【カトリック浅草教会】
2016年4月17日復活節第4主日
・第1朗読:使徒たちの宣教:(使徒言行録13・14、43〜52)
・第2朗読:ヨハネの黙示(黙示録7・9、14b-17)
・福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ10・27-30)
【晴佐久神父様 説教】
おはようございます。そして、「初めまして」と、「よろしくお願いします」と、ご挨拶いたします。
私もこれで、教会、七つ目です(※1)。いろいろな教会に行って、「初めまして」と、そうご挨拶をして、そして、その後、素晴らしいことがたくさん起こったのを、この目で見てまいりました。ですから、この新しい仲間たちと、これからどんな素晴らしいことが始まるのかと思うと、正直、ワクワクしております。
「神さま、どうぞよろしくお願いします!」という気持ちで、この出会いを祝福していただきましょう。
「浅草教会」という、この教会の名前が、岡田司教さまの口から出たときには、「お〜っ!」と、思いましたよ。「浅草ときたか!」ってね。・・・そういう瞬間があるんですよ、司教様の所に伺ってね。司教さまも、すぐには言わずに少し
そうして引っ越してきたわけですけど、実はあまりよく知らないんですね、この辺。ですから、何もかも新鮮なんですけど、来てみて何が素晴らしいって、何がうれしいって、歩いて2分半のところにスーパーマーケットがあるっ!(笑)(※2) こんな素晴らしいことが、あるでしょうか。150秒ですよ。行けば、お惣菜が山のように並んでる。・・・ありがたいねえ。
私、自炊ですから、といっても、そんな上手にチョイチョイと作る
ライフ(life)って、まあ、「生活」っていうほどの意味で、そういう名前にしたんでしょうけれども、本来の意味は、「命」ですからね。まあ、それこそ、私にとって、ライフラインなわけですね。なにしろ、スーパー「ライフ」で私が一番最初にしたことは、ポイントカードを作るっていうこと。(笑) これからせっせと通うことになるでしょうからね。これから、どれだけお世話になることやら。・・・しかも、日曜日はポイントが3倍だか5倍だかですから、(笑) 早速今日、買いに行かなきゃならない。
まあ、そんなわけで、ありがたいとは思いつつも、「ライフ」で買い物をしている大勢の人たちを見るにつけ、ついつい、「こっちにも、ライフ、あるよ!」と言いたいんですよ。私の性分です。「ここから歩いて2分半の所に、本物のライフ、ありますよ」と。
「life」の本来の意味、・・・「命」ですね、「命」。
命は命でも、いろんな
でもですね、その意味では、もっとも守るべきは、永遠の命でしょう。教会は、それをこそ、守っているところです。「生活」のライフ(life)、つまり、この世のライフ(life)と違って、永遠のライフ(life)の方なんですね。「それを守っているこっちの方が格上だぞ!」っていう、やっぱり、誇りはあります。まあ、スーパーに行って、「本物はこっちだぞ〜!」「永遠だぞ〜!」とも、なかなか叫べませんけども、でも、そういう気持ちになりますよ。
今日、ここに集まっている皆さんは、その「永遠なる命」を知っている仲間たちですね。・・・素晴らしい。素晴らしい仲間たちです。
今日、聖書を三つ読みましたけれど(※3)、三つとも、この「永遠なる命」のことが語られています(※4)。・・・これこそ、キリスト教の本質の本質ですね。
パウロは、ユダヤ人たちに、「あなたたちは神の言葉を拒んで、自分を永遠の命に価しない者にしている」(cf.使徒13:46)と、そう言ってます。
「神の言葉」っていうのは、これはもう、それこそ「ライフライン」です。
いうなれば、「あなたたちは、キリストによってすでに神の命を受けてるんだ。永遠の命を宿している素晴らしい神の子たちなんだ。あなたたちはただ死んでいくんじゃない。今まだ、ちゃんと生まれてもいないんであって、これから永遠の命に生まれていく、いやもう、その永遠の命が始まってるんだ」っていう、その神のみ言葉、ライフラインを拒むことで、自らを永遠の命に値しないものとしておとしめているんだよと、そう言ってるわけです。
あさっても、この聖堂でご葬儀がありますけれども、誰もがいつかはその日を迎えるわけですから、永遠の命に目覚めて、それを受け入れることこそが、私たちのこの世を生きる上での、最高のモチベーションというか、励みというか、支えになるはず。
皆さんは、信じてますか?・・・「永遠の命」
ホントにあるんですよ。「あるんですよ」どころか、もうその命は皆さんの中で確かに始まっているんです。その確かさに比べたら、「この世の命」の方が、いい加減なものですよ。むしろ、「『この世の命』なんて、本当にあるんだろうか・・・」って疑うべき。
・・・「永遠の命」、信じてますか?
昨日は、ある方の納骨式をやりましたけれど、ある教会の聖堂の地下の納骨堂でミサをしました。
私の親しい人でもあったから、納骨式ミサは、しみじみしたものがありましたけれども、ミサが終わって階段上がったら、結婚式やってるんですよ。上の聖堂では。新婚のお二人がね、幸せそうにほほ笑んでいたんで、ついつい、「そのうち地下ですよ」って、(笑) 余計なこと言いたくなりましたけれども。・・・事実です、事実。
この世はホントに素晴らしいですよ。素晴らしいんだけれども、それは、永遠の命の完成に向かってるから素晴らしいんであって、やがて滅んでしまう命を、つかの間の喜びで満たすから素晴らしいんじゃないんですよ。
・・・「永遠の命」、皆さん、信じてますか?
私はもう、その信仰がなかったら、恐ろしさと虚しさのために、一日だって生きていけないような気がする。・・・ですから、必死で信じてますよ。
「永遠の命を信じます」ってね、今日も信仰宣言(※5)の最後に言いますから、まごころ込めて言いましょうよ。・・・「永遠の命を信じます」
そういう尊い永遠の命のことを、神さまがイエスを通して教えてくれてるのに、ちゃんと、それを受け入れようとしない。すべての人に与えられてる永遠の命を信じようとしない。自分たちが律法を守って、立派に生きていれば与えてもらえるご褒美くらいに思ってる。・・・そういうユダヤ人にとっては、このイエスさまの永遠の命の福音が、分からない。それで、パウロは追い出されてしまう。(cf.使徒13:50)(※6)
・・・私たちは、本当の、まことの命を信じてますか?
第2朗読(※7)では、「命の水の泉」(黙7:17)っていう言葉が出てきました(※8)。
この「命の水」は、この世の水じゃないですね。「ライフ」でも、天然水、売ってますけれども、われわれが、このカトリック浅草教会で受けている水は、永遠の命の水ですよ。その泉が、天においてこんこんと湧いている。もうそこでは、涙を流すことがない。悲しみの涙、恐れの涙、・・・もう、流すことがない。
恐ろしい地震で、涙を流している人を、いっぱいニュースで見ましたけど、・・・熊本地震ですね。この世は確かに涙、涙。でも、イエスさまが、「もはや死はない」(黙21:4)と、そう宣言してくださる。永遠の命の水が湧く天において、もはや、「悲しみの涙はない」と(※9)。
なつめやしを手に持った、白い衣を着た大勢の人が、天で玉座の周りに集まっている(黙7:9)(※10)。
・・・まあ、言葉にすると、ちっちゃな貧しいイメージです。でも、本ものはどんなだろう・・・!ってね、まあ、想像しても、どんな想像も当たらないんでしょうけれども、この永遠の命に向かって、われわれは、こうしてミサを捧げます。
イエスさまは、こうおっしゃった。
「わたしは永遠の命を与える」
「だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」
「だれも父の手から奪うことはできない」
「彼らは決して滅びない」 (cf.ヨハネ10:28〜29)
・・・ありがたい言葉ですねえ。この「
われわれはもう、いつも不安ですから、ちょっとの病気でドキドキして、ちょっとの人間関係で傷ついて、もう大変な人生を生きていますから、こういう言葉が必要です。
「
「
どんなにこの世の悪い力が引っ張っても、イエスさまは、「私の手を離さない」って言ってるんですよ。
・・・「
安心してください。この「安心」が、福音の本質でしょ? ミサに
まあ、それはいつか分かりませんけど、全員やがて、そっちでも、また会うんですよ。・・・そんな日をイメージいたします。
私、「浅草教会」っていう所、実はかつて、一度だけ来たことがあるんですよ。38年前、まだ昔の建物でした。
それこそ、スーパー「ライフ」のすぐ裏に、「三井記念病院」っていう病院がありまして、私の父は、そこで亡くなりました。まだ50歳でしたけどね。肝臓がんでした。私は21歳でしたけれど、父の看病のために、病院に来るわけですよ。家族交代でね、つきっきり。
三井記念病院、当時も高いビルで、・・・建て直して今のは新しいビルですけど、前も高いビルでね。で、父の病室は12階だったか、13階だったか、病室の窓からふと下を見ると、十字架が立ってるんですよ。「あれ、教会だよね?」って思って、看病を終えたあと、行ってみました。
・・・カトリック浅草教会だったんですよ〜。
古い立派な教会でね、ギギギ・・・とドアを開けて入って、ひざまずいて、父のことを、ど・れ・ほ・ど、真剣に祈ったか。やっぱり、病院で祈るのと違いますね。聖堂で、ホンットに真剣に祈った。
買い物かごを掛けた老婦人が入って来たのを、覚えてます。何か、
あそこで祈って祈って、・・・祈った。・・・いや、「あそこ」じゃない。まさに「ここ」なんですね。・・・お祈りしました。お祈りしたけれど、すぐに亡くなりました。亡くなりましたけど、今、改めて、その一生懸命祈った教会に、こうして38年ぶりにやって来てですね、初めてのミサを司式して、聖書を読むと、こう書いてあるんですよ。
「見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って」いた(cf.黙7:9)
・・・「ああ、父さんも、その中にいるんだな」と、
「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない」(黙7:16)
・・・「ああ、父さんも、もう、本当に最高の幸せの中にいるんだな」と、
「玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導」いてくださる(cf.黙7:17)
・・・「自分もそれを飲みたいなあ。父さん、一緒に飲もうね」と、
当然、そう思うわけですよ。
・・・そして、「神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれる」(cf.黙7:17)。
死ぬ前に、ひと言打ち明けておかなければ後悔すると思って、「父さん、ぼく、神学校に入るよ」と打ち明けたら、ぼろぼろ泣かれました。その涙は、うれし涙かと思いきや、悔し涙でした。・・・かわいそうだったなあ。「父さんは悔しい!」って言って泣いたんですよ。
神学校に入ることが悔しいんじゃないです。息子が神学校に入ってくれることを、もちろん、すごく喜んだんですけども、自分がもう治らないことを悟っておりましたから、その息子の叙階式を迎えられないという、そういう悔し涙でありました。
しかし、神さまは、その涙をことごとくぬぐい取ってくださって、今や、涙を流した病院の真下の教会で、その後叙階した息子が、「浅草教会」着任初めてのミサで自分の話をしているのを、喜びをもって聞いている。
イエスさまの約束です。
「わたしは彼らに永遠の命を与える」
「彼らは
・・・私は、信じます。
【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)
※1:「私もこれで、教会、七つ目です」
晴佐久神父が1987年に司祭叙階後に着任した教会は、以下のとおり。
① 1987年〜1991年:柏(現・豊四季)教会助任司祭、② 1991年〜1994年:高円寺教会助任司祭、③ 1994年〜1998年:青梅・五日市(現・あきるの)教会主任司祭、④ 1998年〜2003年:高幡教会主任司祭、⑤ 2003年〜2009年:高円寺教会主任司祭、⑥ 2009年〜2016年:多摩教会主任司祭。そして、⑦ 2016年〜:浅草・上野教会主任司祭
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※2:「歩いて2分半のところにスーパーマーケットがあるっ!」
◎カトリック浅草教会 (教会については、>こちらにも掲載いたしました)
(住所: 〒111-0053 東京都台東区浅草橋5-20-5)
(教会から280メートルほどの所にスーパー「ライフ」がある)
← 左の地図はクリックすると拡大します
詳細な周辺地図は、>こちら をクリックしてください。
当説教の後半に出てくる「三井記念病院」は、「ライフ」の南西側。
教会への交通アクセス: 【詳細は、>>こちら(東京大司教区教会案内)】
◎JR(総武線)浅草橋(あさくさばし)駅西口から、徒歩約8分 (JR浅草橋駅構内図)
◎都営地下鉄(浅草線)浅草橋駅A4出口から、徒歩約10分 (都営浅草線 浅草橋駅構内図)
◎東京メトロ(日比谷線)秋葉原駅1番出口から、徒歩約10分(東京メトロ秋葉原駅構内図)
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主日のミサ: 日曜日10:00 (晴佐久神父司式は月の第3、4、5日曜日)
第4日曜日14:30 (英語)
週日のミサ: 火、金、土曜日 7:00
(参考)
・ 「カトリック浅草教会」(教会案内:カトリック東京大司教区)
・ 「カトリック浅草教会」(ラウダーテ)
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※3:「今日、聖書を三つ読みましたけれど、」
カトリックのミサは、1.開祭 2.ことばの典礼 3.感謝の典礼 4.閉祭 の順に進められるが、「2.ことばの典礼」の中心となっているのが、聖書朗読である。特に、主日のミサでは、「第一朗読」、「第二朗読」、「福音朗読」と、聖書から3カ所が朗読される。
通常、第一朗読は、信徒によって、旧約聖書(復活節は『使徒言行録』か『ヨハネの黙示録』)が、
第二朗読は、使徒の書簡(主にパウロの書簡)が朗読される。
続く福音朗読は、福音書が、助祭(または司祭)によって朗読される。(通常、この後、司式司祭の説教が行われる)
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この日2016年4月17日(復活節第4主日)の朗読箇所は、以下のとおり。
☆第一朗読
使徒言行13章14節、43〜52節
〈小見出し:「ピシディア州のアンティオキアで」13章13〜52節から抜粋〉
☆第二朗読
ヨハネの黙示録7章9節、14b〜17節
〈小見出し:「白い衣を着た大群衆」7章9〜17節から抜粋〉
☆福音朗読
ヨハネによる福音書10章27〜30節
〈小見出し:「ユダヤ人、イエスを拒絶する」10章22〜42節から抜粋〉
(参考)
・ 「ことばの典礼」p.20-23(2006年『ともにささげるミサ-ミサ式次第 会衆用-改訂版』オリエンス宗教研究所)
・ 「ミサについて」(カトリック東京大司教区>ようこそカトリック教会へ)
・ 「ミサの式次第-ことばの典礼」(ウィキペディア)など
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※4:「三つとも、この、『永遠の命』のことが語られています」
(聖書:参考箇所/以下は、特に「永遠の命」の言葉を中心に抜粋)
◎第1朗読 (使徒言行録13・14、43〜52)
(弟子たちをねたみ、ののしるユダヤ人たちに)
「そこで、パウロとバルナバは勇敢に語った。『神の言葉は、まずあなたがたに語られるはずでした。だがあなたがたはそれを拒み、自分自身を永遠の命を得るに値しない者にしている。見なさい、わたしたちは異邦人の方に行く』」(使徒13:46/赤字引用者)
「異邦人たちはこれを聞いて喜び、主の言葉を賛美した。そして、永遠の命を得るように定められている人は皆、信仰に入った」(使徒13:48/赤字引用者)
◎第2朗読 (黙示録7・9、14b-17)
「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。 玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである」(黙7:16-17/赤字引用者)
◎福音朗読 (ヨハネ10・27-30)
「わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない」(ヨハネ10:27-28/赤字引用者)
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※5:「信仰宣言」(再掲:「使徒信条」)
◎信仰宣言
「信仰宣言」は、ミサ中、「2.ことばの典礼」で(上記※3参照)、福音朗読に続く説教のあとに唱える信仰箇条の宣言。
使徒の時代から、教会は固有の信仰箇条をまとめ、基準となる一定の言葉で表明し、伝えてきた。信徒が宣言する、このまとめを、「信仰宣言」(クレド)と呼んでいる。
「信仰宣言」は、すべての主日と祭日に、ミサ中、説教の後、「洗礼式の信仰宣言」、「使徒信条」、「ニケア・コンスタンチノープル信条」の、いずれかの形式で唱えられている。
以下は、「使徒信条」。
天地の創造主、全能の父である神を信じます。 父のひとり子、わたしたちの主 イエス・キリストを信じます。 主は聖霊によってやどり、おとめマリアから生まれ、 ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、十字架につけられて死に、葬られ、 陰府(よみ)に下り、三日目に死者のうちから復活し、天に昇って、 全能の父である神の右の座に着き、生者(せいしゃ)と死者を裁くために来られます。 聖霊を信じ、聖なる普遍の教会、聖徒の交わり、罪のゆるし、からだの復活、 永遠のいのちを信じます。アーメン。 (2004年2月18日 日本カトリック司教協議会認可/赤字引用者)
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(参考)
・ 「信条」
(『カトリック教会のカテキズム』2002年、第1編「信仰宣言」第2部「キリスト教の信仰宣言」-「信条」185項-197項 p63-66、カトリック中央協議会)
・ 「13.信仰宣言」
(『ともにささげるミサ(改訂版)』2006年、ことばの典礼-「13.信仰宣言」p22、オリエンス宗教研究所)など
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※6:「そういうユダヤ人にとっては、このイエスさまの永遠の命の福音が、分からない。それで、パウロは追い出されてしまう」
(聖書:参考箇所)
「次の安息日になると、ほとんど町中の人が主の言葉を聞こうとして集まって来た。しかし、ユダヤ人はこの群衆を見てひどくねたみ、口汚くののしって、パウロの話すことに反対した。(中略)こうして、主の言葉はその地方全体に広まった。 ところが、ユダヤ人は、神をあがめる貴婦人たちや町のおもだった人々を扇動して、パウロとバルナバを迫害させ、その地方から二人を追い出した」 (使徒13:44-45、49-50/赤字引用者)
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※7:「第2朗読」
2016年4月17日(復活節第4主日)の福音朗読箇所
ヨハネの黙示録7章9節、14b〜17節
〈小見出し:「白い衣を着た大群衆」7章9〜17節から抜粋〉
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※8:「『命の水の泉』っていう言葉が出てきました」
(聖書:参考箇所)
「彼らは、もはや飢えることも渇くこともなく、太陽も、どのような暑さも、彼らを襲うことはない。 玉座の中央におられる小羊が彼らの牧者となり、命の水の泉へ導き、神が彼らの目から涙をことごとくぬぐわれるからである」 (黙7:16-17/赤字引用者)
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※9:「イエスさまが、『もはや死はない』と、そう宣言してくださる。永遠の命の水が湧く天において、もはや、『悲しみの涙はない』と」
(聖書:参考箇所)
「彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」 (黙21:4/赤字引用者)
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※10:「なつめやしを手に持った、白い衣を着た大勢の人が、天で玉座の周りに集まっている」
(聖書:参考箇所)
「見よ、あらゆる国民、種族、民族、言葉の違う民の中から集まった、だれにも数えきれないほどの大群衆が、白い衣を身に着け、手になつめやしの枝を持ち、玉座の前と小羊の前に立って大声でこう叫んだ。『救いは、玉座に座っておられるわたしたちの神と、小羊とのものである』」 (黙21:4/赤字引用者)
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