テロに打ち勝つ王道

【カトリック浅草教会】

2016年7月17日 年間第16主日
・ 第1朗読:創世記:(創世記18・1-10a)
・ 第2朗読:使徒パウロのコロサイの教会への手紙(コロサイ1・24-28)
・ 福音朗読:ルカによる福音(ルカ10・38-42)

【晴佐久神父様 説教】

 悲しいニュースのお話からしなければならないのは、ホントに残念ですが、またまたテロが起こって(※1)。・・・この現実を、私たちはやはり無視するわけにはいかない。「なんでこんなことになるんだろう」と考えなきゃならない。自分のこととして思わなきゃならない。そして、「解決することができるはずだ」という希望を新たにしなければならない。・・・そういうときだと思います。
 「精神的に不安定な方だった」と、そう報道されております(※2)。・・・南フランスのニースで起こった今回のテロの犯人のことですけれども。
 人の心の中には、恐れがあり、怒りがあります。この人も、精神的に不安定な中で、しかも離婚状態だったということですから、さまざまな悲しみや怒り、がっかりするような思いを抱えて生きていたところに、ネットで出会った過激思想からの影響を受けて、大勢の人たちが集まっている所にトラックで突っ込んでいった。・・・トラックで突っ込むといえば、かつて、日本でもそういう事件がありました。秋葉原です。このすぐ近くでありました(※3)。記憶に新しい。
 それほどの怒り、それほどの攻撃心。それを、どのように収めることができるのか。私はできると思います。今日の福音(※4)も、そのことを語っているんだと思う。

 昨晩、「福音カフェ」という集いを開きました。福音を語り合う、学生たちの集いです。ほとんど第一回に等しかったんで、お互いに今後のことなどを話し合ったりしましたけれども、10人ほどの学生で、いろいろと、胸の内を語り合いました。
 私、早稲田大学の教壇に立っておりますが、同僚に神父がいます。フランス人の神父です。昨日の福音カフェにお招きしたら、学生たちに話しに来てくれました。日本語がほとんどしゃべれないので、通訳の人も付いてですが。
 この神父が、学生たちに、「自分はホントに何のために生きているのか。明日、もう自分が死ぬとしたら、自分は一体どのような存在であるのか」というような、根源的な質問をしていました。もちろん、今回のテロのことを受けて、学生たちに根源的なことを問いかけたのです。彼はフランス人ですし、しかも南フランスの方ですから、今回のテロには大変ショックを受けておられました。
 彼が言うには、昨年11月のテロ(※5)のときは、まだ、「あれはカフェや劇場の若者たちを狙った思想犯だ」と、そういう認識でしたから、パリの人たちは「負けるものか!」と、「自分たちはコーヒーを飲み、音楽を聴くんだ」と、「街に繰り出そう!」と言っておりましたが、今回はまったくの無差別ですし、なんだか思想性も希薄な一人の人が、ごく普通の人々の中に突っ込んできた。去年と同じように対応することは、もはやできなくなっている。フランスの人たちも、「自分たちが何か間違えてるんじゃないか」「そもそも、今の世界はどこかに問題があるんじゃないか」と、それを考え始めているし、どこか虚無感にさえ、とらわれ始めている。この現実を、学生たちにも、自分のこととして考えてほしいと、まあ、そういうお気持ちだったようです。
 ・・・皆さんは、どうお思いになりますか?
 「これでいい」と思ってますか?
 今の世界、今の暮らし、今の信仰、・・・もしも「これでいい」と思っているとしたら、私たちの内にも、やがてやはり大きな問題が起こる。

 聖書が「マルタとマリア」という二人の姉妹の、ある日の出来事を分かりやすく対比させて、私たちに「どうしたらいいか」ということを教えてくれていると思う。
 マルタは何が問題なんですか? いいことしてるじゃないですか。精いっぱいおもてなしをしている。実際、それは問題ありません。よく、「おもてなしをするのは当然でしょう」とか、「だれかがやらなければならないんじゃないですか?」とか、そういう意味でマルタを擁護する人がいるんですけど、「もてなすことが問題だ」なんて、イエスさまはひと言も言ってない。むしろ、旅人をもてなすのは義務であり、使命ですらある。イエスが問題だと言ってるのは、マルタがそのために「心を乱している」 (ルカ10:41) ことです。
 イエスさまは、「何をするにせよ、どのように生きるにせよ、その心の内はどうなのか」と、そう問うておられます。
 「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している」(ルカ10:41)
 それがまず、根源的な問題なんですよ。すべての問題は、そこから始まってる。
 「多くのことに思い悩んで、心が乱れている状態」、これこそが罪の状態です。神の平和から離れている状態。
 「いや、そんなこといっても、生きていれば多くのことに思い悩むでしょう」と、「どうしたって心は乱れるでしょう」と、「そういう現代社会でしょう」と、そう思うとしたら、まさにわれわれキリスト者は、そんな誘惑に負けちゃいけないんです。
 では、どうすれば負けずに済むか。
 ・・・マリアに見習いましょう。マリアはどうしているか。もはや「もてなす」ことさえも忘れて、イエスさま以外のことは、どうでもよくなって、イエスに没頭しています。イエスと共にあって、イエスのみ言葉を聞いて、信じて、安らいでいる。恐れない。・・・心がね、スッと澄んで、静かな喜びに満たされて。マリアはそのとき、イエスと深くつながっております。イエスはマルタに、それを「ただ一つの必要なことだ」と言い、「それを取り上げるな」と言いました (cf.ルカ10:42)
 おそらく、私が想像するに、マルタは恐れているんだと思います。
 ・・・何を?
 自分の無力さを。
 「自分は役に立たない人間なんじゃないか」
 「人から認められるために、もっと頑張って役に立たなきゃならないんじゃないか」
 「人から受け入れられ、褒められ、評価され、そうして自分が生きている意味を、確かなものにしていかなければ」
 …マルタは、そんな恐れにとらわれて、必死だったんだと思う。恐れのただ中で、さみしかったんだと思う。
 必死におもてなしをしている、それは一見いいこと、正しいことのように見えるけれども、そのマルタの心はイエスとつながってない。イエスの心から離れている。イエスは別においしいパンが出て来なくても、寝床がちゃんと用意されてなくても、決して文句を言うようなお方じゃない。イエスは、「そんなことは、もう、どうでもいい。マルタ、マルタ、お前ともちゃんと向き合いたい。お前の心の恐れを取り払って、お前の心に安らぎを取り戻してあげたい」、そう思っておられる。
 だから、マルタもマリアと一緒に座ればよかったんですよ。
 でも、マルタの中に恐れがあり、「もっとちゃんとしなきゃ」「叱られないようにしなきゃ」「褒められるようにしなきゃ」・・・、たぶんそうやって、頑張って生きてきたんでしょう。イエスさまが来られると聞いて、名誉に感じると同時に不安も感じて、緊張したんでしょう。そして、「こうしなければならない」「ああしなければならない」と、心がいっぱいになって、結果、イエスは見えなくなる。
 そんな心の乱れの中に、「怒り」が沸き起こります。
 「マリアは何にも手伝わない・・・。イエスさまのそばにベッタリ! だいたい、イエスさまもイエスさまよ。マリアにひとこと言ってくれればいいのに!」
 この怒り。この嫉妬。・・・この怒りと嫉妬から、すべての悪が始まるんじゃないですか?
 ここからテロまで一直線だと、私は思う。
 多くのことに思い悩み、心を乱していて、そんな不安定な状態のところに、さまざまな過激思想で怒りを植え付けられている、そんな人、この世の中に大勢いる。しかも今の世の中は、ネットで何とでもつながれる。武器となるトラックも借りられる。大勢の人が集まってる所に突っ込むことさえできる。心の怒りから、・・・小さなたった一人の心の怒りから、大きなテロまで一直線です。
 この怒りを静めることができるのは、イエスさまです。
 「イエスさまと、どうしたらつながれるか」と、それを私たち、考えなきゃならないし、特に心に怒りが沸き起こってきたとき、少なくとも、「主よ、私を救ってください」と、主の足もとに座ってみ言葉に耳を澄ますような(cf.ルカ10:39)、そんなひと時が必要です。

 私も、ついこの前、非常に怒られてしまいました。
 日曜日の深夜に、見知らぬ男性から電話がきて、1時間、強い調子でず~っと怒られました。岐阜県の方で、ある教会で洗礼を受けているって言ってました。
 何を怒ってるかっていうと、「晴佐久神父、あんたは、『神の愛を信じてほしい』『あなたは必ず救われる』、そのようなことを安易に言うけれども、自分は非常に苦しんでいて、ちっとも救われない。第一、人を救うのは神であって、『あなたは必ず』などと言ってはいけない」というようなことでありました。
 「自分のように、とても孤独な人間の気持ちが分かるか」というようなことも言い、「お前は人気があるからって、いい気になっている。偽善者だ!」と、そうも言った。
 私はもう、即答いたしました。
 「はい、偽善者です・・・」
 すると、「じゃあ、神父やめろ」と言う。そして、こうも言った。
 「キリストで飯を食うな!」
 これには私、「これちょっと、カッコイイな」とも思った。・・・すごくないですか? この表現。
 「キリストで飯を食うな」
 その絶妙な言葉遣いに、私、「この人、好きかも」って思い始めました。
 まあ、「偽善者」ですし、「キリストで飯を食ってる」のも言われりゃそうですし、何言われてもしょうがない半端な神父であることは、わざわざ言われなくても、本人が百も千も承知です。・・・でも、だからといって、やめるわけにはいかないし、み言葉を語らないわけにはいかない。
 「そうして怒ってるあなたも、愛されているんです」と、「どんなに孤独でも、救われてるんです」と、まあ、そんなようなことを精いっぱい語りました。
 しかし、彼は言うんです。
 「もう俺は絶望した。これから死ぬ。今いるマンションから飛び降りて死ぬ」
 私が、「そんなことしちゃいけない!」と止めると、彼はこう言うんです。
 「それなら、止めに来い。来るまでは生きていよう」
 止めに来いといっても、岐阜県ですし、もう午前0時を回っていましたし・・・。
 そもそも、彼の怒りを静めることができるのか。彼が、しゃべっているうちに興奮してきて、私に、「死ね!」とまで言ったこと、これは生涯忘れません。生まれて初めて、人からリアルで「死ね」と言われた。・・・まあ、言葉のあやとはいえ、これほどの怒りを果たして静めることができるのだろうかという恐れが沸き起こる。
 「はるばる行って、果たしてホントに会えるんだろうか」「住所はデタラメで、見知らぬところをウロウロするだけじゃないか」「会ったら、また何時間も怒られるんじゃないか」「もしかして、目の前で飛び降りられるんじゃないか」・・・。そんな恐れも、一瞬、心をよぎりましたけれども、しかし、「イエスさまと共に行けば、だれでも必ず救われる」という体験を今までしてきましたので、即答いたしました。
 ・・・「行きましょう」

 翌日、岐阜まで行ってまいりました。ちょうどメチャメチャ暑い日で(※6)。・・・ありましたでしょ? 暑い日。名古屋で新幹線降りて、東海道線に乗り換えて行ったんですけど、岐阜って所はホントに暑くって、「よくこんなとこに人が住んでるな」っていうくらい。・・・いや~、暑かったですよ。
 捜し回って、アパートに着いて階段上っていったら、「この部屋だ」っていうのが、もう、すぐに分かった。なぜなら、廊下にずらっと並んでいるドアの中の一つだけが開いていて、閉まらないようにドアノブが紐で縛ってあったから。その気持ち、分かりますでしょ? 風通しのためじゃない。だって中を(のぞ)いたら、窓は閉まってクーラーかかってるんだもん。歓迎してくれてるんですよ。なんとしても入ってきてほしいんです。
 彼がどんな気持ちで電話してきたか、「この部屋で電話してたのか・・・」と思うと、すごく切なくなりました。部屋の中はきれいに片付けられていて、ちゃんと掃除してある。部屋の真ん中には卓袱台(ちゃぶだい)があって、その上にお弁当が二人分載せてあって、冷えたビールとおつまみと、アイスクリームまで、ぜんぶ用意してある。
 その卓袱台の横に本人が座って、「ホントに来てくれたんですね!」と驚いて、そして、両手をついて、「昨晩は、罵詈雑言の数々、どうかおゆるしください」と、そう謝りました。私は、「もう、それは過ぎた話。これからは友達になりましょう」と、そう申し上げて、ゆっくりと二人で話しました。「せっかくですから」と言って、ビールを飲みながらね。もう、ここぞとばかりに、次々と福音に関する質問攻めにあいました。・・・い~い時間でしたよ。
 「これが平和か」と。・・・それこそ、イエスさまの足もとに座っているような時間。穏やかで、信頼関係を持って、友達になる瞬間。・・・い~い時間でした。
 話してみればその方、純粋で、傷つきやすく、正直で優しくて、本当にいい人なんです。ただ、彼は、本当につらい人生を生きて来たんですね。そのことを話してくれました。
 母親に捨てられて、とても寂しかった子どものころ。いじめられていじめられて、誰も信用できなくなって、極度の人間不信になった日々。中学高校と、学校に行っても何一つ楽しいことがない青春時代。大人になっても、あっちから排除され、こっちとぶつかり、誰一人信用できる友達がいない。・・・心の中には寂しさと怒り。救いを求めて教会に行っても、教会でも孤立してしまう。
 「そんな時に、ネットで晴佐久神父の福音を読んだ。本当はとても救われた。・・・けれども、私は嫉妬したんです」と。
 私は、「これが教会じゃないですか。キリスト者同士が二人、信頼関係をつくって座ってるんだから。ここから始めましょうよ」と、そう申し上げました。
 帰る時間になると、「あと30分一緒にいてくれ!」と、必死に頼まれて、切なかった。それで、夜の予定を電話で変えて、もう30分おりました。彼は帰り際に、「必ず神父さまの教会をお訪ねします」と、そう言ってくれましたので、私も、「名古屋方面に来たら、またお寄りしますよ」と、そう申し上げて別れました。

 数日前に、その彼から、丁重なお便りが来ました。「わざわざ来てくださって、ありがとうございます」と、「私は、再び人を信じることができるようになりました」と、そう書いてあった。
 深夜に、「死ね」とまで言って怒り続けた彼は、それから24時間たたないうちに、とても平和な気持ちになって、「再び人を信じることができるようになった」と、そう言う。
 ・・・自分の中の恐れを超え、恐れに打ち勝つ瞬間、すなわち、神の愛が、キリストの平和が、あらゆる怒り、あらゆるテロに打ち勝つと、そう信じた瞬間、そのとき、そこに平和が生まれます。

 マリアは、良い道を選びました(cf.ルカ10:42)。私たちも、それを選びましょう。
 私たちの教会が、主の足もとで信頼関係を育て、真に平和を味わう教会でありますように。
 恐れを超えて、怒っている人を受け入れる教会でありますように。
 それこそが、テロに打ち勝つ王道であると、信じます。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます。)

※1:「またまたテロが起こって」
 2016年7月14日、フランス南部のニースで、革命記念日の花火見物に訪れていた群衆に大型トラックが突っ込み、少なくとも84人が死亡し、202人の負傷者が出た。トラックはおよそ2キロにわたって人ごみの中を暴走、その後トラックに乗っていた男は銃を乱射し、警官によって射殺された。過激派組織「イスラム国」系のメディアが「イスラム国の戦士が作戦を実行した」との声明を出しているが、信ぴょう性は不明。
(参考)
・ 「仏でテロ、84人死亡=202人負傷、群衆にトラック突入-16日から3日間服喪」(時事通信2016/7/167/17閲覧
・ 「仏ニースで84人死亡、群集にトラック突っ込む チュニジア人の男射殺」(ロイター2016/7/157/17閲覧
・ 「2016ニーストラックテロ事件」(ウィキペディア)
・ 「仏ニース・テロ 一覧」(CNN.co.jp)
・ 「仏ニースのトラック突入 一覧」(AFP)
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※2:「『精神的に不安定な方だった』と、そう報道されております」
 時事通信社の「時事ドットコムニュース」には、「仏メディアは17日、実行犯のモハメド・ラフエジブフレル容疑者(31)は、事件の2週間前から酒をやめていたと伝えた。容疑者が離婚や経済的な困窮のために落ち込んでいた可能性も浮上。当局は、容疑者が精神的に不安定な状態に陥り、過激主義に傾倒したとの見方を強めている」とある。
 (参考)・ 「2週間前から断酒=離婚、困窮で悩みか-仏テロ容疑者」(時事通信社2016/7/177/17閲覧
 また、日テレNEWS24にも、容疑者の父親の談として、「彼は問題を抱え、精神的な病気になった。医者に診せ、処方箋をもらっていた」とある。
 (参考)・ 「父親『息子は精神的な病気だった』仏テロ」(日テレNews24 2016/7/167/17閲覧
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※3:「トラックで突っ込むといえば、かつて、日本でもそういう事件がありました。秋葉原です。このすぐ近くでありました」
 2008年6月8日の12時30分過ぎに、東京都千代田区外神田(秋葉原)で起きた「秋葉原通り魔事件」(秋葉原無差別殺傷事件)。〔浅草教会からは約1キロ、歩いて15分弱ほどの場所〕
 日曜日の昼過ぎ、歩行者天国になっていたその場所に、2トントラックで赤信号を無視し交差点に突入。横断中の歩行者をはね、その後、周囲の人を立て続けにナイフで殺傷。7人が亡くなり、10人が負傷した。
(参考)
・ 「秋葉原通り魔事件」(ウィキペディア)
・ 「秋葉原通り魔事件から8年」(Pinky 2016/06/092016/7/17閲覧
・ 「加藤智大の生い立ち【秋葉原通り魔事件】」(NAVER まとめ 201605/272016/7/17閲覧 など
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※4:「今日の福音」
この日2016年7月16日(年間第16主日)の福音朗読箇所は、以下のとおり。
 ルカによる福音書10章38~42節。
  〈小見出し:「マルタとマリア」〉
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【あらすじ】
 ある村で、マルタという女が、イエスたち一行を自分の家に迎え入れた。マリアというマルタの姉妹はイエスの足もとに座って、その話に聞き入っており、マルタの方は、いろいろなもてなしのために、せわしく働いていた。
 マルタはイエスに言った。
「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」 (ルカ10:40)
 イエスはそれに対し、こうお答えになった。
 
「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。 しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」 (ルカ10:41-42)
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※5:「昨年11月のテロ」
 フランスのパリで、昨年(2015年)11月13日夜、パリ中心部の劇場やレストラン、近郊のスタジアムなど少なくとも6か所で爆発や銃撃などの同時多発テロ事件が起きた。死者130名、負傷者300名以上に及び、フランスで戦後最悪のテロ事件となった。14日、過激派組織「イスラム国」が犯行声明を出し、それによると、実行犯8人が送り込まれていた。
(参考)
・ 「パリで同時多発テロ、死者120人超 仏は国境封鎖へ」(朝日新聞デジタル 2015/11/142016/7/17閲覧
・ 「パリ同時多発テロ事件」(朝日デジタル・タイムライン2015/11/252016/7/17閲覧
・ 「パリ同時多発テロ」(朝日デジタル・トピックス)2016/7/17閲覧
・ 「パリ同時多発テロ事件」(ウィキペディア)
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※6:「ちょうどメチャメチャ暑い日で」
 その日(2016年7月11日)の岐阜県は、最高気温が35度を超す、猛烈な暑さとなっていた。
(参考)
・ 「岐阜県の実況天気(2016年7月11日)」(日本気象協会)
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2016年7月17日 (日) 録音/2016年8月5日掲載
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