私の中の主が、ゆるさない

【カトリック上野教会】

2016年5月8日 主の昇天
・第1朗読:使徒たちの宣教(使徒言行録1・1-11)
・第2朗読: ヘブライ人への手紙(ヘブライ9・24-28、10・19-23)
・福音朗読: ルカによる福音 (ルカ24・46-53)

【晴佐久神父様 説教】

 「主の昇天」の主日(※1)、主は、私たちを「祝福しながら、天に上げられた」 (cf.ルカ24:51) とありますが(※2)、さて、「天に上げられ」て、どこにいっちゃったんでしょうね。第1朗読では(※3)、「雲に覆われて」 (使徒1:9) とありますが、もちろん神話的な表現です。・・・どこいっちゃったんですか? イエスさま。
 目の前にイエスさまがおられれば、「ああ、イエスさま!」って分かって、お願いしたり、話し掛けられたりと、関係を持てるけど、目の前からいなくなったら、「どこ行っちゃったんだろう?」って分からなくなって、関係を持てない。それじゃ、ホントの関係じゃないですね。
 ホントの関係ならば、見えようと見えまいと、いつも深い交わりの中にあるってことですから、イエスさまが「天に上げられた」っていうのは、「どこかに行っちゃった」じゃなくって、目の前にいた時よりも、「いっそう近くに来てくれた」。これが真実です。
 だって、「天」っていうのは、空の上の話じゃないですもんね。われわれが生きる「地」は、見えない天に包まれているんだし、この私の魂の奥深くにも天は開けているんだし、だから、イエスさまが天に上げられたっていうことは、もう、「目の前の誰か」っていう他者じゃなくなって、いつでも、どこでも、どんな場合にでも、「そこに主がおられる」「この私と共にいる」「あなたとも共にいる」「永遠に私たちの内にある」っていう一致の喜びが始まったっていうこと。
 これ、目の前にイエスがいたら、そうはいかないですもんね。やっぱり他人じゃないですか。そうして「見えたらいる、見えないといない」じゃなくて、「天に昇って、目の前からは見えなくなった」、これは福音です。「いつもいる」ってことになったんだから。皆さんが寝てようと起きてようと、主は共におられる。喜んでるときも、悲しんでるときも、主が宿っている。
 で、誰にでも宿ってるっていっても、私にも宿ってる、皆さんにも宿ってる、だから今ここに何十人も主がいるとかってことじゃなく、主が宿っている私たちは主において一つになってる。・・・この感覚が素晴らしい。みんなの内に宿っている主は、一人の主。だから私たちは、ここにバラバラで座ってるんじゃなくて、まるで一人の人のように、一つの家族のように結ばれている。やがて永遠なる天にみんな生まれていって永遠の家族を知ったとき、「まさにあの時、あそこでこの家族が始まってたんだ」って思い起こすような恵みのとき、恵みの場が、今このミサにおいても実現している。
 主はここにおられる。私たちの一致の内に宿っている。それにしっかりと気づいてほしい。

 ミサを信じてここに集う私たちは、「私たちの中に、すでに主がおられる」って気づいている人たちです。だから、お互いに、特別な意味で一致してるわけですね。街なかで大勢の人が仲良く一緒にいても、それは気づいてない人たちです。・・・もちろん、気づいてないからといって、そこには主がいないってわけじゃないですよ。主は天に上げられてから、「今後は、俺を信じたヤツのとこにだけ行こう」とか、そんなケチなこと言ってるわけじゃない。「天に上げられた」ってことは、すべての人を包んでいる天におられるんだし、すべての人の魂の奥に天は開けてるんだから、そこにもおられるんだし、あとは、主がおられると「気づいているのか、気づいていないのか」。・・・ここが大事なんですよ。私の話は、そこにいつも集中します。・・・気づいているか、いないか。
 真実は、そこなんです。お願いしたからようやく来るような、ケチな主じゃない。
・・・「もう、来ている」。それに目覚められるか。それを信じられるか。
 一点、そこなんですよ。ひとたび目覚めたなら、どんな困難があろうと、どれほどもめごと(・ ・ ・ ・)があろうと、別になんてことはない。永遠なる主が共にいるんだから、嘆かない。恐れない。この世は過ぎ去るわけですし、やがて永遠なる神の国が実現するとき、私たちは、今のこの試練の準備期間を、懐かしく思い起こすことでしょう。・・・心からの喜びを持ってね。
 気づいていれば、目覚めていれば、主と共にある日々は、ホントに恵まれた日々です。目の前の人に主が宿っていることに気づいていれば、そして私自身にも主が宿っていると気づいていれば、その主ご自身が働きますし、主が語り掛けようとするし、どんどん私たち、結ばれていくんですよ。教会っていうのは、そのように目覚めた人の集いであり、そういう意味で、 大変恵まれた集い。・・・これを、知らない人には教えてあげたい。

 5月5日に、 「なかのZERO」の大ホールで、日本カトリック映画賞の授賞式兼上映会があって、今年選んだのは『あん』という素晴らしい映画ですけども(※4)、私はその授賞理由を壇上で述べ、そして、監督の河瀬直美さんに代わって主演女優がね、受け取ってくれました。 主演女優は、樹木希林さん。・・・来てくださったんですよ。おかげで、1300席ですか、満席に近かったです(※5)
 たぶん、その樹木希林さんと晴佐久神父の対談があるということで、あの自由奔放な大女優に純情な神父が振り回される姿を見たいと、(笑) それで大勢の人が来られたんじゃないかと思いますが、(笑) ・・・現実にそうなりました。
 私、反省しきりでね。なんか、あの対談、自分らしくなかったな〜と。やっぱり、大女優ですから、気を使っちゃったんですよ。もっと自由に壇上でお話しできたらよかったんだけど、なんか、「こんなこと聞いちゃダメかな」とか、気を使っちゃった。打ち合わせの時すでに振り回されてたんですけど、壇上でも、「あなた、そんな曖昧な質問しちゃダメよ」とか、(笑)突っ込まれながら。
 ・・・面白い方でしたよ。私と楽屋で会うなりね、「あら、お若いのね〜〜!」。 (笑) 「イケメンねえ、女性に気を付けなきゃダメよ」。(笑) ・・・余計なお世話だと思いましたけど。(笑)
 「その、首についてる白いものは何なの?」って言うから、
 「これは、ローマンカラー(※6)っていって、神父のしるしです」
 「まあ、どんな仕組みなのかしら?」
 「これは簡略版なんですけど、こうやって外せるんです」
 「あら、面白い。お似合いよ。・・・おモテになるでしょうねえ」
 ・・・ってかんじで、まあ、さすがの晴佐久神父もタジタジ。(笑)
 そんなこんなで、壇上でもタジタジで、自分らしくなかったな〜って。
 で、何がいけなかったのかな〜って反省して、私、思ったんです。・・・私、見事に「福音宣言」を忘れてた。もちろん、会場の皆さんにはしましたよ。壇上で、「立派な何かにならなくても、一人ひとりが、そこにいるだけで喜ばれる尊い存在だ」とかね、お話ししましたけど、「樹木希林」への福音宣言を忘れてた。・・・思いも寄らなかった。
 やっぱり、目の前の人の、恐れとか悩みとかに応えたかった。・・・あの人、がんですしね、やっぱりそういう話も聴き、受け止めて、救いを語り、あわよくば「洗礼も、いいもんですよ」、(笑) くらいは、言いたかった。・・・ぜんぜん忘れてました。やっぱり大女優を前にして、ちょっと緊張したというか、気を使ったというか、「ここで宗教のことなんか持ち出したら、嫌な思いするかな」とか。
 ・・・「よくないな〜」と思った。誰であれ、 ・・・大女優であれ、首相であれ、一人の神の子にすぎないわけですし、主が宿っているわけですし、向かい合ったら、まず「福音を語る」「福音においてつながる」、そういうことを心掛ければ、もっとイキイキとした交わりが持てたんじゃないかなと。

 その意味では、原作者のドリアン助川さん(※7)も来られていて、その方とは、リラックスして福音を語り合えたと思う。楽屋でもゆっくりお話しできたし、信仰の話もした。カトリックの普遍主義について関心も持ってくださったし。
 壇上では、ドリアンさん、こんなこと言ってた。
 「人は、世界を見るために生まれてくる」
 これが、この映画のテーマでもあったんですね。原作者の彼は、そう気づいたんですよ。
 ・・・「人は、この世界を見るために生まれてくる」
 これはまあ、「聴くため」でも、「触れるため」でも、「味わうため」でもいい。ともかく、人は、何にもできなくても、ただ、そこにいるだけでもう、意味がある。だって「見てる」わけだから。「聴いてる」わけだから。世界を「感じてる」わけだから。
 これは私の言い方ですけど、神さまは、そのために世界をつくったわけでしょ。一人の人が生まれてきて、人生においてさまざまな体験をするっていうのは、それは、「いいこと」であれ「悪いこと」であれ、意味がある。「いい」も「悪い」もない。「一人の存在として、この世界を体験する」、それは神の願いであり、本来的によいもの、美しい出来事であって、この世界を味わうために、神さまは私たちをこの世界に存在させている。私よく、「あなたが存在しなければ、この宇宙の意味がない」っていうんですけど、そういうことでしょう。
 ・・・彼はクリスチャンじゃないですけど、あるときそのような真理に気がついて、「人は、この世界を見るために生まれてきた」「何になれなくても、人には価値がある」っていうテーマの原作本を書き、映画を作ったんです。彼は、おおよそこんなようなことを言ってました。
 「科学では、ビッグバンっていって、宇宙は突然の大爆発で誕生したって説明する。だけど、たとえどんなに立派な宇宙が存在して、どんどん進化して、キラキラ輝いていても、そこにそれを、見て聞いて感動して受け止める人がいなければ、何の意味もない。
 最近、宇宙をいくら調べても、人と同じような高等生命がいるっていう証拠が、ぜんぜん見つからないでいる。もしかしたら人類は、ホントにこの大宇宙を見て、知って、感動して、創り主に感謝して、賛美するために、特別な存在として置かれてるんじゃないか。
 そう考えると、あなたが生まれたときこそが、ビッグバンじゃないですか?」
 ・・・ドリアンさん、そう言ったんですよ。
 つまり、「137億年前のビッグバンと、私の誕生は、同じことだ」と。
 だって、私が見なかったら、意味がないんだから。ただ、誰か一人でも、この宇宙をちゃんと見て、感動して、そして、その永遠なる神秘に身を委ねたとき、 その人も永遠なる存在となって、神さまの恵みを受けて生きる者となる。
 私も、真っ暗闇だった時代があった。神学生のとき。で、闇が極まったある夜、突然、自分は神に愛されている、神に生かされているという真理にボンッと気づいたとき、まさにそれはビッグバンみたいだった。そのことを、本に書いたこともある(※8)。それまでの闇の中に、突然、本当の自分が、ボンッとね、光り輝き始める。それこそが神の創造の(わざ)でしょう。誰でもが、そういう体験を、本来しているはずだし、そうであると気づくときが必要だし。
 もしかすると、皆さんの中のある人が、今この話を聴いていて、「そうだ! 私、ここにいるじゃないか! 私は永遠の存在なんだ。永遠の神が、私を、ここに、あらしめてるんだ・・・!」って気づいたとき、もう、誰かとの争い事とか、失敗してクヨクヨしたとか、そんなこと、どうでもよくなって、「今ここ」で、ひとつのビッグバンとして、真の私が輝きだすんじゃないか。
 ・・・いいことばだなと思って、私、壇上で、ドリアンさんに、「あの、そのビッグバンの話、今度の日曜の説教のネタにしていいですか?」って、(笑) ちゃんと確認したら、「どうぞ、どうぞ」って。

 復活の主は、私たちと共にいます。私たちが、その主に気づくとき、神さまの恵みの世界に目覚めるとき、 そのときが、私にとっての真の誕生であり、そこが、神の国の始まりなんでしょうね。
 「主の昇天に、わたしたちの未来の姿が示されています」っていう祈りが 今日のミサの中にありましたけれども(※9)、主は、もう、天に入りました。私たちも、主と共に、天に入る、いや、入り始めているんです。この福音に支えられて、困難な「今日」を、生きてまいりましょうよ。

 昨日も講演会で、四谷のホールが満席でしたけど(※10)、晴佐久神父さんを呼ぶっていうのに、ちっちゃなホールしか用意してないから、入りきれなくて、半分の人は、お御堂で、モニターで見てたんですよ。・・・祭壇前のおっきなスクリーンで。申し訳ないなあと思って、休憩時間にはお御堂のほうに行って、そこでも福音を語り、質問を受けました。
 その中に、「私はみんなから迫害されて、みんなから拒否されて、とてもつらいです。どうしたらいいでしょう」って質問した人がいたんです。
 私、お答えしました。 「あなたがどれだけこの世で迫害されようとも、拒否されようとも、悪いことを言われようとも、そんなことは過ぎ去ることであって、あなた自身には、永遠なる天が始まっているんだから、何言われようと、どうされようと、ニコニコしてなさい。この世で理不尽なことを言われたり、ひどいことをされたときには、「喜びに、喜べ」(cf.マタイ5:12)ってイエスさまも言ってる。「天には大きな報いがある」 (マタイ5:12) って言ってる。(※11)
 天にはちゃんと、この世で忍耐すればするほどたまる(・ ・ ・)ポイントがあるから、(笑) 何かひどいことを言われたら、おっ! ポイント2倍だ〜♪、シメシメ・・・(*^皿^*)と思いなさい」って、そうお話しいたしました。
 そういうのってやっぱり、「永遠なる天」とか、「すべての人の内に開けてる天」とか、そういう感覚でいないと無理でしょう。でも、主が共にいるって目覚めているならば、この世の人間関係のいざこざでね、誤解されたとか、傷つけられたとか、そ〜んなケチな話、どうでもよくなる。
 やっぱり、「主が天に上げられた」っていう、この神秘は、「私たちも天に入っていくんだ」という希望なんであって、これは今日の深〜い味わいです。それによって、私たちは、ホントに天を生きる仲間として結ばれていくのです。線路際のこの教会はいつも電車の音が響いてますけど、こうして電車の音がすれば、「あの電車に乗ってる大勢の人、果たしてどこに行くんだろう。ホントに向かうべきところを知ってるだろうか。自分のうちに開けている天に気づいているだろうか」って、気になりますよ。
 この聖堂の中では、信じましょう。そして、ここにみんなを招きましょうよ。

 数日前に、浅草教会に帰ってきたら、聖堂から一人の青年が出てきて、すれちがいました。・・・お祈りしてたんですね。スリランカ人だって言うんです。普段なら会釈して通り過ぎますけど、「Father? (神父さん?)」って、聞かれたんで、足を止めて、立ち話をしました。片言の英語でお話ししたんです。彼はまだ、ほとんど日本語がしゃべれない。
 聞けば、「ひと月前にスリランカから来て、日本語学校に通って勉強を始めたところだ」と。で、「日本人の友達がいない」と。「ときどき、ここに来てお祈りをしてます」と。で、「何かいいバイトがあれば働きたいんだけれど、見つかりません」と。まあ、そんなことでした。
 「そうですか。がんばってね。いつでもお祈りに来てくださいね」と、そう言って、「さよなら〜」ってすれ違ったんですけど。・・・でも私、そのとき、「ここで、『はい、さようなら』っていうのは、・・・何だろう、この私の中の主が、ゆるさない」みたいな感覚があったんですよ。
 いや、実はそのとき、買い物して帰ってきて、これから晩ご飯を食べようと思って、お惣菜を買って帰ってきたとこで。おなかも空いてるし、早くご飯食べたいんだけど、私の中の主がね、ちょっと、こう、彼に声を掛けたいんですね。だから、顔はそっち向いてるけど、こう、おなかはあっちみたいな、そんな感じでしたけれど、ま〜あ、やっぱり主が勝つわけですね。
 振り向いて、「ちょっと待った」と。「今度、一緒に食事しよう。教会の若い仲間を集めるから、来ませんか?」と誘いました。
 そしたら、すごく喜んでね、で、「金曜日なら来れる」って言うから、私、「ああ、この金曜日、ちょうどその日にみんな集まるんだ」と。・・・ホントはちょっと違うんですけどね、(笑) でも、もう決めたんです、「彼のための集まりをやる!」って。
 「ぜひ来たい!」って言ってるんで、そのスリランカ人の青年、そこで友達をつくって、その友達と仲良くなって、日本語もどんどん覚えて、そして、紹介されてバイトにも就いて、カトリック浅草教会が日本語学校のすぐ近くにあったということを心から感謝する日が、そのうちにくる。

 みんなの中に宿っている主イエスがですね、何か、素晴らしい(わざ)をしておられます。・・・私の中にもいる。スリランカ人の中にもいる。ここに集まっている皆さんの中にも、主がおられて、天に上げられた主は、今日も働いておられます。
 この、イヤ〜なことの多い世の中、救いを求めている世の中、私たちの内に宿っている主の出番ですよ。勇気を持って出発いたしましょう。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です)

※1:「『主の昇天』の主日」
 復活したキリストが40日間弟子たちのもとに現れた後、天に上げられたこと(使1:3-11)を祝うのが、この「主の昇天」の主日(祭日)。「昇天祭」「昇天日」ともいう。
 復活祭後の40日目に祝われる。4世紀末のエルサレムでは、復活祭から50日目に聖霊降臨の出来事と共に祝っていたが、他の地域では、復活祭から40日目に祝っていた。ヨハネ・クリュソストモス、アウグスティヌス、教皇レオ1世らが、昇天についての説教を残している。
 中世には、聖堂の屋根に十字架やキリスト像を引き上げるような習慣があった。今日でも、復活祭から40日目の木曜日を、昇天の日として祝う教派もあるが、日本のカトリック教会では、次の日曜日(聖霊降臨の主日の1週間前)に映して祝う。
(参考)
・ 「昇天祭」: 『岩波キリスト教辞典』(岩波書店、2008)
・ 「主の昇天」(「ひとくちメモ」<「カトリック中央協議会」)
・ 「C年 主の昇天」(「教会カレンダー」<「ラウダーテ」)
・ コラム「主の昇天の祭日(山本量太郎神父様)」「主の昇天(Sr.品川ヨシ子)」(「コラム」<「カトリック東京カテドラル関口教会」)
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※2:「主は、私たちを『祝福しながら、天に上げられた』(cf.ルカ24:51)とありますが」
この日、2016年5月8日(「主の昇天」の主日)の福音朗読箇所から引用。
 該当の福音朗読の箇所は、以下のとおり。
  ルカによる福音書24章46〜53節
   〈小見出し:「弟子たちに現れる」24章36〜49節から抜粋、「天に上げられる」50〜53節〉
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※3:「第1朗読では」
この日、2016年5月8日(「主の昇天」の主日)の第1朗読は以下のとおり。
 使徒言行録1章1〜11節
 〈小見出し:「はしがき」1章1〜2節、「約束の聖霊」3〜5節、「イエス、天に上げられる」6〜11節〉
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※4:「5月5日に、『なかのZERO』の大ホールで、日本カトリック映画賞の授賞式兼上映会があって、・・・」
〔すでに、「地獄も天国に」(2016年3月3日説教)でも取り上げられました。その際、参照「※3」でご紹介しましたが、以下、そこから抜粋いたします〕
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◎「カトリック映画賞」 既出
  カトリックの国際的な団体であるSIGNIS(世界カトリックメディア協議会)の日本組織、SIGNIS JAPAN(カトリックメディア協議会、会長・千葉茂樹氏)が、毎年、前年の12月から当年11月までに、日本国内で制作、公開された映画の中から、カトリックの世界観と価値観に、最も適った作品を選んで贈る賞。本年(2016年)で40回目を迎える。
 晴佐久神父は、同組織の顧問司祭。
◎『あん』 (河瀬直美監督、製作:映画「あん」製作委員会、カラー113分)
  2015年度の「日本カトリック映画賞」に決定。
  国内外で注目される「映画作家」、河瀬直美監督が、ドリアン助川の小説『あん』を映画化。「人は誰かと出会うことによって、ふたたび生き直すことができる。そんな希望が湧いてくる作品」(SIGNIS JAPANプレスリリース)。
・ 『あん』(オフィシャルホームページ)
・ 「授賞理由」(SIGNIS JAPAN カトリックメディア協議会・顧問司祭 晴佐久昌英)〔pdfファイル〕
・ チラシ (クリックで拡大表示)
  
      (チラシ表)          (チラシ裏)
※上の拡大表示より、さらに大きくご覧になりたい方は、シグニスジャパンのサイト内、pdfファイルでご覧ください。 >>>こちら です。
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※5:「第40回日本カトリック映画賞の授賞式兼上映会」の当日の様子など。
 ①               ②               ③               ④
    
                          (画像はクリックで拡大)
① 授賞式。左から、晴佐久神父、中央はジョゼフ・チェノットゥ大司教(ローマ法王庁大使館大使)、女優の樹木希林さん、オフィシャルアドバイザーの観世あすかさん
② 授賞式。左から、SIGNIS JAPAN会長の千葉茂樹さん、授賞理由などを話す晴佐久神父、樹木希林さん、観世あすかさん
③ 鼎談。左から、晴佐久神父、樹木希林さん、原作者のドリアン助川さん、観世あすかさん
④ 晴佐久神父と樹木希林さんのツーショット
(参考)
・ 「第40回 日本カトリック映画賞 上映会&授賞式 ※終了」(SIGNIS JAPAN カトリックメディア協議会)
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※6:「ローマンカラー」
◎ ローマンカラー  〔英〕Roman collar
 聖職者が日常用として用いるスータンやシャツの詰襟の首回りにつけ、後ろでとめる白いカラー、また、シャツの詰襟の前面(喉もと部分)に差し入れるだけの簡略なカラーもある。これによって聖職者であることが信徒に知られるしるしとなっている。主にカトリック教会の聖職者が用いる。
          (「ローマンカラー」: 『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008)
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※7:「ドリアン助川さん」
◎ ドリアン助川
 1962年6月17日- 東京生まれ、神戸育ち。
 詩人、作家、道化師。早稲田大学第一文学部東洋哲学科卒。日本菓子専門学校通信教育課程卒。放送作家を経て、1990年「叫ぶ詩人の会」を結成、話題に。1995年から2000年までラジオ深夜放送のパーソナリティーを務め伝説的な人気を博す。明川哲也の筆名で『メキシコ人はなぜハゲないし、死なないのか』(文春文庫)、『花鯛』(文藝春秋)等、ドリアン助川で『バカボンのパパと読む「老子」』(角川SSC新書)、『ピンザの島』、『多摩川物語』(ともにポプラ社)等、著者多数。〔Amazonおよび、『あん』(ポプラ文庫)著者紹介より〕
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〇 『あん』

☆ 著者: ドリアン助川
☆ 文庫: 259ページ
☆ 出版社: ポプラ社
☆ 初版発行日: 2015年4月3日
☆ 価格: 648円
(参考)
・ 『あん』〔ポプラ文庫〕(Amazon)
・ 「明川哲也」(ウィキペディア)
・ 「映画「あん」で問いかけた「生きる意味」とは 原作・ドリアン助川さんに聞く〔最終更新日:2015/7/15/1:29〕(「HUFFPOST LIFESTYLE JAPAN」)
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※8:「本に書いたこともある」
 少し長くなりますが、以下にご紹介いたします。


 その夜、闇は臨界点に達していた。ぼくは暗い部屋で服を着たままベットの上に横たわり、死ねば楽だという思いと、死への恐れとの間で全身を硬直させていた。この自分の存在など、なくても何も変わらない。人生に何の意味があるのか。やがて滅びる人類に何の価値があるとうのか。神なんか、いない。
 いつしか周囲は全くの闇となり、気づくとぼくはベッドごと暗黒の宇宙空間を漂い始めていた。だれもいない、完全な孤独。何もない、完全な絶望。ああ、これが地獄だ。
 そう思った瞬間、ふいに、何のまえぶれもなく、魂の奥底から叫び声が上がった。それはぼくの声だったのか、宇宙自身の声だったのか。
 
「神よ!」
 その叫びと同時に、ぼくの中で光の大爆発が起こったのである。天地創造のはじめのビックバンのような。
それは一見闇に光が輝き出たように見えて、実は、自分を包む闇が破れたら、外の陽光がまぶしかった、といったほうが近い。
 至福だった。神が自分に触れてくれたと感じた。今、ここに、わたしは存在させられている、それがすべてだと一瞬のうちにわかった。あらゆるいのちと永遠に結ばれているという喜びがあった。
            〔 晴佐久昌英『生きるためのひとこと』(「神よ!」p.168〜p.169より)女子パウロ会、2007-2014/赤字引用者 〕


(参考)
〇『生きるためのひとこと』
☆ 著者: 晴佐久昌英
☆ 文庫: 221ページ
☆ 出版社: 女子パウロ会
☆ 初版発行日: 2007年3月15日
☆ 価格: 1,512円
(参考)
・ 『生きるためのひとこと』 (女子パウロ会)
・ 『生きるためのひとこと』 (Amazon)
(← 画像はクリックで拡大)
☆ また、「何を語るかではない、なぜ語るかだ」(「福音の村」2015年11月29日説教)でも語られています。説教終わりから2段落目をお読みください。
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※9:「『主の昇天に、わたしたちの未来の姿が示されています』っていう祈りが今日のミサの中にありましたけれども」
 この日の「集会祈願」といわれる祈願文にあった祈り。全文は、以下のとおり。
 (※集会祈願:ミサの導入部における「開祭の儀」のまとめのようなもので、この祈願によって、祭儀の性格が表現される)での祈り。
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「全能の神よ、あなたは御ひとり子イエスを、苦しみと死を通して栄光に高め、新しい天と地を開いてくださいました。主の昇天に、わたしたちの未来の姿が示されています。キリストに結ばれるわたしたちをあなたのもとに導き、ともに永遠のいのちに入らせてください。
 聖霊の交わりの中で、あなたと共に世々に生き、支配しておられる御子、わたしたちの主イエス・キリストによって。アーメン」(『聖書と典礼』2016.5.8より/赤字引用者)

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※10:「昨日も講演会で、四谷のホールが満席でしたけど」
 「世界広報の日」(毎年、復活節第6主日。2016年は5月1日)にあたり開かれた講演会で、特に今年は50回目を記念して、特別記念講演会が企画され、晴佐久神父が講師として招かれた。
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 福音宣教はキリスト者の使命であるが、「世界広報の日」は、この福音宣教の分野の中でも、特に新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、映画などのマスメディアを用いて行う宣教について、教会全体で考え、反省し、祈り、献金を捧げる日として定められている。これは、第2バチカン公会議で定められ、1967年以来、毎年、特別のテーマが決められ、教皇メッセージが発表されている。
 今年のテーマは、「コミュニケーションといつくしみ:実り豊かな出会い」。
◎ 第50回世界広報の日 特別記念講演会
日時: 2016年5月7日(土) 14時から16時(入場無料)
講師: 晴佐久昌英神父
会場: 聖パウロ修道会 若葉修道院 地下ホール
     (東京都新宿区)
主催: 聖パウロ修道会、聖パウロ女子修道会
協力: 師イエズス修道女会、パウロ家族協力者会
上記の会はいずれも、「パウロ家族」といわれ、社会的コミュニケーション・メディアを通じた福音宣教を主な使命として掲げている。
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(参考)
・ 「第50回 世界広報の日 特別記念講演会」(ラウダーテ/女子パウロ会)
・ 「第50回『世界広報の日(2016年5月1日)』教皇メッセージ」(カトリック中央協議会)
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※11:「この世で理不尽なことを言われたり、ひどいことをされたときには、『喜びに、喜べ』(cf.マタイ5:12)ってイエスさまも言ってる。『天には大きな報いがある』 (マタイ5:12) って言ってる」
(聖書:参考箇所)
 
「わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである 」(マタイ5:11-12/赤字引用者)
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2016年5月8日 (日) 録音/2016年5月28日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英