2013年4月7日 復活節第2主日(神のいつくしみの主日)
・第1朗読:使徒たちの宣教(使徒5・12-16)
・第2朗読:ヨハネの黙示(黙示録1・9-11a,12-13,17-19)
・福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ20・19-31)
【晴佐久神父様 説教】
先週洗礼を受けた皆さんには改めて、「おめでとう! よろしくね。そして、もうだいじょうぶだ、信じて歩んで行け」と、そう心から申し上げたい。
大勢の受洗者が、先週はここで涙を流しましたが、私も涙を流しました。「もうだいじょうぶだ。恐れるな。主は復活された。あなたも復活した」。私はそう宣言いたしますし、その喜びを、生涯忘れないでいただきたいと、心からそう願います。
そして、受洗者はもちろん、主の復活に
主は本当に復活されました。それは2千年前に、ひとりの人が生き返ったという話じゃない。世界が、宇宙が、決定的に神さまの新しい恵みの段階に入ったということです。2千年前に起こった、その素晴らしい出来事は、今日も続いているし、これからも続いていくし、やがて完成の日を迎える。その喜びをみんなにちゃんと伝えるために出発いたしましょう。
イエスさまが復活なさったのは、ただ「わたしは復活した。安心しなさい」っていうだけじゃない。「わたしと共に、あなたたちも復活した。さあ出発して、みんなに『もうだいじょうぶだ!』って告げに行け」と。これが主の命令です。
「あなたがたに平和があるように」ってね、復活の主のひと言。これ、聖書の中でも一番好きな言葉と言っていい。・・・「あなたがたに平和があるように」
この「平和」とは、何ひとつ欠けたところのない、恵みが満ち満ちた状態のことです。自分の人生にそんな素晴らしい日が来るなんて、とても思えなかったような最高の状態です。何ひとつ欠けたところがない完全な状態。悲しみも、苦しみも、恐れもない、神さまの完全な喜びが、この私のうちに実現するんです。
そんなことがあるものかと思っていたけれど、主が現れて、ひと言、「あなたがたに平和!」。このひと言で世界は変わったし、皆さんも変わったし、これから何があろうとも、私の真ん中に、その「主の平和」が宿っているから、恐れない。そして、どんな困難な現場にも出向いて行って、「ここにも平和!」、そう宣言して、みんなを救っちゃう。
皆さん、人を救えるんですよ。困ってる人、苦しんでいる人、大勢知ってますでしょ? 救えるんですよ。すごいことじゃないですか。皆さんも救い主とひとつになって、人々を救うことができる。何か欠けたところがあるような現場に行って、「ここに神の愛がある。信じるならば何ひとつ欠けていない」って宣言する。それによって、私たちは人を救うことができます。本当にできます。
さっき、このヨハネの黙示が読まれましたけど、まあ、この作者ほどではないけれど、私だって、そんなビジョンを感じることがありますよ。
このヨハネの黙示では「後ろで大きな声を聞いた」って、そうさっき読まれました。語りかける声の
私も同じような声を聞きますよ。「あなたが見ていること、体験していること、あなたが感じているそのビジョンを、必要としているすべての人にちゃんと語れ」。そういうモチベーションで、今日もこの教会で、私は皆さんに語ります。
じゃあ、私が見たことって何か。たとえば、先週の洗礼式。まぼろしどころじゃない。現実の出来事だし、その目に見える現実の出来事の向こうに、黙示のように、神さまが素晴らしい
神は今日も働いている。一人ひとりに、「あなたがたに平和!」と言って恵みを与えてくださる。その平和は皆さんを満たして、皆さんから今度、たくさんの人に広がっていく。それが見えるようですよ。
イエスさまがフ―ッて、息吹きかけましたでしょ? その息は目に見えない息だけれども、今日も私たちに吹き込んでくるし、あまりのその勢い、力に、私たちから、今度は他の人にもそれが吹き及んでいく。
無人島に行くと、時々、ダウンバーストっていうのを体験するんですけど、ご存じですかね? とてつもないエネルギーを持った下降気流のことです。昼間、熱い海で暖められた水蒸気が、ゴンゴンと湧く巨大な入道雲になって、8千メートル位まで沸き起こっていって、そこにはものすごいエネルギーが溜められる。それが夕方になって少し冷えてくると、いきなり下降気流になって、地上に向かってすごい風がドーーッと下りてくるんですよ。
で、その風は、海なら海面に当たると、四方八方に広がるんですね。風は海の中にまでは行けないから、ドーーッと落ちてきた風が、海面にぶつかって、四方八方にものすごい風になって広がるんです。それが広がった後に、雨がドカーーンと落ちてくる。
このダウンバースト、巻き込まれると飛行機だって落ちちゃうくらい怖い風ですけれど、無人島みたいな所にいて何十年も様々な気象を経験していると、時々あるんですよ、これが。「あっ、来た」ってわかるんです。ゴンッと落ちてきた風が、四方八方に海の上を広がってくでしょ、その最先端があるわけですよ。それがサーーッと来ると、すぐにわかる。
まず、上空からだから、冷たい。そしてものすごい湿気を含んでいる。そんな第一波がサーーッと来ると、「来たぞ! タープ畳め! 飛びやすい物片付けろ! 来るぞ、来るぞ!」 そして、テントに逃げ込む。その後で、大風がドカーーンとやって来て、やがてスコールの雨がドカーーンと襲ってくる。
あの風のエネルギーったらないですよ。天からドーーンと落ちてきて、世界に広まっていく風。もう、僕のイメージでは、このイエスの口から溢れてきた風は、そんなイメージですよ。ものすごいエネルギーがある。
「息を吹きかけて言われた」って、こうひと言で読むとね、ふ〜んって読み過ごしちゃうかもしれないけど、イエスさまが「フーッ」って、それはもう、全宇宙、全歴史、全人類に吹きかけられたんであって、ただの「フーッ」ていうようなもんじゃない。天から吹いてくる聖霊の風、聖霊降臨の日には、ゴーーッと嵐のような音が聞こえたってありますでしょ? そんな風を、イエスが私たちの魂に吹き込んでくれた。
何のためか。ドンッと私に落ちてきたその風が、私から今度はみんなに、パーーッと広まってくためですよ。みんな、その風を必要としているから。
そのエネルギーはすごいですよ。どんな壁も、邪魔も吹き飛ばす、本物の風。私はその風を、全面的に受け止めたい。邪魔せずに、すべて自分の中に、受け止めたい。するとその風は今度、私から、縦横無尽、自由自在に吹き荒れていって、たくさんの人を救う。・・・聖霊の働きです。
さっき「今日こそ神がつくられた日。喜び歌え」って答唱詩編で歌いましたでしょ? 「わたしは死なず、わたしは生きる」っていう歌詞がありました。
「わたしは死なず、わたしは生きる」
それはまさに、聖なる霊に生かされるわけですけれども、何のためかというと、「神のわざを告げるために」と、そう歌いました。さっき歌ったはずですよ。
神によって、死なずに生かされているのは、「神のわざを告げるため」なんです。だから「神のわざ」を告げていなければ、私たちは生かされても意味がないってことになる。ちゃ〜んと告げましょうよ。証ししましょう。
受洗者なんかは、特に今、熱い時期じゃないですか。(会衆席前方の人に)あなた、さっき、入祭のときから、グロリア、栄光の賛歌に至るあたりまで泣いてましたでしょ。見てましたよ。(笑)それとも、目がかゆかったの?(笑)いやいや、ちゃんと見てましたよ。皆さん、新受洗者が、ミサに感動してウルウルきてましたよ。私、そういうあなたを見ていると、やっぱりうれしい。説教の場で言うのもなんですけど、あなたの手紙、ありました。読みましたよ。
ほら、先週「お手紙読んでいただけましたか?」って言われて、私、「えっ?」とかって、キョトンとしてましたでしょ。実はいただいた手紙、バッグに入れたまんまで、開けてませんでした。すみません。でも、昨日たまたま見つけて、読みました。それで、あなたがどれほど苦しい試練の日々を生き抜いてきたか、よくわかりました。ある程度はお聞きしてましたけど、これほどとは思わなかった。そして、「ああ、そうだったか、そうだったか」と、洗礼があなたにとってどれほどうれしかったかということが、改めてよく分かりました。
今あなたに、もう一度はっきり申し上げたい。もうだいじょうぶ。絶対にだいじょうぶ。100パーセント、信仰をかけて、お誓い申し上げましょう。・・・もうだいじょうぶ!
あなたは洗礼を受けた。神の愛があなたに宿って、そしてイエスから聖なる息吹をフ―ッとかけられ、「あなたに平和!」「あなたがたに平和!」「あなたは何も欠けていない!」。
ねえ、「自分は欠けている」と思って今までこの世をさまよってきた、あなたのあの長文のお手紙。いや〜、それは苦しかっただろうと思うけど、でも私、どんな苦しい手紙読んでも、どんなつらい過去を聞いても、「それでもだいじょうぶだ!」っていう福音しか語れない。もちろんその苦しみに共感するし、同情もするし、それがどれほど痛いことかって、心から理解するけれども、でも私としては、何ていうんでしょう、ちょうど泣いている赤ん坊にお母さんが「はいはい、今行くからね、だいじょうぶよ」って言うかのように、どんな過去を背負ってる人に対しても、「でも、だいじょうぶ。あなたは救われている。神が救っているのがわかる。あなたは必ずそれに気づくはずだ」、そうはっきり言えるんですよ。だって神さまが、そうおっしゃってるんだから。
その苦しみを知っている神が、今、あなたに関わって、「あなたに平和!」って宣言してるんだから、「もうだいじょうぶ」なんです。その「安心100パーセント」っていうヤツをね、今日、復活節第2主日、美しき神のいつくしみの主日に、ちゃんと受け止めます。
受洗者っていうのは、とっても熱い時期ですから、今こそあなたは、「私が救われた」っていうことを、誰かにちゃんと告げるチャンスですよ。親しい人、あるいは偶然出会った人でもいい、あらゆる機会に、「私、救われたんです。もうだいじょうぶなんです。あなたも救われてるんです」って、そう教えてあげてください。天からの強力な恵みの風があなたに吹き込んで、みんなに広がっていくっていう、恵みのときを迎えているんです。
人救えるって、うれしいことでしょう? 私たち誰もが、救われないで苦しんでいる大勢の人を見て、もどかしい思いをしてきたじゃないですか。気がついてください。信じるあなたが、信じられないで苦しんでいる人を救えるんです。
トマスは疑って苦しんでいた。その彼を救ったのは誰ですか? もちろんまずはキリストだけれど、実をいえば、仲間の弟子たちがちゃんと証ししたんじゃないですかねえ。私、すごくそれ思います。
だって、そもそもトマスはみんなと一緒にいなかったから、仲間が「主は復活した! 復活したんだ!」って盛り上がってる現場に来て、ショックを受け、すねたわけですよね、ある意味。「え? 俺はそんなの見てない、会ってない。信じるもんか。その傷の釘跡に指突っ込まない限り、俺は信じないからねっ」と、そこまで言った。
で、八日の後、イエスが現れるわけですけど、ちょっと考えてみたら、これ、変な話だと思いませんか? なんで「八日の後」なんですか? なんで1週間も、ご出現をもったいぶるんですか、イエスは。さっさと現れりゃあいいじゃないですか。トマスが「わたしは、その釘跡にこの指入れるまで決して信じない」と言うやいなやイエスが現れ、「さあ、突っ込んでみろ!」っていう話でもいいわけですよね? なぜ、イエスさま、そうしないんですか? 言うまでもなく、その八日間を、ホントに美しい証しの八日間として、神さまが与えてくれたんじゃないですか? すなわち、主に出会った弟子たちが、出会っていない仲間たちに、証しする時間として。
だって、普通に考えても想像つきますでしょ? ペトロ、ヨハネ、トマス・・・、みんなすごく親しい仲間ですよ。家族以上ですよ。苦楽を共にし、そして、ホントにつらい試練を共にした。その仲間のトマスに、「私たちは主を見た!」って証ししたのに信じてもらえなかったら、みんなどうすると思いますか? 「あっそ、信じないの。信じないんじゃしょーがねーな。勝手に滅びるがいい」って言いますか? 何度でも繰り返し繰り返し、「ホントに見たんだ。ホントに会ったんだ。『あなた方に平和』っていう、その平和に満たされて救われたんだ。お前ももう、救われたんだ。分かってくれよ。それともこの俺たちが、信じられないっていうのか」・・・そんなふうに一週間、誠心誠意語り続けたんじゃないですか? 愛してたら当たり前ですよね。
皆さんだって、もし自分が救われているのに、愛する人が疑いと恐れに飲み込まれていたら、どうしますか。精いっぱい、福音を宣言するはずじゃないですか。
きっと実は、そんな仲間たちの熱い証しの果てに、トマスは、もう信じる気になってたんじゃないかなあ。「そうだよな、ペトロ、お前がうそをつくはずがないもんな、もう分かった、信じよう」と。「でも、なんでイエスさま、俺にだけは現れてくれなかったんだ・・・」。
そんなトマスに、まあ、特別サービスですね。ちゃんとイエスさま、なんやかんや言いながらも現れてね、ご自分を示す。
私はでも、イエスさまに申し上げたい。「もう現れなくて結構ですよ」と。「見ないで私たちは信じますから。トマスのような第二世代、第三世代、第百世代、見ないでも信じる人たちがホントに救われてきたその歴史を私は知っているし、つい先週の洗礼式でも目の当たりにしたので、もう、直接目に見えるかたちで現れなくて結構です。この教会こそが、主の復活の、目に見えるしるしです」と、神さまにそう申し上げる。
先週洗礼受けたひとりは、早速もう転勤で出てっちゃうんですよね。とっても残念ですけど、しょうがない。20代の彼は、先週はあんなに喜んで洗礼受けてたけど、まあ、急な転勤で愛知県に引っ越すことになって、昨日の夜、お別れ会をいたしました。
昨夜のミサ後、若い仲間たちみんなでね、「元気でやってこいよ」とですね、お別れ会をした。お別れ会をして、「さよなら〜」って、「がんばってこいよ」って、別れたつもりですけど、そのまんま泊まって、結局このミサにもまた出てる。(笑)なかなか別れられない。(笑)
君は昨日、仲間たちが作詞作曲した最高のプレゼント、もらったじゃないですか。いい歌をもらいましたよね。仲間が作詞作曲して歌ったんですよ。いい歌でしたよ。今ここで歌えっていうムチャぶりはしませんが。
「去年出会ってぼくたちは仲良くなった。力持ちの君は雪かきを手伝ってくれた」みたいなね、思い出の歌詞がこうあって、そして「いってらっしゃい、いってらっしゃい」っていうサビがある。
「つらいときは電話して。苦しいときは帰っておいで」という歌詞もあった。それは、私たち信仰の家族の、真心からの思いです。どんなにつらいことがあっても、電話してください、歌詞にあったとおり。もし電話してきたら、はっきり言いますよ。「だいじょうぶだ。お前は洗礼を受けた。恐れるな! イエスがついている。あなたの信仰を証ししなさい」と。そしてホントに苦しかったら、いつでも帰ってきたらいいんですよ。
「多摩教会は君のホーム」っていう歌詞もあった。まったくそのとおりです。
洗礼を受けたこの教会が、私たちの家です。ここに主がおられて、私たちは遣わされて出発するんです。もう、恐れることはない。私たちは出かけていって、すべての罪をゆるします。イエスさまが命じたとおりに。罪というのは、神を知らない状態でしょ? その現場に私たちは出かけていって、「神はおられる。私は救われた。あなたも救われる」と言うとき、この罪の世は復活するんです。
復活の主が、今日皆さんに、ちゃんと語ったひと言を、胸に刻んで出発しましょう。
「あなたがたに平和!」
「あなたがたに平和!!」
「あなたがたに・・・平和」
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