2013年8月4日 年間第18主日
・第1朗読:コヘレトの言葉(コヘレト1・2、2・21-23)
・第2朗読:使徒パウロのコロサイの教会への手紙(コロサイ3・1-5、9-11)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ12・13-21)
【晴佐久神父様 説教】
昨日の夜、ここで洗礼式をしたんですよ。
詳しくはお話しできませんが、ホントにつらい人生を生きてこられて、心の病気もあり、苦しんでおられる方です。キリスト教を知って救いの希望に目覚め、自分なりに勉強したけれど、やっぱり、どうしてもちゃんと洗礼を受けて、救いの喜びを実感したくなりました。その思いは日に日に強まり、今や、どうしても受けないではいられないほどなんですけど、これが、なかなか教会に行けないんです。大変交通の便の悪いところに住んでいる上に、病気で体調も悪く、経済的にも困窮しておられて交通費がなく、また家族の事情もあって、ともかく、めったに家から出られないんですね。
それで、どこかの教会で、すぐに洗礼を授けてくれるところはないかって、あちこちに相談してみたんですけど、これがなかなか難しい。最寄りの教会っていってもかなり遠いんですけど、なんとか、ホントに「なんとか」出かけて行って相談してみたら、「半年以上講座に通って、復活祭の洗礼式でないと」って断られちゃった。で、どこの教会に電話しても、取り合ってくれない中、マザー・テレサの修道会が相談に乗ってくれて、「それなら多摩教会に電話しなさい」と。
それで一昨日電話が来て、話を聞いたわけですが、ホントに苦しんでるんですよ。そしてホントに洗礼を望んでるんです。信仰心もあつく、「洗礼を受けたら、この苦しい毎日のどれだけ支えになるか」って言ってるんです。そうはいっても、電話一本で簡単に「はいどうぞ」とも言えず、「ともかく一度お会いできませんか」って言ったら、「一度なら出かけられますが」っておっしゃる。たまたま一昨日は時間がなくて、また明日相談しましょうといったん電話は切ったんですけど、なんと昨日、その方がいきなり直接、多摩教会に来ちゃったんですよ。早朝4時に家を出てきたと言って。
いろいろお話を伺うと、ホントに苦しんでおられて、もう二度と出て来られないって言うし、なんとかお願いしますって深々頭下げられて、それに、「どこの教会に電話しても、だめだと言われた」とか聞くと、私、なにか燃えてくるものがあるんですよね〜。(笑)
それで、今までそんなことしたことないんですけど、ついつい、「じゃあ、洗礼、お授けしましょう!」ってことで、その日の午後に総仕上げの入門講座をして、聖堂でゆっくり祈っていただき、信者さんに代父になってもらって、復活のろうそくと洗礼盤出して、夜のミサ中に洗礼をお授けしました。ミサの参加者に事情をお話ししたら、皆さん温かく迎えてくれて。そんなわけで多摩教会の家族、一人増えました。急でしたけどね。まあ、いうなれば、こういうのは病床洗礼ですから。
でも、おかげで、どれだけその人、救われたと思います? 大変喜んで、ホントに安心していました。すぐに帰らないと深夜バスに間に合わないとかで、信者さんが車で駅まで送って行ったんですけど、別れ際何度も何度も頭下げられて、思いました。やっぱり、・・・やっぱり憐れみの心って、大事ですよね。
律法主義は人を苦しめるけれど、主の憐れみは、人を救う。
これは、すごくシンプルな本質だと思う。確かに、面倒だったり、決まりから外れていたり、細かく言えばいろんな心配や問題もないとは言わないけれど、やっぱり、優先順位のトップは憐れみの心だし、憐れみをもって人を受け入れ、親切にしてあげる、そういう教会でありたいですよね。
先々週、「人はみんな救われる。
「神は、すべての人を救ってくださる」というタイトルのその説教は、ホームページ「福音の村」に掲載された2日後に、延べ3千5百人以上の方がアクセスしてくださったそうで、これは1日としては開設以来最高だそうです。また、多くの方からその日の説教への感謝のお手紙を頂きました。説教への皆さんの反応は、このホームページの閲覧数や、お手紙の量である程度は分かるんですよ。今回はホントに大勢の人が喜んでくださったことがわかって、「
「自分は苦しみの中で、いつも、いつも『死にたい』『死にたい!』って、ひとり言を
ということは、信者じゃない方なんですね〜。・・・でも、よかったねえ。匿名のお手紙ですけど、この説教をまた読んでるでしょうから、「ホントによかったねえ」と、「あなたは必ず救われる」「いや、もう救われている」「あなたはその望みのうちに、もう、洗礼受けているのと同じですよ」と、ここで改めて申し上げたいと思います。
「一信徒」っていう方のお手紙も読みますね。
「『すべての人』を天の父から任せられたイエスさまが、その委ねられた人全員に、永遠の命を与えるために、すべての人の身代わりになって死んでくれたのに、もしそれが完成しないのだとしたら、『私は望むことをすべて実行する』『私の計画は必ず成る』という、聖書の言葉に矛盾してしまいます。
事実、イエスさまは、十字架上で『成し遂げられた』と完了形で言われました。
私は、こんな自分は救われないと心配していたので、自分自身に対しても、周りの人に対しても、自然と厳しくなっていきました。しかめっ面で、独善的で、排他的な、喜びのない信者でした。つまり、『信者』ではなかったのだと思います。
すべての人が救われないのなら、喜べません。自分の家族も、先祖も、死者たちも、周りのみんなも、世界中のあらゆる時代の、例外なくすべての人が救われてもらわないと、私は本当には喜べません。
『自由意思によって神を拒む』といいますが、私は自分の意思など信用できません。私の良い決心も、悪い決心も、その2時間後にはぐらつきます。私の意思など、ただの感情の波みたいだと思います。神さまは、人間のことを、根本的に良いものとして造られ続けておられるのだから、基本的に人は、正気では悪になりきれないはずだと思います。そして、責任能力の有無を判断できるのは、神さまだけだと思います。
みんなが救われないのなら、喜べません。私はもうそろそろ、喜びたいのです。
イエスさまが、誰かを『滅びる』と言うとき、それは、その人の地上での不幸な心を心配してくださっているのだと思います。
イエスさまが、誰かを『天の国に入る』と言うとき、『あなたは気づいた。おめでとう!』の意味だと思います。
イエスさまが、誰かに『罰を受ける』と言うとき、その人自身の思い込みが不幸な気持ちを招いてしまうと言っておられると思います。
『狭い門』って、人は『神さまは無限に優しい』ということをたやすく疑って、絶望してしまうから、そう言うのだと思います。
イエスさまは、地上にいるうちに既に救われていることを、みんなに気づいてほしかったのだし、誰かが死んで地獄に落ちるのじゃなくて、地上でその人が地獄のような気持ちで過ごす不幸のことを言ってくれたんだと思います。『自分のことを呪っていたら、火のような苦しみがこれからも続いてしまうよ。神の愛を頼りに生きれば、喜びと安らぎが得られるのに・・・』と。
フランシスコ教皇さまが、晴佐久神父さまと同じ意味のことを言っておられたのを読んで、私はもう、うれしくて、うれしくて。教皇さまは、就任直後のお話で、こう言われました。
『主がすべてをゆるしてくだされなければ、世界は存在できないでしょう』 一信徒」
あの、これ、うれしかったです。ありがとうございます。
「フランシスコ教皇が晴佐久神父と同じこと言ってる」って、これ、逆ですよね(笑)。「晴佐久がフランシスコ教皇と同じことを言っている」ですね。さらに言えば、「フランシスコ教皇は、イエスと同じことを言ってる」ってことでしょう。
「主がすべてをゆるしてくださらなければ、この世は存在できないでしょう」(※2)
そういうことなんですよ。すべては神さまがおつくりになって、神さまが存在させてるんです。もっと神に信頼して、感謝して、安心して、それこそ、「神の前に豊かに」なるべきですよ、今日の福音でいうならね。一番価値あることじゃないですか、それが。「神の愛」「神のゆるし」「神の愛とゆるしによって、すべての人が救われる」という、この福音の喜びこそが。これだけあったら、だって、あと何がなくっても平気なんだから。
しかし、それを知らないと、そうでないものに頼り始めるわけですよね。第2朗読のパウロの言葉でいうなら、「貪欲は偶像礼拝にほかならない」(コロサイ3:5)ってことです。
偶像礼拝、つまり、神ではないものを神とすること。神さまの愛だけ信じていれば最高の幸せを手にできるのに、それを知らないがゆえに、この世のものに頼る。それは偶像に魂を売っているようなものだと。
福音書では、一人の人が、「イエスさま、わたしにも遺産を分けてくれるように、兄弟に言ってくれ」なんて言うから、イエスさま、めずらしくイラッときて「だれがわたしを、裁判官に任命したのか」と言い、「貪欲に気を付けろ、この世のどんなものも、あなたを幸せにはしないよ」と。
「すべての人をゆるして、愛している、その神さまの恵み、あなたはそれだけで充分なんだ。この世ではなく、神の前に豊かになってほしい」、そう言うために、この有名なたとえ話を残しました。頭の中が偶像でいっぱいになっちゃってる人を、ハッと気づかせるために。
「作物がいっぱい穫れた。さあ、これをしまっておこう。この先何年も、それで楽しよう」って、これは、「その人」の計画です。その人は、そうできると信じ切っている。
でも、神は何て言うか。「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」。だから、まずは神の前に豊かであれと、イエスさまは、そうお話になりました。
・・・ 「今夜」
ドキッとさせられる言葉です。脅かすわけじゃないですけども、その「今夜」は、ホントに今夜かもしれない。
ちょうど昨日の朝も、多摩教会の信者さんが一人、突然死なさいました。朝、「行ってきます」ってテニスに出かけて、ウォーミングアップ中に倒れたそうです。
今夜かもしれないんですよ、私たち。
でもそれは、神によって望まれて生まれてきて、神によって愛されて生きていて、神の救いのうちに召されて永遠なる世界に生まれていく私たちの、真実なんです。その「今夜」こそは。
だから、もし神の前に豊かでさえあれば、「私はいつ召されても構いません」という思いを持てるはず。「いや、なかなかそこまでは言えない」って思うかもしれないけど、私は神の愛のうちにあり、神の恵みを、今、頂いているんだっていう安心感さえあれば、他に何もいらないはずだし、「今夜」がホントに今夜でも構わないはず。・・・これこそは、信仰を持っている私たちの喜びの世界。
先週の水、木曜日、また釜石をお訪ねしてまいりました。
私はまあ、カトリックのベースを応援して、現地とこちらをつなぐという使命感を持って、現地に参りますけれども、最近は行くたびに、つなぐのもだんだん難しくなってきたなって感じます。現地とこちらの温度差が広がってるから。
まだ、津波の後、1年、2年くらいは、こちらの意識も高かったように思いますが、だんだん、その意識が下がってくると、現地は苦しみや不安がむしろ「増して」いるのに、こちらの関心は「減って」いく。そうすると、心の温度差が広がっていくわけですよね。
カトリックの、あるボランティアベースのベース長の話ですけど、東京に来てお話をしたりすると、「まだやってたんですか」みたいな声まで聞こえてきて、ショックを受けた、と。
「まだやってたんですか」どころか、現地行けばわかりますけど、まだ何も始まってないに等しいし、すべて「これから」ですよ。
そりゃあ、目に見える建物はいくつか建ったし、堤防の工事も始まりました。かさ上げの土も搬入されてます。それらは目には見えますけれども、もし目には見えない心の世界が見えるとしたら、実は「まだ津波、水も引いてません」っていう段階なのが、よくわかると思います。
そう簡単に「はいっ、元気になりました。もう過去は忘れて、新しく踏み出します」、・・・そんなわけにいかないですよ、やっぱり。それだけ甚大な災害だったってこともあるし、被災者の数も多すぎて、対応は後手後手なんです。現場の痛みはますます強くなっています。被災地には今、間違いなく、「あわれみ」が必要です。
釜石から大槌に行く途中に
鵜住居の防災センターは、本当は津波の避難所じゃないんですけれど、そこへ逃げる避難訓練をしてたりもしたせいで、大勢そこに集まっちゃったんですよね。浸水区域からは外れてるはずだったんですけど、今回の津波は想定外で、そんなのお構いなしでしたでしょ。
200人以上の人がそこに逃げ込んだところへ、水が一気に流れ込んできて、2階の天井まで水に浸かりました。その2階の天上から10センチくらい下に、そこまで水が来たという泥の筋があってですね、カーテンにつかまった人たちが、そこに口を出して生き延びた。カーテンにつかまって、天井との隙間の空気で生き延びたんです。生き延びたのは26人。他のおよそ200人は亡くなりました。と言っても、センター内で遺体で見つかったのは60数名。あとは外に流されていった。
そんな現場が今も残っていて、そこに祭壇がある。「家族を亡くしてつらい」「私だけ生き延びてごめんなさい」、そう思う人たちが、たくさんの花を手向けて、お供え物をしたり、お手紙を置いたりしている。十字架もありました。
でも、そこも、10月には取り壊されることになりました。遺構として残したいという声もあったんですけど、見るのもつらいという遺族も大勢いて。
だんだん、そうして日々は過ぎていくけれども、心の中の傷は、ちっとも癒やされていない。いや、かえって、世間から忘れ去られて、つらい気持ちを理解してもらえず、誰ともつながれない孤独感が増して、「神はすべての人を愛しておられる」なんていう福音、とても耳に入ってくる余地がない。・・・そんな方が大勢いる。
そういう現場にですね、教会のベースのスタッフたちが寄り添い続け、ボランティアたちが通い続けているんですよ。「なんとか寄り添って、ひとりでも癒やして差し上げたい」「少しでも立ち直るお手伝いをしたい」「『あなたも救われている』という福音に、いつの日か気づいてもらいたい」、心の奥でそう祈りつつ、現場でず〜っと奉仕し続けているベースの人たち、頭下がりますよ。
私は、あの人たちを応援するのが使命だと思っています。直接仮設に行って宗教的なことを語ったりはできないわけですけれど、「あのベースを応援すれば、きっとつらい思いをしている人たちのうちに素晴らしいことがたくさん起こるに違いない」とそう思って、何度も何度も行っては、彼らを応援して、励ましてまいります。・・・素晴らしい人たちですよ。彼らを見ていると、ホントに、ここにキリスト教の希望があるなと思える。
周りのボランティアベースがだんだん引き上げていく中でも、釜石ベースなんか、これからって感じで、NPO法人を立ち上げたんですよ、この前お話したとおり。それは、ベースを支える援助金もやがては底をつくだろうから、今のうちに自立して、何らかの収益活動をしながら、地元で、ここから新たに始めていこうっていうことなんです。応援しようじゃないですか。
前々回行ったとき、私の顔を見るなり、ベースの責任者が「神父さま、お話があります」ってやって来られて、「ワゴン車1台!」って、(笑)言われたので、皆さんのご協力で費用を集めて、前回、1台どころか車2台分をお届けしたわけですが、そのワゴン車、大活躍していましたよ。ホントにうれしかったですよ、皆さんの優しい気持ちが、ちゃんと活躍している姿を見るのは。
ベースの人がワゴン車運転して、ボランティアたちをみんな乗せて、次々と仮設住宅に運んだりしてました。現場に私も立ち寄りましたけれど、仮設の周りの草刈りしてるんですよ。みんな汗まみれになって。仮設の人たちはみんなホントに感謝しててね、「ありがとうございます!」って、ボランティアたちに豚汁振る舞ったりしてるんです。うれしいじゃないですか。都会から来た若者たちと交流しているんですね。
で、今回、その後の義援金をお届けに釜石に行きましたら、ベースの責任者が「神父さま、お話があります」。(笑) 「ワゴン車もう1台!」って言われたわけじゃないです。(笑)
今回はですね、こういうご依頼でした。
「息長く、寄り添い型の支援を続けるためにNPO法人を立ち上げたけれども、本部からの援助金は、やがて底をつく。運営資金が必要だ。もちろん、自分たちで収益事業をするなど、自立して運営する計画は立てているけれども、やはりなんといっても会員の会費が基本だ。とりあえず、最低でも300人の会員が欲しいけれども、まだ100人しかいない。ぜひ、神父さまのお力で会員を増やしていただけないか」と、そう言われて、帰ってまいりました。
私はその場で、「わかりました。会員100人、増やしましょう」と申し上げました。・・・そして、ふと気づくと、ここに100人くらい、いるんですよね〜。(笑)
入会金は2千円。「正会員」は、年会費1万円。これは総会に出るような会員ですね。もちろん出なくてもいいんですけど。
「賛助会員」は、会費でお支えする。年会費3千円。
二つの会員があります。・・・そして本日、お出口には、振込用紙も用意してあります。(笑)
会員100人、可能ですよね? みんな「遺産」持ってますし・・・あっ、首振ってる人いますけど、そんなにないですか? でも、「神さまの前に豊かでありたい」、私たちは心からそう願っているわけですから。「あわれみ」が、第一です。神さまの愛を
実は、釜石ベースで、笑われたんですけれども、「神父さん、9月のカリタス釜石の総会、ぜひ来てください」と言われて、「・・・すいません。実は私、まだ会員になってないんです」。(笑)
ここに自分の怠慢を告白し、今日、まさにその「今夜」の前に、皆さんと一緒に会員になることをお誓い申し上げて、(笑)説教とさせていただきます。(※3)
【 参照 】
※1:「先々週の説教」
2013年7月21日 年間第16主日「神は、すべての人を救ってくださる」 → http://goo.gl/67D2yp
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※2:「主がすべてをゆるしてくださらなければ、この世は存在できないでしょう」
・ 「教皇フランシスコの2013年3月17日の「お告げの祈り」のことば」(カトリック中央協議会)
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※3:「カリタス釜石」の会員募集!
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