2016年3月6日 四旬節第4主日
・第1朗読:ヨシュア記(ヨシュア5:9a、10-12)
・第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(二コリント5・17-21)
・福音朗読:ルカによる福音 (ルカ15・1-3、11-32)
【晴佐久神父様 説教】
最後のひと言、胸にぐっときますね。
・・・「当たり前ではないか」(ルカ15:32)(※1)
これ、「福音」です。
親が子どもを愛する。・・・それが「当たり前ではないか」
神が人を救う。・・・それが「当たり前ではないか」
「それが当たり前」・・・これは福音ですね。この、当たり前のことが、当たり前と思えないことが、まあ、いうなれば、「罪」ってことになるんでしょうね。神さまの愛、それが当たり前なのに、当たり前に感じられないで苦しんでいる状態、それを「罪」っていうんでしょうね。
洗礼志願者の皆さん、ぜひぜひ、「自分が神に愛されているのは当たり前だ」っていうこと、「自分が救われるのは当たり前だ」っていうこと、それこそが神の願いであり、全能の神のみ
皆さんは、「自分は救われて当たり前」って思えてますか?
「こんな自分は救われない」とか、「このまんまじゃ救われない」とか、もしそう思っているとしたら、そう思うことが「罪」なんですよ。「神が人を救う」のは、当たり前なんです。その「当たり前」が分からなくなって苦しんでいるなら、まず、何を置いても、その「当たり前」に気づいていただきたい。
・・・私たち、神さまの当たり前の愛によって、もう、「まっすぐ天国」なんです。
おととい、高齢者施設に入っておられる96歳の方をお訪ねしましたけれど、右手をまっすぐ天に上げて、「もうすぐです。もうすぐ行けるんです!」ってね、天国を指してましたよ。
彼女にとっては、もう、自分が救われるのは「当たり前」なんです。信じてるんです。「神がこの私を愛している。神の子なんだから当たり前!」って、なんら疑わない。この屈託のなさはいいですね。・・・「もうすぐなんです!」と。
ただ、私がもう来月転任することを、すごく残念がってくださって、「晴佐久神父さまに葬儀ミサをしていただきたかったのに・・・」って。(笑) あんまり残念がるので、つい、「まだ、あとひと月ありますよ」って、(笑)言いそうになりましたけど。でもまあ、彼女にとっては、誰に葬儀を司式してもらおうとも、ホントのこと言えばどうでもいいんですよ。どっちにしたって、自分は神さまのみ心によって、神さまのみもとに召される。彼女、それをホントに屈託なく、「当たり前!」って感じてる。この信仰は、本当に美しいですよ。・・・疑わない。
まあ、もっともこの方、この前、「天国の入り口まで行ってきた」って言ってましたよ。行ったら、天国の入り口に「番兵さんがいた」と。で、「この番兵さんが、ま〜あ、若くていい男だったのよ♡」って。(笑) ・・・屈託ないでしょ。なんか普通、そんなこと、ちょっと言いにくいっていうようなことも、信じている彼女にとっては何でもないんです。
浅草教会と上野教会に転任する話になったら、「浅草は
で、この
「若くていい男だったの〜」とかね、自分でパソコン開いてうな重を注文するとかね、まあ屈託がない。要するに、全面的に自己肯定してるんですよ。もちろん、自分に弱い点、悪い点、誤っている点があるのは当然です。それが分かってないわけじゃない。96年生きてきたんだから、戦争をくぐり抜けてきたんだから、どれほどつらい思いをしたか。ご家族を亡くしてね、どれほど寂しい思いをしたか。また、たくさんのね、思い出すのも恥ずかしい失敗もあることでしょう。でも、そんなこんなをぜんぶひっくるめて、「天の父は、わが子であるこの私を、愛してくださっている。天国にまで招き入れてくださる。親だから当たり前ではないか」と信じてる、その「当たり前感」っていうのをね、ちょっと見習ったらいいと思いますよ。
特に、今年の洗礼志願者の皆さんは、自分の弱さとか罪とかに傷ついて、苦しんできた方が多い。そんな方たちに、「いや、でも、それは
今日の福音書のイエスさまの話は、美しいたとえ話ですけれども、なんでこの
でもこれ、「罪びと」っていう種類の人がいるわけじゃないんで、正確にいうと、「自分は罪びとだと思い込んでいる人、他人から罪びとだと決めつけられている人」というべきですね。だって、現実に「罪びと」っていうジャンルがあるわけじゃないですもん。みんな、ただの「神の子」であるはずです。神に愛されて生きている神の子がいるだけなのに、そのうちの一部が「罪びと」で、一部は「そうじゃない」って
「罪びとが皆、話を聞こうとして」(cf.ルカ15:1)っていう、その「罪びと」とは、「自分が罪びとだと思い込んで苦しんでいる人」、あるいは、「ファリサイ派や律法学者から、罪びとだと決めつけられて、苦しめられている人」と、そういうべきでしょう。
現に、ファリサイ派や律法学者たちは、イエスに、「この人は罪びとたちを迎えて、食事まで一緒にしてる」って、文句を言いだすわけですね(cf.ルカ15:2)。これ、明らかに、ファリサイ派や律法学者たちは、「自分たちは罪びとじゃない」と思い込んでるわけです。
こういう、「罪びとである」とか「そうじゃない」とかっていう分け方は、まったくナンセンスです。「罪びと」っていうんなら、全員、不完全なる「罪びと」でしょう。「救われる人」っていうんなら、全員、完全なる神に「救われる人」でしょう。
問題は、「その神に救われている、その神に愛されているという、当たり前のことに気づけないでいる人がいる」っていうことです。
・・・これが「罪」の状態ですね。でも、罪の状態にあるからといって、救われないわけじゃない。そのことを、この美しいたとえ話で、イエスさまは、私たちに教えてくれているわけです。
この放蕩息子は、親の愛に全然気づいていません。だから、その親を離れて、「もっといいものがあるだろう」って感じで、「放蕩の限りを尽くして」(ルカ15:13)ますけれど、でもこれ、よく考えてみてください。この父親、飛び出していったこの息子を、罪びとだって思ってるでしょうか。・・・思っていません。父親は、息子をただ愛してるだけ。ただ心配してるだけ。息子の方は、その親の愛を知らない。知っていたら、出ていく必要はないですからね。
財産を分け与えられて、飛び出していっちゃうこの息子は、「当たり前な親の愛」に、気づいていない。だから飛び出していっちゃう。でも、飛び出していっても、親は当たり前に愛し続けている。・・・この状態ですね。これが、私たちの現実です。
これは、だから、親は罪びとだとは思ってないけれども、この息子は「親の愛を知らない罪の状態にある」っていう言い方はできるわけです。
で、たまたまおなかが空いたから、さすがに「パパのとこに帰ろう」って思う。でもこれ、「回心して、親の愛に目覚めた」ってわけでもなさそうですね。これ、腹減ったから帰って来るだけです。現に、この息子、「もう自分は息子と呼ばれる資格はない。雇い人でもなれば、飯が食えるんじゃないか」と、そういう理由で帰って来るわけですね(cf.ルカ15:17-19)。・・・ね、本当の意味では、親の愛に気づいてませんでしょ。
だからこれ、「回心した息子の話」じゃないんです。「回心しようがしまいが、バカ息子をとことん愛し続ける、完全なる親バカのたとえ」、「わが子を当たり前に愛する天の父のたとえ」です。
まあもっとも、この息子、帰って来て、パパに抱き締められて、ようやく少し気づき始めるんじゃないですか。「あれ? このおやじ、おれのことをぜんぜん怒ってない。罪びとだと決めつけてないぞ」と。そして最高の宴会のさなかに、いよいよ、「本当に自分は愛されてるんだ・・・!」って気づき始めるんじゃないですか。
でも、面白いことに、そんな風に「息子はついに親の愛に気づきました」なんていう話は、このたとえに出てこないんですよ。つまり、イエスさまは、そこに関心がないんですね。イエスは、人間の側で気づこうが気づくまいが、徹底して愛し、赦しつづけている、完全なる親の愛について話したいんです。
これ、お兄さんの方も、その意味では同じ穴のむじなで、お父さんと一緒にいながら、「お父さんは、私に何にもくれなかった」みたいなことを言ってる(cf.ルカ15:29)。それは、このお兄さんも、彼を愛している親の愛に気づいてないってことでしょ。・・・だから、文句言ってる。おんなじことですよ。罪の状態にある。
このお父さんは、弟もお兄さんも、生まれたときから、いやもう、生まれる前から愛しているし、飛び出していこうが、文句言っていようが、愛しているし、これからも、最後まで、愛し続けるでしょう。そんな天の父のことを、イエスはなんとか分からせたいんです。
・・・皆さんは、この愛に気づいてますか。 気づいてなければ、いまだ罪の状態にある。
「回心」っていうのは、神に愛されるために何かすることじゃない。「神が私を愛するのは当たり前だ」ってことに目覚めること、目覚めて本当に安心すること、・・・これを「回心」っていう。
長崎に行って、そんな話をいっぱいしまくりましたって、先週もお話ししましたけど(※2)、この「晴佐久ショック」は相当だったらしくて、その後もまあ、次々と手紙が来るんですよ。ホントに、「ありがとうございます」「感謝してます」ってね。
中にはね、「私は、正直に申し上げまして、このような方がこの世にいるとは、思っておりませんでした。二千年前のイエスさまが来られたかと思いました」って。(笑) ・・・だけどね、皆さん、そう聞くと、こうして笑うでしょ、大げさな〜って。でも、私に言わせれば、こうして神さまの「当たり前の愛」を語れば、聞いた人の心がホントに開かれて、「ああ、二千年前のイエスさまにお会いした!」って感じる、これ、実はキリスト教の基本なんですよ。「福音」っていうのは、そういうものですから。皆さんだって、イエスさまの語った福音を、そのまま、まっすぐに語れば、聞いてる人が「ああ、イエスさまにお会いした!」って感じてもらえる、そういうキリスト者であるはずなんですよ。
どんなにつらい状態にあっても、どれほど自分では救われないと思っていても、神さまはその人を愛しているし、必ず救ってくださるというイエスさまの福音を、イエスさまの口となって徹底してお話ししたということで、長崎の大勢の信者さんたちは、ホントに目が開かれる思いをしたし、「毎日でも聴きたい」って、三日でいいのに六日間来たっていう方も、大勢おられた。あるお手紙には、「神父さまと六日間しか一緒にいなかったのに、神父様が東京にお帰りになって、心にポッカリ穴が開いたような思いです」って書いてくださった方もいた。「まして、7年間一緒にいた多摩教会の皆さんは、どれほどショックでいらっしゃいましょう」みたいなことが書いてあったから、 「・・・そうでもなさそうですよ」って、(笑) お返事を書くべきかどうか・・・。
そもそも、今だって、「二千年前のイエスさまがここに来られて、福音を語っている」っていうのがミサなんです。そこから離れてしまうことこそ、「心にポッカリ穴が開く」思いでしょう。長崎からのおはがきに、「黙想会最後の御ミサが最高でした。天国にいるような、救われているような安心感で、すごいものを感じました。今振り返りますと胸がいっぱいで張り裂けんばかりです」というのもありました。これは当たり前のことです。イエスさまがそこにおられるんだから。「確かにここにイエスがおられて、福音を聴けた」という体験、「当たり前な神の愛を知った」という体験、「ミサで天国の安心感を味わった」という体験、そのような喜びを知ったならば、もしもそれが失われたなら、「心にポッカリ穴が開く」、これはもう、ホントにそうだと思う。
いよいよ帰るとき、長崎の空港まで信者さんが送ってくださったんですけど、「それじゃ、ここで」ってお別れして、ちょっと時間があったから、コーヒーを飲んだんです。飲み終えて出て来たら、別の信者さんが、私を探してウロウロしてるんですよ。保安検査場の前で私をつかまえて、「ああ、よかった、お会いできた!」って。お話を聞けば、その方の身内に、うつ病を患っている方がいるんだけれども、そのことで家族みんながとっても苦しんでいる、と。
「家族の間がぎくしゃくして、気持ちがすれちがって、とてもつらい状況の中、ただ暗い気持ちで、ただ恐れていました。でも、この黙想会で勇気を頂いたおかげで、この現実ときちんと向かい合うことができた。勇気をもって家族の間でちゃんと話したら、素晴らしいことが起こった。わが家に救いが訪れた。そのことを、なんとか報告したくって、やって参りました」って。長崎の市街から空港まで、結構遠いんですけど、わざわざそれを言いに来てくださった。
神さまの「当たり前の愛」を、当たり前に伝えれば、奇跡が起きるんです。
「神さまは、あなたを、愛しています。どんなにうつで苦しんでいようが、どれほど罪深くダメな人間だろうが、神さまは、
・・・この福音を、やっぱり私たちは、キリスト教の本質として、ちゃんと聴いて、信じて、伝えていかなければ。
洗礼志願者の皆さん、これが、皆さんの使命でもありますよ。自分が救われたんなら、そのことをひと言、誰かにも伝えていこうという、使命でもありますよ。
洗礼志願者の皆さんは、ちょうど、放蕩息子が父親の所に帰ってきたような段階ですね。このままじゃダメだと思って、父の所に帰って来た。でも、本当に、神さまの愛を徹底して体験し、神さまの愛に徹底して気づかされるのは、この父に抱きしめられ、父の開いた「
「洗礼を受ける」っていうのは、この宴にあずかるってことです。
この宴で、「父のところ」の有り余る「パン」を頂いて、当たり前の愛に目覚めます。
私も、最後の洗礼式です。この聖堂で。 いつもの倍、水をかける予定です。(笑) しっかりと神の愛を受けて、 生涯、「神が私を愛するのは当たり前だ」という、その信仰から離れてほしくない。 ・・・よろしいでしょうか。
今日は「洗礼志願者のための典礼(※3)」ということですので、洗礼志願者の方は、前に出て来て並んでいただきます。「解放を求める祈り(※4)」というのと、
この方々、洗礼志願者です。土曜日のミサにもね、大勢来られましたので、今日はその一部ですけれども。横一列にこちらを向いて並んでください。
皆さん、この洗礼志願者の上に、神さまからの豊かな恵みと祝福を願いましょう。
「主、イエス・キリスト、あなたはこの人たちを選び、あなたの愛で満たしてくださいます。あなたが福音を告げ知らせたように、この人たちも、福音を告げ知らせる者となるように、特別の祝福、恵みをお与えください。
あなたの秘跡を待ち望む、この洗礼志願者に、あなたの霊を注いで強めてください。
私たちの主、キリストによって」(アーメン)
皆さん、お立ちください。ご一緒に、信仰宣言をいたしましょう。
【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)
※1:「最後のひと言、胸にぐっときますね。・・・『当たり前ではないか』」
2016年3月6日(四旬節第4主日)の福音朗読箇所
ルカによる福音書15章1〜3節、11〜32節
〈小見出し:15章1〜3節「見失った羊」のたとえ(15章1〜7節から抜粋)、11〜32節「放蕩息子」のたとえ〉
************
☆説教中の「最後のひと言」は、本日の福音朗読箇所の最後、ルカによる福音書の15章32節。
【 該当箇所あらすじ 】
放蕩の限りを尽くして身を持ち崩し、生きるのにも困って家に戻った弟を、父が手放しで喜び迎える姿に、兄は嫉妬して、その父に文句を言う。それに対し、父は、兄をこう諭す。
「子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか」(ルカ15:31〜32)
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※2:「先週もお話ししましたけど」
カトリック浦上教会では、2月21日(日)から26日(金)まで、四旬節の黙想会が行われ、今年は晴佐久神父が、黙想指導の司祭として招かれた。先週の説教では、次のような報告もあった。
【 2/28説教引用 】
「宣言してきた内容の本質は、ただ一つ。
『神は、ホントに愛だ。そして私たちは、今、愛されている。そのことをみんなにも伝えよう!』
非常にシンプルな、それだけなんですけれど、それは、浦上の皆さんにとっては、すごく大きな刺激になったようです。『晴佐久ショック』みたいな感じでしたよ」
(「本気で誘えば本当に来る」:「福音の村」2016/2/28説教 上から4段落目最後)
(参考)
・ 「本気で誘えば本当に来る」(「福音の村」2016/2/28説教/上から4段落目〜)
・ 「壁を壊して、橋をかける」(「福音の村」2016/2/21説教/下から3段落目)
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※3:「洗礼志願者のための典礼」
四旬節第1主日に洗礼志願者となった人がいる場合、教会共同体として支え、共に祈るために、四旬節第3、第4、第5主日のミサの中、説教の後で、「洗礼志願者のための典礼」が行われる。
説教の後、共同祈願の中で、洗礼志願者のために祈り、その結びとして、司祭は「解放を求める祈り」(※4)を唱える。
その後、司祭は洗礼志願者の頭に手を置いて、聖霊の働きを祈り、祝福を与える按手(※5)をし、さらに志願者たちの上に手を伸べて、祈りを捧げる。
また、洗礼志願者がいない共同体でも、洗礼志願者のための共同祈願を行い、結びに「解放を求める祈り」を唱えることで、洗礼志願者がいる共同体と心を合わせることが勧められている。
(参考)
・ 「典礼解説 四旬節」(カトリック中央協議会)
・ 『聖書と典礼』 四旬節第4主日C年 2016.3.6 / 6ページ下欄 (オリエンス宗教研究所) 他
・ 『岩波キリスト教辞典』(岩波書店、2008 )
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※4:「解放を求める祈り」
◎ 「解放を求める祈り」
光の源である神よ、
あなたは御子キリストの死と復活によって、
いつわりと憎しみの闇を破り、
真理と愛の光を私たちの上に注いでくださいました。
あなたに選ばれた洗礼志願者が闇から光に移り、
暗やみの力から解放されて、
いつも光の子として歩むことができますように。
私たちの主イエス・キリストによって。
アーメン
(参考)
・ 『成人のキリスト教入信式』(カトリック中央協議会、1976)
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※5:「按手」
司祭が洗礼志願者の頭に手を置いて、聖霊の働きを祈り、祝福を与える。
当日の「洗礼志願者のための典礼」より、「洗礼志願者への按手」
① ②
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