憲法9条と神の国

【カトリック上野教会】

2016年11月6日 年間第32主日
・ 第1朗読:マカバイ記(二マカバイ7・1-2、9-14)
・ 第2朗読:使徒パウロのテサロニケの教会への手紙(二テサロニケ2・16~3・5)
・ 福音朗読:ルカによる福音(ルカ20・27-38、または20・27、34-38)

【晴佐久神父様 説教】

 11月、死者の月(※1)の第1主日のミサですけれども、いつも申し上げることですが、われわれが死者のために祈ることよりは、死者、正しく言えば「天を生きている方々」の祈りの方が大切です。彼らに祈られ、彼らに導かれ、彼らに愛されて、私たちはこの世を生きているのだということを忘れないようにする、それが今日のミサの意味でしょう。つまり、こっちから天に祈るというよりは、天に祈られているということに目覚めるミサ。
 天と地は、ちゃんとつながっています。天に生まれて行った方たちと、今まだこの世を生きている私たちとが、ホントに深くつながっていること、一つであること、時間も空間も超えて、真の命のうちに、今、現実につながっていること、これを忘れないようにする。とても大事なことです。

 私たち、お墓参りなんて行きますけれども、年に一度、ちょいと出かけて行って、墓前で手を合わせ、故人を思い起こすなんていうのは、まあ、おままごとみたいなもんです。やらないよりはやった方がいいのかもしれないですけど、向こうは、こっちがそんなことしようとしまいと、たとえすっかり忘れていようと、ず~っと祈ってる。・・・「向こう」っていうのは、一足先に天に生まれ出ていった私たちの大切なあの方、この方のことですけど、彼らは今も私たちのために祈っているし、働いているし、その意味で、ホントに深い交わりを持っているんですよ。それは、実は、生きている者同士より、よほど強い交わりなんです。この世で、たとえば妻だ、夫だなんていって一緒に並んでいたところで、実はお互いによく分かり合っていないような現実よりは、天の方たちとの透明で自由な交わりこそが、真の交わりだといってもいいくらい。

 三日前も、墓参に参りましたけれども、・・・多磨霊園にある浅草教会の方々のお墓です。線路際の谷中(やなか)の霊園から、線路拡張で多磨霊園に移された浅草教会の方々が、ある区画にまとまっているんですね。だから、そこにみんなで行って、順番にお墓参りをして回りました。
 まあ、それはいいんですけれども、いつも案内してくださる古参の方が、今年は体調不良で来られなかった。そうすると、どこに誰のお墓があるか、よく分からなくなっちゃうんですね。集まった人たちも、大体は覚えていて回れるけど、思い出せないお墓もある。「あと、どこだったかしら・・・、確か、こっちの方にあったわねえ・・・」とか言いながら、探して回ってるんで、私、「もう、大体このあたりっていうんでいいんじゃないですか?」って言ったら、「いや、そんなわけにも・・・」(笑)って言うんで、私、申し上げたんですよ。「そもそも、お墓参りって、お墓から何メートル以内ならお参りしたことになるんでしょうねえ」って。(笑) まあ、決まりがあるわけじゃない。だから、「神さまはぜんぶご存じなんだし、天の人たちとは、もうみんな、深くつながっているんだから、だいじょうぶですよ」と申し上げ、結局見つからなかった方や、忘れちゃった方も含め、最後に、「今日回れなかったお墓の方々みんなのため」っていうまとめのお祈りをして、空中に聖水を振って終えました。
 ・・・いいんじゃないですか、ホント、われわれのやってることって、おままごとですよ。お墓を大事にするのも、心のよすが(・ ・ ・)として別に悪いことじゃないと思いますけれど、あんまりこだわることもないし、そんなにお金を掛けるようなもんでもないですよね。霊園にはすごく立派なお墓もありましたけれど、あれもなんだか、かえってもの寂しいというか・・・。地上ではいつか忘れ去られるんだし、ほどほどにしとくのがいいんじゃないですかねえ。
 イエスさまは、お墓から出てっちゃったんだしね。教祖が墓から出てっちゃったのに、信者が墓に入っててどうする。私たちキリスト者は、墓から「出てっちゃう」人たちなんです。「墓」なんていうものは、それこそ、「はかない」もので、(笑) そこまでこだわるべきものじゃない。ぼくらは、墓の中に閉じ込められません。永遠なる天に「生まれていく」んです。「死者」たちは、そもそも、死んだわけですらない。永遠なる天を「生きている」んだから。
 もしかすると、墓参りすることで、かえって、日頃一緒に生きていて、常に深い交わりのうちにあることを忘れちゃうんじゃないかって思いますよ。年に一度、こうして追悼のミサとかいたしますけれども、生きている家族がいつも一緒にいるように、日頃からもっともっと、天の方たちと、リアリティーを持ってしっかりとつながって、共に生きていくべきです。

 イエスさまが、「次の世に入って死者の中から復活する」 (ルカ20:35) 、それはどういうことなのかっていうと、そこでは「めとることも嫁ぐこともない」 (ルカ20:35) って言ってますよね(※2)。それはね、この世の限界ある人間関係をはるかに超えた、本当に自由な交わりがあるってことです。それは、ぼくらがこの現実に生きているのよりも、ず~っと豊かで、ず~っと深い交わりです。大事なことは、その交わりが、今ここにあるし、その交わりなしに、この世の交わりもありえないってこと。
 イエスさまはそれを、「天使に等しい者」(ルカ20:36)って言ってますけど、そういう天の自由を生きている方たちとの交わりこそ本当の交わりなんであって、われわれは、まだ死んでませんけれど、つまり、まだ天に生まれ出ていってませんけれど、みんなすでに、その交わりの中に入り始めているんです。だって、向こうが交わろうとしてるんだから。こっちが信じて心を開けば、いくらでも交わることができる。・・・私たち、この世の人たちも大切にしますけれども、それ以上に、天の人たちを大切にして、その人たちと深い交わりを持つべきです。
 イエスさま、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」って、モーセが言ったことを引用してますでしょ(ルカ20:37)。なんでそんなことを言うかっていうと、「アブラハムも、イサクも、ヤコブも、もう死んじゃった」ってみんなが思ってるからですよ。「いいや、彼らは生きている」って、イエスさま、言ってるんですね。神は、「生きている者の神」 (ルカ20:38) なんだから。
 「神は死んだ者の神ではない」って言ってるんだから (ルカ20:38) 、逆にいえば、アブラハムもイサクもヤコブも、みんな生きている。その「生きている者の神」の恵みによって生かされているんだから、ぼくらはもう、復活に(あずか)り始めてるんです。もちろん、完全に復活に与ったわけじゃないですよ。でも、もう与り始めて(・ ・ ・)るんです。この感覚っていうのは、キリスト教の本質の感覚であるし、希望の感覚ですね。
 ご覧ください、今も、光がサーッと、聖堂に差し込んできて、とてもきれいですけれども、この前もここでそんなお説教をしたの、覚えてます(※3)? 「色ガラスの向こうは、はっきりとは見えないけれども、でも、光は差し込んできている」っていう説教です。この差し込む光がなければ、この聖堂は真っ暗なわけですよ。なんにも見えない。でも、ご覧ください、現にここは明るくって、世界はこうやって見えている。・・・というか、見え始めて(・ ・ ・)いる。つまり、われわれは、まだその先の、本当の光の中に入ってるわけじゃない。でも、入り始めているんです。「入ったも同然」と言っていい。それが、この世の真実でしょう。そんなこの世界から、神の世界に生まれ出ていった人たちは、み~んな、もうその光の中に入っている。この「まだ途中」っていうのを大切にしてくださいね。実は、死による断絶なんて、ないんですよ。イエスさま、「死ぬことはない」って言ってるんだから (ルカ20:36)(cf.黙21:4)
 死者たち、・・・すなわち、われわれが「死者」と呼ぶ方たちは、生きています。われわれ以上に生きています。

 昨日の結婚式の様子なんかが、それに近いものがある。
 昨日、結婚式を司式いたしました。小学校1年生のころに洗礼を授けた子が、もう結婚式なんですね。昨日、そのころの教会で、結婚式をしたんです。かわいがってきたわが娘の結婚式みたいで、なかなか感動いたしました。
 祭壇前で、新郎と私が、立って待ってるわけですね。そこへ、すっかり大きく育った新婦が、真ん中のバージンロードを、ゆっくりゆっくり、お父さまに手を引かれて近づいてくるわけです。
 さて、これ、「結婚式が始まった」って言っていいですよね。・・・始まってますでしょ? だけど、まだ結婚してない。・・・してませんよね? まだ誓っていない。まだ新郎の所に着いていない。
 ・・・この状況です。もう結婚式は始まったんです。その教会は、鐘が鳴って式が始まるんですよ、カラン、カランって。そして、オルガンが鳴りだして、新郎の元に、新婦は顔を輝かせて、ゆっくりゆっくり歩いてくる。新郎も緊張して待っている。・・・結婚式、始まってます。とはいえ、正確に言えば、まだ結婚はしていない。でも、結婚したも同然です。
 今の新約の時代は、そういう時代なんですね。神の国は始まってるんです。でも、まだ完成したわけじゃない。でも、みんな喜びに満たされているし、必ず神の国は完成するし、もうすでに生まれ出ていって、いうなれば「神の国と結婚」した人たちも、われわれを見守ってるわけですよ。そんな人たちに見守られる中、私たちは、「途中」のこの世を、希望に胸をときめかせて、光に向かって歩み始めているんです。
 つながっているんです。死を断絶だと思っちゃいけない。むしろ、「死」という神秘こそが、われわれを本当に結び合わせるのだという、イエスの十字架こそが、真の復活をもたらすのだという、その信仰によって、ぼくらはどれほど慰められるか。

 第2朗読(※4)で、テサロニケの教会に向かって、パウロが言っておりました。
 「わたしたちの父である神が、あなたがたを励まし、強め、善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように」 (cf.二テサ2:16-17)
 その私たちの父が、どのような父かということを、パウロはこう言ってますね。
 「わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神」 (二テサ2:16)
 ・・・うれしいですよねえ。そういう神さまなんですよ。あるいは、そういう方をこそ、「神」と呼ぶべきじゃないですか。
 私たちを、もう、すでに、ホントに「愛している」。そして、「永遠の(・ ・ ・)慰めを与えてくださる」。それは、この世の、すぐに消えてしまうようないい加減な慰めじゃない。「確かな(・ ・ ・)希望を与えてくださる」。それは、いずれまた不安になったり恐れにとらわれたりするような、この世の希望じゃない。「永遠の(・ ・ ・)慰め確かな(・ ・ ・)希望とを恵みによって与えてくださる父である神」、その神が、私たちを励まし、強めてくださるようにと、天のパウロに祈られている。
 こういうパウロの祈りにも、私たちは支えられているんです。パウロだって生きてるんだから。アブラハム、イサク、ヤコブ、・・・天のみ国での生きとし生ける者すべてが、私たちを支えている。だからもう安心して、毎日が、ある意味で「追悼の日」みたいな思いで、常に親しく交わってたらいいんじゃないですか?
 そういう交わりがあるなら、もう別に、墓までわざわざ行かずとも、お墓の方にちょっと頭を下げれば、もうそれでいいんじゃないですかねえ。(笑) 1年に一回だけ行ったりしてるうちに、他の日にも常に一緒にいることが分からなくなっちゃったってことにならないように。「もうすでに、この世において天の国は始まってるんだ」っていうワクワクするような気持ち、「いつか入るその天の国に向かう、ぼくらは途中なんだ」っていう神聖な気持ちを持って、日々を過ごしましょう。特に11月、「死者の月」は、そのような希望を持ってね。

 おととい、この聖堂での講演会(※5)に来られた方、います? ああ、何人もおられますね。
 ある方が、「晴佐久神父さんが、ぜひって言うから来てみたけれど、言ってることの3パーセントしか分かりませんでした」って。だけど、こうも言ってました。「でも、すごくいい経験でした。哲学者とか、思想家っていう人たちが、どれほど誠実に、真剣に真理を極めようとして努力しているかっていう、その情熱をひしひしと感じて、感動しました」って。そう言っていただければ、主催者としてはありがたいです。中身もさることながら、なによりも、そのようなモチベーションをもっている人と出会うことが大切だからです。
 柄谷行人(からたにこうじん)っていう、私の大変尊敬する思想家が、おとといの金曜日に、ここで講演してくださったんです。タイトルは、「憲法9条と『神の国』」。
 冒頭に、ルカの福音書を引用しました。
 「イエスは言われた。神の国は、見える形で来るのではない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。神の国はあなたがたの間にあるのだ」 (cf.ルカ17:20-21)
 イエスに言わせれば、神の国は見えないけれども、現実の、私たちの関係性のうちに始まっている、と。
 よく、われわれは、死後の「天国」だの「地獄」だの、勝手なことを言ってるけれども、神のご計画によれば、真の天の国は、単なる死後の世界のことだけではなく、もう私たちの間、愛し合う関係性のうちに始まっているのだ、と。だから、私たちの間に現実にある、悲惨な争い、それこそ「地獄のような関係性」を忍耐強く克服し、不完全でも、一つひとつ、「地上の天国」を生み出していこう、と。それこそが、真の平和である、完全なる天の国へ向かう道なんだと、イエスはそう言いたいんじゃないですか。そう宣言し、そう生きているこの私こそが、その道だ、と。
 多様な民族と宗教が複雑に渦巻く現実の中で、利己的、原理主義的な平和ではなく、すべての人に通用する、より普遍的な平和を求め続けること、その道の果てに、本ものの天の国がある。その本ものの天の国が、イエスにおける究極の普遍主義によって、もうこの地上に始まっている。それを信じて、私たちの「間」に生まれつつある天の国を証しして行こうじゃないか。キリスト教は、そう願い、そのように生きる。・・・まさに、キリスト教にとっては、「地続き」なんですよ、「天」と「地」っていうのは。
 そうでなければ、「どうせこの世は地獄だ。過ぎ行くこの世なんか、どうでもいい。こんな悲しみと暴力に満ちた世の中から離れてサッサと死ねば、楽しい天国に行ける」ってことになってしまう。この世を愛して生み出した神が、そんなことを望んでいるはずがない。それは、あまりにも、この地上を軽視している。種がなければ実りもない。
 もちろん、あくまでも、本番は目には見えない「天」の国ですから、この地上が終着点ではありません。しかし、たとえば「胎児」と「誕生した赤ちゃん」の関係でいうならば、「胎児なんてどうでもいい。生まれた後が幸いなら、それでいい」なんて言えるわけないでしょう。胎児という現実があればこそ、実際に赤ちゃんは誕生していくんだし、胎教なんていうのもあるように、胎児を大事にするからこそ、大事にされて幸せを予感するからこそ、胎児だってその先の真の幸せを目指し始めてるんじゃないですか。だからこそ、誕生してから、ああこれが幸せだって分かるんだし、真の幸せを味わうことができる。この世って、幸せとは何かを知り、真の幸せを味わうための練習期間なんですね。
 その意味で、「この世」という試練の場が大切なんであって、それは、この世でこそ、本当に神の国を始めることができるからだし、神もそれをお望みなんだ、と。そうして神の国が完成していくプロセスに、私たちは加わることができるし、それこそが人の生きる意味なんだ、と。・・・イエスさまの言いたいことは、そこなんですよ。
 講演会で、まず冒頭、そのような福音書の箇所を引用したことに、私は深く感銘を受けましたし、さらには、アウグスティヌス(※6)、ライプニッツ(※7)、カント(※8)なんかを引用して、憲法9条がいかに尊い掟として人類にもたらされたかを、人類の英知の系譜に位置付けて語ってくれて、とてもうれしかったのです。
 アウグスティヌスなんていったら、本当に戦いで明け暮れている世界の現実の中で、どのように「神の国」がもたらされるかということを真剣に考え抜いた聖人です。さまざまな民族、さまざまな宗教が、互いに緊張関係にある世界の中で、そのような現実のこの世において、われわれは、多様でありながらも、一致していく道があるはずだ、と。各民族、各国家が、互いを認め合い、尊重し合い、真の平和を求めてつながっていく道。神はそれを望んでおられるし、それは、天上の完成された、究極の神の国の「先取り」として、ここに始まっているし、われわれ神の子たちは、まずこの地上でそれを実現させることができるんだ、と。
 アウグスティヌスは、争いに明け暮れる地上の現実の中で、この世の一つの権力が「これだけが正しい!」と宣言してすべてを支配するような無知で野蛮な思想ではなく、より普遍的で、すべての人にとっての平和をもたらすような思想を追い求めたんです。忍耐強く、丁寧に、多様なものの真の一致ということを、真剣に考え抜いて、考え抜いて、極め尽くした思想家ですよね。
 カントっていう思想家も、「いろんな宗教があるけれども、本当の宗教は宗教を超えている」、あるいは、「いろんな教会があるけれども、本当の教会は、真に普遍的な教会である」と、そのように考えていた人でしょう。それはでも、思想を極めるならば、必ず生まれてくるものなんです。
 つまり、イエスさまが語った「神の国」を、この世の利己的な権力に取り込まれることなく、神が人間に与えた知性において、最高に美しく語ろうとするとき、アウグスティヌス、カント、・・・そういう彼らの言葉となって表れるんじゃないか。まさしく、アウグスティヌスの神、ライプニッツの神、カントの神、・・・これは、「生ける神」なんですよ。彼らだって、死んだわけじゃない。柄谷行人が、彼らの言葉を引用して、情熱的に、しまいには、少し興奮しながら論じている姿は、「これはアウグスティヌスがしゃべってるのか」「カントがしゃべってるのか」と思うくらい。
 憲法9条、これがホントに、それこそ、「神がこの地上にもたらした、神の国の目に見えるしるしだ」と言わんばかりの講演でありました。
 まあ、もっとも、思想家は、簡単に「神」なんて言わないんですね。安易に「神」なんて言うと、それは人間の「神」になっちゃうし、その神を利用して、都合のいいこと、勝手なことを、みんな言い出しますから。そして、しまいには、「神を信じてます」なんて言いながら争ったり、独善的、閉鎖的になって、それこそ最も神の国から遠い状態を、「これが教会だ」なんて言い出したりする。
 ・・・だから偉いんですよ、思想家は。「神」という不透明な言葉を用いずに、「人間の理性の範囲内で」という謙遜さを持ちつつも、「最も透明で普遍的な真理とは何なのか」、そういうことを極めようと努力し続け、われわれに語り掛けてくれる。真の思想こそは、真に普遍的な宗教であるはずだし、その意味で言いうならば、私だって、たとえどれほど頭が悪くても、真の思想家でありたいと思う。こういう時代になると、そのような透明な思想を目指す者こそが、本当の意味で、宗教を語ることができるんじゃないかと、そう思う。
 天と地さえも結ぶ普遍主義と、死者たちが生きているという透明性をもって、目には見えない神の国の幸と深く交わっている者、それこそが、この地上の幸せを生み出すことができるんじゃあなかろうか。

 私の母が亡くなってちょうど10年になりました。今日の夕方5時から、この聖堂で、母の追悼ミサをいたします。家族、あるいは家族同然だった仲間たちがみんな集まるんですけど、母がそれこそ純粋贈与して世話し続けた当時の若者たちも、もういい年になりました。
 私、説教で、母の思い出を話そうと思うんですけれども、こうして神の国の話をしているうちに、母が私に、天国について語ってくれたことを思い出しました。その話をしたいな、今晩。
 私が小学校1年か2年のころ、たぶん教会学校で、天国の話を聞いたんでしょう。家に帰って、母に、「ねえ、お母さん。天国ってホントにあるの?」って聞いたことがある。すると、ビックリしたような顔をして、「あら、もちろん、あるわよ」って、答えた。それで、「じゃあ、どこにあるの? どんなところなの?」って、聞いたんですね。そうすると母は、ちょっと困った顔をして、「どういうとこかって言われても、お母さんには、上手に言えないけれど・・・」って言ってから、パッと顔を輝かせて、「でもね、ともかく、それはそれは、い~いところなのよ」って言った。私、そのときの、「い~いところなのよ」って言った母の顔を忘れないし、そう聞いた瞬間に、「へーえ、そうなのか!」って、なんだか、すご~く、しあわせ~な気持ちになったのをよく覚えてます。
 「い~いところなのよ」、それで十分なんじゃないですか。それを希望っていうんじゃないですか。
 まだ見えない。でも信じる。母は信じていた。信じて、先取りしていた。そして、その「い~いところ」に生まれて、今も生きている。おかげで、私はまだそこに入っていないけれども、その「い~いところ」に、もう入っているような気持ちですよ。今も生きている母のおかげで、神の国が始まっていることを実感していますよ。
 天地はつながっています。
 われわれは、永遠の命を生きております。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます。)

※1:「死者の月」(再掲)
 カトリック教会の典礼暦で、11月は「死者の月」、11月2日は「死者の日」と呼ばれ、帰天したすべての人を記念する。(文中へ戻る
===(もうちょっと詳しく)===
 キリスト者の間では、2世紀ごろから死者のための祈りを唱える習慣が生まれ、間もなく、これにミサが伴うようになった。7世紀初めから、帰天したすべてのキリスト者を、1年の特定の日に記念するようになり、998年に、クリュニー会の修道院長オディロが、11月1日の「諸聖人の祭日」の翌日に当たる日に、すべての死者の記念を行うように定めて「死者の日」とし、以来、これが、フランス、英国、ドイツなどに広まって、13〜14世紀ごろにローマに伝わった。
 11月が「死者の月」として定着した時期は定かではないが、「諸聖人の祭日」や「死者の日」にちなんでの祈りや行事などが、やがて伝統や習慣となっていったこと、また、11月は典礼暦の最後の月で、主を待ち望む終末的性格が強いことなどのために、すべての死者のため特別に祈る月となっていったと考えられている。
(参考)
・ 「死者の月」(カトリック中央協議会)
・ 「キリスト教の信仰宣言」946、953-1、958-2
   (『カトリック教会のカテキズム』カトリック中央協議、2002年)
・ 「死者の日」「死者ミサ」(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008年)
・ 「2016年11月」(教会カレンダーラウダーテ
・ 「死者の日」(ウィキペディア)
・ 「11月は亡くなられた方のために祈る月」(稲川圭三神父さま<カトリック麻布教会) など
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※2:「イエスさまが、『次の世に入って死者の中から復活する』(ルカ20:35) 、それはどういうことなのかっていうと、そこでは「めとることも嫁ぐこともない」(ルカ20:35)って言ってますよね」
この日、2016年11月6日(年間第32主日)に読まれた福音朗読の箇所から。この日の福音朗読箇所は、以下のとおり。
 ルカによる福音書20章27~38節、または20章27節、34~38節。
  〈小見出し:「復活についての問答」20章27~40節から抜粋〉
===(聖書参考箇所)===(朗読箇所から部分抜粋)
 
イエスは言われた。「この世の子らはめとったり嫁いだりするが、次の世に入って死者の中から復活するのにふさわしいとされた人々は、めとることも嫁ぐこともない。 この人たちは、もはや死ぬことがない。天使に等しい者であり、復活にあずかる者として、神の子だからである。
 死者が復活することは、モーセも『柴』の個所で、主を
アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神と呼んで、示している。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」 (ルカ20:34-38/段落分け、赤字引用者)
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※3:「この前もここでそんなお説教をしたの、覚えてます?」
聖堂の鍵、開いています」(「福音の村」:2016年10月2日説教)の第1段落をお読みください。
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※4:「第2朗読」
この日、2016年11月6日(年間第32主日)の第2朗読箇所は、以下のとおり。
 使徒パウロのテサロニケの教会への手紙二 2章16~3章5節。
  〈小見出し:「救いに選ばれた者の生き方」2章13~17節から抜粋、「わたしたちのために祈ってください」3章1~5節〉
===(聖書参考箇所)===(朗読箇所から部分抜粋)
わたしたちの主イエス・キリスト御自身、ならびに、わたしたちを愛して、永遠の慰めと確かな希望とを恵みによって与えてくださる、わたしたちの父である神が、どうか、あなたがたの心を励まし、また強め、いつも善い働きをし、善い言葉を語る者としてくださるように。 (二テサロニケ2:16-17/赤字引用者)
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※5:「この聖堂での講演会」
 2016年11月4日(金)に行われた、思想家、柄谷行人(からたに こうじん)氏の講演会のこと。
 演題は、「憲法9条と『神の国』」。
 お説教で何回か取り上げられ、また、「福音の村」でもご案内いたしましたが、おかげさまで、たくさんの方々がお集まりくださいました。
  
(参考)
・ 「天国のパレードを目指して」(「福音の村」:2016年10月9日説教)>この辺から。
・ 「柄谷行人氏 講演会」(「福音の村」ご案内)
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※6:「アウグスティヌス」
◎アウグスティヌス
 アウレリウス・アウグスティヌス(Aurelius Augustinus <Hippo>)354‐430
 ラテン教父の伝統にあって最大の神学者・哲学者。その後のあらゆる思想潮流に対して多大の影響を与え、「西欧の父」と称せられる。
 ローマ帝国末期、354年、アフリカのタガステで生まれる。青年期にマニ教、新プラトン主義などを遍歴するが、386年、劇的な回心。396年、故郷ヒッポの司教となる。以後終生西方教会の理論的指導者として司牧。『告白録』、『三位一体論』、『ヨハネ伝講解』、『神の国』など、神学、哲学、聖書注解など幾多の著作を連綿と著し、その後の西欧の思想と歴史そのものの支柱、源泉となる。晩年には異端論駁書も多い。
 最後は、ヴァンダル族がヒッポの城壁を取り囲み、西ローマ帝国が崩壊への道を行く様を見つつ、しかも永遠なる神の国、万物が復活し集う全一的な姿を望見しつつ、430年、世を去る。
(参考)
・ 「アウグスティヌス(ヒッポの)」(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008年)
・ 「アウグスティヌス」(コトバンク)
・ 「アウグスティヌス」(ウィキペディア)
・ 「アウグスティヌスの『神の国』」(「天国のパレードを目指して」/「福音の村」:2016年10月9日説教)>「参照※8」 など
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※7:「ライプニッツ」
◎ライプニッツ
 ゴットフリート・ヴィルヘルム・ライプニッツ (Gottfried Wilhelm Leibniz) 1646-1716
ドイツの哲学者、数学者。大学では法学を学んだが、やがて哲学と数学に関心を持ち、ニュートンと相前後して微積分法を発見。自身はルター派だったが、プロテスタント教会とカトリック教会の和解にも尽力した。
 『神義論』(1710)では、「苦難はより大いなる神的善が発現するための必要悪である」と説いた。
 『モナトロジー』(1714)では、自ら活動する力を内に含む個体としての実体を「モナド」(単子)と呼び、いっさいのモナドは相互に神の予定調和のうちにあると考えた。
 現実の世界は「最善」の世界であると主張し、カントを始めとする18世紀の啓蒙主義的楽観主義に大きな影響を与えた。
(参考)
・ 「ライプニッツ」(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008年)
・ 「ライプニッツ―宇宙は生命に満ちている」(村のホームページ/個人HP)
・ 「ライプニッツ」(世界史の窓
・ 「ライプニッツが考えたこと【倫理の偉人たち】」(塾講師ステーション
・ 「ゴットフリート・ライプニッツ」(ウィキペディア) ほか
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※8:「カント」
◎カント
 イマヌエル・カント(Immanuel Kant) 1724-1804
 ドイツの哲学者。1770~96年、ケーニヒスベルクの大学論理学・形而上学教授。ルター派教会の抗議で1794~97年、緘口令を受ける。「現代はまことに批判の時代であり、いっさいのものが批判を受けねばならない」として、批判哲学を展開。人間の理論的認識が及ぶ範囲を見極めるべく、『純粋理性批判』(1781)において、徹底的な理性批判を遂行。結果、人間に認識可能なのは、現象界の事柄だけで、真理(ものそれ自体)については知りえないとの否定的結論に導かれた。そのため、「神」「自由」「霊魂の不死」は、人間の理論的認識の対象としては、否定されることになった。
 だが、「わたしは信仰を容れる場所を得るために知識を除かねばならなかった」と思弁的理性の越権を弾劾。伝統的形而上学の不可能性を宣告し、その後、『実践理性批判』(1788)において、形而上学の新しい基礎づけに取り組んだ。
 そこでは、人間の普遍的な道徳意識に着目し、道徳法則が成り立つためには、「神」「自由」「霊魂の不死」がその不可欠の前提であり、これら三つのものを「純粋実践理性の要請」として復権。『単なる理性の限界内における宗教』(1793)では、道徳主義的宗教論を展開した。
 以上の道徳論に基づいて著されたのが『永遠平和のために』(1795)。常備軍の全廃、諸国家の民主化、国際連合の創設などの具体的提起を行ない、さらに人類の最高善=永遠平和の実現が決して空論にとどまらぬ根拠を明らかにして、人間一人ひとりに平和への努力を義務づけた。
(参考)
・ 「カント」(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008年)
・ 「カント‐語りえないものについては、沈黙しなければならない-(ウィトゲンシュタイン)」(村のホームページ/個人HP)
・ 「カント・哲学早わかり」(Philosophy Guides
・ 「神と国家の政治哲学-カント」(本と奇妙な煙/個人ブログ)
・ 「永遠平和のために」(Amazon)
・ 「カントの『永遠平和』」(「天国のパレードを目指して」/「福音の村」:2016年10月9日説教)>「参照※7」 など
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2016年11月6日(日) 録音/2016年11月22日掲載
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