2013年7月21日 年間第16主日
・第1朗読:創世記(創世記18・1-10a)
・第2朗読:使徒パウロのコロサイの教会への手紙(コロサイ1・24-28)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ10・38-42)
【晴佐久神父様 説教】
まずは、昨日の「そうめんパーティー」の報告から。
入門講座は、例年、前期の最後に「そうめんパーティー」をして、皆さんに申し上げます。「そうめん食べて暑い夏を元気に乗り切ってね。また後期、秋に元気に集まろうね。後期最初の日は、『ピザ・パエリアパーティー』だよ」と。(笑)
入門講座、パーティー大好きなんですよ。それはもちろん、食べるのが楽しいとか、みんな仲良くなれるとかいうのもありますけど、思いも寄らない実りもあるからです。
たとえば、昨日の「そうめんパーティー」に出ていた、今年の春洗礼を受けた方は、4年前にお母さまが洗礼を受けて、それから教会に興味を持ち始めたんですけど、なかなか教会に触れるきっかけがなかった。しかし、2年前の、この夏のパーティーに、お母さまに誘われて来て、初めて「教会」っていうものを体験して、信者さんに優しくされ、「ああ、ここはいいなあ」って思ったのがきっかけで、入門講座にも来るようになったんです。そして、去年の、今度はクリスマス・パーティーのときに、洗礼を受けたいと決心して、今年の受洗となったわけです。
「パーティー系」って呼んでるんですけど、(笑)大事ですよ、パーティー。神さまが集めてくださった仲間で、素晴らしいひとときを一緒に過ごす。そもそも、このミサ自体、究極のパーティーですし、やがては天の国のパーティーが待ってるわけで、この世のパーティーは天のパーティーの準備なんです。天の宴を地で開きながら、こうして、ひとり、またひとりと救っている多摩教会。どうぞ、パーティー、応援してください。ちょっとお金も掛かりますが、せいぜいそうめんの薬味代くらいですよ。そうめんは寄付で
昨日のパーティーで、その方は、自分がパーティーなどをきっかけに救われていったいきさつなどを書いた文章を、ちゃんとみんなの前で読んでくれました。
先日発行された、多摩教会の「受洗者記念文集」、皆さんのお手元に届いていますね。(※1) ぜひ読んでください。そこにちゃんと載ってますよ。(※2) みんな、ほほ笑ましくそれを聞いて、「おめでとう! よかったね」って拍手したわけですけれど、あの文集読んでいると、本当に、この教会で神さまの愛に出会って、「私は救われている!」っていう体験をした人たちの証言が、ズラ〜っと載っております。
今日お配りする「カトリックニューズ」(※3) の巻頭言に、そのことも抜粋版でね、載っておりますから、ぜひお読みください(※4)。
カトリック多摩教会、パーティがあって、やって来ると、「あなたは神さまに救われている!絶対に神の国に入れる。安心して、信じて、喜んで、神さまの愛を受け入れてください」と、そう言われるんですよ。こんないい話、ないでしょう。昨日も、集まった求道者に、まごころ込めて、「あなたは必ず救われる! 救われている!」とお話いたしました。
昨日のパーティーに来た方で、最近来るようになったひとりの求道者が、ふと、「ここは異次元ですね」って、そう言ったんですよ。私、この言葉がちょっと気に入りました。
・・・「異次元」。まさに、教会って、この世の次元じゃないんですよ。
この世はね、悲しみとか、争いとか、不信、恐れに満ち満ちているわけですよ。そんな話ばっかり聞かされる。身の回りにはそんな現実ばっかり。そんな中でだれもが壊れやすい小さな自分を抱えて、こんな世をどうやって生きてこう・・・って思ってる。
そんなときに、ちょっと誘われてそうめん食べに来てみたら、「あなたたちはみんな神の子だ。みんな愛されている。みんな救われている。どんな悪い子でも必ず永遠の命に入れる。安心してくれ。だいじょうぶだ。信じてほしい。今、ここで、神さまの言葉がちゃんと語られている」って宣言を聞いて、「ここはいったい・・・? 異次元だ!」って。
私はだけど、私が実感しているこの教会の次元こそがホントの「次元」で、それを知らない次元のほうが異次元に見えますよ。
パウロがね、さっき第2朗読で「世の初めから代々にわたって隠されていた、秘められた計画が、今や、神の聖なる者たちに明らかにされた」って言ってますでしょ。そんなの、この世から見たら、まるで異次元の話ですけれど、その「明らかにされた計画」を知ったわれわれから見たら、それをまだ知らない方が異次元です。
その、まだ知らない異次元の住人を、パウロは「異邦人」って言ってるんですね。「この秘められた計画が
これからもみんなで、救いを宣言する教会を、やっていきましょうね。
ところがですね、先々日届いた「カトリック新聞」(※5) の投書欄に、興味深い投書が載ってたんですよ。今、ここにありますので、ちょっとご紹介いたしましょう。
投書されたのは、80代の司祭です。
「最近、ある神父様のこのような説教を聞きました」っていう書き出しなんで、今、それが誰の説教だろうって、想像しながら聞いてほしいんですけども、まず、その「ある神父様のこのような説教」ってのをちょっと補いながら読みますね。
「私は、自分がカトリックであることをとてもうれしく思います。以前は『教会の外に救いなし』と教えられていたけれども、第二バチカン公会議は、そのことを認めながらも、その教会の範囲を広げて、教会には境目がなく、すべての人がその中に含まれていると教えました。神はすべての人の救いを望んでおられます。これは素晴らしいことではありませんか。私たちは改心してもまた罪を犯しますが、イエスの十字架により救われます。もし誰かが地獄へ行くべきだとしたら、まずこの私でしょう。でも、神はこの私を救ってくださるし、同じようにすべての人を救ってくださいます。これこそカトリックです。私は、日本中、世界中にこの福音を伝えたい。聖霊がその確信を与えてくださるから」と。
そう紹介した後でですね、しかしその司祭は、こう言ってるんですよ。
「もしそうだったら、誰でもうれしく思うでしょうが、世の中の悪と罪の現実をどう説明する、また人が神を拒むことを否定するのか。もし、皆同じだとしたら、地獄は閉鎖される。が、イエスが言われた『主よ、主よという者が皆、天の国に入るのではない』、また、左に置かれた者に『永遠の火に行け』、さらに『信じて洗礼を受けるものは救われる、信じないものは罰を受ける』ということばをどう解釈するか。聖書の改訂版を出すべきでしょうか。その説教の後、この考え方は今、日本に広がっていて人気があると言われて、私はショックを受けました」
で、この投書のタイトルがですね、これは編集部が付けたんでしょうけど、「地獄は閉鎖か? ショック受ける」。
言うまでもなく、この説教は私の説教です。はっきりわかります。なぜなら、つい先日、この司祭の前でこの説教をしたからです。よくまとめてくださったなと、感謝したいくらいですけど。
で、これは大事な問題でもありますので、改めて、ここで確認したいと思います。
まず第一に、私は何かの定義をしてるんじゃない。いつも「福音」を語っております。
学者は定義をしなければなりませんけれども、イエスは抽象的に何かを定義するってことを一切しませんでした。イエスは、目の前で苦しんでいる人に福音を語ったんです。これがまず、一番大切なこと。教会は、ずっとそれをしてきておりますし、私が一番大切にしていることもそれです。
仮にもしも何かの「定義」が、本当に目の前の「この人」のためになると思うなら、私はその定義を語るでしょう。・・・その人を救うために。
しかし、25年間、司祭として数えきれないほどの人のお話を聞いてまいりましたが、「この人を救うには何かの定義が必要だ」と思った人に、私はまだひとりも会ったことがありません。「この人にそのような定義を語ったら、かえってこの人を恐れさせ、苦しめることになる」と思ったことならたくさんありますが。当然、鈍い私だって、確信せざるをえません。・・・「福音だけ語っていればいいんだ」と。「目の前のつらい人に、『神は、あなたを必ず救ってくださる』と宣言していればいいんだ」と。
物事には、優先順位があります。「悪と罪の現実をどう説明するか」というような説明も大事ですが、「どんな悪も罪も、イエスの十字架には勝てないから、あなたは必ず救われる」という福音の方が、より大事です。「人は自由意志によって神を拒むことができる」という定義になにがしかの意義はありますが、「あなたは自由意志によって神の愛を信じることができる」「たとえあなたが神を拒んでも、神はあなたを決して拒まない」「全能の神の意志は、すべての人を救うという意志であり、あなたは必ず救われる」という福音の方が、より意義があるでしょう。福音よりも定義を優先することを「律法主義」と言います。イエスがそれを批判したのは、むしろその定義が福音を曇らせ、現実に人が苦しんでいるからだったのではないでしょうか。
第二に、「永遠に罰せられる人がいる」というような言葉は、他に言いようがないか、とことん丁寧に考えてから口にすべき。たとえば、「世の悪と罪の現実をどう説明するか」っていうなら、それをていねいに考えて、説明すべきでしょう。
ちなみにそのことは、私、東日本大震災のとき、よくお話しました。あのときの大災害、天災でもあり人災でもある大きな悪と罪は、しかしすべて、神の国へ向かうプロセスなんだ、と。神さまは、悪からも善を生ぜしめるお方です。・・・悪は結局は善に奉仕してるんです。だから、悪ばかりを見ずに、善をこそ見て、どんな悪にも負けずに希望を持ち続ける、まずはそれを大事にしましょう。
もしも仮に私たちの中に、本当に恐ろしい悪があるとしても、全能の神はそれを善に変えることがおできになります。最悪の十字架を、復活の栄光に変えてくださった神さまが、それをなさいます。「どんな悪も」ですよ。・・・どんな悪も。
もしどうしても、「神にも救えない悪がありうる」という「論理的可能性」の話をしたいのなら、まずは神の愛をすべての人に信じさせてからにしていただきたい。それをせずに、人を原理主義的な定義で脅す理由があるでしょうか。
あるいは「人が神を拒むことができることを否定するのか」と言いますが、私も否定はしません。しかし、私は、「本当に神を拒んでいる人」という方に、一度も会ったことがありません。・・・司祭としてどれだけの人と話してきたと思います? 「ゼロ」ですよ。
「神を拒みたい」、心からそう願い、真剣に神を拒んでいる人なんているわけない。少なくとも皆さんはそうではないから、もう「セーフ」です。
第一、「神を拒む」って、大変ですよ。揺るがぬ動機をもって、超人的な集中力と、根気と、血のにじむような努力を重ねて絶望し続けないと無理でしょう。だって、一年に一度でも「希望」なんて持っちゃたら、もう「アウト」です。救われちゃいますよ。(笑)
あの手この手でわが子を愛している親の愛を完全に拒んで、「私は完全なる闇だ」と思い込んでも、なんかそれに近い人たちにも大勢会ってますけれど、でもどんな人でも、その人の魂の奥に神さまが希望を与えてくださっているし、その人自身が気が付いていなくても、ちゃんと自由意志で神に救いを求めているのが、ちゃんと私、わかりますもん。・・・「ああ、この人は救われてる! これほどの絶望でも、神はこの人を救っている!」
本人はすごいこと言いますけどね。「私なんか滅びた方がいい」「地獄に落ちて当然だ」などなど勝手なこと言いますけど、赤ちゃんの言葉みたいなもんで、天の父は「よしよし、分かったからもうお休み」って言ってるんです。どんな人に会っても(これは救われちゃうだろう)って思う人たちばっかり。皆さん「セーフ」です。だいじょうぶです。どんな定義よりも格上の福音が、そう宣言しています。
「もし、皆同じだとしたら、地獄は閉鎖される」って、これ、不思議ですね。閉鎖されたら喜べばいいじゃないですか。何でショックなんだろう。どうしても行きたいっていうなら別ですが。
「地獄」って言葉も「閉鎖」って言葉も、これは比喩ですから、比喩には比喩でお答えするしかないんですけど、まあ確かにある意味「閉鎖された」って言ってもいいんじゃないですか?
地獄に行ってみたら、大きく貼紙がしてあってね、「当地獄は、西暦33年、イエス・キリストの十字架と復活をもって閉鎖されました。収容者も全員すでに解放されています。ご質問のある方はイエス・キリストに直接ご連絡ください」。
イエスさまが十字架上で何をなさったかって、皆さんもご存じでしょ? 罪と死を滅ぼしたんですよ。永遠の罪、永遠の死、そんなものをイエスがお許しになるはずがない。すべての人を救えないんじゃあ、何のための十字架だったのか。イエスは、まさにユダを救うために十字架を背負ったんじゃないですか。
別の比喩も思いつきました。地獄はね、確かにある。しかし、「ああ、地獄に落ちちゃった〜」と思って入ってみると、どうも様子が変。なんか、悪魔がちょっと優しかったりする。・・・「おかしいなあ、地獄のはずなのになあ・・・」
すると、悪魔が仮面をチラッと外して、それが実は天使だったりしてね。で、ウィンクしてね、「こっちよ♪ こっちにいらっしゃい」って特別出口から連れ出してくれる。
「なんだよ、こんなの地獄かよ」と思って、振り向いてよ〜く見たら、看板に大きく「地獄」って書いてあるけど、その文字の前に小〜さく「いわゆる」って書いてある。(笑)
つまりですね、「地獄」とかって人間はいろいろ勝手に言ってるけど、すべては人間の貧しい考えであって、真実は誰も知らない。誰が何を言おうと定義しようと、それはあくまでも人間が言っているところのものであって、「いわゆる」に過ぎない。そんな人間の思いをはるかに超えた神の愛を知らずに、あまり断定的なことは言わないがよろしい。
誰も、死後のことを絶対に言い当てられてない、絶対に。もちろん天国のことも、言い当てられてない。神の愛のことも言い当てられてない。私も、上手に、一生懸命話しているつもりでも、ぜんぜん言い当てられてない。
神秘は、真理は、神の愛のうちにあって、私たちは、そのすべてを知ることはできない。でも、代々にわたって隠されていたその秘密は、イエスにおいてもう明らかになったっていうんだから、その明らかになったことだけを言うべきでしょう。私はそれを「福音」と呼ぶし、それをみんなに伝えたい。「すべての人は救われると信じた人は、この世でも救われる」と。
パウロも言ってましたね。
「このキリストを、わたしたちは宣べ伝えており、すべての人がキリストに結ばれて完全な者となるように、知恵を尽くしてすべての人を諭し、教えています」
・・・ぼくはその手伝いをしたい。「すべての人がキリストに結ばれて、完全な者となるように」。パウロの言い方だと、それが「栄光の希望」だと。カッコイイねえ、「栄光の希望」。・・・もう、その希望だけ信じます。
なぜ、見たこともない地獄のことを強調して、人を脅さなきゃならないのか。それは、地獄の話をしないと成り立たない信仰だからです。そういう宗教、いっぱいありますよ。
でも、「永遠の火に行け」「信じないものは罰を受ける」そういう言葉だけ取り出して説明することで、どれほど多くの人が苦しんできたかを考えてほしい。・・・確かに、「言うこと聞かない子は外に放り出しますよ」って親は言うけど、ホントに放り出すはずがない。厳しい言葉に聞こえるなら、それは、「神から離れている状態は、ホントに悲しい、暗い状態だよ。あなたが今、そんな地獄状態なんだよ。でも、神はあなたを救ってくださる。さあ、神の方を向け!」っていう、イエスさまの励ましであり、導きの言葉だからですよ。
聖書のイエスの言葉がどれだけ歴史的なイエスの言葉かは、聖書学者に任せますが、もしもイエスさまが本当に永遠の罰のことを話したんなら、それは目の前の人を救うための何らかの工夫として言ったはずです。それも、よくよく読むと、必ず救われる人との対比として語られていて、先日の説教の「グラデーション理論」でいえば、「白に向かえ」というための「黒」の話。黒いあなたたちでも、ちょっとは「白」だよっていう話。
「その説教の後、この考え方は今、日本に広がっていて人気があると言われて、私はショックを受けました」とおっしゃいますが、私は、「日本に広がっていて人気がある」と言われて、大変うれしく思いました。
「神学」って、やっぱり定義する学問でもあるし、まあ、それに支えられて福音宣教も成り立っているので、これはもちろん尊敬、尊重しますけど、完全でないこともまた事実。第三バチカン公会議がね、そのうち開かれるでしょうが、こういうことを、ちゃんと整理して宣言してくれるんじゃないですか? 私なんかはその日のために、福音宣教の最前線で、けもの道を歩くかのように、一人ひとりを救うために歩いているようなもんですよ。
今日来られたらよかったのにな〜と思う方がひとり、来られてないですね。ひと月に一度かな、来てる方ですけれども、うつに苦しんで、非常につらい思いをなさっていて、自分は罪びとだと思い込み、自責の念で、時にはもう死にたくなっちゃう方です。
その方を救うために、どれだけ福音を話したか。どれだけ電話で支えたか。その人が一番よく知ってます。「毎日福音を書きとめて、苦しい時に読み直しなさい」って「福音ノート」を書かせてね、もう3冊になってますけど、毎日、毎日、福音だけに支えられて、なんとか生きている。そういうひとりの人が、現実に、私たち教会家族の中にいます。
元気で暮らしていたその人が、何でそうなちゃったのか。本人が話してくれました。以前関わっていたある新興宗教で、「あなたは、この教会を離れたら地獄に落ちますよ」と言われたからです。それが本当にショックで、怖くって、その恐怖から逃れられない。今でも、フラッシュバックのように、それがよみがえってくると、自分は本当に罪深い人間だ、生きていちゃいけないんだ、そう思い込む。・・・もうすべて終わらせたい。それほどに苦しくて苦しくて、つらくてつらくて。
そんな地獄を、すでに生きながらに味わっている人が多摩教会に来て、「あなたは100パーセント救われる。絶対に救われる。あなたがどれほど罪を犯しても、完全に神を否定して、もうこれ以上はかけらも救いがないと、あなたが思ったとしても、あなたは絶対救われている。今もう救われている。必ず、永遠の命に入る」、私はそれを千回話してきたので、その人は救われたし、カトリックの洗礼を受けて、まだまだつらい日もあるけれど、時にはようやくミサに来ることもできる。そうそう、この前グラデーションの話した時は来てたんです。すごく喜んでました。
「福音がうれしかった。素直な気持ちで信じました。善と悪はあるけど、線は引けないっていうのがうれしかった。すごく黒でも、その中に少しは白もある、白を大切にしてそっちに向かえばいいって聞いて、生きていく勇気が生まれた」って。
私、この方を前にして、「悪人は永遠の火に行け」「信じない者は罰を受ける」ってイエスさまは言いましたなんて、口が裂けても言えません。
「あなたは救われている」「神は、すべての人を救ってくださる」・・・これだけです。
イエスの足元で、マリアが聞いていたのは、この福音でしょう。
マリアはきっと、自分の罪に傷ついていたんじゃないですか? 「私は救われないんじゃないか」って、苦しんでたんじゃないですか? そんなマリアに、イエスは福音を語りました。
「神は愛だ。あなたは救われる。ぜったい救われる!」
そこへマルタがやって来て、叱ります。
「怠けていて救われようなんて、あなたは甘い。決まりを守ってちゃんと働いてほしい。この世には厳しさも必要だ。やることやってくれないと困る」
マルタが言ってることも、一面正しいんでしょう。でも、それは「福音」じゃない。
イエスは答える。
「必要なことはただひとつだ」
・・・それは、福音を聞くことです。
それは、「神は、あなたを愛してる!」です。
【 参照 】
※1:「受洗者記念文集」
多摩カトリックニューズ別冊「受洗者記念文集」(2013年復活祭)
<2013年7月14日発行>
「カトリック多摩教会」ホームページ( http://catholictama.org/)で掲載をスタートしました。
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※2:「受洗者記念文集」中の該当記事
「神様からの愛」 → http://goo.gl/lsSlBa
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※3:「カトリックニューズ」:
多摩カトリックニューズ6月号 (カトリック多摩教会発行の月刊広報誌)
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※4:「カトリックニューズ」中の該当巻頭言
「多摩カトリックニューズ6月号」 主任司祭巻頭言:
「世界がガラリと変わる」 → http://goo.gl/RYdRtp
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※5: 「カトリック新聞」
2013年7月21日付
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