2014年5月25日復活節第6主日
・第1朗読:使徒たちの宣教(使徒言行録8・5-8、14-17)
・第2朗読:使徒ペトロの手紙(一ペトロ3・15-18)
・福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ14・15-21)
【晴佐久神父様 説教】
先週の主日ミサの合同転会式で、7名の方が、カトリック教会に転会されました(※1)。
仲間が増えるというのはうれしいことです。新しい信仰の家族をお迎えしたということで、歓迎のしるしとして、ミサ後の軽食サービスのときにね、転会した7名だけ、ちょっとお花なんか飾った特別なテーブルを囲んで、ちょっとおいしいもの並べて(※2)。 今日も、転会した皆さんが来られてますけど、先週、おいしかったでしょ? 他の信者の皆さんは300円払ってサンドイッチでしたけど、転会者は無料でちらし寿司。(笑) でっかい小羊のケーキもありました。あれもおいしかったですね。「小羊のケーキ」っていっても、小羊の「かたち」のケーキですよ、もちろん。(笑)
転会してきた方にこうして大サービスするのは、後でしっかり元を取るということで。(笑) 実際、もう早速、「典礼奉仕してください」って頼まれてる人も、「教会学校手伝ってください」とか言われてる方もいましたしね。
なんにせよ、こうして仲間が増えていく。・・・うれしいことです。どうぞ、これからカトリック信者として、 何よりも秘跡を大切にして、教会とひとつになって生きていっていただきたい。
その、先週転会した7名の中のひとりの奥さまが、昨日の入門講座に、ご主人と一緒に来られてたんですけど、「祝福のお祈りをお願いします」って、十字架を二つ差し出したんですよ。
この奥さまは、プロテスタントの教会で十数年前に洗礼を受けて、その教会に通っていたんですけど、何よりも彼女が願っていたのは、愛するご主人の洗礼なんですね。だけどご主人、何度教会に連れて行っても、ちっとも洗礼を受けたいと言わない。彼女は一生懸命、毎日、毎日祈っていたんですけれど、ご主人が洗礼を望む気配は全然なく、もう無理なのかなって、
そんなときに、カトリック多摩教会を知って、もしかしたら何かきっかけになるかもと思って、去年、連れて来られたんですね、ご主人を。で、二人で入門講座に出たわけですけど、その最初の日に、ご主人は福音を聞いて心動かされ、キリスト教の真の普遍性に目を開かれて、「これは本物だ。この教会に通う」と言いだし、ほどなく「ぜひ洗礼を授けてください」ってことになっちゃった。まあ、何て言うんでしょう、「効き目があり過ぎた」ってことになるんでしょうか。彼は熱心に入門講座に通い続け、毎週のように福音に感動し、ついに今年の春、洗礼を受けたんですよ、この教会で。
で、そうなると、奥さまはあちらの教会、ご主人はこちらの教会、ってことになっちゃう。でも、実は奥さまはもうすでに、ずっとご主人と一緒に多摩教会の入門講座とミサに通い続けていて、カトリックが大好きになっていましたし、ご主人の洗礼を本当に喜んでいて、まさか自分の人生で、夫と一緒に、こうして教会に通う日が来るとは! って、喜んでいたこともあり、先週の転会式ってことになりました。
今では、おうちに十字架コーナーというか、いわゆる家庭祭壇を置いていて、朝な夕なにそこで二人で祈るのが、ホントに至福のときだと。今では車の中でも讃美歌が流れていると。「こんな幸せはない。どれだけ感謝してもし足りない」そういうお礼状をいただきました。
で、その二つの十字架ですけど、このたびの奥さまの転会式で、二人ともカトリック信者になったわけですね。それで、その記念に、十字架を二つ作りました、と。銀色のちっちゃい首から下げる十字架ですけど、「これを祝福してほしい」と言って、二人でやって来たわけです。
ところが、実はこの十字架、聞けば、二人の結婚指輪をそれぞれ溶かして、十字架に
私、ちょっと感動しまして、二人に申し上げました。「ああ、それはいいことをした。まさに意味深いしるしになりましたね」と。
カトリック教会においては、結婚は秘跡ですね(※3)。 秘跡ってのは、「目に見えない神の愛」の「目に見えるしるし」ですから、その本質は、人間の愛とか決心とか以前に、まずは神の愛であり神の選びなんですね。洗礼でも聖体でも、神の愛によって、神が授ける。結婚も、神が出会わせ、神が結んで、その二人を神がご自分の愛の表れとする。これがカトリック教会の結婚観です。だから、「神が結んだものを、人が分けることはできない」(cf.マルコ10:9)っていうイエスの宣言を、司祭は結婚式のときに言うわけですけれども。
そうするとですよ、信者でないときに結婚した夫婦が、その後に両方信者になるとどうなるのかっていうことですけど、これは、二人とも信者になった時点で、その結婚はカトリックの「秘跡」になるんです。
だから、ご主人がこの春洗礼を受け、奥さまが先週転会した、そのときに、この二人は、カトリック教会の秘跡としての結婚になる。・・・これが私たちの信仰です。
このお二人の場合、結婚したときは二人とも信者ではありませんでした。ですから、この二人にとっての結婚指輪は、単なる「二人の愛のしるし」だったんですね。
それが「悪い」って言ってるんじゃないですよ。「結婚指輪は二人の愛のしるし」って、それ自体はいいことです。だけどもしそうなら、二人の愛がなくなったら、もうその指輪は「しるし」としての意味がなくなるわけですよね、理屈からいうと。
しかし、カトリック教会でも指輪の交換なんかしたりしますし、「これは、私たちの愛と忠実のしるしです」みたいなことを、二人に言ってもらったりもしますが、本当を言えば、二人の愛よりも重要なのは神の愛であり、神の選びであって、秘跡としての結婚の場合は、指輪にもそのような神の恵みのしるしとしての意味が込められている。だから、交換の前に司祭は、「教会はキリストの名によってこの指輪を祝福します」と宣言し、「この指輪を神さまが祝福してくださいますように」と祈って、聖水で聖別したりするんですね。
結婚の秘跡は、「二人の愛のしるし」である以前に、「神の愛、神の恵みのしるし」なんです。・・・で、神の恵みが消えることはあり得ない。
だから、二人がかつて、洗礼前の結婚のときに自分たちの愛のしるしとした指輪を、二人ともカトリック信者になった段階で溶かして、十字架に鋳直して、神の愛のしるしとして、首からかける・・・ってこれ、ホントに、私、シンボリックな行為だと思ったし、「いやいや、なかなか美しいこと考えたもんだな・・・」と思って感心いたしました。
もちろんその場で祝別して、お二人にお渡ししましたけれども。
今日、イエスさまが、「聖霊が私達と永遠に一緒にいてくれるようにする」っていうようなことを言ってますけども(cf.ヨハネ14:16)、神さまの一番の性質は、「私たちと共にある」ですよね、インマヌエル、「神はわれわれと共にある」(※4)。
一緒にいるんです。常に一緒にいる。永遠に一緒にいる。・・・これを「神」と呼ぶ。
そうでない神なんかは、神じゃない。
この、神と私たちが一緒にいるしるし、これが「秘跡」なんですよね。それが「キリスト」ってことだし、それが「教会」ってこと。今日も、私たちが集まって一生懸命歌ったり、まごころからパンを食べたりするのは、「神が一緒にいる」っていう最高の恵みの、しるしとしてなんです。
この夫婦が、指輪を鋳直して十字架にして首からかけるって、これは何をしているのかっていうと、「神が一緒にいる」という究極の信仰を、お互いを通して受け入れるっていうこと。・・・夫婦って、そういうものなんですよ。相手を通して、「神が共にある」ということを受け入れる。あるいは、自分があなたと一緒にいることで、「あなたと共に神がいるよ」という証しとなる。そう考えると・・・素晴らしいですね、夫婦って。
さらに言えば、およそすべてのキリスト者は、どんなときも共にあることで神が共にいることを表して、神の愛のしるしとなっているんです。つまり、教会そのものが秘跡なんです。
夫婦はお互いと結婚したようでいて、実は神と結婚したんですね。
洗礼は、教会と結ばれたようでいて、実は神と結婚したんですね。
これはもう、永遠なるもので、決して変わることがない。
「永遠に一緒にいてくれるようにする」とイエスさまは約束してくださった。「神さまが永遠に一緒にいてくださる」っていう、この信仰ほど安心で、私たちにとって励ましとなり、あらゆる試練苦難において助けとなる信仰はないんじゃないですか?
ひとりぼっちじゃない。一緒にいてくださる。
だから、「どこにいるんだ、神さま! 神なんてどこにもいないよ〜!」って思うようなときにこそ、秘跡を思い出すんです。洗礼の秘跡、結婚の秘跡。あのとき、パン食べたじゃないかと、あのとき、私たちはお互い、神に触れる思いで受け入れ合ったじゃないかと。
秘跡ほど尊いものはない。・・・一緒にいるしるし。
ですから、皆さん、ひとりぼっちでいる人、悩んでいる人と、一緒にいてあげてください。キリスト者が一緒にいるというのは、神が一緒にいるということなんですよ、もう。何か気の利いたこと言わなくてもいいです。そばにいて、隣りにいるだけでいいんです。・・・一緒にいる。
そうすれば、神さまご自身が、その、一緒にいてくれるキリスト者を通して、いろんな働きをする。
転会した奥さまだって、そうだったでしょう。十何年間か、ずっと一緒にいて、祈り続けて、そして、どうしても、このご主人に、「何とか信仰に導く可能性はないか。・・・そうだ、あそこに行ってみよう!」って、ホント、無理やりのように連れてきたわけですよね。で、そこで本当に福音が語られていれば、もう一瞬で、「ああ、これが本物だ!」と、ご主人は洗礼を受けるに至る。
この場合、この奥さまが、このご主人にとって、「神さま」なんですよ。ずっと一緒にいる。
「一緒にいる」って、やっぱり、その相手の気持ちを思い、相手の本当の救いを願い、相手に奉仕し続けるってことですから。・・・一緒にいるっていいことですね。
どうぞ、悩んでいる人と、皆さん、一緒にいてください。そして、秘跡のもとへ、一緒に来てください。
これ、前から申し上げたかったんですけど、何か悩んでいる人に、「あら、それじゃあ、いい教会あるわよ。あの教会に行ってみたら?」って勧める人がいますね。あるいは、「わかりやすいお話する神父さんがいるのよ。あの神父さんの入門講座に出てみたら?」って勧める。・・・それって、悪いことじゃない。
それでもいいんだけど、本当に一緒にいようとする人だったら、こう言うんじゃないですか。
「私と一緒に、入門講座に来ない?」
・・・「あなた、あそこに行きなさい」って、背中を押すんじゃなくて、前に立って、その人の手を引いて、「私と一緒に行きましょうよ」って。これですね。
ミサだろうが、入門講座だろうが、何でもいいです。たとえば今度の、「心の病で苦しんでいる人の夏祭り」(※5)、7月6日ですけど、「こういうのがあるのよ、行ったら?」って言われても、不安じゃないですか。実際その時になったら、「やっぱり私は無理かも」ってやめちゃうかもしれない。でも、「一緒に行きましょうよ」って連れて行ってもらったら、安心ですよね。「私は連れられて来た」っていう、ちょっと安心な気持ちで、そこに行けますよ。
そうして、人と人をつなぐ、人と教会をつなぐ、人と神をつなぐ。これはもうキリスト者の特権というか、ミッションというか。夫婦もそう。キリスト者同士もそう。一緒にいることで、この世界を救っていける。私たちは、「神が一緒にいる」っていうことの、目に見えるしるしなんです。
教会は、ともかく一緒にいようとする。
私、去年、ポール・マッカートニーのコンサートに行きましたっていう話、しましたよね(※6)? 実はポール、先日また来たんですよ。でも、体調悪くて、全公演中止になっちゃったんですよね。ファンたちはホントにがっかりして、国立競技場の前から去っていく大勢のファンの写真が新聞に載っておりましたけど。・・・実はあの中に、私、いたんです。(笑) ・・・すいません。
ただ、ただですね、私、前回も本当に素晴らしいコンサートだったし、今度もきっといいコンサートになるだろうから、みんなを喜ばせたいと思ったし、このコンサートを、何かいいことが始まるきっかけ、しるしにしたいって、そう思ったから、チケット3枚買ったんです。もちろん私は行くわけですから、あと二人誘えるわけで、この二人を選んでチケットをプレゼントすれば、その二人を出会わせることができる。・・・これ、おもしろいですね。
時々私、それやります。芝居とか、コンサートとかね。3枚買う。で、2枚は、お互い知らない人同士を連れて行くと、二人とも感動しますし、話がはずみますし、その後、知り合いになるんですよね。「あのとき、コンサートで初めて会いましたね」って。
で、ひとりは、いつかもちょっとお話した、進路のことで思うようにいかず、ある試験に落ちて、荒れて、一週間、この教会に引きこもってた青年がいる。ほ〜んとにすさんでましたけど、今はだいぶ持ち直した。信仰を言葉で表現する、神学的な資質があって、良い経験と先生にも恵まれていて、でも、とっても傷つきやすくってさまざまなことで苦しんでいて、でも、きっと素晴らしいキリスト者に成長するって、私は信じて応援している。・・・その彼を誘ったら、「行きたい」と。
で、その彼に誰を出会わせようかって、思っていたんですけど、ちょうど訪ねてきた、私の本を出している出版社の編集者がいて、これがいい、と。この編集者は、神学的な素養があって、非常に豊かな信仰を持っていて、何よりも、若いころから人生のこと、信仰のこと、教会のことで悩んで、苦しんできた人だから、彼にピッタリだ、と。これまで、いろんなことにぶつかりながらも、教会のために働こうっていう宣教の熱意をすごく強く持って、今やキリスト教の出版社まで始めて、何度もつぶれそうになりながら乗り越えてきてるっていう、バイタリティーある、私の大切な友人ですけれども、「この人と彼とだったら!」って直感したんです。
で、訪ねてきたときに「ポールのコンサート行きませんか?」って誘ったらね、その編集者、喜んでね、なんと、涙ぐんじゃったんですよ。「こんな幸せが自分の人生に訪れようとは!」って感じで。
・・・っていうのは、彼は高校生の時に、大ファンのポールのチケットを買ったのに、彼が麻薬所持だか何だかで、日本に入国できなかったっていう事件があった。ご存じですか(※7)? で、全公演が流れちゃった。
ホントに楽しみにしてたコンサートが、高校生の時に行けずに流れちゃった。それが巡り巡って、神父さんから、チケットもらって、ポールのコンサートに行けるなんて!・・・ってことですね。「ああ、頑張って生きててよかった!」みたいな感じになっちゃって、涙ぐんじゃって、私もまあ、うれしくなりましたけど。さてその3人、国立競技場にやってきたわけですが、これが、中止・・・。(笑)
まあ、がっかりはしましたけど、しょうがない。仕方ないんで、まだ日も明るいんで、信濃町の駅前のカフェのテラス席で3人でおしゃべりしたんですけど、これが実にいい出会いになり、いい話し合いになったんですよ。人生について、信仰について、教会の未来について。もう、時間たっぷりありますから。(笑) コンサート3時間分、ず〜っとしゃべってて、そして最後には、二人意気投合してました。編集者は、若い彼に自分の体験談や人生観を熱弁してね、「ちょっとしゃべりすぎたかなあ、年寄りはまったく・・・」なんて言ってましたけど、若い彼はとっても心動かされた様子でね、励まされてましたし、アドレスなんか交換し合って。帰るころには、
「これ、ポールのコンサートより、よかったかも」って。(笑)
まあこれ、小さなひとつのエピソードですけど、キリスト者って、人と人を出会わせる、人と教会を出合わせる、人と神を出会わせる、ともかく一緒にいるためにあらゆる工夫をし、チャレンジをすることで、この世界を神の国に変えることができるんですよ。それはもう、一人ひとり、どんな方法でもいい。
ともかく、神さまの方は一緒にいたいんです、皆さんと。いつも、一緒にいるんです。誰とでも。でもそれにみんな気づいていない。それに気づくのは、人と人が一緒にいるときなんです。
まあ、ごくごく一部の聖人なら、砂漠の真ん中で、たったひとりでいるときに、神と出会って神と一緒にいるっていう観想生活に入るってこともあるかもしれませんけれども、われわれ凡人は、ほぼ100パーセント、人と人が一緒にいることで、われわれは、「神が一緒にいる」ということを味わい、「神が共にある」ということを伝えられるんです。
われわれ信じる仲間が一緒にいるっていうことは、神が一緒にいることの目に見えるしるしなんです。
イエスさまは、「弁護者」(ヨハネ14:16)っていう言い方で、神さまが私たちのすぐそばにいて、私たちにとって一番必要なことをちゃんと考えてくれてることを教えてくれました。
弁護士とか弁護者って、犯罪を犯した人、あるいは冤罪で訴えられている人のために、その人が本当に救われるために、できる限りの奉仕をする、援助をする。
神がそういう方だっていうのは、われわれにとって、うれしいですね。・・・神が共にいて、援助し、奉仕してくれたら怖いものなしですから。
世の人はその人を疑って、その人を責める。だけど、弁護士だけは、弁護者だけは、その人のことを信じて、弁護する。聖霊はそういう働きをしている。で、われわれもそんな弁護者になりうる。
この前、パソコンの遠隔操作の事件で、ついに犯人がつかまって、自白しましたけど、結果的に弁護士が裏切られたみたいなかたちになりました(※8)。 たぶん本人は「私は犯人じゃない、信じてください」って弁護士に言ったんでしょう。弁護士もそれを信じて、「あなたの弁護をする」って、できる限りのことをした。しかし実際は、弁護士にも、うそをついていた。
弁護士にしてみたら、「君がホントのことを言ってくれないと弁護できないんだよ」って、そういうことでしょ。本人がたとえ犯人でも、ホントのことを言ってくれればね、本人のために一番いいことができるわけですから。
だけど、あの犯人が、自殺まで考えて、でも最後はなんで犯行を告白したかっていうと、お母さんのためだって言ってました。お母さんが、彼にこう言ったんですって。
「私は、たとえあなたが真犯人だとしても受け入れる」
そう言われて、彼は、もう、この母をだまし続けることはできない、そう思って、真実を告白した。・・・やっぱり、親なんですよね。
「すべての人が、あなたを裁くとしても、私は、あなたを受け入れる」
・・・親ですよねえ。
神さまの思いって、そういうことでしょう。
「たとえ、あなたがどんな罪びとであっても、わたしは、あなたを受け入れる」
「なにがあっても、わたしはあなたと一緒にいる」
そんな神に出会いたいと思ってる人、どれだけいるでしょうね。
【 参照 】
※1:「先週の主日ミサの合同転会式で、7名の方が、カトリック教会に転会されました」
(参考)
・「天国での最初のひと息」(「福音の村」2014年5月18日<復活節第5主日〉説教)
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※2:「転会した7名だけ、ちょっとお花なんか飾った特別なテーブルを囲んで、ちょっとおいしいもの並べて」
下の画像は、その時の写真です。(クリックすると拡大表示されます)
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※3:「カトリック教会においては、結婚は秘跡ですね」
・「秘跡」
「秘跡とは、イエス・キリストの制定によるものであって、神の恩恵を示し、キリストの働きによってそれを与える「しるし」です。
秘跡には、洗礼、堅信、聖体、ゆるし、病者の塗油、叙階、婚姻の七つがあります」(『カトリック要理 (改訂版)』中央出版社、1979)p.167
(参考)
・『カトリック要理 (改訂版)』(中央出版社、1979)第31課「秘跡」、p.167〜169
・『カトリック教会のカテキズム』(カトリック中央協議会、2002)第7項「結婚の秘跡」、p.485〜501
・「結婚」(ラウダーテ:「山本(襄治)神父入門講座」)ほか
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※4:「インマヌエル、『神はわれわれと共にある』」
(参照)
・ 「戦略を練るがよい、だが、挫折する。決定するがよい、だが、実現することはない。神が我らと共におられる(インマヌエル)のだから。」(イザヤ8:10)
・ 「『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。』この名は、『神は我々と共におられる』という意味である。」(マタイ1:23)
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※5:「心の病で苦しんでいる人の夏祭り」
愛称は「ここナツ」。
「お祭りなんてにぎやかなこと、私はとてもじゃないけど、そんなの無理」とか、「自分もお祭りで楽しんだりしたいけど、そんな勇気はない」とか、そう思っているような、こころの病で苦しんでおられる方のための夏祭りです。(場所:カトリック多摩教会〈所在地と交通アクセス〉)
7月6日(日)、午後4時から「こころの癒やしのミサ」、午後5時30分から「夏祭り」です。
かき氷やフルーツポンチ、焼きそば、カレーにフランクフルトなどの食べものや、楽器演奏などもあり、楽しいひと時をご一緒したいと企画しました。
どうぞご遠慮なくお越しください。お待ちしております。(無料)
(詳細は追って多摩教会のホームページでもご紹介する予定です。)
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※6:「私、去年、ポール・マッカートニーのコンサートに行きましたっていう話、しましたよね?」
(参考)
・ 「あなたが会いに来てくれる」(「福音の村」2013/11/24説教)
・ 「『もう1枚』をお願いします」(「福音の村」2013/12/8説教)
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※7:「彼が麻薬所持だか何だかで、日本に入国できなかったっていう事件があった」
1980年 成田空港にて大麻不法所持で現行犯逮捕。日本公演中止。
(参考)
・ 「ポール・マッカートニー」‐〈来歴〉(ウィキペディア)
・ 「ポール・マッカートニーが本誌にだけ明かした“来日秘話”」(『週刊朝日』2013/10/25号)
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※8:「この前、パソコンの遠隔操作の事件で、・・・」
(参考)
・ 遠隔操作ウィルス事件 佐藤弁護士会見詳報・上/中/下など <MSN 産経ニュース>
・ <PC遠隔操作事件>佐藤博史弁護士会見詳報・上/下)<弁護士ドットコム>
(インターネット上の新聞記事は、一定期間後リンク切れになる可能性もありますので、ご了承ください)
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