3回「もうだめ!」って叫んだら

2013年3月24日 受難の主日
・第1朗読:イザヤの預言(イザヤ50・4-7)
・第2朗読:使徒パウロのフィリピの教会への手紙(フィリピ2・6-11)
・受難朗読:ルカによる主イエス・キリストの受難(ルカ23・1-49)

【晴佐久神父様 説教】

 受難の朗読を聞きました。
 イエスさまが、自ら進んで危険なエルサレムに向かい、自ら十字架を担い、自らのすべてを十字架上で捧げる。・・・どうしてそんなことをしているのでしょうか。
 ・・・それが、神のみ心だからです。
 私たちも今日、この受難の主日に、自分にとって神のみ心が何であるかを、深く、祈りのうちに受け止める。それが一番大事なこと。
 神のみ心が何であるかを知り、受け入れること。「私」という存在を神のみ心のうちに受け入れ、「今」という状況を神のみ心として受け入れ、あらゆることに神のみ心が働いていると信じて、「み心が行われますように」と祈る。・・・そんな祈りを、この受難の主日に捧げます。

 先週も被災地を回ってまいりましたけれども、現地ではそれこそ、「み心を受け入れる」という信仰によって生かされている、大勢の人に会ってまいりました。
 今、この現実にあって、これがみ心と信じて受け入れる。いいことも、いやなことも。いいことを受け入れるのは、それは簡単。いやなことを受け入れるのは、やはり大変。それでも、すべてを十字架として、み心として受け入れる。そのとき、その十字架の向こうに、復活の喜び、天の栄光が開けてくる。
 イエスさまは、み心を受け入れました。それによって、復活の喜び、すべての人の救いがもたらされました。私たちも、み心を受け入れます。「ああ、これは大変だな、いやだな」と思いながら、それでも、これもみ心と信じて、受け入れる。でも、それはただ苦しんで終わりじゃない。そのみ心を受け入れるならば、復活の喜び、栄光がもたらされると信じて、受け入れます。
 ・・・み心はまさに、希望を生み出す心です。

 先週、盛岡、宮古、大槌、釜石と、三日間かけて回ってまいりました。
 盛岡ではミサとお話をしたんですけど、その前に、盛岡の信者さんが近郊の修道院に連れて行ってくれました。観想修道会です。観想修道会、ご存じですか。シスター方が、塀の中から一歩も出ずに、生涯、祈りのうちに生きています。清貧で、簡素な暮らしです。祈りに明け暮れて、食事の時も沈黙です。
 昔でしたら、食事中に係りの人が霊的な本を朗読してたんですけど、今はテープでいろいろな講話を聞いたりしているようです。それを聞きながら、沈黙のうちに食事をするわけですね。最近はFEBCラジオ放送の晴佐久神父の説教を録音して流しているそうです。シスター方は、その晴佐久神父さんが盛岡に来ると聞いて、「ぜひお会いしたい」ということで、信者さん達が私を連れて行ってくれた、といういきさつです。
 信者さんの話によると、シスター方はホントに質素な暮らしで、お金を寄付しても貧しい人たちに渡してしまうから、野菜や果物といった現物で支援しているそうです。塀の中で、生涯、ただただ祈りと労働。そんなシスター方をお訪ねして、心洗われる思いでした。
 シスター方、私のことをホントに心待ちにしてくださっていて、車を停めて修道院の玄関のドアの前まで来ると、中からサッと開いて、「ようこそいらっしゃいました!」って。あれ、隙間から(のぞ)いてたんですね。(笑)もう、自動ドア状態。玄関の中でず〜っと待ってたんでしょう。近づいただけでパッと開いて、「ようこそ!」って。
 面会の部屋に通されたんですけど、昔でしたら格子越しだったのが、今は柵越しでね。シスター方はほとんど外部と接触しませんから、そんな面会室でお会いします。待っていると、皆さんおそろいの黒いベールに白い服で、前掛けのように白い布を垂らして、その中に両手を入れてね、ぞろぞろっと、満面の笑顔で入ってこられました。
 「にこやか」とはこういう顔か、というような、ホントに邪気のない、かわいらしい笑顔で、なぜかとっても小柄なシスターが7、8人、ぞろぞろっと一列で入って来たので、なんだかディズニー映画の「白雪姫と7人の小人たち」みたいで、(笑)おとぎの国のようでした。ああ、ここに幸いなる天国はもう始まっている、という感じ。いろいろとお話をしたんですけど、「まあ、ラジオのお声と一緒!」(笑)ってね、喜んでくださいました。
 あそこで、このシスターたちは、何をしているんでしょう。「塀の中で、何にもしないで祈っているだけでいいのか」なんて意地悪なこと言う人がいるとしたら、それは違う。シスター方は、まさに「すべては神のみ心」と信じて受け入れ、そこに居続け、すべての人のために祈り続ける奉仕をしてるんですよ。
 被災者を具体的に応援するのもいいかもしれない。それも大事な生き方。でも、「私は生涯、神のみ心を信じます。神によって生まれ神によって生かされ、やがて神のもとに帰っていく、そのような人生を、ひたすら神のことだけ思って、お捧げします」、そう言って、神の喜びをこの世に分かち与えるために、塀の中でニコニコしながら、感謝と賛美のうちに、毎日過ごしている。まさに、被災地にそのような塀の内側があることが、何よりの励まし、希望になるはずだと、つくづく感じ入りました。

 そんなシスター方、いつもラジオで私の声聞いてくださっているわけですが、今、ふと説教台を見ると、そのラジオ局のレコーダーがあるので、今日のこの説教もいつか放送で流されることになると思います。ということは、シスター方も、いつかこれを聞くということですよね・・・。
 シスター方、聞いてますか?(笑)今、お食事中ですね? あなたたちが、本当に神さまの喜びをこの世に表すような笑顔で、そこで、ただただ、ひたすら信じる者として生き続けていることが、みんなを励ましてますよ。私たちにとっての希望ですよ。シスター方、ありがとうございます。
 「み心が行われますように」とあなたたちが祈っているとき、世界に「み心」が実現いたします。このことを、こうしてラジオでお話すれば、多くの人たちが、「そんな祈りで今日がある」「そんな祈りに支えられて、私もみ心を受け入れる」、そう思ってくれますよ。
 ラジオ放送、便利ですね。こうして、塀の中のシスター方にも励ましを送ることができますから。

 宮古では、いつものおせんべい屋さんに寄りました。いつも多摩教会で取り寄せて売ってるおせんべいを作っているところです。南部せんべい。宮古訪問はもう3回目になります。一番最初に行ったとき、街はまだホントにひどい状況でしたけど、このおせんべい屋さん、天井付近まで水に浸かりながらも、かろうじて家が残っていて、ボランティアベースからお弁当をお届けしたご縁でお知り合いになりました。営業をもう諦めかけてたんですけどね、津波の直後は。でも頑張って、「またおせんべい焼きます!」と再開したところでした。昔ながらの製法で作るおいしいおせんべいなので、「ぜひ多摩教会でも、売らせてください」とお願いして、送ってもらってます。今やうちの人気商品ですけど。
 だけど、今回、被災してちょうど2年たって、今は何だか体の調子も思わしくなく、少し元気をなくしているところでした。ですから、お訪ねしたらホントに喜んでくれてね。だけど、正直な気持ちも話してくれました。
 「神父さま、正直言って、神さまに向かって『私、もうダメ! もう無理! やっていけない!』そう悲鳴を上げることがあるんですよ。そんなことでいいんでしょうか」
 それで、お答えしました。
 「ああ、いいですよ、いいですよ。もうダメ、もう無理っていうこと、私たちにはありますよね。悲鳴を上げたくなるとき。だれにもそんなときは確かにある。それでもいいんですよ、それも立派なお祈りです。『神さま、もうダメ、もう無理、やっていけない』って、どうぞ、正直に祈ってください。ただし、そんな風に3回祈ったら、その後に、ち〜いさな声でいいから、ひと言でいいから、
『・・・でも、み旨のままに』って言ってください。ささやくような、小さな声でいいんです。ちょっとだけ、付け加えてください。3回『もうだめ!』って叫んだら、1回、『・・・でも、み心が行われますように』と」。
 彼女は、すごく素直にそのことを受け止めてくれて、「はい、わかりました!」ってニッコリしてくれました。頑張ってる彼女のために、ちょっと冗談めかして、でもすごく大切なこととして申し上げたんですよ。「ひと言、ち〜いさな声で、付け加えてください」って。
 それはもう、まずはただ、口で言うだけでもいいんです。「み心が行われますように」って。そうひとこと言ったら、ちょっとはそんな気持ちになれるかも。
 確かに現実、つらいですよ。「もうダメ、もう無理! もうやめてほしい!」って思うことがある。それはもう正直に、神さまにぶつけましょう。で、3回ぶつけたら、1回、「でも、み心が行われますように・・・」と、そうひと言付け加えます。それこそが、最後の夜のイエスさまの祈りでしたから。

 宮古で会った他の信者さんですけども、ミサの後でお話してたら、同じようなことを言ってて、ただこの方は、またちょっと別の言い方をしていて、おもしろかった。
 「神父さま、私、神さまに、『こうあってほしい、こうしてください』って一生懸命お祈りするんですけど、いつもちっとも実現しないんです。願いは、叶わない。それで、諦めて、『それじゃ神さま、もうすべてお任せします。み心が行われますように』ってお祈りすると、不思議といいことがいっぱいあるんです」。
 これ、いいですね。「ああしてくれ、こうしてくれ」って、私たちは具体的に祈りますけど、大抵はちっとも叶えてもらえない。それで、「それじゃしょうがない。もうあとはみ心にお任せします。み旨のままに」って祈ると、なぜか不思議といいことが次々起こる。
 最初からそのいいことを狙って「み心が」って言うんじゃ、ちょっとどうかって気もしますけど。(笑)まあ、正直にあれこれ具体的にお祈りするのは悪いことではありませんが、それが叶わないときに、「自分の思いとか計画じゃなくって、神よ、あなたのみ心を行ってください」と、ふっとそう祈れたときに、真の天国が開けていくんじゃないですか。

 大槌訪問は4回目ですけれど、大槌のベースでは私と同期の叙階の神父がずっと頑張っているので、彼を励ましてまいりました。彼、あらゆる困難の中で、常に前を見て頑張ってるんですよ。応援しないわけにいきません。
 皆さんからの義援金は、今回、被災者支援している盛岡の信者のグループと、この大槌にお届けしてまいりました。「神父さまも現場でいろいろとやりくりにお困りでしょうから、こんなところに使いたいと神父さまが思われるところに、ご自由にお使いください」と。「制約なしに使えるお金っていうのが必要でしょう」って言ったら、「わかってくれますか。ありがとう、そういうのが一番助かる」って、ホントに喜んでくださいました。
 大槌のベースは、もともとホテルだったところで、そのホテルの持ち主がカトリック信者で、自分のホテルを提供してるんですけど、その方とも今回、お会いできました。この方も試練の中でどこまでも前向きな方で、この2年、本当に頑張ってこられた方です。だけど、つい先日、大槌の街の2メートルのかさ上げが決まってしまい、そのベースをまた移転しなきゃならなくなってしまいました。ようやくベースも軌道に乗り、スタッフもこんなに頑張ってるのに、またも次の試練が襲ってくるということで、普通なら「もう無理」っていうような状況の中、この人たちがそこに、信じて居続けてるんです。
 ともかく二人とも、その神父も支配人も、非常に前向きなんですよ。「いや〜、まいったよ、でも、やってける、やってける。ここがダメなら、どっかに移りゃあいいんだろ」みたいな感じで。現地に信頼されて、本当に素晴らしい働きをしているベースです。皆さんもぜひ応援していただきたい。
 「これもみ心」ってね、何があっても現実を受け入れて、み心を信じてそこにい続ける。逃げ出さない。自分の考えで、あっち行ったりこっち行ったりじゃなくて、もうともかく、神に選ばれた者として、その地にあり続ける。そんな信仰が、どれほど尊いか。
 皆さんでいえば、皆さんそれぞれの困難な現実の中、なおもその現場に、信じる者としてい続けるってことです。「これもみ心」と信じながらね。・・・大槌の皆さんから、そんな励ましを受けた気がいたしました。

 最後に釜石に行ったんですけど、釜石訪問はもう10回近くになるんじゃないかな。親しい友人で、釜石ベースで頑張っているスタッフたちもいるので、励ましてきました。もう長いことそこでベース長を補佐し続けている友人が、ホントにいい働きをしているんで、頑張ってもらいたいし、いつも励ましてくるんですけど、時にはもう力がなくなった〜みたいな感じになることもありますし、ふらりと多摩教会を訪れたこともあるんですよ。
 そんな彼が、今回行ってみたら、私にね、こう言うんですよ、「いつも、もうだめだ、もう無理だ、もうやめようって時に、誰かが来て励まされて、しょうがない、もう少し頑張るかっていう気になる。実は今日も、ホントにもう無理って、心折れそうになってて、もうやめようかって思ってたんだけど、一番いやなタイミングで晴佐久神父が来た」って。(笑)そして、「み旨を信じて、頑張ってやっていきます」と、そう言ってくれましたよ。
 もう無理っていうときに、ひと言、「でも、み心が行われますように」って付け加える。それこそが信仰です。
 釜石ベース、ついに、NPO法人になったんです。これ、素晴らしいことなんですよ。地元で絶大な信頼を得ていて、「寄り添い型支援」ということをずっと続けてきて、今、NPO法人として、新たに出発しようとしています。「カリタス釜石」という法人として、新たに出発いたします。ここもどうぞ応援してください。
 釜石でずっとベース長をやっていて、今回その法人の副理事長にもなった、私の親しい友人がいて、いつも応援してきたんですが、今回、私を見るなり、言うんですよ。
 「あの・・・ワゴン車1台、お願いします!」(※)
 ホントにすまなさそうな顔で、しかし、決してノーとは言わせないという顔で、「ワゴン車1台」。
 私は、もう、即答いたしました。
 ・・・「お任せくださいっ!」(笑)
 正直、心の中では、え〜〜!? 大丈夫かな・・・とか思いながら、「お任せください」。
 まあ、ここでカッコつけないとね。そういう支援をするために現地を訪れ続けているわけですから。ニーズを聞いて、持ち帰って、集めて、お届けする。
 今回は、被災地のNPO法人として、また更なる働きのために、商用のワゴン車、後ろがフラットになるヤツですね、それがどうしても必要だということで、引き受けて帰ってまいりました。少しずつでも結構ですから、ぜひ、皆さんにご協力いただければと思います。
 ホントに、現地の人たち頑張っているんで、応援してください。復興はこれからなんですよ。ただですね、ワゴン車のハイエースクラス、結構高いんです。もちろん中古でいいんですけれども、実は現地にいい出物があるとかで、「それが、180万なんです」って、しまいには具体的数字も出てまいりました。(笑)
 でも私たち、去年は福島の壊れたマリア像のために100万集めて送りましたもんね。今回も、「ひと月で揃えます」とお約束しちゃいました。向こうも早く必要ですから。来月、4月の25、26日と、私また釜石に行きますので、「そのときに耳揃えて持ってまいります!」と申し上げました。なにとぞよろしくお願いします。少しずつでも、みんなの思いが集まるとね、大きな力になります。
 お届けするのは、ただの車じゃありませんから。「私たちはあなたたちの仲間だ。あなたたちの苦しみを忘れてない。あなたたちの苦しみを一緒に背負いたい」っていう、その思いです。
 ・・・苦しみを一緒に背負ってくださるイエスさまの思い。

 昨日、多摩市の病院をお訪ねして、今日のこの受難の主日の典礼の一部を、ひと足先にやってきました。苦しい病気を背負って、非常につらい、苦しい中で、一生懸命耐えて生きている方がおられます。
 昨日お訪ねしたときは、「特に午前中、苦しくて、苦しくて、身の置き所がない」って言ってたんで、もう本当にかわいそうで、大変だなあって思いました。それで、枕元で、今日のこの受難の朗読をいたしましたけれど、その中でちょうど、イエスさまが隣の盗賊に、「あなたは今日、わたしと一緒に楽園にいる」って言ってくれたじゃないですか。思うに、イエスさまが私と同じ苦しみを背負っているっていう意味では、この隣の盗賊くらい、ある意味、幸いな人、いないんですよ。
 私たちも、まるで十字架につけられるような、すごく苦しい思いをすることがあるかもしれません。でも、この盗賊は、実際に自分が十字架につけられているときに、隣に、一緒に救い主が十字架についてるんですよ。これ、すごいことですよね。ある意味、うらやましいというか。そして苦しい中、「イエスさま、わたしを忘れないで」って言ったら、「あなたはわたしと一緒に楽園にいる」って言ってもらえる。これこそが、イエスさまでしょう。
 だから、ベッドの上のその方に、昨日もお話しました。特に午前中が苦しいっていうことなので、「午前中、ホントにもう身の置き所もないほど苦しいとき、すぐ隣に、目に見えないベッドがあって、目には見えないけど、イエスさまがそこにいて、あなたとおんなじ苦しみを一緒に背負ってくれているって、そう信じてください。そのイエスさまがあなたを楽園に連れて行ってくれますよ」と、そう申し上げました。
 その方、優しい方でね、「私、そんなつらい時は、同じ階の、他の病室の患者さんたちのために、いつもお祈りしてるんです」と、そうおっしゃってました。それ、私たちがホントはお祈りしなきゃいけないのに。

 そんな祈りに支えられて、私たちは「今日」を生きてるんです。病床で祈っている人、被災地で頑張っている人、「もうダメ!」って言いながら、それでも「み心が行われますように」っていう人、塀の中、神の喜びの中で、生涯祈り続けている人、・・・そんなみんなに支えられて、この受難の主日を過ごしてるんです。


【 参照 】

(※)「あの・・・ワゴン車1台、お願いします!」
・・・「福音の村」では、募金をお願いしております。詳細はこちらをご覧ください。・・・
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( 2013年4月21日現在で、合計841,000円を募金していただき、多摩教会などの募金と合わせ、目標額を遥かにこえてお届けすることができました。改めて、皆さまのご協力に、心から感謝申し上げます。<「福音の村」スタッフ2013年4月22日> )
 → ご参考 : 「ワゴン到着」
  ( 届けられたワゴンの写真と「カリタス釜石」からのお礼の手紙 2013年5月

2013年3月24日 (日) 録音/2013年4月1日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英