さあ、私たちの交わりにお入り

2013年5月26日 三位一体の主日
・ 第1朗読:箴言(箴言8・22-31)
・第2朗読:使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ5・1-5)
・福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ16・12-15)

【晴佐久神父様 説教】
 
 今日のミサの後、上智大学に参ります。
 今日は「オールソフィアンの集い(※1) 」という、上智大学創立100周年の記念のお祭りをやっておりまして、1913年に誕生した上智大学、今年で100周年なんですね。それで、「100年に一度の、日曜日」っていうキャッチコピーで、卒業生・在学生をみんなキャンパスに集めて、文化祭のようなお祭りをやってるんですよ。
 私も上智大学の卒業生ですけど、この集いに100周年記念講演会っていうのがあって、「そういうときに講演させるんなら、これはもう、晴佐久神父をおいて他にない!」・・・ってことかどうかは知りませんが、(笑)呼んでいただいたんで、お話に行ってまいります(※2)。 まあ、でも名誉なことですよ。100周年の記念講演ですからね。卒業生は12万人もいるのにね。
 でもじゃあ、なんで晴佐久に声が掛かるかというと、集まるのはほとんど一般の方じゃないですか。カトリック大学の卒業生といったって大部分は信者じゃないですし、最近はもうホントに、カトリック校とはいえ、キリスト教の雰囲気というか、香りが、だんだん薄れてきているのは事実です。卒業生の皆さんに、この機会になんとかキリスト教の良さをわかりやすく伝えてほしいと、そういうことのようですので、喜んで引き受けました。
 引き受けたのはいいんですけど、主催者から「タイトルはどうしますか?」って言われたので、「いやあ、特にないです。どうぞそちらで付けてください」ってお答えしたら、あちらが付けたタイトルがあるんですけど、私、それ、なんかイヤだったんですよね。「何でもいい」って言っておきながら、イヤだって言うのも悪いんですけど、(笑)な~んかイヤだったんですよ。
 だって、そのタイトルが、「友達ができる人、できない人」。(大笑)これでしゃべれって言われてもですよ、「友達ができる人、できない人」っていう講演会に、「できる人」は来ないですよねえ。(笑)「できない人」なら来るかもしれないけど、集まった人が顔見合わせながら、お互いに「確かにねえ・・・」って思うような、(笑)そんな集まりで、何話したらいいか。ですから、「それはちょっと話しづらいです」と。
 でまあ、主催者が言うには、今は人のつながりが希薄だから、キリスト教的な意味での、「絆やつながり」の話をしてほしいっていうようなことだったので、話し合った結果、「心が通じる、気持ちがつながる」っていうタイトルになりました。
 ようするに、人と人がね、ホントに「つながる」っていう、それは何なのかっていうことですよ。それこそが生きる上で一番大事なことでしょ。

 だいたい、人ってみんな、一人だから悩むんです。自分の考えで苦しむんです。つながってないから恐れるんです。つまり、よく考えてみたら、われわれの一番の問題は、「つながってない」ってことなんですよ。みんなバラバラで、孤立して、自分の考えだけで頭の中でグルグル回りしてね、勝手に思い込んで「みんなから嫌われてるんじゃないか」とか、「私なんか誰の役にも立たない」とかって話にもなっていく。そこにはこう、「つながり」っていうものがないから。
 でもひとたび、すごくいいつながりがあったり、気持ちがちゃんと伝わって共感したり、「一緒にいるよ」っていう喜びを誰かと感じられたら、もうそんな悩みとか、恐れとか、吹き飛ぶんですよ。そういう体験、したことありますでしょ?
 個人主義が極まってくると、ますます今の時代、その「心が伝わる」とか「気持ちがつながる」とか、そういうことが少なくなって、孤独感が増してきている。
 それでいうんだったら、まさにキリスト教っていうのは、「つながり教」なんです。
 そもそも、人と人がつながるその原点に、神が私たちとちゃんとつながってくれた、そういう事実があるからこそ、私たちは救われている、そこがキリスト教の出発点でもあるわけですよね。イエス・キリストっていうのは、まさに神と人をつなぐ道ですし、神とつながっているキリストはみんなとつながったし、それによって、みんなもつながった。
 まあ、だから、上智大学100周年にね、「心が通じる、気持ちがつながる」って、それを私たちは、「神とのつながり」を原点とすることで実現できるんだっていう、そんな希望を語れたらいいんじゃないですかね。・・・うん。今そう話してるうちに、「そうだ、今日はそういう話をすればいいんだ」って分かってきて、(笑)ちょっとこれ、予習っていうか、練習っていうか。(笑)ともかく、そういうことなんですよ、言いたいことは。まあ、せっかくカトリックの学校とつながりを持ったんだから、卒業生たちが、しっかりと神さまとのつながりを持ってくれたらなと、心から願いますよ。
 たぶん、私のことですから、大勢の人を前にして、「今日ここで、神があなたがたとつながろうとしている!!」みたいなね、ぜったいそういう話になると思いますよ。・・・洗脳系のね。(笑)「本当につながりたかったら、ぜひ洗礼を!」みたいなね。(笑)そういうところまで話が、いや、ぜったい行っちゃいますね。だってそれは、神の望みですから。私の望みで言ってるんじゃないですから。

 そもそもですね、今日、三位一体の主日ですけれど、神さまって、つながりの神さまなんですよ。ご存じのとおり、父と子と聖霊なる神さまですね。
 皆さん、簡単に「神」「神」って呼びますけど、ホントはひと言で「神」っていうのは、ちょっとあまりにも乱暴というか、言葉が足りない。だって、われわれの「神」の観念ってあまりに貧しいからね。ひと言で「神」なんて呼んじゃうのは申し訳ないくらいに思って、せめて「父と子と聖霊なる神」って呼ぶのが、ホントはいいんじゃないですか。
 「父と子と聖霊」って、つまりは「親と子が愛し合う」っていうことでしょ? 「親」と「子」が「愛し合う」って、今単語を三つ言いましたけど、この「親」が父で、「子」がイエスで、「愛し合う」が聖霊でってことで、これ、そんな言葉があるかどうか知りませんけど言うなれば「トリプル概念」ですよね。三つのうち、ひとつ欠けても意味がなくなっちゃう、みたいな。
 「父と子と聖霊」なる神は、「父と子と聖霊」の交わりにおいて神であるし、私たちもその交わりに招き入れられることで救われるっていうことで、根本に「三つが一つ」っていう交わりがあるんです。「三つが一つ」だからこそ、宇宙が生まれてきて、「三つが一つ」であるということで、私たちは生かされているし、その「三つが一つ」っていう神秘の中に、われわれも、やがて招き入れてもらえる。
 もともとが、この「父と子と聖霊」っていう交わりの神なんだから、「神さま」っていうのはあまりに乱暴だし、だからといって「父と子と聖霊なる神さま」も長いから、「交わり様」と呼んではどうか。っていうのが、確か去年の三位一体の主日の説教で(※3)、私それ思いついて流行らせようと思ったのに、ぜんぜん流行らなかった。(笑)
 まあ、確かに「交わり様」はちょっとね、ユーモラスに印象付けようと思ったっていうだけのことですから、流行っても困るんですけど、実際にそう呼ばなくても、心の中では「神さま」っていうときに、「交わり様」って思い浮かべるのがいいと思いますよ。
 「神さま」っていうと、単体でしょ。「おひとり様」っていうイメージですよね。まあ「唯一の神」はあくまでも「唯一の神」でいいんですけど、その唯一の神が「交わり様」なんだから、「おひとり様」をイメージしちゃうのは、神を見誤るというか、神さまの本当の良さを分からなくしちゃう危険があると思うんですよ。
 神を「ひとりの人」として想像するってことは、結局は「この世の人」の特性を当てはめて想像するしかないわけで、その「この世の人」っていうのは結構意地悪だったり、限界があったり、怒ったりするわけでしょ。それを神に当てはめちゃうから、「神さまは怒っておられるかも」とか、「神さまはこんな私を救ってくださるんだろうか」とか、愛の神の本質とかけ離れたイメージになっちゃって、それだと何かこう、神と人の関係が離れちゃうような気がするんですよ。
 それくらい、「人と人」の関係って疎遠ですから。われわれは常に人の無理解に傷ついたり、人との隔たりを恐れたりしているので、神を擬人法でイメージしちゃうと、勘違いするし、神が遠くなっちゃう。深く関われなくなっちゃう。あるいは「神と一つになる」っていう喜びが実感しにくくなっちゃう。
 その点、「交わり様」って思ってれば、「交わり様が愛してくださる」なんて、なんかいいじゃないですか。もう交わり自体が愛の交わりですから、その交わりに愛されている、その交わりに迎えられるって思ったら、もっと神さまが身近で温かいイメージになるんじゃないですか? 交わり様が三人そろって怒ってるとかって、イメージしにくいでしょ。
 これはちょっと、冗談ぽいイメージですけれど、たとえばね、天の父が私のことを「晴佐久は私のことをちゃんと信じてくれない。まったくもうっ!」ってイライラする。するとイエスさまがね、「まあ、パパ、そう言わずに。あの子もい~い子なんだよ」ってとりなしてくれる。で、聖なる霊が、「まあまあ、みんな仲良くやりましょう♪ あとはわたしにお任せを」なんて言って、結局父と子と聖霊がひとつになって私を迎え入れてくれる。「さあ、君もこの交わりの中に入っておいで」って。
 まあ、もののたとえですよ。だけど、「おひとり様」ではなく、「交わり様」だっていうイメージなら、なんかこう自分も、その交わりから生まれてきて、交わりの喜びを生き、いつかその交わりに入ることが最高の幸せだって思えて、安らかでしょう。そこに、真の希望が生まれる。やがてその交わりに入っていくんだっていう、本当の希望。人は、そんな希望なしにはやっていけないんじゃないですか?

 どうでしょう皆さん、いろいろと試練の日々というか、苦しんだりもしているでしょうけれども、父と子と聖霊っていう交わりの喜びを、自分の人生の一番大切なものとしていただければ、その苦しみは喜びの入り口になりますよ。
 第2朗読のパウロの言葉を思い起こしてください。
 「私たちは、主イエス・キリストによって、神との間に平和を得ている」
 「このキリストのお陰で、今は信仰に導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしている」
 「神の栄光」、これが父と子と聖霊の「交わり様」の世界です。それはホントにあったかくって、うれしい世界。私たちが何よりも欲しい世界。一人ぼっちで生きて、一人ぼっちで苦しんでいる私たちが、何よりも必要としている栄光の世界。すなわち、父と子と聖霊の交わりの世界。そこに(あずか)る希望、これを私たちは誇りにしているんです。
 こういう希望さえあったら、この世でどんな試練にあっても、自分が一人ぼっちのように思い込んじゃったときも、誰も理解してくれないときも、自分の考えでグルグル回りして苦しんじゃってるときも、この希望があったら、試練を越えていけるんじゃないですか。
 パウロは続けて、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」って言ってましたように、どれほどの苦難があっても、それは希望につながるんです。なにしろ「交わり様」がそう望んでいて、「さあ、私たちの交わりにお入り」と言ってくれているんですから。この希望をね、一番大切にしていきましょうよ。

 今日はFEBCのラジオ録り、最終日なんですよね。延べにすると1年間ですか。よく1年分も録りましたね。目の前で担当者が誇らしそうに、うん、うんって頷いてますが。(笑)
 今日が最後かって思うと、正直ホッとするような、(笑)気持ちもあると同時に、ラジオをお聴きの皆さんとも、これで最後かと思うと、ちょっと寂しい気もいたしますが。
 もっとも、ホームページ「福音の村」で、毎週の説教は全部アップされておりますから、文字で読んでいただけます。ただ、本音を言えば、文字でも音声でもなく、「もし宜しかったら、ご都合がゆるせば、一度多摩教会にナマを体験しにいらっしゃいませんか~?」って呼び掛けたいような気持ちです。
 というのも、やっぱりナマっていいですよね。本当のつながりが感じられる。皆さん、そうおっしゃいますよ。「文字で読んでたのと、ラジオで聴くのはやっぱり違う」「でも、ラジオで聴くのよりナマがいい、全然違う」って。
 で、それで言うんだったら、実は、神と人のつながりっていうのは、本来、究極のナマであるべきなんです。皆さんに、なんとかそれを感じてほしい。それは、頭の中で勝手に考えてた信仰と、それこそ「全然違う」。それさえ感じられたら、後は何もいらないんです。私はそこにみんなを導きたい。生きている「交わり様」が、今あなたを、自らの交わりに中に入れようとしている。いやもう、入れてくださっている。それに気づいてほしいんです。頭の理屈ではなく、魂でそれに気づいたときに、ホントに自分はその「交わり様」の一部となっているし、自分が生まれてきた目的を達することができるから。
 こうして、説教でお話して、皆さんに福音を語るのも、ナマで神が人とつながろうとしているからです。今日の午後、上智の講演会でお話するのも、それでしょう。「交わり様」が、すべての愛するわが子と、ナマで交わろうとしている。これがもう、キリストの教会のリアルとして、現実にこうして起こっていますし、「今、私はそのような恵みに与っている」という気づきほど、試練を支えるものはありません。それこそが真の希望だから。

 先週、ここでご葬儀がありましたけれども、私、ちょうどそのお通夜の日が、大学の授業の日だったんですよ。5年前から、某有名エリート大学の理工学部で、「世界の宗教」っていう講義をしているんです。そこの学生たちにね、「今晩はお通夜なんですよ」と言い、「キリスト教は『生と死』をどう考えているか、お話しましょう」と言って、お話しました。
 「皆さんはどうお考えですか? 神とは何か。人とは何か。人生とは何か。苦しみと死とは何か。天国とは何か。この五つについて、皆さんはどうお考えですか?
 キリスト教がこれについてどう信じているか、皆さんにお教えいたしましょう。
 神とは、愛です。
 人とは、神に愛される存在です。
 人生とは、神に愛されることに目覚めるプロセスです。
 苦しみと死とは、神の愛の中に入っていくための、入り口です。
 そうして天国とは、神の愛に完全に交わっている、愛の完成の状態です。
 ・・・本当にシンプルなんです、イエスさまの教えは。
 ぜひ皆さん、『神なんているのか』『人はなんで存在するのか』『この人生に、いったい何の意味があるのか』『なぜこんな苦しみがあるのか、なぜ死ぬのか』『死の先はどうなっているのか』。そんなふうに思うときがあったら、この授業を思い出してください」。
 そんなお話をいたしました。そして、こうも話した。
 「今晩はお通夜ですが、私の教会の大切な仲間、一人のキリスト者が、キリストと一つになって、神は愛だと信じ、自分は神に愛されるために生まれてきたと信じ、自分の人生は神の愛に目覚め、神の愛を受け止めるプロセスだったと信じて、本当に苦しい病気を乗り越えながら、『この苦しみは神の愛に向かっている』『死は誕生である』という信仰のうちに、まさに天の国に生まれていきました。今夜の通夜は、そのような天の仲間と深く交わる祈りのときなんです。
 皆さんは理工学部の学生ですし、やがて科学者や技術者になるんでしたら、そのような、目に見えない世界の真理を知り、それに基づいて科学と技術を用いていただきたい」。
 そして、そこは「創造理工学部」っていうんで、こうもお話しした。
 「そもそも、キリスト教神学では、『創造』っていう言葉は、神にのみ当てはめられる言葉です。世界を創造できるのは神だけで、人はそれを発見し、模倣し、利用できるだけです。したがって、創造理工と言うからには、『理工』だけじゃなく、『神』も学んでいただきたい。そうでなければ、理工という神からの恵みを本当に生かすことはできません」。・・・ほとんどこれ、入門講座ですね。(笑)

 まあ、そういう授業をして帰ってきてお通夜だったんで、翌日のご葬儀ミサでは、この大学での授業の話をしたんですよ。亡くなった方、理系の方でしたし。大学でもこの方の話をして、学生たちに永遠の命への希望の話もしたんですよ、と。
 亡くなったこの方と、いろんな話を私はしました。よくご自宅や病院をお訪ねして、いろんな話をした。体が弱くてずっとご病気でしたから、この聖堂に来ることができなかったんです。私、この教会に来てから、彼とこの聖堂でミサを挙げたことがない。いつも、その方のお家にご聖体をお届けしたり、病院にお見舞いに行って一緒に祈ったりで、お家とか病院でミサをしたり、限りなくミサに近い形で聖体拝領をしたりっていうことはしましたけど、この聖堂で一緒にミサしたことはない。
 ですから、彼がいつも「ああ、多摩教会の聖堂に行きたい。聖堂でミサに与りたい」って言ってましたし、私もその日を願ってたから、ご葬儀ミサのときは、「実は今、とってもうれしいです」っていう話もしたんです。だって、彼は初めて、この聖堂に来れたから。
もちろん、ご遺体になってですけど、でも、彼は永遠の命を生きているわけで、私、その方に呼び掛けたんですよ。「やっと、この聖堂で一緒に御ミサできますね」と。
 もっとも、もうすでに彼は「交わり様」の中ですから、こうも言いました。
 「でも、あなたはもう、天に生まれていって、天上のミサに与かってるんですね。うらやましい。私もやがて『天』という最高の聖堂に参ります。そちらで一緒にミサを捧げましょう、それまで私たちをお守りくださいね」
 彼は、「交わり様」の恵みの中で生まれ、その恵みのうちに精いっぱい生きて、そして今は「交わり様」の中に入っています。それこそは、私たちの希望です。私たちは、そんな天の仲間のリアルに支えられているんです。

 父と子と聖霊、そこから私たちは生まれてきて、そこに私たちは生まれていきます。それこそが、最高の希望なんです。この「希望を誇りにしています」とパウロは言いました(cf.ローマ5:2)。私たちもその希望を誇りにします。希望は私たちを欺くことがありません。
 イエスさまは言いました。
 「真理の霊が来ると、あなた方を導いて真理をことごとく悟らせる」
 今、真理の霊が、そのことを私たちに悟らせてくださる。
 今日こそ聖霊降臨、今日こそ三位一体の主日、今日こそ、父と子と聖霊なる「交わり様」の交わりに与るとき。

  


【 参照 】

※1:「オールソフィアンの集い」
・  100周年記念祭 ASF (All Sophians’ Festival)オールソフィアンの集い 参照
  → http://goo.gl/lyTBw
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※2:「講演会」
晴佐久昌英神父講演会案内 「心が通じる、気持ちがつながる」参照 
  → http://goo.gl/uH967
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※3:「去年の三位一体の主日の説教」
 ・ 2012年6月3日(三位一体の主日)説教「あったか~い『交わり様』」参照
  → http://goo.gl/iJMnT
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2013年5月26日 (日) 録音/2013年5月30日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英