2014年11月23日年間王であるキリスト
・第1朗読::エゼキエルの預言(エゼキエル34・11-12、15-17)
・第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント15・20-26、28)
・福音朗読:マタイによる福音(マタイ25・31-46)
【晴佐久神父様 説教】
今読んだ、福音書の箇所についてお話しましょう(※1)。
羊と
・・・わけがあります。
27年間、奄美大島の無人島にキャンプに行っておりますが、最初に行った頃は、天国のように美しい島でありました。ところが、これが、だんだん荒れてきたんですよ。
原因は、山羊です。
私が初めて行ったときよりもさらに前ですけども、地元の人が無人島に山羊を放ったんですね。雄雌4頭だったそうです。これはもう、ほっといても、山羊は増えますから、増えたらその山羊を捕まえて、その肉を売ると。まあ、わりと、日本の離島なんかでは普通にやっていることです。
でも、以前小笠原でも大問題になりましたけど、山羊って、何でも食っちゃうんですね。天然記念物だろうがなんだろうが、貴重な植物を全部食っちゃう。そして、どんどん増える。増え過ぎて、あらゆる植物の芽を食い尽くして、植生が変わっちゃうんですね。緑がなくなっていく。しまいに、土の地肌が露出すると、崖崩れにまでなりますし。
この島は小さな島ですから、その山羊のおかげで、毎年行くたびにどんどん荒れてですね、ホントにもう、それはショックというか、悔しいというか。・・・何でも食っちゃうんですよ、あいつら。もう、何でも! 貴重な島ユリとか。見境なく。で、どんどん増えていく。
地元の人に、「あれ、どうにかならないんですか」って言うと、今はもう地元の人も高齢化で、山羊なんか捕らないんですって。だから、「捕まえて食ってもいいよ」なんて言われたんですけど、まあ、そんな簡単に捕まえられないんですよ、(笑) なかなか手ごわいんです。結構、・・・どう猛ですよね、野生の山羊って。角なんか生やしちゃって、怖いですよ。
追っかけたって、ピュ〜って逃げてって、パッと振り向いて、「ンメェ〜〜♪」とかって、(笑)悔しいったらありゃしない。(笑) 落とし穴作戦までやろうとしたんですけどね、もう、全然、無理、無理。
ところがですね、この山羊、増え過ぎると、食える草は食い尽くして、今度はだんだん食うものがなくなって、減ってくんですね。で、今年行ったら、全然見かけないんです。新しいふんも、まったくなかった。
島のきれいな丘を散歩するの、私、大好きなんですけども、いつも黒っぽい山羊のふんだらけで腹立ってたのが、今年は新しいふんが全然なくって、何年も前の白っぽいのがちょっと残ってるくらい。ついに、絶滅しつつあるんですよ。地元の人の話によると、「あと3頭、雌だけ残ってるようだから、多分もういなくなる、そうすれば植生も回復してくる」っていうことだったんで、まあ、ちょっと希望が見えてきたというか。
実際ですね、死んだ山羊の骨が、テント張ってる浜に、ゴロンと転がってたりするんですよ。なかなかワイルドでしょ。山羊の骨格そのまんま残ってて、きれいに食べた後の魚みたいに丸一頭の骨が、ゴロンと転がってました。浜では、丘ヤドカリがぜんぶ食っちゃうんですね、お肉は。
一緒に行った伊藤
そんなわけで、私は山羊については、勝手な偏見を持ってます。
強情で、自分勝手で、そして、・・・何ていうんでしょう、あの「一人でやってく感」。主人なんかいらないというか、頼らないっていうか。
羊は逆ですね。かわいいやつらなんですよ。
いつか、伊香保グリーン牧場の話、しましたけど(※3)、羊飼いがピーッなんて笛吹くと、犬に導かれて、みんなパーっと寄ってきてね、一頭もはぐれずに群れるわけですね。性格もおとなしくって、素直で、人間を主人のように慕って、人間に守られてることに、ぜんぶ委ねてる。
この感覚っていうのが、やっぱり、羊と山羊、決定的に違う。
イエスさまが、あの時代に、この羊と山羊のたとえを語ってるのは、間違いなくその感覚を反映させてのことであるのは、当然のことです。
つまり、羊は、羊飼いに自分のすべてを委ねてるし、飼われている羊も、みんな一つになって群れているし、いうなれば、お互いに信頼し合い、助け合い、共にいる。
で、片や山羊は、「俺は一人で生きてくぜ、誰の世話にもならないぜ」みたいな顔をして、誰にも懐かず、助けも求めず、見境なく何でも食っちゃって、結局、滅んでっちゃう。
・・・ね、分かりやすいでしょ? 羊と山羊の違い。
ただし、イエスさまのこのたとえを読んで、「俺の信仰、羊かな」「私、罪深い山羊になってないかしら」って気にするとしたら、ちょっと違う。確かに、最後に羊と山羊を、右だ、左だって分けるっていう話ですけど、これ、マタイ特有のたとえ話ですから。テーマは「羊でいきましょう」っていうことであり、裁きの線引きの話じゃない。ですから、「私は左だ、滅ぶかも」「私、右に行けるかしら」なんて心配するとしたら、あまりに子どもっぽい読み方ですね。一人の人間が、完全に羊になったり、完全に山羊になったりするはずもないし、そもそも神さまは、決して線を引きません。神さまは、すべての人をひとつの群れとして養っているし、「一匹も外さないよ」って言ってるんだし。第2朗読(※4)にも、「すべてが
こう考えてください。
「私たちの心の中に、山羊と羊がいる。
イエスさまは、その山羊を服従させ、すべての人を羊のように完成させてくださる。
だから、日々、羊のようにイエスを信頼して、羊のように生き、完成の日に備えよう」って。
・・・私たちの内なる羊と山羊。
「羊」なる部分がかけらもない人なんてありはしないし、逆に誰もが「山羊」を抱えている。
「山羊」なる自分。自分一人で生きているかのように思い、自分で自分を救おうと思い、自分の力で何とかしようともがき、人を信頼して交わることをせず、羊飼いにすべてを委ねるという喜びを知らないでいる。
・・・山羊的なる部分、あるはずですよ。皆さんの心の中に。
私たちは誰もが山羊であり、羊であるんです。
イエスさまが、「食べさせてくれなかった、飲ませてくれなかった」(cf.マタイ25:42)って言ってますけど、山羊的なる心のことを言ってるんです。自己本位な心は、「食べさせたり、飲ませたり」ってこと、しないですから。「しない」っていうか、気づかないんだと思う。「一緒にいる」っていう感覚がないんですよ。「つながってる感」がない。
羊だったらこう、みんなで身を寄せ合ってね、「私たち、一緒にいる」って分かってるし、一緒に水飲み場に行くし、「つながってる感」がある。山羊はもう、個人主義ですから、自分一人でなんとかしてるんで、逆にいえば、他人がのど渇いていようが、裸でいようが、どうでもいいんです。「私とは関係ありません」っていうことだから。
ここが一番、「羊的」「山羊的」の違うとこじゃないですか?
皆さんも時には、「あっ、この人かわいそう。助けてあげよう」って思ったり、「この人とはご縁があるから関わろう」と思ってつながったりしている。そのときって「羊的」なんですよ。
でも時に、「もう、人のことなんか構っちゃいられない。私はこれで、いっぱい、いっぱい」って思ったり、「どうせ最後は一人よ、誰も信じられない」とかって思うのって「山羊的」なんですよね。
イエスさまは、最後には、この山羊的なる部分を、ぜんぶ羊的なるものに変えてくださいます。それを私たちは信じて、協力します。もっと羊になれるように工夫しますし、実際に羊どうし集まって祈ります。まあ、その意味では、「こうしてミサに集まっている私たちなんか、ホントに羊の群れだ」、そう思ったらいいと思う。
現に、今日も、ミサが始まるとき、集会祈願(※5)の最後の所で、ちょっと感動したんですよ。ぐっときた。祈願の最後、「主、イエス・キリストによって」と言うと、いつものとおり皆さんが、
「アーメン!」
って、一緒に応えたでしょ。ちょっとこう、聖堂が「どよめく」っていうか、「アーメン!」って響き渡りました。確かに、この世に、信じる神の子の声が、「アーメン!」って。ああ、すごくいいなあ・・・って、なんだか突然、感動しちゃいました。
声を合わせて、みんなで「アーメン」って言うのは、そんなの当り前だから、皆さん、「アーメン」「アーメン」って普通に言ってて、何とも思わないかもしれないけども、私、皆さんが声をそろえて、羊飼いにすべてを委ね、「天の父を信じます」という思いで、一斉に「アーメン」って応えている姿に、なんか羊が一斉に動いているような、小魚の群れが一斉に泳いでいるような、空の鳥たちが一斉に方向を変えるようなつながりを感じて、ああ、これだ・・・って。
私たちがひとつにつながって「アーメン」って言っている姿こそ、互いに仕え合ってる姿だし、助け合い、訪ね合う私たち自身が、キリストっぽくなってるんですね。どっかよそからキリストが来るっていうんじゃなく、私たちのこの一致こそが、もうキリストになっている。・・・「ああ、これこそ教会、これこそ神の国、ほらここに始まってるぞ!」っていう、そんな思いで、うれしくなりました。
「羊の群れになる」っていうのは、そんな感じじゃないですか?(cf.ヨハネ10:16)
誰とであれ、つながってれば、ごくごく自然に、「あら、のど渇いてるの? どうぞ」「おや、病気になったの? お見舞いに行こう」って、別に義理でも、義務でもなく、ごくごく自然にしますよね。つながってるから、普通にそういうことになる。そのとき私たちは、お互いに切っても切れない「キリストの体」になっていてね、それが完成していくのが「神の国」ってことじゃないか。そのしるしが「教会」ってことじゃないか。
私たちが一致して、「アーメン!」って言う瞬間っていうのは、ホントに美しい。
今日はこれから「転会式」をいたします。カトリック多摩教会は、日本広しといえども、おそらく唯一、「合同転会式」を定期的にしている教会であります。
今日は7人の方が、カトリック教会に加わります。
プロテスタント教会で洗礼を受けた方が、カトリック教会に入るときに、「転会式」というのを致します。キリストの教会の洗礼は一つですから、もう洗礼式はしません。ただ、カトリックの入信では、洗礼と堅信(※6)と聖体(※7)の秘跡(※8)を受けますから、今日は、「カトリックの信仰を守ります、信じます」という宣言を一人ひとりにしていただき、続いて、堅信と聖体の秘跡を受けていただく。
皆さんを「ようこそ、秘跡である教会へ!」と歓迎します。
・・・が、ただ、つい先日の入門講座で、プロテスタントの教会では、そういうのを「羊泥棒」というんだと、(笑)そう聞いて、「えっ? そういう言葉があるの?」と、みんなで大笑いしました。
「羊泥棒」・・・って、ねえ。(笑)失礼、甚だしい。別に、「泥棒」じゃない。盗んだわけでもないし、本人も盗まれたわけじゃない。同じ洗礼を受けた一つの教会なんだから、一つの囲いの中にいるんだし、一人の牧者に導かれてるわけで。あえて言うなら、「一つの囲いの中の、別の水飲み場に来ました」みたいな感じですか。羊にも、おいしい水を選ぶ権利がある。(笑)
「永遠の命に至る水」がこんこんと湧いている水飲み場に多くの羊が集まってくるのは、これは当然のこと。羊飼いは当然そこに導くでしょうし、ちゃんと湧いてるなら、どこの水飲み場だろうと構わないはず。
問題は、そこに、本当に永遠の命に至る水が湧き出ているのか。そこで、羊飼いの世話を受けているのか。一つの群れとして、お互いにつながって、信頼し合って、羊飼いにすべてを委ねることができているのか。そういう水飲み場であるかどうか、これは大きな問題ですよ。羊同士が争っていたり、水が飲めずに渇いていたり、牧者が羊を裁いたりしてたら、果たしてそこは主の牧場かどうか。
・・・あの、ごめんなさいね。かくいう私も、きっと誰かに苦しい思いをさせたりしていることもあるかとは思います。皆さんだって、お互いに責めあったりすることもあるでしょう。でも、だからこそ、私たちカトリック多摩教会は、「もっといい教会にしよう、本当に主の牧場として、永遠の命に至るおいしい水を飲める所にしよう、みんなで一緒にやってこうよ」って、それを目指しているのは事実です。
現に、多くの人が洗礼を受け、そして、さまざまなところから、この教会を慕って集まってきてくれる人がいるという事実は、まあ、そこそこ、良い水飲み場に育っているということじゃないですか。そこはやっぱりうれしく思い、誇りに思うべきことでしょう。
第1朗読(※9)をご覧ください。こういう牧場で私たちを世話しているのは、神さまですよ。もはや皆さんは、一人で勝手に、山羊のように生きているのではありません。羊のように群れて、神さまにお世話をしてもらっています。
「まことに、主なる神はこう言われる。見よ、わたしは自ら自分の群れを探し出し、彼らの世話をする。牧者が、自分の羊がちりぢりになっているときに、その群れを探すように、わたしは自分の羊を探す」(エゼ34:11-12)。
・・・ありがたいねえ。
16節、
「わたしは失われたものを尋ね求め、追われたものを連れ戻し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くする」(エゼ34:16)。
そうです。私たち、「失われたもの」じゃないですか。「追われてた」でしょう? 「傷ついて」いるし、「弱って」います。だから、神さまは、私たちを一つの群れにして、そして、導き、養い、救ってくださる。神さまがなさっていることです。
このミサは、もうまさに、神さまが働いていることの目に見えるしるしです。
「しかし、肥えたものと強いものを滅ぼす」(エゼ34:16)っていうのは、これは山羊的なるものを滅ぼすっていうことでしょうね。これは、「誰かを滅ぼす」っていうより、「私たちの中の山羊的なる部分を滅ぼしてくださる」っていう、そういう希望として読んでくださいよ。
そういう希望の話をしましょう。
去年、せっかく一つの群れとなるために洗礼を受けようとしていたのに、群れから外れちゃった人がいました。忘れられないです。彼はみんなから「まるちゃん」って呼ばれてました。19歳の大学生です。・・・このまるちゃん、去年の復活徹夜祭の洗礼式に並ぶはずだったんですけど、当日来なかったんですよ。去年、2013年は、受洗者26人でしたか。その時に受洗したっていう人、ここにもいますね? その年の仲間は覚えているはずですよ、まるちゃん。人気者でした。
金曜日の入門講座に来てました。1年以上通って、一緒に学び、教会の仲間になり、洗礼を希望し、司祭の面接も受けて、私は洗礼許可証にサインをしました。洗礼準備が進み、当日は洗礼盤を前にした席に名前も書かれ、受洗記念品の大きな聖書の扉には「祝洗礼」って、筆書きで私の署名も入れました。準備万端だったんだけれども、当日、まるちゃんは来なかった。
・・・どうしたんだろうって、みんな心配しました。電話しても出ません。
例年、当日都合が悪くなった人のために、翌日の復活祭でも洗礼を受けることができるように、翌日も洗礼式を準備します。・・・でも、翌日も来なかった。風邪をひいたりして翌日も来れなかった人のために、翌週、洗礼式を受けることもできます。・・・でも、翌週も来なかった。全然連絡も取れません。
まるちゃんは、そのまま、教会には現れなくなりました。こんなさみしい話、ありますか? 同じ羊の群れとしてね、「どうしちゃったんだろう?」っていう思いになります。何があったんだろうって。もちろん、神さまはね、誰でも、どんな事情でも、守り、導き、救ってくださると信じてますけれども、まるちゃん、もう少しで、神の愛の目に見えるしるしになるはずだったのに。
風の便りに、大学をやめて故郷の山口に帰ったと、そう聞きました。まるちゃんはその後、カンボジアの貧しい子どもたちのために働きたいと決心して、カンボジアに行ったそうです。そして、そのカンボジアで、本当に素晴らしい体験をいっぱい致しました。・・・すなわち、「人のつながり」ってやつですよ。「信頼関係を作って、人と人がちゃんとつながる喜び」っていう体験ですよ。
聞けば、去年、洗礼を受ける直前になって「やっぱり飛び込んでいけなかった」そうです。言ってもまだ19歳、いくら仲良くなった教会の人たちであれ、信じて飛び込んで行くのはとても怖いことです。こんな自分はまだとても信仰を生きていけないって、ひるんだんです。ひとたび恐れてしまったら、もう、自分の考えで頭がいっぱいです。自分の判断、自分の決心、自分の努力・・・。それこそ、自分の中の山羊的部分だけが肥大して、素直に羊の群れに飛び込んでいくことができない。
確かにね、群れに飛び込むっていうのは、勇気のいることではある。でも、「じゃあ、山羊で生きていけるか」っていったら、そうはいかない。・・・「山羊」は、いずれ、必ず滅びます。
彼もそのことは、本能的に分かっていたようです。カンボジアで真剣に奉仕活動に取り組み、素晴らしい仲間たちと、純真な子どもたちに囲まれて、人のつながりの素晴らしさを知り、謙虚に助けられることと、小さな自分を委ねることを、彼は覚えました。羊なる心を育てられたんですよ。
そもそも、まるちゃん、スタートからすごいんです。「孤児院で働きたい」って思いでカンボジアに行ったんだけど、普通はですよ、「孤児院で働きたい」っていったら、行く前にまず、どこの孤児院で受け入れてくれるか調べて、アポ取ってからいくわけでしょう? ・・・まるちゃんは、まずカンボジアに行って、空港で聞いたんですって。
「どこかに孤児院、ありますか?」(笑)
「それならタクシーに聞いてみろ」と言われ、乗ったタクシーの運転手に、「どこか、孤児院に連れてってください」って。
で、連れてってもらったけど、カンボジア語が分からない。それで、孤児院の院長に、身振り手振りで、「ここで奉仕させてくれ」と伝えたそうです。そうしたら、さすが院長、まるちゃんを信じて受け入れ、住む所と食事を与えて、8カ月間手伝わせました。
それこそが、彼が体験すべきことだったんです。自分の考えで自分で生きるだけじゃなく、誰かの世話になること。勇気を出して信じて飛び込み、信じられることでさらに勇気を持つ。それは、究極的には、「神がすべてを計らってる」ことを信じるってことであり、彼はまさにそういう真実を体験しに行ったようなものです。
おかげで、まるちゃん、そのカンボジアの孤児院で、大人気なんですよ。みんなから慕われて、スタッフからも信頼されて、もはや、そこではなくてはならぬ存在になりました。彼が呼びかけて、大勢の日本人が訪れるようにもなり、また、地元の貧しい子どもたちに日本語を教え始めて、これも大人気。今、正式な日本語の教師の資格を取る勉強も始めて、大活躍!
ついに彼は、ずっとカンボジアに住むことを決意して、手続きやその他で、いったん帰国することになり、・・・このたび、ひと月半ほど日本に帰ってまいりました。
日本に帰ってきて、ふるさとの山口で、まあ、いろいろと活動したわけですけれども、やっぱり気にかかるんですよ、カトリック多摩教会が。(笑) 帰国している間に、どうしてもあそこに行って、ひと言お詫びしなきゃならないと思ったんです。金もないので、ヒッチハイクで、ず〜っと東へ東へやって来て、名古屋に一泊して、またヒッチハイクで長距離トラックに乗って、ついに多摩市までやって来て、先週の木曜日に、アポなしで、・・・この人、「アポなし」が好きなんで。(笑) 突然現れた。
「あっ!まるちゃん!」
私、ホントにびっくりしたし、うれしかった。
そして、神のみわざに感謝しながら、即座に、その場で命令しました。
「まるちゃん、三日後の日曜まで、教会に泊まりなさい」
・・・本人、まだ何にも言ってないんですよ。あいさつも言ってない、「ごめんなさい」も言う前に、私、命令したんです。だって、どうしても、次の日曜のミサに出て、秘跡を受けてほしかったから。
それで、彼は木曜、金曜、昨日の土曜と、この教会に泊まりました。
三日間、私は徹底しておいしいお肉を食べさせました。(笑) そうやって他のどこにも行きたくなくなるようにしておいて、三日間たくさん話しました。彼は話してくれました。どうして洗礼を受けなかったか。つらかった思い。カンボジアのこと。人との出会いで変えられたこと。
いつしか21歳になった彼は、自信をつけて、見違えるように成長してました。
私は、神の選びの話をし、秘跡は人が受けるものではなく、神が授けるものだと話して、言いました。「今度の日曜日、洗礼を受けよう」と。
「え!? いいんですか?」と彼は言った。
「もちろんだ。私は、君の洗礼許可証にサインした。そして、当日待っていた。翌日も待っていた。翌週も待っていた。1年半待ったとしても、何でもない。今度の日曜日、ちょうど転会式がある。その前に、水をかけさせろ」(笑)
彼は、涙目で「はい」と言いました。
そういうわけで、今、ぼくの目の前に、まるちゃんがいます。こんな話聞かされて、泣いてます。これから、転会式に先立って、まるちゃんの洗礼式をいたします。
皆さん、よ〜く見ててくださいよ。・・・神さまがなさっていることです。
私たちは、つながらなければ生きていけません。
お互いに、飲ませ、食べさせ、着せ、泊め、見舞い、訪ねてあげなければなりません。
神さまが、そうしているから。
ちなみにまるちゃんには、飲ませ、食べさせ、泊めましたから・・・三つ、私、やりましたよ。(笑)
そして、今から最高の奉仕、「水をかけて」あげます。これは、神さまがなさっていること。神とつながること。誰ももう、この秘跡のじゃまをできません。こんな日が来るなんて・・・。
まるちゃん、
カトリック信者として、歩く秘跡として、カンボジアに帰ってください。子どもたちが待ってます。
つながりを失った子どもたちに、つながりをつくってください。
神さまが養っている羊たちを一つにして、神の国をつくってください。
君には、それが、できる。
洗礼式と、転会式を行います(※10)。
初めに、洗礼式を行います。洗礼を受ける方と代父の方は、前に出てください。
【 参照 】
※1:「今読んだ、福音書の箇所についてお話しましょう」
本日(2014年11月23日〈王であるキリスト〉)の福音朗読箇所は、
マタイによる福音25章31〜46節
〈小見出し:「すべての民族を裁く」より抜粋〉
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※2:「伊藤淳神父」
アシジの聖フランシスコ 伊藤 淳(いとう あつし)神父さま(1961年-)
東京教区司祭。
2010年3月7日司祭叙階。
目黒教会助任を経て、現在、清瀬教会主任。(2014年11月現在)
(参考)
・ 司祭紹介(カトリック清瀬教会ホームページ)
・ 伊藤 淳神父のページ(カトリック高幡教会ホームページ)
・ カトリック司祭 伊藤淳氏の「長い逡巡」からの脱却〔pdf〕(一橋大学広報誌「HQ」No.29より)など
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※3:「いつか、伊香保グリーン牧場の話、しましたけど」
「わたしも門から入りたい」(「福音の村」2014年5月11日説教)
(参考)
・ 「伊香保グリーン牧場」については、同説教の【参照】※1、または、伊香保グリーン牧場のホームページ(>>>こちら)をご覧ください。
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※4:「第2朗読」
本日(2014年11月23日〈王であるキリスト〉)の第2朗読は、
コリントの信徒への手紙一 15章20〜26節、28節。
〈小見出し:「死者の復活」より抜粋〉
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※5:「集会祈願」(既出 : 1 2)
カトリックのミサは、1.開祭 2.言葉の典礼 3.感謝の典礼 4.閉祭 の順に進められる。
ミサの導入部に当たる「開祭」はさらに、①入祭の歌、②あいさつ、③回心への招きと祈り、④あわれみの賛歌、⑤栄光の賛歌、⑥集会祈願から成る。
⑤の栄光の賛歌の後、司祭は会衆を祈りに招き、一同は、司祭とともにしばらく沈黙する。それは、自分が神のみ前にいることを意識し、自分の願いを思い起こすためである。
その後、司祭は「集会祈願」と呼ばれる祈願を唱える。この祈願によって、祭儀の性格が表現される。
教会の古くからの伝統に従い、集会祈願は通常、聖霊において、キリストを通して、父なる神に向けられ、三位に言及することばによって結ばれる。
(参考)
・ 『ともにささげるミサ-ミサ式次第 会衆用-改訂版』(オリエンス宗教研究所、2006年)
・ 「ミサについて」(カトリック東京大司教区>ようこそカトリック教会へ)
・ 「ミサの式次第-開祭の儀」(ウィキペディア)など
・ 「ローマ・ミサ典礼書の総則<暫定版>」p22「集会祈願」〔pdf〕(カトリック中央協議会、2004年)など
*******
ちなみに、本日(2014年11月23日〈王であるキリスト〉)の「集会祈願」は、以下のとおり。
「全能永遠の神よ、御子キリストによって造られたすべてのものは、再び、王であるキリストのうちに集められ、完成されます。主のことばに希望をおき、主を待ち望むわたしたちが、世の終わりまで朽ちることのない愛に生きることができますように。
聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン」
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※6:「堅信」(既出)
カトリック教会で、七つの秘跡(洗礼、堅信、聖体、ゆるし、病者の塗油、叙階、婚姻)のうちの一つ。聖霊の恩恵を与えて、洗礼による新しい生命を成長させ、信仰の証しをたてる力を与える秘跡。(『カトリック要理(改訂版)』p.174、中央出版社、1979年)
(参考)
・ 「堅信の秘跡」(『カトリック要理(改訂版)』中央出版社、1979年)
・ 「堅信の秘跡」(『カトリック教会のカテキズム』カトリック中央協議会、2002年)
・ 「堅信」(ウィキペディア)
・ 「堅信の秘跡」(Laudate「山本神父入門講座」) ほか
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※7:「聖体」(既出)
◎「聖体の秘跡」
カトリック教会で、七つの秘跡(洗礼、堅信、聖体、ゆるし、病者の塗油、叙階、婚姻)のうちの一つ。救いのいけにえであるイエス・キリストの御からだと御血とが、パンとぶどう酒の形態のもとに神にささげられて、信者の永遠の生命の糧となる秘跡。(『カトリック要理(改訂版)』p.177、中央出版社、1979年)
◎「聖体」
カトリック教会の用語で、聖餐式で聖別されたパンのこと。
その形態の中に復活の主キリストが現在すると信じられ、祈りと礼拝の対象とされている。特にカトリック教会の信仰生活と霊性に決定的な意義を有しているが、それだけにその理解も用語も歴史の中でさまざまに変遷した。
当初は聖餐式に参加できなかった人のために聖別されたパンが保存されていたものが、次第に食事の儀式である聖餐式から独立して、それ自体で「キリストの体」として礼拝の対象とされるようになった。
聖体はチボリウム(ラテン語:ciborium)と呼ばれる容器に入れられ、通常は聖堂の中央にある聖櫃(せいひつ)と呼ばれる箱に置かれるようになった。
今日に至るまでカトリック教会では、聖堂の中央部に聖櫃を置き、絶えず聖体を安置する習慣があり、聖体が安置されているしるしに聖体ランプと呼ばれるともし火が灯され、信徒がいつでも聖堂を訪れ、聖体の前で祈りを捧げることができるようになっている。
現代のカトリック教会では第2バチカン公会議による典礼刷新を経て、すべての聖体への信心を聖餐式に向けて位置づけ、聖餐において与えられた「キリストの体」の交わりを想起するものとして理解している。(「岩波キリスト教辞典」より抜粋)
(参考)
・ 「聖体」(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008年)
・ 「聖体の秘跡」(『カトリック要理(改訂版)』中央出版社、1979年)
・ 「エウカリスチア(聖体)の秘跡」p.403〜430(『カトリック教会のカテキズム』カトリック中央協議会、2002年)
・ 「聖体」(ウィキペディア)
・ 「聖体の秘跡1・ミサ、聖体の秘跡2」(Laudate「山本神父入門講座」) ほか
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※8:「秘跡」(既出)
秘跡とは、イエス・キリストの制定によるものであって、神の恩恵を示し、キリストの働きによってそれを与える『しるし』。
秘跡には、洗礼、堅信、聖体、ゆるし、病者の塗油、叙階、婚姻の七つがある。(『カトリック要理(改訂版)』(中央出版社、1979年)p.167〜169
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※9:「第1朗読」
本日(2014年11月23日〈王であるキリスト〉)の第1朗読箇所は、
エゼキエルの預言 34章11〜12節、15〜17節
〈小見出し:「イスラエルの牧者」より抜粋〉
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※10:「洗礼式と、転会式を行います」
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