2014年9月14日十字架称賛
・第1朗読:民数記(民数記21・4b-9)
・第2朗読:使徒パウロのフィリピの教会への手紙(フィリピ2・6-11)
・福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ3・13-17)
【晴佐久神父様 説教】
今日、9月14日は、十字架称賛の日です(※1)。
時々、この9月14日が日曜日に当たるので、主日に、この十字架称賛ができる(※2)。今日はまあ、恵まれた日と思ってください。本当は聖金曜日(※3)が、もちろん一番十字架を崇敬する大切な日ですけど、聖金曜日、なかなか来られない方もいるでしょう(※4)? 聖金曜日の半年後くらいになりますけども(※5)、この9月14日、十字架称賛の日に、特別に、十字架の神秘を思います。
キリスト者は、この十字架によって救われたんだという、その信仰によって生きてるわけですから、「年に一度、二度、ちゃんと思い起こしましょうね」っていうことですよ。
ちゃんと、お部屋に十字架、飾ってますか?
まさか、カトリックの洗礼を受けていながら、部屋に十字架もかかっていない・・・なんていう人はいないでしょうね? もし、かかってない方は、今日、アンジェラ(※6)で十字架を買って、(笑)帰って、部屋の壁に、コンコンコンと釘打って、かけてくださいよ。
木だけのシンプルな十字架もいいけどね、カトリックは伝統的に、ご像の付いてる十字架(※7)をかけます。苦しみのシンボルであり、苦しみは喜びに変わるというシンボルであり、どんな苦しみも、その先に救いの栄光の世界が待っているという、神の国の入り口、天国の扉のシンボルなんだから、苦しんでおられるイエスさまのかかってる十字架をお部屋にかけて、常日頃、思い起こす。
今の私のこの苦しみを、神さまはすべてご存じです。そして、十字架の神秘においては、私たちの苦しみは、すでに救いの喜びに変えられているのです。
ですから、キリスト者は、苦しみを恐れません。
むしろ、救われた者としての喜びを、十字架を高く掲げて、苦しむ人々に告げ知らせます。
第1朗読(※8)では、モーセが民のために主に祈ったら、主が、「炎の蛇を造り、旗竿の先に掲げよ」(民数21:8)と。この蛇が、十字架の先取りというか、予兆だという意味で、今日、読まれるんでしょうけれども、「その人が蛇を仰ぐと、命を得た」と。(cf.民数21:9)
モーセが、救いのシンボルを掲げ、人々がそれを仰ぐと「命を得た」。
・・・われわれはこれを、主の十字架でやるわけです。お部屋に十字架かけて、悩んだり困ったりしたときに、仰ぎ見る。悩んだときに、ついつい人に相談したり、本を買って読んだりしますけど、キリスト者はまず、十字架を仰ぐんです、まず第一に。もう、そこに答えがある。救いがある。
できるならば、「掲げる」っていうんだから、屋根の上に十字架掲げていただきたい。(笑) キリスト者はね、それくらいやってもいいんじゃないですか? 「主の十字架による救いを信じる者がここにいるぞ、ここが教会だ!」くらいに思ってね。
十字架の神秘によって生かされてるキリスト者として、この世で輝いていていただきたいのです。そして、苦しんでいる人に十字架を示して、「あなたは必ず救われる」と、ちゃんと言っていただきたいのです。
「このイエスは、すべての苦しみを引き受けた。そしてこのイエスを、神はぜんぶ引き受けた。そしてこの十字架を、復活のいのち、救いの喜びに変えてくださった。もうそれはこの世界に現実に起こったことだし、あなたもその恵みに与っている。それを信じて、今の自分の苦しみが、ただの恐ろしい苦しみじゃなく、喜びへの道だと知ってほしい」って教えてあげてほしいんですよ。
そしたらその人も、洗礼とまではいわないまでも、十字架のひとつでもね、部屋に掲げるかもしれませんよ。胸に十字をひとつ、切るかもしれません。
昨日、2週間前に来た青年が、また来てくれたんです。2週間前、お父さんと息子と二人で来たんですね。信者ではないんですけど、お父さんがインターネットなどで多摩教会のことを知って、息子のことで相談したいってやって来ました。
まあ、息子がいろいろと苦しんでるんですね、悩んでる。で、
「何か質問したいことある? なんでも答えるよ」って言ったら、
「ホントに神なんているんですか?」って。
そのあまりにストレートな質問に、一瞬ひるみました。
・・・「ホントに神なんているんですか?」
「はい、います」って答えればそれで終わりなんですけど、それじゃあ、彼にとっては何にもならないでしょうから、いつもの調子でね、こういうお返事をしました。
「あなたは、いるか、いないかって聞くけど、そんな、いるかいないか分かんないようなものは、『神』とは呼ばない。あるいは、あなたは『いなくてもいい』と思うからこそ、『いるんですか?』って聞くわけだけど、あなたにとって、いてもいなくてもいいような存在を、『神』とは呼ばない。
つまり、あなたは、神のことを何も知らないのに、それが『いるか、いないか』と聞いてるんです。だから、そのよく分からない『神』から話を始めないで、まずは自分の中に、あるイメージを持ってほしい。
どういうイメージかっていうと、ともかく何か最高の存在、全面的に憧れることのできる、最高の喜びに満ちた、永遠の希望を与えてくれる、そういう存在。あなたがそのような、いわば宇宙の根本のような素晴らしい存在に望まれて、この世界に生まれてきて、掛け値なしに意味ある人間として愛されていて、今もその愛に包まれて生かされていて、そして、永遠なる存在になるように導かれていて、そのために、あなたのあらゆる苦しみや悩みを、産みの苦しみとして、喜びに変えてくださる。そしてやがて、死を天の国への誕生の日として、自らの永遠なる喜びの中へと招き入れてくれる。そんな究極の夢物語みたいなこと、イメージしてほしい。
さあ、そうすると、そういう存在があったほうがいいですか? ないほうがいいですか?」って聞いたら、
「まあ、・・・そりゃあ、あったほうが・・・」みたいな感じなんですよ。そりゃそうですよね、だれも「ない方がいい」とは言わないでしょう。
「それが、神です。それを何と呼んでも勝手ですが、私たちはそういう方を、神と呼んで、信じてます。そういう存在が、あるんです。・・・信じましょうよ。それを信じたとき、あなたの人生が変わるから。
信じるならば、どんな悩みも解決します。今の悩みも苦しみも、良いもの、素晴らしいものに変わります。あなたの苦しみはただの苦しみじゃない。その苦しみは永遠なる天の国の入り口です。そういう真理を教えてくれたのがイエスであって、復活をもたらすイエスの十字架は、苦しみを喜びに変える、神の愛のシンボルなんです」
するとですね、その彼、翌週の入門講座の最初の日、パエリアパーティーの日に、やって来ましたよ。もっとも、終わる頃にやって来て、パエリアだけパクパク食べてましたけど。
「ああ、よく来たね!」ってね、うれしかったし、その時もまた、信仰の話をしました。
そうしたら、昨日も来たんですよ。来るって言ってたのに来なかったのでがっかりしてたら、大渋滞だったとかで遅れて来て、また信仰の話をしたんですけど、なんとアンジェラで、十字架買ってったんですよ。「来た、来た、来た~っ♪」って思いますよね。ちゃんとね、ご像の付いた十字架でね、机の上に立てるやつです。今頃、彼の机の上に立ってると思いますよ、十字架。
だから、十字架の祝福のお祈りをして、お話ししたんです。
「この十字架は、あなたの苦しみを喜びに変えるシンボルだ。神さまは、あなたの苦しみを、ぜんぶ知ってる。イエスさまは、あなたの痛みを、ぜんぶ背負っている。そして、この十字架の神秘において、あなたはもう救われている」
パウロが言うように、まさしく、十字架の死に至るまでイエスが従順であるのは(フィリピ2:8)(※9)、その十字架によって、すべての人が救われるからです。
今日もなお、十字架はちゃんと働いているんです、みんなを復活させるために。これは、しまっておけないですよ。首にかけましょう、部屋に飾りましょう。・・・大切なことですね。
昨日、ラジオの収録がありました。
青年たちが、「カトリックのラジオ放送をやりたい」とか言って始めたんですね。「カトラジ!」とかいう、インターネットラジオです。インターネットラジオっていうのは、わりとハードル低くって、青年たちでも開局することができるんですね。で、彼ら、お金を集めて準備しているところで、開局に向けて番組を作っているところです(※10)。
昨日は、5人の仲間たちでやって来て、「お悩み相談室」っていう番組の収録をしました。視聴者のいろんな悩みを、神父と青年たちがああでもない、こうでもないって答えるような番組です。
いろんな悩みがあってね、恋愛の悩みもあったし、中には「ミサ中、どうしてもじっとしているのがいやでウロウロしたくなるんですけど、どうしたらいいですか?」みたいなのも。(笑)
私も結構、じっとしているのが苦手な方なんで、お答えしました。
「いいんじゃないですか。世の中にはいろんな変わったミサもあるし、今度そういう人たち集めて、『うろちょろミサ』っていうの、やりましょう。(笑) 私もうろちょろしながら司式したい」って。(笑)
「カトラジ!」、まだ始まってませんけど、そのうちインターネットで、皆さんも耳にすること、できると思いますよ。
その質問の中で、最後の質問だったかな、印象に残ったのは、「私、怖いものがある。その怖いものに
結局悩みっていうのは、およそすべて、原因は恐れてるからです。将来のこととかね、あるいは過去にやっちゃったことが原因で、もっと悪いことが起こるかもとかね。・・・ともかく怖いんですよ。人間関係が怖い。親が怖い。パートナーが怖い。未来が怖い。神が怖い。
時には、見捨てられるのが怖いとかね、嫌われたらどうしようみたいな怖さとかね。まあ、およそ悩みって、ぜんぶ「怖い」んですよ。
私も、怖いもの、確かにある。恐怖心っていうのは人間の心理の根底にありますから、だれでも当然怖いんだけれど、これはまさに「信じること」によってのみ、乗り越えられる。たとえば、対処法として一つの簡単な方法は、「突撃」です。信じて突撃するんです。私もよくやります。・・・なんていうか、怖いものから逃げずに、むしろそこに突っ込んでいく、みたいな感じ。
そうすると、「あ、なんだ。ちっとも怖いものじゃなかった」って分かることが多い。
こういう体験は、なかなか貴重な体験なんで、覚えておくといいと思います。怖いからって逃げてると、もっと怖くなるだけで、いつまでも解決できない。むしろ、「だいじょうぶ、神さまが守ってくださる!」って信じて「突撃」してみると、実は私が勝手に怖がっていただけで、本当に怖いものじゃなかった、あるいは、怖いどころか、そこから解放された喜びへの入り口だったって分かる。「突撃」って、ぼくの用語ですけど、覚えておいて、いざってときに「突撃」してください。
ヘンな話ですけど、ここの司祭館、結構・・・出るんですよ。(笑) 変な音がするんです。誰もいないのに、ギシギシギシギシ・・・、コツコツコツコツ・・・、ギ、ギィ~~みたいな。これ、怖いでしょ。「誰かいるの?」って感じで。鍵閉めて寝たはずなのに、深夜、「何だろう、この音・・・」って。
そういうときに、我慢して布団かぶって寝ていても、またカタン、カタンっていうんで、もう、「突撃」するんですね。それこそ、部屋に十字架かかってますし、信仰者なんだから、こんな音でビクビクしてるなんて、キリスト者らしくないだろうって、ガバっと起きて、バンって戸を開けて、堂々と見に行くと、閉め忘れていた窓のところで、ブラインドがカターン、カターンって、(笑)風に揺られて鳴っているわけです。「なんだよ~、ビビって損しちゃったじゃないか~」なんていう、オチ。・・・でも、そんなもんなんですよね、怖いっていうのは。
あの人が怖い、この人が怖い、あの出来事が怖い、こうなることが怖い・・・、ぜ~んぶ自分が頭の中で思ってることです。「怖いことなんてないんだ!」ってね、信じて、「突撃」する。むしろ、その怖いと思っていたことこそが、何かよいことの入り口だったと知る。
イエスさまは、十字架に「突撃」しました。
イエスさまは、十字架が当然怖かった。嫌だった。「こんなこと止めてくれ!」ってね、震えてお祈りしているじゃないですか、前の晩には(※11)。「どうか、これだけは勘弁してくれ」って。
だけど最後は、進んで十字架に向かう。・・・まさに「突撃」です。最悪のこと、最も恐ろしいことに向かっていく。恐ろしいことだけれども、「それは神の愛のみ心。全能のみ手のうちにあっては何ほどのものでもない」と信じて、そこに向かいます。その怖さを、ぜんぶ引き受ける。そうして、恐れの中を生きる全人類の代表として、すべて引き受ける。その従順さを、神さまもぜんぶ引き受ける。・・・そして、復活の栄光です。(cf.フィリピ2:8-9)
もはや、私たちは、恐れなくてよくなったんです。
「『突撃』しても、だいじょうぶ」って、そう信じていただきたい。「この先悪くなるんじゃないか」とか、「死んだら地獄に落ちるんじゃないか」とか、先のことも恐れなくてよくなったんです。信じる者は、死に向かってさえも「突撃」できる。
さっさと死のうって言ってるんじゃないですよ。(笑) 「死はただの幻だ。むしろ死の先に栄光が待っているっていう信仰だけは忘れずに、死に向かいましょう」と。「イエスさまと一緒に」ね。
死後の裁きを恐れちゃだめですよ。今日の福音(※12)の最後の一節に書いてあったでしょ、
「神がイエスさまを私たちに与えてくださったのは、私たちを裁くためじゃない。私たちを救うためだ」(cf.ヨハネ3:17)
おとといの聖書クラスに来てた、北海道から来たっていう方が、この箇所のことで、
「でも、神父さま、システィーナ礼拝堂の『最後の審判』の絵(※13)は、怖いですよね」って言うんですよ。
ご存じですか? 確かに一見、怖い絵なんですよ。システィーナ礼拝堂の祭壇の後ろの祭壇画として、最後の審判の絵が描いてある。ミケランジェロの代表作ですね。高みでイエスさまが、右手は天に上げ、左手は地を制するかのような、こんな格好でね、下の方を見てるんですね(※14)。で、下の方は、もう、ドロドロの地獄ですよ。上の方には天使たちと聖人たちがいる。
あんな絵を見ると確かに、イエスさまが、「さあ、あなたたちは天だ!」「お前らは地獄だ!」って裁いてるように見えますけど、そういう幼稚な二元論って、キリスト教の本質になじまないんです。神と二元論って、なじまないんですよ。神さま、何でもおできになりますから。「どっちかしかない」ってのは知恵の足りない人間の考えであって、神はどっちもひっくるめて、「すべてを」何とかする。
・・・
「ひとり残らず救うために主イエスを遣わした」っていう、神さまの無限の愛を思って、むしろ、二元論で苦しむ人間を救うためにイエスさまが来られたということを信じたい。
そもそも、死後の地獄を恐れること自体が、もはや地獄でしょう。恐れてる段階で、この世はもはや生き地獄みたいなところがあって、現に、そんな恐れのために地獄の苦しみを体験している人たちが大勢いるじゃないですか。その人たちのためにこそ、イエスさまが来られたんだから、ああいう絵は、こう見たらいいんです。
「これは、イエスさまが、描かれているような地獄を体験しているすべての人たちを救ってくださる絵だ」と。そういうイエスさまでなきゃ、「救い主」なんて言っちゃいけないんじゃないですか?
イエスさまの十字架の神秘について、ミサの始めの集会祈願(※15)がありましたけど、美しい祈願でしたね。
「聖なる父よ、あなたは人類の救いのために、御ひとり子が十字架をになうようお定めになりました。十字架の神秘を信じるわたしたちが、永遠にその勝利にあずかることができますように」
いいね、いいお祈りです。すべての人を救うために、イエスは十字架をになった。それはもう、「神秘」なんです。人間の貧しい観念で語られる、「ここまでは救われる」とか、「この人は断罪される」とか、そんな幼稚な話じゃない。そんなこの世は、ヨハネに言わせれば、すでに裁かれてるんでしょう?(cf.ヨハネ3:18)
「裁く」っていうんだったら、まさに神さまが、正しい裁きで、すべての人を、そんなこの世の裁きから救ってくれることを、「裁き」っていうんです。「善だ、悪だ」「天国だ、地獄だ」っていう幼稚な裁きから、永遠なる愛の神が、われわれを救ってくださる。
・・・そう信じなかったら、いったい、本当の安心、喜びなんて、ありますか?
私はいつも不思議に思う。「やがて私は救われるか、救われないかわからない」という状況で、「信じる」っていうのは矛盾してるんですよ。あり得ないと思う。
「私は救われないかもしれない」っていうのを、「信じる」とは言わない。それは、「恐れる」っていうんです。・・・わかりますでしょ、「私は救われないかもしれない」っていうのを、日本語では「恐れる」っていうんです。
「私は必ず救われる」っていうのを、「信じる」っていうんです。
私たちは「信じて」るんです。恐れてはいけません。
今日もJOC(※16)のカレンダーを、働く青年たちが売ってくださいますけども、今のブラックな世界で働く青年たちが、どれほど苦しんで、恐れているか、わかります? また、ミサ後には、ダルク(※17)の方たちが講演してくださいますけども、薬物中毒が、どれほどの地獄で、どれほどの苦しみであるか、想像つきますでしょ? しかし、どれほどの闇であっても、それらを、「十字架の神秘によって」栄光に変えることができるのが神です。私たちは、その神を信じます。・・・恐れながらじゃあ、「信仰」っていえないでしょ?
おととい、一人の学生が泊まって行きました。よく、ここの教会学校を手伝ってくれていた高校生です。今はもう大学生になりました。
彼が久しぶりに来て1泊していったんですけれど、夜話していて、初めて彼の信仰の原点を聞きました。彼は高校生の時に洗礼を受けたんですけど、信仰の原点は小学生の時にあったっていう話をしてくれた。
父親が荒れる人で、小学生の時は父親が怒鳴って荒れて大変だったと。そんなとき彼は、布団をかぶって泣いてたんですって、いつも。小学生の少年が、布団かぶって泣いてる様子を思うと胸が痛みますが、何度もそういうことがあったそうです。
ある時、本当につらかったんでしょう、誰に教わったわけでもないのに、布団かぶって泣きながら、「神さまっ!!」って、心の中で叫んだそうです。まだキリスト教のこと何も知らない時。でもそれが、自分の信仰の原点だって教えてくれた。小さな子どもがですよ、怒鳴ってる親、荒れてる親のもとで、布団かぶって泣いてる時に、「神さまっ!!」って。
その叫び、どこから来たんだと思います?
・・・神さまが救ってくださったんですよ。
だって、イエスの十字架上の叫びって、そうでしょう(※18)? イエスも「父よ!!」って叫んだじゃないですか。最悪の状況で、絶望の叫びとして、「父よ!!」って。イエスは、すべての時代の、布団かぶって叫んでる人と共にいるんです。一致してるんです。イエスのその叫びを神は聞き入れ、喜びに変えてくださった。それを「復活」という。それによって、イエスと共に叫んでいるすべての人も「復活」したんです。
彼もまた復活しましたし、洗礼を受け、今は、信仰によって救いの喜びを得ている。こんな素晴らしい救いの恵みを秘密にしておくことないでしょう? 十字架による救いを、みんなに教えてあげてください。
・・・屋根の上に十字架かかげても、当然じゃないですか?
【 参照 】
※1:「十字架称賛」
十字架称賛の祝日は、9月14日とされている。
これは、4世紀の記録によると、326年9月14日にエルサレムで、ローマ帝国、コンスタンティヌス大帝(在位306-337年)の母、皇太后ヘレナによって、キリストの十字架が発見されたことと、335年9月13日に、コンスタンティヌス大帝によってゴルゴタの丘に「十字架聖堂と復活聖堂(現在は聖墳墓教会)」が献堂され、その十字架を安置したという出来事に由来する。
エルサレムではこの両日が毎年記念され、5世紀にはコンスタンティノポリスに、7世紀末にはローマにも伝わって、十字架を高々と掲げて賛美する式が行われるようになった。
一方、ガリアの教会では、628年の5月3日に、東ローマ帝国のイラクリオス帝がペルシアの略奪から、この十字架を守ってエルサレムに凱旋したことから、8世紀には5月3日が十字架の記念日とされ、9月14日は十字架称賛の日として祝われていた。
これらを、第2バチカン公会議は、教会暦改定によって9月14日に統一し、現在に至っている。
東方正教会では十字架挙栄祭という。
(参考)
・ (2008年)『岩波 キリスト教辞典』岩波書店
・ 2014年9月14日十字架称賛(赤) (オリエンス宗教研究所:『聖書と典礼』表紙絵解説)
・ 十字架挙栄祭(ウィキペディア)
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※2:「この9月14日が日曜日に当たるので、主日に、この十字架称賛ができる」
日曜日に聖人の記念日などが重なると、「主日」が優先されて、聖人の「記念日」はお休み。ただ、9月14日十字架称賛の祝日は、「記念日」ではなく、さらに重要な日とされる「祝日」であり、「聖人に関する記念ではなく、主イエスに関する記念である」ということで、日曜日であっても、そのまま祝われる。
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※3:「聖金曜日」
復活祭前の金曜日。キリストの受難と死を、特に記念する日。
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※4:「聖金曜日、なかなか来られない方もいるでしょう?」
聖金曜日の典礼は、まさに「金曜日」に行われるため、通常の日曜日のミサとは違い、集まってくることのできる人も限られている。
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※5:「聖金曜日の半年後くらいになりますけども」
聖金曜日は、復活祭の日にあわせて、毎年移動する。(復活祭は、「春分の日」後の、最初の満月の次の日曜日とされている。)
2015年の聖金曜日は、4月3日
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※6:「アンジェラ」
カトリック多摩教会の教会ショップ。
主任司祭(晴佐久神父)の書籍はもちろん、キリスト教専門の書籍や雑誌、十字架やメダイ、ご絵などを扱っている。
(参考)
・ 晴佐久昌英神父 「教会ショップ『アンジェラ』」(主任司祭巻頭言:カトリック多摩教会月報「多摩カトリックニューズ」 2009年10月号)
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※7:「ご像の付いてる十字架」
サンプル画像(クリックすると大きく表示されます)
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※8:「第1朗読」
本日(2014年9月14日〈十字架称賛〉)の第1朗読箇所
「民数記」21章4b〜9節
〈小見出し:「21章カナン人に対する勝利>4節~9節「青銅の蛇」」〉(小見出しは、新共同訳聖書による)
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※9:「パウロが言うように、まさしく、十字架の死に至るまでイエスが従順であるのは」
「使徒パウロのフィリピの教会への手紙」2章8節より。
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本日(2014年9月14日〈十字架称賛〉)の第2朗読箇所
「使徒パウロのフィリピの教会への手紙」
2章6〜11節
〈小見出し:「キリストを模範とせよ」2章1~11節から抜粋〉(小見出しは、新共同訳聖書による)
===(聖書該当箇所)===
・ 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。こうして、天上のもの、地上のもの、地下のものがすべて、イエスの御名にひざまずき、すべての舌が、『イエス・キリストは主である』と公に宣べて、父である神をたたえるのです。」(フィリピ2:6~11/赤字引用者)
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※10:「青年たちが『カトリックラジオをやりたい』とか言って・・・」
カトリックの青年たちが、インターネットラジオを使って行う福音宣教にチャレンジする「カトリックユースネットラジオ」、略称(愛称)「カトラジ!」。「お悩み相談室」や「あなたのそばの神様発見!」などの企画がある。ぜひお聴きください!
2014年9月20日(土曜日)から、毎週土曜日23:00〜23:30の時間帯で配信。
(参考)
・ 「カトラジ!」(ホームページ)
・ 「カトラジ! 広報部」(ツイッター)
・ 「カトラジ! コミュニティ」(フェイスブック)
第1回目の放送は、こちらのYouTubeチャンネルからお聴きいただけます。
初回内容は、「今月の一曲」「あなたのそばの神様発見」「AYD in Korea報告」「お悩み相談室」
「世界と繋ぐ」「共同祈願」。)
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※11:「こんなこと止めてくれってね、震えてお祈りしているじゃないですか、前の晩には」
(参照)
「ゲッセマネで祈る」(新共同訳聖書:小見出し)
・ マタイによる福音書26章36~46節
・ マルコによる福音書14章32~42節
・ ルカによる福音書22章39~46節
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※12:「今日の福音」
本日(2014年9月14日〈十字架称賛〉)の福音朗読箇所
「ヨハネによる福音書」
3章13~17節
〈小見出し:「イエスとニコデモ」の一部〉(小見出しは、新共同訳聖書による)
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※13「システィーナ礼拝堂の『最後の審判』の絵」
『最後の審判』(伊:Giudizio Universale)
ルネサンス期の芸術家、ミケランジェロ・ブォナローティの代表作とされる。
バチカン宮殿のシスティーナ礼拝堂に描かれたフレスコ画。(1536-1541年/1440×1330cm)
(下の画像は、クリックすると大きく表示されます)
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※14:『最後の審判』のイエスさま拡大
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※15:「集会祈願」
ミサの導入部における「開祭の儀」のまとめのようなもので、この祈願によって、祭儀の性格が表現される。
本日(2014年9月14日〈十字架称賛〉)の「集会祈願」は、以下のとおり。
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「聖なる父よ、あなたは人類の救いのために、御ひとり子が十字架をになうようお定めになりました。十字架の神秘を信じるわたしたちが、永遠にその勝利にあずかることができますように。
聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン」」
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「集会祈願」の、もう少し詳しい説明は、以前、「福音の村」でも、2014年6月15日説教「金色の光に包まれて」の【参照】※6でも掲載しておりますので、そちらをお読みください。
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※16:「JOC」
カトリック青年労働者連盟(日本JOC)<JAPAN Young Christian Workers>
20代前後の、働く、働こうとする、若者のグループ。
詳細は、>>>こちらのホームページをご覧ください。
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※17:「ダルク」(DARC)
Drug(=薬物)Addiction(=常用癖)Rehabilitation(=回復/社会復帰)Center(=センター)の略。
薬物依存からの回復を支援する、民間の薬物依存症リハビリ施設。
(参考)
・ 全国ダルク(全国薬物依存症者家族連合会HPより)
・ DARC(ウィキペディア) 他
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カトリック多摩教会では、晴佐久神父の呼び掛けで、東京の三多摩地区で活動する武蔵野ダルクの活動を支援させていただいていますが、この日、代表の方が来られ、ミサの後、現状の説明と協力の要請がありました。
2年前に立ち上げたばかりの、日野市にある、武蔵野ダルク、「女性ハウス」は、昨今の「危険ドラッグ」に関するマスコミの偏った報道の影響で、差別や偏見にあい、それゆえに、立ち退きを迫られているとのこと。
薬物依存への偏見や差別は、実情を知らない、単なるイメージでしかありません。
心の傷に苦しみ、回復を目指す友への理解、活動への支援と協力をお願いいたします。
なお、この件に関しては、今週号(2014年9月21日付4259号)の「カトリック新聞」(2面)にも掲載されています。ぜひご一読ください。
>>>(記事)「武蔵野ダルクの女性ハウス“危険ドラッグ”報道が直撃-差別・偏見、立ち退きへ 暴力被害と市販薬が薬物依存の引き金に」
>>>(参考)「武蔵野ダルク」ホームページ
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※18:「イエスの十字架上の叫びって、そうでしょう?」
(参考)
「イエスの死」(新共同訳聖書:小見出し)
・ マタイによる福音書27章45~56節
・ マルコによる福音書15章33~41節
・ ルカによる福音書23章44~49節
(・ ヨハネによる福音書19章28~30節)
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