1〜49節(朗読聖書は分担朗読のため、新共同訳の語順を多少修正してある)
〈小見出し:「ピラトから尋問される」23章1〜5節、「ヘロデから尋問される」6〜12節、「死刑の判決を受ける」13〜25節、「十字架につけられる」26〜43節、「イエスの死」44〜49節〉
(参考1)
・ 『岩波キリスト教辞典』(岩波書店、2008)
・ 「受難の主日(枝の主日)」(「典礼解説 四旬節」 カトリック中央協議会)
・ 『聖書と典礼』 受難の主日(枝の主日) 2016.3.20(オリエンス宗教研究所) ほか
(参考2)
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※2:「聖週間」(詳細:既出)
受難の主日(枝の主日)から始まる復活祭直前の1週間。「受難週」「聖週」とも呼ばれる。
〔 2016年の受難の主日(枝の主日)は3月20日(日)、復活祭は3月27日 (日) 〕
受難と死を通して復活の栄光を受けたキリストの過越(すぎこし)を記念する典礼が行われる。
************
特に木曜日の晩から始まる三日間は「聖なる過越の三日間」と呼ばれ、教会暦で最も重要な三日間になっている。
聖週間中の特徴的な典礼としては、
受難の主日に行われるイエスのエルサレム入場の記念(枝の行列)と受難朗読、
聖木曜日(復活祭直前の木曜日)の晩に行われる最後の晩餐の記念(聖体の制定、洗足式)、
聖金曜日に行われる主の受難の典礼(受難朗読、十字架の礼拝)、
聖土曜日の晩(教会暦上はすでに翌日の復活の主日)に行われる復活徹夜祭(復活の聖なる徹夜祭)の典礼(光の祭儀、天地創造からキリストの復活に至る救いの歴史の聖書朗読、洗礼式)などがある。
(参考)
・ 『岩波キリスト教辞典』(岩波書店、2008)
・ 「典礼解説 過越の聖なる三日間」(カトリック中央協議会)
・ 「教会カレンダー(2016年3月)」(ラウダーテ) 他
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※3:「第2朗読」
2016年3月20日受難の主日(枝の主日)の第2朗読箇所
使徒パウロのフィリピの信徒への手紙2章6〜11節
〈小見出し:「キリストを模範とせよ」2章1〜11節から抜粋〉
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※4:「枝を持った皆さんを祝福するお祈りにも、「枝ふりかざして」ってありましたしね」
この日〔受難の主日(枝の主日)〕、子ろばに乗って入城するイエスを、群衆がナツメヤシ(棕櫚-シュロ)の枝を手に、賛美しながら迎えた(ヨハネ12:12〜15)ことに因んで、教会は今日でも、この日に枝を持って行列する式を行い、主イエスのエルサレム入場を記念している。〔現在、日本のカトリック教会では、ナツメヤシ(棕櫚)ではなく、それに似た蘇鉄(ソテツ)で代用されている〕
ミサの開祭において、会衆はその「枝」を「ふりかざして」司祭を迎えるが、司祭は会衆を以下の祈りを持って祝福する。
◎「枝を持った会衆を祝福する祈り」
「全能の神よ。あなたに希望をおく民の信仰を強め、祈りを聞き入れてください。きょう、枝をふりかざして、勝利の王キリストを迎える私たちが、キリストのうちによい実りを結び、あなたに捧げることができますように。アーメン」 (赤字引用者)
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※5:「ヨハネの黙示録にもある」
(聖書:該当箇所)
「この後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って、 大声でこう叫んだ。『救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである』」 (ヨハネの黙示録7:9-10/赤字引用者)
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※6:「この前もお話しした使徒信条」
>> 「壁を壊して、橋をかける」/上から4、5段落目(「福音の村」2016年2月21日説教)
◎使徒信条 (再掲)
使徒の時代から、教会は固有の信仰箇条をまとめ、基準となる一定の言葉で表明し、伝えてきた。信徒が宣言する、このまとめを、「信仰宣言」(クレド)と呼んでいる。
「信仰宣言」は、すべての主日と祭日に、ミサ中、説教の後、「洗礼式の信仰宣言」、「使徒信条」、「ニケア・コンスタンチノープル信条」の、いずれかの形式で唱えられている。
以下は、「使徒信条」。
天地の創造主、全能の父である神を信じます。 父のひとり子、わたしたちの主 イエス・キリストを信じます。 主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、 ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、 陰府(よみ)に下り、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、 全能の父である神の右の座に着き、生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。 聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、 永遠のいのちを信じます。アーメン。 (2004年2月18日 日本カトリック司教協議会認可/赤字引用者)
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(参考)
・ 「信条」
(『カトリック教会のカテキズム』2002年、第1編「信仰宣言」第2部「キリスト教の信仰宣言」-「信条」185項-197項 p63-66、カトリック中央協議会)
・ 「13.信仰宣言」
(『ともにささげるミサ(改訂版)』2006年、ことばの典礼-「13.信仰宣言」p22、オリエンス宗教研究所)など
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※7:「聖徒の交わり」
◎ 「聖徒の交わり」(文語訳:「諸聖人の通功」)
〔ラテン語〕communio sanctorum 〔英語〕communion of saints
使徒信条の第3部で、「聖なる普遍の教会」に続いて宣言される。聖なる教会の意味を、言葉を換えて説明する。
これは、「聖なるもの(sancta:信仰、諸秘跡、特に、聖体、霊的賜物など)の共有、分かち合い」を意味すると共に、「洗礼によって聖とされた、つまり神のものとされた人々(sancti)の交わり」を意味する。そして、この両面から、「聖なる交わり」としての教会の本質が示される。
特に「聖徒の交わり」といわれる場合は、教会の全員が、今生きている者も、信仰を全うした死者も含めて、一つの共同体として交わりを続けていることを表す。
(ミサの奉献文の後半における取り次ぎの祈りは、こうした「聖徒の交わり」の姿を最もよく示している。)
また、以前の文語訳では、「聖徒の交わり」は「諸聖人の通功」、「使徒信条」は「使徒信経」と訳されていた。
・・・< 文中へ戻る >
※8:「受難の主日ではC年にしか読まれません。3年に一度巡ってくる」
四つの福音書それぞれに受難物語があるが、「受難の主日」にはマタイ福音書、マルコ福音書、ルカ福音書が3年周期で読まれ、ヨハネ福音書は毎年「聖金曜日」に読まれることになっている。
「3年周期」は、それぞれ、A年(マタイ福音書)、B年(マルコ福音書)、C年(ルカ福音書)に分けられている。
(参照)
・ 「受難の主日(枝の主日)」(「典礼解説 四旬節」: カトリック中央協議会)
・ 「A年、B年、C年」(「キリスト教マメ知識」: ラウダーテ)
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※9:「以前、『国際聖書フォーラム』っていうイベントでお話をしたことがあります」
晴佐久神父は、2006年に、「国際聖書フォーラム2006」(財団法人日本聖書協会主催)で講演した。講演のタイトルは、「聖書は、宣言する‐解説ではなく宣言する教会‐」。「神の宣言は必ず実現する」と熱く語ったことなどは、以下のサイトで伺い知ることができる。
(参考)
・ 「神の宣言は必ず実現する」晴佐久神父(2006/5/5 12:47クリスチャントゥデイ)
・ 「『国際聖書フォーラム2006』を開催いたしました」(2006/5/12 「JBSニュース2006」日本聖書協会)
・ 「聖書」晴佐久昌英(『いしずえ』第493号 2006年6月号)/pdfファイル
(・ 『国際聖書フォーラム2006講義録 : 今、聖書を問う。』(2006.9 日本聖書協会)/Webcat Plus)
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※10:『福音宣言』
月刊『福音宣教』に掲載されていた晴佐久昌英神父のエッセイ、「福音宣言」(2007年1月号、4〜12月号、2008年7〜12月号)がまとめられている。
神が「わたし」に語った愛を「あなた」に宣言すると、それが救いの現実となる。その喜びを共にするために。晴佐久神父の元気が出るエッセイ集。
☆ 著者: 晴佐久昌英
☆ B6判 並製 240ページ
☆ 初版発行:2010年1月20日
☆ 出版社:オリエンス宗教研究所
(参考・ご購入)
・ 『福音宣言』(女子パウロ会オンラインショップ)
・ 『福音宣言』(Amazon) など
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※11:「『生ける人』」と『死せる人』」
「使徒信条」には、「『生者(せいしゃ)』と『死者』を裁くために来られます」(文語の「使徒信経」では、「『生ける人』と『死せる人』を裁かんために来たりたもう主を信じたてまつる」)とあるが、この両者〔生者(生ける人)と、死者(死せる人)〕が、「聖徒の交わり(諸聖人の通功)」(※7)によって、一つの教会共同体として交わり続けている。
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※12:「峻君の一周忌のミサをいたします」
・・・< 文中へ戻る >
※13:「晴佐久神父から、『息子さんは生きています』と宣言されて、信仰に入ったご夫妻です」
==== 「福音の村」から ====
今までも、たびたび説教で紹介され、覚えて、祈ってくださっている方も多いと思います。
こちらのご夫婦は、昨年(2015年)、4月18日の土曜日、夕方のミサに初めて多摩教会においでになり、その日の数週前に23歳の愛する息子さんをつらいご事情で突然亡くし、失意と絶望のうちに、右往左往、救いを求めてあちこち回っておられるということでした。
多摩教会には、どなたかから紹介されていらしたとかで、その後、欠かすことなくミサに、そして、入門講座にも通われていました。少しずつ少しずつ笑顔を取り戻され、今年、3月26日の復活徹夜祭には満面の笑みで、ご夫婦そろって、洗礼の恵みを受けられました。
ご夫婦ともに、「福音の村」読者の皆さまの今までのお祈りを、とても感謝されています。どうか今後とも引き続き、ご一緒にお祈りください。
(参考)
・ 「天上での宴の始まり」(「福音の村」2015年4月19日説教)最後の段落に書かれています。
・・・最後の段落。
〈23歳の息子さんを亡くし、救いを求めてあちこち回り、多摩教会に初めて来られたときの様子が語られています〉
・ 「30年ぶりの聖体拝領」(「福音の村」〈2015年5月24日説教〉)
・・・最後から2番目の段落。
〈毎週ミサに来られている様子が語られています〉
・ 「安心の涙」(「福音の村」〈2015年6月28日説教〉)
・・・3番目の段落。(>>この辺)
〈奥さまは参加されていた入門講座に、ご主人が初めて参加されたときのことが語られています〉
・ 「だから私たちも復活する」(「福音の村」〈2015年11月1日説教〉)
・・・最後の段落。(>>この辺)
〈受洗の希望を語られたときのことが語られています〉
・ その他、昨年11月には、FEBCの特別番組「あなたと出会い、主イエスと出会う−晴佐久昌英神父・吉崎恵子特別対談−」でも紹介されました。
・・・< 文中へ戻る >
Copyright(C)晴佐久昌英