神は、たたりません

【カトリック上野教会】

2018年1月14日 年間第2主日
・ 第1朗読:サムエル記(サムエル上3・3b-10、19)
・ 第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント6・13c-15a、17-20)
・ 福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ1・35-42)

【晴佐久神父様 説教】

 私、実を言うと、寝坊してついさっきまで、ベッドの中にいたのです。
 珍しくいつもより早く寝て、で、変わったことをすると、目覚ましをかけ忘れるという・・・。ついさっきまで夢を見ていて、ハッと起きて、「今日は何曜日?」「ここはどこ?」って。(笑) でもまあ、いつもより長く、ぐっすりよく寝た、いい顔してますでしょ?
 ・・・それがですね、AKBの夢見てたんですよ。(笑) 昨日の夜、福音家族で一緒ごはんしてた中の一人が、いつの間にかAKBに入ってて、テレビで踊っててびっくりしたっていう夢なんですけど、起きてから、ああ、一昨日のテレビ番組が原因だなって、すぐに分かった。
 っていうのは、この2週間、14日のうち12回新年会をやってて、いろんな福音家族と一緒ごはんしてたんですけど、一昨日の夜だけ、珍しく一人ごはんだったんで、久々にテレビ見ながら食べてたんですね。そうしたら、「芸能人ピアノ頂上決定戦」とかいう、要するに、芸能人の中で誰がピアノが一番上手かを競うっていう番組をやってた(※1)。で、ぼんやり見てたら、突然ね、私が以前いた教会の、その頃は、まだ高校生だった子が出てきたんで、びっくりしたんですよ。いつの間に芸能人になったんだ、お前は・・・って感じ。今は現役の音大生なんですけど、モデルもやっているとか紹介されてました。ピアノ、とっても上手でね、以前、私がミュージカル作って公演したとき、キーボードを手伝ってくれたりしてた。その彼女が、突然テレビに出てきたんで、びっくりしちゃって、それでそんな夢見ちゃった、と。
 まあ、夢はともかく、その番組ですけど、もちろんその彼女を応援して見てたんですね。そうしたらですね、彼女のピアノがうまいんですよ、また、これが。感動しちゃったし、これ、絶対優勝するなと思って見てたら、ちゃんと決勝戦に進んだんです。まあ、決勝戦での対戦相手も、なかなかがんばってて、それなりの演奏をしてましたけど、圧倒的に彼女の方がうまかった。
 何がうまいって、・・・皆さん、人を感動させる音楽のヒミツって、何だと思いますか。もちろん、正確な技術も必要ですし、曲の解釈がどうとか、いろいろ必要なんでしょうけど、私は、一番大切なことは演奏家のモチベーションだと思う。その人が、なぜ音楽をしているのか、なぜ弾いてるのかっていう、その熱い思い。音楽によって、語りたいことを語り、届けたいものを届け、それによって、聞いているあなたと、どうしてもつながりたいっていう、その思いなんじゃないですか。
 たとえば、こうして説教していても、いくら立派な話、正しいことをしゃべっても、福音が皆さんの心に届くとは限らない。私の中に、「私は今、どうしてもこれを言いたい」「つらい思いを抱えているあなたを励ましたい」「救いを求めて悩んでいるあなたに、なんとしても福音を届けたい」、そういう気持ちがあるのか、ないのか。それがすべてなんです。で、それさえあれば、もうそれこそ、AKBの話だろうがなんだろうが、ちゃんと届くし、福音が伝わるんです。
 音楽のヒミツは、そこにある。そこが、つながるかどうか。聞くならそこを聞くべきだし、それをこそ第一に評価するべきだし、彼女には、それがあった。
 なのに、結果は、決勝戦で負けちゃったんです。私、もう、テレビにツッコミましたよ、「なんだ、こりゃ?」って。「おかしいでしょ、これ」って。だって、「どうしてもこのメロディーを届けたい」という、「みんなにこの喜びを表現したい」という、その思いに関しては、雲泥の差がありましたから。失礼ながら、対戦相手の演奏からは、「うまく弾きたい」とか、「なんとかして勝ちたい」とかって気持ちしか感じられなかったんですよ。まあ、「音楽って何なのか」「ピアノがうまいっていうことはどういうことなのか」っていう、そこにおいて、審査員と私のセンスが違うんでしょうね。・・・たかがバラエティー番組といえばそれまでですけど、残念でありました。

 ご存じでしょうか、そんなモチベーションの究極の源のことを、私たちは「神」と呼んだりしてるわけです。神さまってね、モチベーションの塊なんですね。私たちに、ご自分を現したいっていう。それこそ、説教だか、音楽だか、どんなかたちでかはともかく、さまざまな方法で、熱いモチベーションを持って語り掛けてくださってるんですよ。私たちが説教を聴いたり、音楽に感動してるときって、実は神からの語り掛けを聞いてるんだし、それをこそ、聴き取らなきゃならないんです。
 ってことは、「どうしても、あなたに伝えたい」っていう、その神の思いを感じ取るセンサー、これが本当に大事だってことになる。だって、せっかく素晴らしいものを聞いていても、それを感じられなければ、それを評価できないわけですから。つまり、責任は向こうにはないんです。向こうは、ホントに素晴らしい演奏をしているのに、こっちにちゃんとそれを感じ取るセンサーというか、センスというか、それがないと、もうホント、耳がないのも同然でしょ。
 「聞く耳のあるものは聞きなさい」って、イエスさま、言いました (マルコ4:9、23、7:16、ルカ8:8、14:35)。それは、神のモチベーションそのままに語ってる、イエスの言葉を聞く耳のことですけど、そういう「耳」がないと、最高の演奏だって、本物のモチベーションだって、感じ取ることができない。まあ、テレビの審査員たちには聞こえなかったみたいですけど、それってやっぱり、もったいないと思うんですよね。私は音楽大好きですし、ピアノ大好きですし、日本に来た超一流のピアニストたちの演奏をどれだけ聴いて、どれだけ感動したかわからないけれど、「聞く耳」が何を聞いているかというと、よく指が回るとか、表現がどうだとかいうことを超えて、「その人自身」を聞いてるんです。そういうセンスっていうものを、神と人の関係でもね、大事にしてほしいんですよ。
 「聞く耳」って、育てるものでもありますよ。少しずつでも、とらわれているものから自由になって、自分の心を開いていかないと。じゃないと、向こうはちゃんと言ってるのに、それが、聞こえてこないんです。向こうはすべての人に、圧倒的に、一方的に、惜しみなく語り掛けているのに、それをこっちが受け止められないっていう、このもったいなさ・・・。それはやっぱり、気づいてもらいたい。
どれほど感動的な演奏だか分かりますか、神さまの演奏。どれほど人を変えていく言葉だか分かりますか、神さまのみ言葉。でも、それを聞いていても、その意味が分からない、そのよさが分からないではね、もったいないですよ。

 第1朗読(※2)で、「サムエル、サムエル」ってね、神さまが呼ぶでしょ。これ、面白いね、もしかすると、すべての人に声を掛けていたのかもしれないですよ。すべての人が名前を呼ばれていたのかもしれないじゃないですか。そんな中で、聞き取ったのは、サムエルだけ。・・・そういう話かもしれない。
 神さまは、特別に選んだ誰かにだけ語り掛けて、その人を預言者にするっていうふうに、皆さん思ってるでしょうけど、実は、いつもすべての人に語りかけていて、それを聴き取れた人だけが、預言者になっていったのかも。そう考えたら、面白くないですか?
 神さまはすべての人に、すでに語り掛けてるのに、みんな、全然、聞いてない。サムエルだけが聞き取って、すぐに反応して、「お呼びですか」って、エリのもとに行く。でも、エリは呼んでないから、「いや、わたしは呼んでないよ。戻っておやすみ」って言う。でもさすがにそれが繰り返されると、エリも、これは、主がサムエルに何か語り掛けてるんじゃないかって気がついて、「今度語り掛けられたら、『主よ、私はここにおります。どうぞお話しください』って答えるんだよ」と教えてあげる。で、サムエルは、また聞こえてきたので、「どうぞお話しください」と言う。(サム上3:4-10)
 これ、サムエルが、「さあ、聞かせてください」って頼んだわけじゃないんです。ただ寝てるだけの話なんだから。私たちもそうですね。ただ生まれてきて、ただ生きている。でも、そこに、神さまからの語り掛けが、惜しみなく、誰かれ選ばず、み~んなに語られている。で、それを聞けずに、み言葉が無駄になっちゃってる人が大勢いる。そんな中で、誰もが持っている自分の中のよい土地で、み言葉の種を受け止めたら、それがもう、何十倍にも増えていくわけですから、ねえ、もったいないなあっていう気持ちを、皆さん、持ったらいいと思いますよ。
 「主よ、わたしはここにおります。あなたの(しもべ)に話してください」 (cf.サム上3:10)
 たまには、そんな気持ちで、静か~に、夜、祈るなんていう時を過ごしてみましょうよ。

 第2朗読(※3)で、パウロは、「知らないのですか」って言ってますでしょ (一コリ6:19) 。「知らないんですか」と。「知ってくれ」と。「なんであなたたちは、それが分からないのか」と。
 すべての人に、「知らないのですか」って言ってるんですよ、パウロは。で、ほとんどの人は、「はい、知りません」って言っちゃうわけですけど、でも、パウロは言います、「あなたたちには、もう聖霊が注がれているし、あなたたちのうちに聖霊が住まっている。もはや、あなたたちは聖霊の神殿なんだ」と (一コリ6:19)
 でも、みんな、それを知らないわけですね。これから頼んで、住んでくれって言ってるんじゃない。聖霊は、もう、住んでるんです。でも、誰も気づかない。だから、パウロは一生懸命教えてるわけです。
 「あなたのうちに、聖霊が住んでいる。神さまの愛、神さまのみわざ、神さまの栄光の力が、ちゃんと注がれて、もうあなたたちは、聖霊の美しき神殿なんだ。それを知らずに、どうでもいいことばっかりやっている。なんてもったいない! この聖霊の働きに身を任せれば、どれほど素晴らしいことが起こるか、それが分からないのか」って。
 パウロはそれを身をもって知ってるので、みんなに必死に伝えてるんです。そのモチベーションが、また素晴らしいから、パウロの手紙なんかは、こうして二千年たっても読まれて、皆さんの心に届いて、皆さんを変えていくわけですよね。パウロは、圧倒的な、神さまからのものを受けるセンス、「聞く耳」を持っていたから、彼自身変えられたし、そして、人々を変えていく。
 神さまから、ホントによいものが、聖なる霊の働きが、熱~い愛のモチベーションが、今日もこうして私たちの心に届いているんですよ。ホントに感動的ですし、感謝もするし、安心もする。もし、それを感じるセンスがあるならば。なければ、苦しみのうちにいて、迷いのうちにいて、どうでもいいこの世のことで悩んで、恐れて、つまらぬものを求めて・・・。
 神の熱いモチベーションに触れたとき、私たちの心から、恐れはなくなります。もはや、何が起ころうと、どうされようと、構わない。誰から何を言われようと、どんな失敗をしようと、恐れない。「神さまの思いを聞き取っているから、私は幸いだ」っていう、そのセンスがね、必要。

 先週、入門講座に来た一人の青年が、松葉づえついて来たんで、どうしたのかと思ったら、お正月に、富岡八幡宮に初詣に行って、その後でけがしたんですって。
 ご存じですか、富岡八幡って、有名で大きな神社ですけれども、事件があったんですね。宮司(ぐうじ)さんを辞めさせられて、それを恨みに思ってて、その彼のお姉さんが新しい宮司さんになったんですけど、彼はそのお姉さんを恨んで、日本刀で殺して、自分も自殺したっていう事件です。なんか、ドラマみたいな話で、恨みって怖いねって、みんな背筋が凍るような思いをしたわけですが、有名な神社だったっていうこともあって、大きく報道されました。で、報道によると、この元宮司さん、遺書を残してるんですね。それがまた、「私は怨霊(おんりょう)となってこの世に残り、永遠にたたり続けます」って、そんな言葉を残したんですよ。そうすると、みんな、恐いから行くのやめようってことで、初詣客の数が、激減したんですって。富岡八幡さん。(※4)
 もちろんその彼は、その事件を知ってるんですけど、興味本位で、どんな神社なんだろうって、わざわざ初詣に行ったんですって。で、そのあとで駅の階段で転んで、足をけがした、と。松葉づえついて入門講座に現れたから、「どうしたの」って聞いたら、「富岡八幡宮に初詣に行って、たたられた」って言うんです。
 私、即座に申し上げました、「それは、たたりでは、ありません。神は、たたりません。人も、たたりません」って。
 もちろん、事件そのものはね、恐い事件だなって思いますよ。でも、事件よりもっと恐いのは、「みんながたたりを恐れるようになること」なんですよ。
 実はそれ、その前の週の入門講座でも、ちゃんと話してたんです。その事件のこと。「これ、必ず、たたられたって言う人が出てくるよ。それが都市伝説みたいに広まっちゃうよ。でも、その恐れこそが、怨霊なんだよ。『永遠にたたり続けます』なんていうのは、『たたりテロ』みたいなもんで、そんなのを恐れることが、思うつぼだよ」と。残念なことに、その彼は、その時の入門講座に、ちょうどけがしてて来られなかったんで、聞いてなかったんです。
 神は、たたりません。キリスト教に、「たたり」は、まったくありません。恨みを持って死んだ人も、神に清められて、神の愛の中で生き続けるんであって、決してたたったりしません。キリスト教に限らず、この世界にたたりなんて、あり得ない。たたりとは、それをたたりだと思い込む、その人の信仰のセンスの悪さが生むものです。神さまからの圧倒的な愛を受け止める「聞く耳」がないから、恐くなって、「これはたたりだ」と思い込んでしまう。
 そもそも、人にたたる神なんて、もはや神じゃありません。「神がたたる」っていう、その言葉自体が、すでに語義矛盾でしょう。神は、よいものを与える方ですから。「子どもにたたる親」? ・・・おかしいでしょ。そんなもの、親じゃないですよね。神は、究極の親ですから、決してたたったりしません。誰かが、別の誰かにたたったりすることも、お許しになりません。よいものだけを与え続けていくお方です。
 もちろん、この世界では、階段で転ぶこともある。でも、その転んだことも、神さまからの恵みのうちと受け止めて、よいものに変えて、そこから、「転んでも、ただでは起きないぞ!」って新たに出発する力、神さまがそのように望んでおられると信じる力、それを「信仰」っていうんです。
 恐れからは、何も生まれません。皆さん、覚えといてください。この世界に、「たたり」なんてありません。「たたった」だの「たたられた」だの、センスが悪すぎます。超一流の信仰者になってくださいよ。神さまが惜しみなく与えてくださっている、よいものをこそ受け止める信仰者に。
 だから、私は松葉づえをついて来た彼に言いました、「神は、たたりません。あなたは、たたられていません。富岡八幡さんは、何にも悪くありません。悪いのは、恨みを持つとか、復讐したいとか思う人間の心であって、神さまの方は、そんな悪い人間たちに、いつも良いものを与え続けているんです。あなただって、本当は、駅の階段で転んで、さらにはホームから転げ落ちて電車にひかれるところだったのに、富岡八幡さまが救ってくださったんだって、信じなさい」と。
 ・・・それが「信仰」っていうことです。
 恨みとか、不安とか、「こんな自分は・・・」っていう自己卑下とか、「神は私を見捨てたんじゃないか」っていう疑いとか、「神がたたってるんじゃないか」っていう恐れとか、それ、ぜんぶ思い込みです。すべて、「あなたが」そう思っているだけです。世の中のどこかに悪霊がいて、それが取りついたとか、神さまが怒ってバチを当てたんじゃないかとか、もう、ぜんぶ、「あなたが」そう思っているだけ。神さまからしてみたら、「おいおい、やめてくれ」と、「おれ、そんなんじゃないよ」と。

 イエスさまの後について行った二人の若者に、イエスさまは振り向いて、「何を求めているのか」って聞きました (ヨハネ1:38) (※5)。これ、すごい質問ですよね。もしも、今、イエスさまが振り向いて、皆さんにそう聞いたら、皆さん、なんて答えるんですか? ちょっそ、心に思い浮かべてみてください。
 ほら、今、イエスさま、振り向きましたよ。
 「何を求めているのか」
 ・・・皆さん、なんて答えるんですか?
 ねえ、センスが悪いと、つまらん答えをしちゃうんでしょうかね。この二人の弟子は、うまく答えることができませんでした。何を自分が求めているのか、ちゃんと答えられなかった。よく分からない。それで、イエスさまのおられる所を、逆に質問した。
 「どこに泊まっておられるのですか」 (ヨハネ1:38)
 これはつまり、「何を求めたらいいかを、私はちゃんとわかっていない。だから、もっと心を開いて、あなたの言葉を感じ取りたい。もっとセンスをアップして、神さまの愛を受け止めたい。どうしたらいいんですか? あなたのもとに行きたいんです。あなたと共にいたいんです」、そういう返事、というか逆質問ですね、この二人の若者の。
 「あなたのもとに行きたいです。神の語り掛けを聞きたいです。どこにおられるんですか、あなたは」
 イエスは答えました。
 「来なさい。そうすれば分かる」 (ヨハネ1:39)
 ・・・さあ、イエスさまのもとに参りましょう。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます)

※1:「「芸能人ピアノ頂上決定戦」とかいう、要するに、芸能人の中で誰がピアノが一番上手かを競うっていう番組をやってた」
 「金曜プレミアム 『芸能界特技王決定戦 TEPPEN 2018」(フジテレビ)2018年1月12日(金)放送
 芸能人が特技を披露し、その分野での「ナンバーワン」を競う番組で、この回は16回目。ピアノ、9マス将棋、けん玉、それぞれの分野で、ナンバーワン(=TEPPEN)が競われた。
 ピアノ対決では、10名が登場。対戦カードは、その場でルーレットによって決められ、すぐにステージ上で演奏。今までの優勝経験者同士の対決などの見どころもあった。
 決勝では、1点差で優勝が決まった。
(参考)
・ 「金曜プレミアム・TEPPEN 第16弾【大白熱のピアノ頂上決戦】2018/1/15閲覧(フジテレビ)
・ 「TEPPEN 2018冬の陣!ピアノ・9マス将棋・けん玉の結果発表閲覧同上(インフォダイブ)
・ 「TEPPENてっぺん2018ピアノ結果順位詳細はこちら! 優勝(1位)は?閲覧同上(ぼぶまるのオススメ情報サイト)
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※2:「第1朗読」
この日、2018年1月14日(年間第2主日)の第1朗読は以下のとおり。
 サムエル記(上)3章3b~10節、19節
  〈小見出し:「サムエルへの主の呼びかけ」3章1~21節から抜粋〉
===(聖書参考個所)===
 
サムエルは神の箱が安置された主の神殿に寝ていた。(中略)主は三度サムエルを呼ばれた。サムエルは起きて〔祭司〕エリのもとに行き、「お呼びになったので参りました」と言った。エリは、少年を呼ばれたのは主であると悟り、サムエルに言った。「戻って寝なさい。もしまた呼びかけられたら、『主よ、お話しください。僕(しもべ)は聞いております』と言いなさい。」サムエルは戻って元の場所に寝た。主は来てそこに立たれ、これまでと同じように、サムエルを呼ばれた。「サムエルよ。」サムエルは答えた。「どうぞお話しください。僕(しもべ)は聞いております。」 (サム上3:8~10/強調引用者)
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※3:「第2朗読」
この日、2018年1月14日(年間第2主日)の第2朗読は以下のとおり。
 使徒パウロのコリントの教会への手紙一6章13c~15a節、17~20節
  〈小見出し:「聖霊の住まいである体」6章12~20節から抜粋〉
===(聖書参考個所)===
 
知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。(一コリ6:19/赤字引用者)
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※4:「富岡八幡宮事件」について
 2017年12月7日、東京都江東区の富岡八幡宮近郊と、その敷地内で起こった連続殺人事件。
 富岡八幡宮の宮司である姉が、その弟に日本刀で斬りつけられ、殺害された。宮司の運転手も襲われ、深い傷を負ったものの命に別状はなかった。犯人は、事件直後、共謀した妻を殺害した後、自殺。
 事件後の12月9日、富岡八幡宮の関係者のもとに、自殺した犯人からの8枚からなる手紙が届いた。そこには、親族、関係者への誹謗中傷や息子を宮司として復職させよという要求と共に、「もし、私の要求が実行されなかった時は、私は死後に於いてもこの世(富岡八幡宮)に残り、怨霊となり、私の要求に異議を唱えた責任役員とその子孫を永久に祟り続けます」とつづられていた。
 翌年(2018年)の初詣客は3割減。その影響は地元の商店街にも及んだと報じられている。
(参考)
・ 「富岡八幡宮殺人事件」(ウィキペディア)
・ 「富岡八幡宮司刺殺 『たたり続ける』元宮司が『自害』前に書いたドロドロ過ぎる手紙2017/12/28(産経ニュース)
・ 「富岡八幡宮、初詣客3割減 宮司殺害事件の影響2018/1/5(共同通信)
・ 「富岡八幡宮」(ホームページ)など
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※5:「イエスさまの後について行った二人の弟子、イエスさまは振り向いて、「何を求めているのか」って聞きました(ヨハネ1:38)」
この日、2018年1月14日(年間第2主日)の福音朗読箇所から。
 福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネによる福音書)1章35~42節
  〈小見出し:「最初の弟子たち」〉
===(聖書参考個所)===
 
〔洗礼者ヨハネは〕歩いておられるイエスを見つめて、「見よ、神の小羊だ」と言った。二人の弟子はそれを聞いて、イエスに従った。イエスは振り返り、彼らが従って来るのを見て、「何を求めているのか」と言われた。彼らが、「ラビ―『先生』という意味―どこに泊まっておられるのですか」と言うと、イエスは、「来なさい。そうすれば分かる」と言われた。 (ヨハネ1:36-39途中/赤字引用者)
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2018年1月14日(日) 録音/2018年2月17日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英