2014年11月16日年間第33主日
・第1朗読:箴言(箴言31・10-13、19-20、30-31)
・第2朗読:使徒パウロのテサロニケの教会への手紙(一テサロニ5・1-6)
・福音朗読:マタイによる福音(マタイ25・14-30、または25・14-15、19-21)
【晴佐久神父様 説教】
「ようこそ、『あしぶえの会』の皆さん!」と、申し上げましょう。
このミサに、私の前任の高円寺教会(※1)の障害者の集い、「あしぶえの会」(※2)の皆さんが、お慕いする元主任司祭を訪ねて、(笑)来てくださいました。
でもね、うれしいもんなんですよ。もう10年前に立ち上げた障害者のグループですけれども、10年たっても、こうして訪ねて来てくれるというのは、司祭冥利に尽きるんです。教会替わる時、みんな、「訪ねて行くからね!」「必ず行くからね!!」って言うけど、まあ〜、来やしない。(笑) でも、「あしぶえの会」の皆さんのことは、ちょっとかわいがりましたからね。(笑)
会を立ち上げるとき、懐かしいですね。信徒館ホールの丸いテーブルの所で、会の名前を決めるミーティングやって、「あしぶえの会」に決めたんでした。あのとき、私がタゴール(※3)の詩なんか持ち出しちゃってね。
私が大好きなタゴールの『ギーターンジャリ』(※4)っていう散文詩があるんですけど、103まで番号があって、その1番が、
「神さまは、私を限りない、永遠なる存在にしてくれた」というような一節で始まるんですけど、こう続くんですよ。
「あなたは私を何度も
私は、小さな1本の
あなたはそれを、野に山に持ち歩いて
あなたが息を吹き込むと
私は永遠に新しいメロディーを奏でる」
・・・とまあ、そんなような詩です。美しいでしょう?
ここに、「葦笛」(※5)っていう言葉が出てくるわけですけど、すぐにポキッと折れてしまうような笛ですよね、葦笛って。それこそ、立派な硬い笛とは違って、「葦」で作られてる。細い草の茎ですよね。すぐにポキッと折れちゃうし、枯れちゃうし、そんなちっちゃい1本の笛なんだけど、神さまが息を吹き込むと、私たちは永遠のメロディーを奏でることができる。・・・人はだれであれ、自分の力では鳴り出せないんです。
実際、私たちって、まあ、障害を持っているとか、さまざまな限界を抱えているとか、本当に小さな弱い存在です。でも、だからこそ、「どんな存在でもいい、私たちがそこにいるだけで、もう神さまが、何か素晴らしいことの役に立ててくださる。神さまは、弱い私たちに息を吹き込んで、素晴らしいメロディーを奏でてくださる。それを全面的に信じよう」、そういう思いを込めた、会の名前でした。
今日、その「あしぶえの会」の方が16名、車いすの方が3人、全盲の方が3人、聴覚障害の方は、今日来られなかったんですね、残念でした。手話通訳者さんも来られたのにね。
この仲間たちは、高円寺教会の、何て言うんでしょう、・・・「宝もの」でしたよ。神さまが集めてくださった素晴らしい仲間たちでした。みんな仲良くて、よく遠足に行ってましたよね。教会の近くの「セシオン杉並」(※6)に繰り出したりね。そこの1階のロビーで談笑してたら、職員から、「ここは会合の場じゃないから、よそに行ってください」って追い払われたり。・・・懐かしいねえ。
私、次の週の説教で、「こんな天国的な集まりを追い出すなんてとんでもない。みんなであのロビーにもう一度おしゃべりに行こう!」とかって、(笑)けしかけたんでしたよね〜。
今日、イエスさまが、タラントンのたとえを話してくれましたけれど(※7)、み〜んな、素晴らしい力を、恵みを、可能性を与えられている。それは体が丈夫、丈夫でない、関係ない。若い、年取ってる、関係ない。まったく関係ない。健康であろうと、病気であろうと、良い人であろうと、悪い人であろうと、まったく関係ない。・・・「まったく」ですよ。「すべての」人に、神さまが、今日も、タラントンを与えている。恵みを与え続けている。ご自分の聖なる息を吹き込んでいる。
私たちができることといったら、そんな細〜い小さな葦笛かもしれないけれど、ちょっときれいに磨いてね、詰まらないようにごみを取ってですね、自分を大切にしていれば、あとはもう、神さまが働いてくださる。それがタラントンを増やすってことだし、私たちはそれを信じるのみです。
そりゃあ、立派なホルンみたいなのとか、トランペットみたいなのとか、金ぴかでね、パンパカパ〜ンって目立っていて、それに比べてこんな私みたいな葦笛は・・・って思うとしたら、それは違う。
神さまが奏でてくださるその永遠のメロディーは、本人が自らをゆだねて、喜んでそれを奏でていれば、何倍にでもなる。最終的には、それが何倍にもなったっていうのは、もはや、人間が量ることじゃないんでしょうね。神さまだけが、それが何倍にもなっていることを知っているし、それを褒めてくださるし、一緒に喜んでくださる。
何歳になったって、体が弱ったって、私たちはそのような、神さまの小さな小さな楽器として鳴り響くことができるっていうのは、大きな大きな希望ですし、「さあ、今日からまたやってこう!」っていう、そういう励ましとしていただきたいです。
このタラントンのたとえ、短いバージョンで読みました。後半の所は、タラントンを増やさなかった人が叱られるっていう話ですが、これは、頂いた恵みの素晴らしさを疑ったり、恵みをもらえないんじゃないかって怯えたりしちゃいけないよっていう意味です。私たちもついつい疑っちゃいますけど、「たいしたものもらってない」とか、「どうせ消えちゃう」とかって、絶対思わないでください。頂いているものは必ず増えるって信じて、自分はそれを増やすことができるって信じて、日々小さなチャレンジを神さまにお捧げすれば、それは素晴らしいメロディーになって、天国に鳴り響きますよ。
で、私は今日は絶対、
私は石川遼でゴルフファンになり、
錦織くんについては、昨日の試合でも、あのうるさい松岡修造(※9)が、(笑)いろいろと言ってました。
「錦織くんは、昔は体も弱かった。メンタルも弱かった。だけど、ここまで来た。だから子どもたちに言いたい。がんばれ!」みたいなこと。いや、「がんばれ」って言われてもね、「がんばれるんなら、がんばりますよ」って言いたくなるけど、でも、彼の言うとおりです。体も弱くって、心も弱かった一人の少年が、あんな輝く舞台でね、世界一の選手と渡り合っているのを見ると、やっぱり励まされるわけですよ。
もしかして、自分にもできるんじゃないかって。
もちろん、テニス選手になれるとは思わないけれど、だれにだって、目に見えない世界では、その人だけの「私の分野」っていうのがあるはずなんですよね。・・・それぞれの「葦笛」の分野が。全員にあるはずです。そして、そこで、私たちは勝負する。それが、できるはずです。
先週、羽生結弦の話をしたときは、そのことを、「霊的アスリート」っていう言い方でお話ししました。(※10) 私たちは皆、魂の世界のアスリートなんだ、と。
で、だけど、これはよく考えてみると、スポーツよりも、もっと格上の話なんじゃないですか、永遠なる「魂の世界」の話なんだから。
そして、スポーツの世界では、たとえばやり過ぎると怪我したりね、あるいは、年を取ったら、もうできなくなるとかあるけれど、魂の世界なら、これ、無限なんです。私たちは、永遠に新しいメロディーを奏でることができるんです。・・・「永遠に」ですよ。
「私、もう70年がんばってきて、もうそろそろ休みます」って、そんな話じゃない。70年やってもできなかったことを、もしかしたら魂の世界では、たった三日でできるかもしれない。神さまから注ぎ込まれている恵みに心を開いて、自らを捧げて、神さまのメロディーを、永遠のメロディーを、新しいメロディーを、奏でることができる。
・・・すごいことだと思いませんか?
テレビ見て、「あれはトップクラスのアスリートだ。カッコいいなあ。自分はあんなふうにはできっこない。でもせめて、あんなふうにやっている人を応援することで、少しいい気持になろう」なんて思ってるとしたら、こんなもったいない話はない。およそキリスト者たるもの、「私は、魂の世界では、あれ以上だ」って思っていただかないと。
私はそう思ってますよ、錦織に負けるものかと。もちろん、テニスコートに立てば絶対負けると思いますけど、自分の分野、「霊的な分野」では絶対負けないぞ、と。それくらいやっぱり、訓練をしていきたいし、タラントンを増やす「練習」っていうんですかねえ、何かこう、先週の言い方だと「意地」、そういうものを第一にして、やっていきたいんです。
だって魂の世界だったら、もう、いつでもどこでも、どんな場合でも勝負できるんですよ。一年中決勝戦。そして、アスリートでもそうだけど、特に弱ってるときとか、参ってるとき、スランプのとき、そういうときこそが勝負なわけでしょ。そういうときに、腐らず、諦めず、どれだけやってきたかが、その先に輝いていくわけだし。
昨日も第1セットは、もう散々だった。第2セットになると見違えるようになった。さあ、第3セットは!?って思って見てたら、第3セットは、残念ながら、折れちゃった感じがありましたよねえ。
だけどあの「うるさい松岡修造」が、(笑)解説してましたけど、第2セット、ジョコビッチ(※11)もスランプだったんですよね。でも、そこをどれだけ持ちこたえたか。で、第3セットも、ジョコビッチはちっとも自分本来のテニスはできていなかった。でも、そこをどれだけ持ちこたえたか。世界一は、そこが違うんだ。・・・みたいなこと言ってました。
言われてみると、なるほど、調子いいときにキラキラ輝いているっていうのは、そりゃまあ、誰でもそう。やっぱり、勝負は調子悪いとき。もうダメっていうようなとき。そのときにギリギリで持ちこたえてこそ、最高の試合をしていることになるし、与えられた恵みを増やしていることになる。
・・・それこそ「タラントン」っていうことですよね。試練の中で、なおも信じて、どれだけ増やせるかっていうこと。
障害を持っているみなさんも、ギリギリの日々で大変でしょうね。・・・(一人の車椅子の方と目が合って)ああ、懐かしいねえ、あなたのお宅も、よくお訪ねしましたよね。(笑)(その方がお礼を言い始めたので)あっ、はいはい、どういたしまして。すいません、ここ、おしゃべりする場じゃなかったですね(笑)。いやホントに、お会いすれば、パッと10年戻りますもんね。あのころも、いろいろ大変でした。・・・懐かしいねえ。
・・・でもね、いろいろ大変なのは事実なんだけれど、その大変さの中でぼくらが奏でてるメロディーほど美しいものはない。皆さんが奏でてきたメロディーは、永遠に鳴り響いています。これはもう、私は確信がある。
誰でも、美しいメロディーを奏でられます。特に、一番大変なとき、生涯の最後のときにはね、究極のメロディーを奏でられるんじゃないですか?
この『ギーターンジャリ』でも、何番だったか(引用者注:95番)、ず〜っと後ろの方で、ステキなイメージで「死」のことを語ってるんですけど、
「私はこの世に来て、新しい朝を迎えた時、名もない不思議な方が私を抱き上げてくれた。だから、今度、私が死ぬ時も、その名もない不思議な方が私を抱き上げてくれる。そう、母親というものは、右の乳房を吸っていた赤ん坊を引き離すと、赤ん坊は泣きだすけれども、すぐに左の乳房を吸わせると泣き止む」っていうような詩があるんです。
・・・ね、ステキなイメージでしょう?
「右の乳房」を吸っていることが、この世のことなんですよ。
で、引き離されると、赤ちゃんは泣きだす。
「死にたくないよ、怖いよ〜!」。
で、すぐに「左の乳房」を吸わせる。そうすると、赤ちゃん泣き止んで、幸せにミルクを飲むことができる。
つまり、この世から神の国に移るっていうことは、「右の乳房」から「左の乳房」に移るっていう程度のことなんです。・・・どっちにしても、お母さんが抱きかかえている。
そういうときに泣く赤ちゃんの泣き声も美しいメロディーのうちなんでしょうし、そうして天の母を信頼して奏でる、その人ならではの美しいメロディーを、どうぞ皆さん奏でてください。
私も負けず嫌いですから、霊的アスリートとしてですね、「絶対に負けないぞ」という気持ちで、日々訓練しているつもりです。何度でも何度でも、一番弱ってるとき、一番ダメなとき、自分なんか何の役にも立たないと思えるようなときこそ、「ここが勝負どころだ」と、私は勝負を仕掛けます。
ここで、もう1回信じる。
ここでこそ、もう1回祈る。
「それでも、神は愛だ」と、そう人に語ろう、
「それでも、あなたは絶対救われる」と、そう宣言しようと繰り返してまいりました。
そうするとね、やっぱり上手になるんですよね。
昨日、NHKスペシャルの再放送やってましたけど、繰り返し繰り返し練習すると、脳の中の、その部分の回路が太くなっていくっていうのを、映像で映してて、びっくりしました。
繰り返し練習してると、何チャラっていう神経回路に、何チャラっていう細胞が寄って来て、シュルシュルシュルっとね、脂肪の糸みたいのを巻きつけるんですよ、その細胞が。そうすると回路が太くなって、伝達スピードが上がる。すごいでしょ。皆さんの脳の中で起こってることですよ。
諦めちゃいけないんです。
繰り返し、繰り返し、練習していると、スポーツのことでも芸術のことでも、その細胞が寄って来て、シュルシュルシュルっと太くするんですよ。すると、伝達スピードが劇的に上がって上手になる。これ、信仰のことでもそうなってるはずでしょう。
私もいい加減ながらも場数踏んできましたから、たぶん、それこそ神さまと人をつなぐ、「福音回路」が太くなってるんじゃないですかね。
「それでも、私は神に愛されてるんだ」
「それでも、あなたは必ず救われるんだ」
「一番弱っている、一番傷ついている、一番つらい立場のあなたこそ、今、素晴らしいメロディーを奏でてるんだ」
そういうことを信じ続けてきましたから、たぶん私の脳の中だか、魂の中だかの、そういう分野の回路、結構太いと思いますよ。どんなに困難な状況にあっても、既成概念にとらわれず、福音の本質を相手に届けるための回路。
これからもますます、そこに素晴らしいものが流れるように工夫したいし、そうして天の国がちらっと見えるようになるまで、もっともっと鍛えたいと思う。
・・・一緒に、福音回路を鍛えましょうよ。誰でも太くできます。
寝たきりになったってできることですよ、これ、楽しいですしね。私、寝たきりにでもなったら、さらに鍛えるでしょうね、きっと。
「タラントン」、いくらでも増やせます。やっていきましょうよ。
この前、ある修道会で、神父たち30人を前にお話ししましたけど、まあ、いつものように、
「誰に対してでも、『あなたは必ず救われる!』って、みんなで宣言しましょう」って呼びかけたら、ある神父が、
「でも、『救われない人もいる』って聖書にありますよね」っていうようなことを言うんですよ。
まあ、これについては、救いとは何かってこともあるし、丁寧に話さなきゃならないところですけど、あまり時間もなかったし、「神はすべての人の救いを望んでおられ、神にできないことはない」というところを強調して、「ともかく客観的な神学や定義の話じゃなく、今現実に恐れの闇の中で苦しんでいる目の前の人に、あなたは『必ず』救われるって宣言するのは、愛でしょう」ってお話ししました。
まあ確かに、滅びを恐れる緊張感みたいなのが必要なことも、時にはあるかもしれないけれど、イエスさまが叱ってるのは、・・・なんていうんだろう、「神なんか、どうでもいい」みたいな人とか、「自分が神だ」と言わんばかりの傲慢な目を覚まさせるための表現としてなんですね。愛のムチみたいな。
われわれのように、救われないかもしれないと恐れてビクビクして苦しんでる人には、イエスさまは、「あなたを神は愛している!」「必ず救ってくれる!」って言い続けてくださったはず。ですから私は、「あなたは必ず救われる」って言い続けたいし、それはすなわち「すべての人が救われる」っていうことで、それをイエスさまと共に、全世界のあらゆる人に、どんな悪人にでも言い続けたいと思う。
「それが神のみこころだ」と。
「すべての人にタラントンを与えている神さまのみわざだ」と。
滅びるかもしれない可能性について神学的に語るよりも、目の前で、ホントに真っ暗闇の恐れの中で救いを求めて苦しんでいる人に、常に、「あなたは必ず救われる」と言い続けようと、そう思います。
そのとき質問した神父が、「しかし、アウグスティヌス(※12)によれば、人間には自由意思があって、神をも否定することができる。だから、滅びる人もいて、すべての人とは言えないはずだ」と。
まあ、確かに赤ちゃんはね、自由意志で「乳房」から口を離すことはできますけど、だけど、お母さん、結局またお乳を飲ませて育てちゃいますもんね。確かにアウグスティヌスも大切な神学者ですけど、彼は彼の時代に精いっぱいの表現をしたんであって、この時代にあっては、福音の本質をさらに精いっぱい表現しなくちゃならない。私、その時、「アウグスティヌスはこう言ってる」なんてその神父が言うもんだから、ついついムキになって、
「私はアウグスティヌスより偉大です」って、(笑)そう言っちゃった。(笑)
まあ、もちろん冗談で、口が滑りましたけれど、ある意味ですね、3世紀、4世紀の聖人は、その時代の哲学を用いて、その時代の人に語ってるんであって、今の時代に、やっぱり更なる神学は必要です。
その意味では、実は私、もう、「個人の救い」なんていう野蛮なこと、あんまり考えていません、最近では。「ハレサクティヌス」の神学では、(笑)「個人の救い」なんていうのは貧しい自我の生み出す幻想で、神が望んでいるのは「みんなの救い」です。
われわれ、実は深いところで、神秘的につながっています。
「個人」なんて考えるから、みんな、怖くなったり、「自分なんかは」とか思ったり、あいつは救われないとか言い出すけど、ぼくら、もっと一致しているし、「自我」を超えた「共通の自我」みたいなものに包まれているし、「救われる」っていうんなら、みんな芋づる式にくっついて救われちゃうんです。間違いなくそうです。そういうのを「救い」っていわなくちゃ。
「旦那は天国で、妻は地獄」、そんな話、あるわけないですよね。あるとしても、逆の方が多いかな、(笑) どっちにせよ、愛する人が地獄で永遠に苦しんでいて、天国で楽しめますか。これはもう、そういう子どもっぽい想定自体が破綻してるんじゃないですか。神の国が完成したときは、たぶん、今のわれわれのどんな理屈も知恵も超越した、聖なる裁きですべての人が包み込まれる世界が現れるでしょう。すべての人が一つにつながって、イエス・キリストそのものが完成するとき。それを「再臨」って言うんです。
第1朗読の箴言に出てきましたね。(※13)
「彼女は生涯の日々、夫に幸いはもたらすが、災いはもたらさない」(箴言31:12)
「主を
・・・だいじょうぶですか? 皆さん。
「夫に災いはもたらすが、幸いはもたらさない」奥さま、いないでしょうね? (笑)
主を畏れる女は、夫に幸いをもたらすことができる。妻と夫はつながっているから。
そのつながりこそ神の国の始まりですし、つながりの中でこそ、私たちは自由意志で生きることができるんです。
神さまが与えてくださった恵みを、「畏れる」生き方。
「畏れる」っていうのは、神のみ前に、自分が小さな者であることを知って、小さな一本の葦笛であることを知って、「こんな私が、神さまの恵みによって、美しい永遠のメロディーを奏でられるんだ」って、そう信じること。
主を畏れる葦笛は、みんなを一層結んで、周りに幸いをもたらすでしょうね。
私たちはみんな、もう、つながってます。
み〜んな、神さまの恵みの世界につながっています。
「つながったまま一緒に」、神の国に向かって進もうじゃないですか。
そういう救いの分野においても、錦織のATPファイナルみたいな、最高の舞台があるんでしたら、私たちキリスト者こそ、神と人を結ぶ霊的なトップアスリートとして、最高のメロディーを一緒に奏でましょうよ。
今日もこうしていろんな方が集まって、ミサというメロディーを奏でておりますけれど、この仲間で、これからも一緒に、永遠に新しいメロディーを奏でようじゃないですか。
そうすれば、きっとその日、神さま、言ってくださいますよ。
「よくやった! 忠実な良い
【 参照 】
※1:「高円寺教会」
◎カトリック高円寺教会
晴佐久神父の前任(2003年4月〜2009年4月)の教会。
住所 : 〒166-0003 杉並区高円寺南2-33-32 ℡:03-3314-5688
教会ホームページ: カトリック高円寺教会
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※2:「あしぶえの会」
カトリック高円寺教会の障害者の集い。障害の種類、程度、また、信者、未信者に関係なく、ボランティアの方々と、ともに(「友に」・「共に」)、励まし合い、支え合い、喜びを分かち合える場を提供している。
(参考)
・ あしぶえの会(カトリック高円寺教会 ホームページ)
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※3:「タゴール」
◎ラビンドラナート・ダゴール(英:Sir Rabindranath Tagore)
1861年5月7日-1941年8月7日
インドの詩人(詩聖)、思想家。他、哲学、小説、戯曲、絵画、音楽などの造詣も深かった。
幼い頃から詩作の能力に長け、美意識や理想も高く深く、祈りの視線で物事を見、詩にはその精神性が溢れている。
1913年、100ページ足らずの英文詩集、『ギーターンジャリ』(歌の捧げもの)によって、東洋初のノーベル賞となる、ノーベル文学賞受賞した。なお、この詩集の序文はW.B.イェーツが書いている。
インドとバングラディシュ国歌の作詞作曲者、タゴール国際大学の創設者でもある。
(参考)
・ 〜生命の詩人〜 ラビンドラナート・タゴール(ビューティフルワールド)
・ ラビンドラナート・タゴール(ウィキペディア)
・ タゴール作品(Amazon)
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※4:『ギーターンジャリ』
タゴールの詩集(1910年)。1912年、W.B.イェーツらの勧めでイギリスで出版された。1913年ノーベル文学賞受賞。
原題の「ギーター」は歌、「アンジャリ」は合掌で、「歌の捧げもの」や「歌の祈り」と訳されている。神への切なる思いを述べた叙情詩で、原詩は音楽的で美しい。ベンガル語版と英語版とは詩句の数も異なり、英語版は、英訳というより、選び出し、まとめ直したといえる。
(参考)
・ 『タゴール詩集 ギーターンジャリ』(Amazon)
・ 『詩集 ギタンジャリ(HPの掲載表記のまま)』(訳 高良とみ)全文が公開されています。
(いずみ書房ブログ「今日はこんな日>インドの詩聖タゴール」 ‐ 青空文庫) 他
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※5:「葦笛」
「あしぶえ」、または「よしぶえ」ともいう。葦の葉をまいて作ったものや、その茎で作った縦笛。
葦(あし)は、熱帯から温帯にかけての湿地帯に生える背の高いイネ科の植物で、茎の中は竹と同様、空洞なので、笛として加工しやすい。
海外では、葦の茎で作られたフランスの「ミルリトン」、スペインの「ケーナ」、アラブの「ナイ」などがある。
(参考)
・ 「よし笛」(google画像集)・・・「葦笛(よし笛)」を検索すると、表示される画像集です。
・ 「琵琶湖よし笛」のホームページ
・ 葦笛の踊り「バレエくるみ割り人形」より(「世界の民謡・動揺」) など
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※6:「セシオン杉並」
杉並区が経営する複合施設。地上3階地下1階。
杉並区社会教育センター、高円寺地域区民センター、高円寺区民事務所のほか、ホール、集会室などがあり、各種イベントでも利用されている。
(参考)
・ セシオン杉並(ウィキペディア)
・ 施設案内 セシオン杉並(すぎなみ)
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※7:「イエスさまがね、タラントンのたとえを話してくれましたけれど」
本日(2014年11月16日〈年間第33主日〉)の福音朗読箇所は、
「マタイによる福音書」25章14〜30節
〈小見出し:「タラントンのたとえ」〉
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なお、「タラントン」は、古代ギリシャの貨幣単位。
1タラントン=6,000デナリ(ドラクメ)
「1デナリ=1日の賃金」なので、「1タラントン=6,000日分(16年半程度)の賃金」ということになる。
口語訳聖書の表記によると、1デナリは5,000円程度とのことなので、それに従って計算すると、この福音書の箇所で、
「1万タラントンの借金を赦してもらった者が、自分は100デナリオン貸した仲間をゆるさなかった」ということは、
「3千億円の借金を赦してもらった者が、自分は50万円貸した仲間をゆるさなかった」ということになる。
また、このマタイ福音書25章15節に「それぞれの『力に応じて』タラントンを預けた」となっているところから、英語のtalent(能力、才能)の語源となった。
(参考)
・ 「聖書の貨幣」(ウィキペディア)
・ 「新約聖書の貨幣」(「布忠」個人のHP) ほか
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※8:「錦織の話を・・・」
・ 「錦織」: 錦織 圭(にしこり けい、1989年12月29日-)
島根県出身の男子プロテニス選手。日清食品所属。
ATP(英:Association of Tennis Professionals ATP)(日:男子プロテニス協会)ランキング自己最高はシングルス5位。(2014年11月10日現在)
日本人初のグランドスラム4大大会シングルス準優勝。
*****
この説教の日(2014年11月16日)、ちょうど「バークレイATPワールドツアー・ファイナルズ(ツアー最終戦)」(イギリス・ロンドン/11月9日〜16日)の大会7日目で、決勝トーナメント・準決勝が行われ、錦織圭は、ノバク・ジョコビッチ(セルビア/ATPランキング1位)(※11参照)に敗れた。
(参考)
・ 「錦織圭」(ウィキペディア)
・ 「錦織圭」(スポーツナビ/選手プロフィール)
・ 「錦織敗退/ATPツアー最終戦/男子テニス」(THE TENNIS DAILY/Yahoo!JAPAN提供) など
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※9:「松岡修造」
・ 松岡修造(1967年11月6日-)
東京都出身の元男子プロテニス選手。テニス指導者。
ATP自己最高ランキングは、シングルス46位、ダブルス95位。ATPツアーでシングルス1勝、ダブルス1勝。
1995年、日本の男子テニスで62年ぶりに、ウィンブルドン選手権でベスト8出場。
現役引退後は、ジュニア選手の指導、テニス大会運営、日本テニス協会理事のほか、スポーツキャスター、タレントとしても活動している。
「諦めない、絶対できる、いつもポジティブ、しかし暑苦しい」との評価も。
***【余談:錦織選手との関係】***
錦織選手は13歳のとき、松岡氏が主催していた「修造チャレンジ」(将来が期待されるスポーツ選手を発掘するプロジェクト)で選出され、その後、フロリダの「IMGアカデミー」というテニス界の名門校に留学となった。
滞在費を含め、年間1000万円はかかるという、その費用を、ソニーの盛田会長が経営する「盛田ファンド」の援助を受けることになるのだが、この盛田会長、日本テニス協会の会長でもあり、援助のきっかけをつくったは、前出の「修造チャレンジ」への参加だという。
松岡氏が錦織選手の「育ての親」といわれるのは、そのため。
(参考)
・ 「松岡修造」(ウィキペディア)
・ 「松岡修造とは」(ニコニコ大百科〈仮〉)
・ 「ニュースゴシップ 松岡修造」(NAVERまとめ)
・ 「心の声に聞け!」(松岡修造オフィシャルサイト) ほか
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※10:「先週、・・・『霊的アスリート』っていう言い方でお話ししました」
先週(2014年11月9日〈ラテラン教会の献堂〉)の説教は、以下をご覧ください。
>>> 「意地でもあなたを赦します」
(「霊的アスリート」は、第一段落のおしまいの方に出ています)
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※11:「ジョコビッチ」
・ ノバク・ジョコビッチ(1987年5月22日-)
セルビアの男子プロテニス選手。
ATPランキング自己最高位はシングルス1位。ダブルス114位。
セルビア人初の4大大会優勝者。グランドスラム4大大会に7度優勝。
ロジャー・フェデラー、ラファエル・ナダル、アンディ・マレーと共にBIG4と称される。
(参考)
・ 「ノバク・ジョコビッチ」(ウィキペディア)
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※12:アウグスティヌス
・ アウグスティヌス〈ヒッポの〉(既出)
アウレリウス・アウグスティヌス(ラテン語:Aurelius Augustinus)354‐430
ラテン教父の伝統にあって最大の神学者・哲学者。その後のあらゆる思想潮流に対して多大の影響を与え、「西欧の父」と称せられる。
ローマ帝国末期、354年、アフリカのタガステで生まれる。青年期にマニ教、新プラトン主義などを遍歴するが、386年、劇的な回心。396年、故郷ヒッポの司教となる。以後終生西方教会の理論的指導者として司牧。『告白録』、『三位一体論』、『ヨハネ伝講解』、『神の国』など、神学、哲学、聖書注解など幾多の著作を連綿と著し、その後の西欧の思想と歴史そのものの支柱、源泉となる。晩年には異端論駁書も多い。
最後は、ヴァンダル族がヒッポの城壁を取り囲み、西ローマ帝国が崩壊への道を行く様を見つつ、しかも永遠なる神の国、万物が復活し集う全一的な姿を望見しつつ、430年、世を去る。(2008年『岩波キリスト教辞典』岩波書店から、抜粋)
概略的紹介は、アウグスティヌス(コトバンク)、アウグスティヌス(ウィキペディア〈フリー百科事典〉)など参照。
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※13:「第1朗読の箴言に出てきましたね」
本日(2014年11月16日〈年間第33主日〉)の第1朗読箇所は、
「箴言」31章10〜13節、19〜20節、30〜31節。
〈小見出し:「レムエルの言葉」より抜粋〉
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