【カトリック上野教会】
2018年3月4日 四旬節第3主日
・ 第1朗読:出エジプト記(出エジプト20・1-17、または20・1-3、7-8、12-17)
・ 第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント1・22-25)
・ 福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ2・13-25)
【晴佐久神父様 説教】
すいません、風邪のせいで、声がガラガラで。風邪気味で、最近、寝不足が続いているというのに、また昨夜も学生たちに付き合って、遅くまで飲んでしまいました。「明日もミサがあるから、早く寝なきゃ」って言いながら、グズグズと。やっぱり楽しいんですよね、おしゃべりするのって。ついつい、「ああ、もうこんな時間!」って、・・・経験ありますでしょ。まあ、彼らは若いから、朝は平気なんでしょうけど。で、結局みんな、泊まってったんですよ。昨日は10人のうち、5人泊まってったのかな。寝る前に、「明日は日曜なんだから、泊まってくんなら、ちゃんとミサに出てよ」って言ったんですけどねえ、・・・こうして探してみても、(笑) ・・・ あっ、ひとり、出ていますね。ほかは、どうしちゃったんでしょうねえ。(笑)
学生たちとしゃべるのは、楽しいです。これ、何が楽しいかっていうと、やっぱり、本音トーク。でも実はこれ、皆さんが思ってるよりも、とっても大事なことなんです。・・・「本音で」しゃべること。
昨日のは、「福音カフェ」っていう集まりですけど、いろんな学生が来るんですよ。最近の特徴はね、結構、学歴が高いんです。今までは上智とか早稲田とかが中心だったんですけど、最近は東大も芸大も来てますし、ついには、アメリカのコロンビア大学ってのも来てます。で、これじゃあ、一般の学生は来にくいかっていうと、そんなこと全然ない。そこがまた、このカフェの特徴なんですよ。だって、そこでしゃべってることといったら、上智の神学部だろうが東大の宇宙工学だろうが、昨日なんか、彼女にふられたとか、どうやってつきあうのか、みたいな話ですから。それって、学歴、ぜんぜん関係ないですもんね。恋愛関係となると、むしろ高学歴のほうが、ちとヘタクソみたいなところもありますしね。
で、神父もそれに加わって、夢中になってしゃべってたんですけど、昨日はなんと、面と向かって「このエロ神父!」って言われたんですよ。(笑) これ、言います? ふつう。(笑) 神父目の前にしてですよ。いや、これ、皆さん誤解しないでくださいね、私、そんなふしだらな話をしてたわけじゃない。やっぱり、恋愛の話になったら、プラトニックな話だけじゃすまないでしょ。大事な話だと思って、まあ、ちょっと具体的な話もしてるだけなのに、「このエロ神父!」って・・・。
だけど、私ね、これは誇りだと思います。学生が本人を目の前にして、「エロ神父!」って言い放つのって、考えてみたら、そう言わせるっていうのは、すごくないですか? ふつう、言えないですもんね。そう言えるっていうことは、そう言える信頼関係、言える自由さ、言える本音の世界がそこにあるってことです。私、だから、ちょっとうれしかったです。それ、大事なことですもん。
人間はホントにいろいろです。さっき、「イエスさまは、何が人の心にあるかをよくご存じだった」って言ってますけど(cf.ヨハネ2:25) (※1)、キリスト教は、人の心の中のすべてに関心があります。いいとか、悪いとかじゃなく、思っていることそのままに関心があります。ふしだらだとか、清らかだとかは、どっちでもいい。ともかく、人の心の中にある真実に関わるんです。人の心には、ホントに、ありとあらゆるものが入ってるわけですから。そして、それこそが、人間なんですから。
みんな、きれいごとは言うけれども、陰では何をやってるのか。建前はいくらでも言うけれども、本音はどう思っているのか。普段はそこのところが正直じゃないので、建前ばっかりの世の中で、きれいごとばっかりの社会の中で、みんなもう、
コロンビア大学の彼も言ってました。彼は、実は精神疾患を抱えてるんですけれども、それを誰にも言えなかったと。けど、そのことを、福音家族の集いに来て初めて、人前で言えた、と。しかも、実は彼はある教会に通ってるんですけど、その教会では言えなかったのに、この集いでは言えたって。それを言えるか言えないかって、やっぱり、宗教の一番本質的なところに関わってる。
だからみんな、取り澄ました話じゃなくて、
今日、仏教伝道協会(※2)の方が来られるって言ってましたけど、いらしてるんですかね。(会衆席に向かって) ・・・伝道協会の方、いらしてます? ああ、いらしてますね。ありがとうございます。
先週、仏教伝道協会主催のシンポジウムっていうのがあって、私、お話ししたんですね(※3)。そのシンポジウムで、私の話がよほど面白かったというか、興味を持たれたんでしょう。その仏教伝道協会の一人の方が、先日電話してこられて、「今度の日曜日に話を聴きに行きたい」って言われるんで、時間をご案内したんですけど、今日、来てくださいました。ようこそ、ようこそ。
「仏教伝道協会」って、聞いたことがないかもしれません。最初頂いた書類に「BDK」って書いてあったんで、何のことかと思ったら、「
これがね、ほんとに面白かったんですよ。宗教家たちって、そうはいっても、うちの方が正しいぞとか、あそこには負けたくないとか、ちょっとはそういう浅はかな気持ちが働くもんなんですよ。まあ、仕方がない、人間だから。だけど、この4人は、そういうことを超えて、「お互いに尊いね」と、「会えてよかったね」と、「一緒に、何かやっていきたいね」と、そういう気持ちになれた。なかなかないことですよ。そんな、このシンポジウム、私はとてもいいなと思いました。
そもそも、もう楽屋に入った段階でね、お坊さまとか神主さんとかがいるわけですけど、もう、なんか本音トークでね、「これ、ずっと楽屋でしゃべってたいね」なんていう声もあったくらいです。神主さんが、「すみません、本番では、富岡八幡さんの話(※4)は勘弁してください」とか言ったりね、(笑)「いろいろと、関係者も来てるんで・・・」とか。まあ、なんでも正直な気持ちをどんどん言い合える雰囲気って、貴重ですよ。
そもそも宗教って、そうでなきゃ意味がないはず。だって、建前だったら、社会にいっぱいあるんだから、もうそれでいいじゃないですか。そんなの、仕事の現場にいくらでもあるし、家族の間にだってある。きれいごとや建前なんて、現実にいくらでもあって、みんなその中で窮屈な思いをして、それらしい顔をするのに疲れてるわけでしょ。
それに対して、「真理はあなたを自由にする」(cf.ヨハネ8:32)っていうのが宗教の本質でしょう。「人の心の中をよくご存じ」(cf.ヨハネ2:25)であるイエスさまを前にして、私たちは、
今、いろんな学生たちが集まってくる教会って、日本にどれだけあるんだか知りませんけど、現に、カトリック上野教会には集まってますよ。それはやっぱり、「ここでは本音が語れる」「ここでは本音が聞ける」、それがあるからなんじゃないですか?
ちょうど、そのシンポジウムに、上野教会の求道者の方が参加していて、その方が入門講座で報告してくれました。「いや~、面白いシンポジウムだった」と。その方から聞いたんですけど、終わった後でトイレに入ったら、他の参加者が口々にしゃべってたそうで、トイレの中って、一番本音じゃないですか。(笑) そこで、「今日のはよかったねえ」「いやもう、本音トークだったね」って、そう言い合ってた、と。まあ、そういうふうに思ってもらえたっていうところがね、私は、宗教家たちが集まるシンポジウムとしての真骨頂なんじゃないのって、そう思いました。
私もね、いろいろとぶっちゃけな話をしちゃったわけですけどもね。たとえば、「今の日本の教会は、このまま変わらずにいたら消えていくでしょうね」とか。そういうのって、ミサのときだと、なかなか言いにくいじゃないですか。・・・って言っちゃってますけど。(笑) でも、これ、本音です。今の日本の教会は、今のままだと、消えていくでしょう。もちろん、キリストの教会が消えるわけはないから、大きな救いの歴史の中では、教会は生き生きと発展しています。言いたいのは、この「日本の教会」が、「今のままなら」、当然消えていくだろうってこと。だって、信者、どんどん減ってるじゃないですか。それは、仏教も一緒。檀家が減っていて、神道の
でも、それってやっぱり、宗教が、きれいごと、建前の世界になっちゃってるからじゃないですかね。私はそれを、あけすけにお話ししたまでです。もっと「本音」で語り合えて、色のない透明な神さまの言葉が語られている普遍的な教えでないと、誰も近寄ってこないですよ。今の宗教は真逆でしょ。宗教家は「われわれの教義はこれこれだ」と一方的に説明し、信者たちは「こうでなきゃならない、ああでなきゃならない、仕方ないからそんなフリでもしていよう」みたいな感じ。でもそんなの、もはや宗教じゃない。本物の宗教はもっと自由で、もっと生き生きして、仮に不自由でも、せめてそんな自分達だということを本音で語り合える、そんな、透明感のある教えのはず。「どの木が正しいか」じゃなくて、「良い実を結ぶ木が良い木」なんであって、信じる対象を神さまと呼ぶか、仏さまと呼ぶかはともかく、「人々のために一緒に働く仲間たち」として、他の宗教ともみんな含めて、みんなで一緒にいい世の中にしていく、そんな普遍的な教えであれば、教会は、これからどんどん伸びていくはずですよ、と。まあ、そんなような話もした。
ですから私、そのとき、「もうこのままだと日本の教会、滅びますね。でも、滅びるべきものは滅んだ方がいいのかもしれませんね」とまで口走っちゃったんですね。ここは仏教系の人たちばかりだろうと思ってたから、ちょっと過激な言い方しちゃったんですけど、よく見たら、キリスト教の人も何人かいるじゃないですか。次のトークで、「さっきは教会滅んでもいいみたいなこと言いましたけど、ちょっと言い過ぎました。正確に言うと、もしもそれが神のみ旨ならば、教会ならざる教会は滅んでもいいっていう意味です」とかって
「ああ、言い過ぎた」、それは正直な思いです。つまり、誰だって、言い過ぎることもある。やっぱり日ごろ、教会の限界とかにぶつかってると、こういう所でぶちまけちゃおう、みたいなね、そういう思いが出て来ちゃって、つい本音で言っちゃう。でも、「そうはいっても、ちょっと言い過ぎかな。キリスト教の人も来てるし、誤解されても困るな。少し訂正しないと」とか、思い直す。それもまた、正直な思いです。要するに、正直な思いをそのままに、自分の本当のところを隠さずにきちんと語って共有すること、それで信頼関係がつくられるし、それによって、言いたいことが伝わるんですね。
やっぱり宗教は、この世界のどんな建前やきれいごとよりも、・・・なんでしょう、言うなれば「透明」でありたい。誰かから責められるとか、本音を言うと排除されるとか、そういうのを恐れずに。だって、そもそも、神はすべてをご存じな上で、ぜったい責めないし、ぜったい排除しないんだから。そういう信仰こそが、宗教ですから。神は、本音を知っておられます。もう少し、宗教やってる人たちは、本音を分かち合って、楽に生きていくといいと思います。
イエスさまが、なんだか怒ってますでしょ(※5)。やっぱり普段から、「これ、おかしいよ」って思ってたんでしょうね。神殿の境内で商売している。「牛や羊や鳩」(ヨハネ2:14)ってありますけど、これを神殿にいけにえとして捧げる決まりなんですね。だけど、遠くから、牛やら羊やら連れてくるの、大変じゃないですか。だから、神殿に着いてから境内で買って、捧げる。まあ、そんな仕組みです。
あるいは、「両替」(ヨハネ2:14)ってのもありますけど、汚れたローマ帝国のお金を、ちゃんと神殿の清いお金に換えて献金するためです。まあ、その辺は、商売人は上手に商売するわけですけど、本来なら、神殿の境内で商売なんておかしいから、神殿の外でやらなきゃならないはず。じゃあなんで境内で商売してるかって言うと、これ、たぶん、あれですね、神殿当局とつるんでるわけですよ。テラ銭ってやつですね。ご存じですか(※6)? 片仮名の「テラ」に「銭」って書くやつですけど、あの「テラ」って、お寺の「テラ」なんですよ。
昔、江戸時代とか、ばくち、
これ、神殿もたぶん、テラ銭取ってるんじゃないですかね。その辺は公然の秘密でしょ。もしかすると、
イエスは、それを、「おかしいだろ」と。「神さまの前で、何やってんの?」と。「透明でいこうよ」と。「金の絡まない、ホントに心と心がつながる宗教、ちゃんとやろうよ」と。まあ、それをね、イエスさま、ちょっと過激ですけどね、きちんとしるしで見せてるわけですよ。「こんなもん、追い出せ! 運び出せ! わたしの父の家を商売の家にしてはならない」(cf.ヨハネ2:16)。
まあ、イエスさまの思いとしては、それこそ、皆さんの家の中でね、誰かよその人が商売してるようなもんですよ。・・・いやでしょ、そんなの。この怒りは、私は当然だと思うし、教会でもね、そういうことは共有したらいいと思うんですけどね。なかなか、やっぱりこの世を生きていると、「そうはいっても」っていうことを言い出すわけですよね。
「そうはいっても」・・・いやな言葉だね~。でも、言っちゃうんですよね。「そうはいっても、ここまでは無理かな」とか、「そうはいっても、いろんな意見もあることだし」とか、「そうはいっても、今までこうしてきたんですし」とか。まあ、「そうはいっても」って言っちゃうんですよ。
・・・ホント、いやな言葉だね。もう、今後二度とそういうことを言わずに人生終えたいけれど、まあ、そうはいっても、なかなかね。(笑)
そういう人間の心、「イエスは、何が人間の心にあるかをよく知っておられた」(ヨハネ2:25)
私たちキリスト者は、パウロの言葉でいうなら、「ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えてるんだ」(cf.一コリ1:22-23)と(※7)。この「十字架につけられたキリスト」っていうのが、ホントに透明なんですよ。誰ひとり裁かない、すべての罪を受け入れる、まったく金銭の絡まない純粋贈与。
「ぜんぶ、あなたに差し上げます」
「私の利益はいりません」
「あなたと、まっすぐに結ばれたいんです」
その関係ですね。これはやっぱり、気持ちがいい。この十字架を、私たちは宣べ伝えてるんですね、「十字架につけられたキリスト」を。
そんなものは、「ユダヤ人にはつまずかせるもの」(一コリ1:23)。「そうはいってもね」っていう人たちには、「つまずき」なんです。「異邦人には愚かなもの」(ibid.)。「そんなこと言ってもさ」って、これ、「愚か」に映るわけですよ。だけど、「ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者」(一コリ1:24)、その神の透明さにちゃんと触れた者は、「キリストを延べ伝えている」(ibid.)。
「神の愚かさは人よりも賢い」「神の弱さは人よりも強い」(一コリ1:25)。だから、私たちは、どんなに弱くても、愚かであっても、ぜんぜん構わない。そういう弱い者、愚かな者が集まって、「いや~、あなたも愚かだねえ」と、「私も愚かです」と、弱い者同士が、本音で、神さまの愛の中を生きていけるという、それが本物の宗教です。・・・キリスト教の希望はそこにある。
今日ここに、お母さまが危篤だっていう方が来られています。そんな中わざわざ、いや、そんな時だからこそ、このミサに来られました。神さまに、すべてを委ねましょう。あなたの今の心の中の思いのすべて、それこそ、不安や恐れ、母親への感謝と、母親の苦しみへの共感、さまざまな思いをぜんぶ、神さまはご存じです。そこには、何一つ不透明なものがない。それぞれの心の中にあるいい思いも悪い思いも、ずるい思いも汚い思いも、エロであろうが、怖れであろうが、もう、「すべて」を、つまり、私そのものを、神さまが本当に透明に見てくださっているし、そして、その私を救ってくださっている。この透明感の中でこそ、私たちは本当に、自由になることができる。
・・・十字架の日々、ひたすらに復活祭を待ち望みます。
【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます)
※1:「さっき、『イエスさまは、何が人の心にあるかをよくご存じだった』って言ってますけど (cf.ヨハネ2:25) 」
この日、2018年3月4日(四旬節第3主日)の福音朗読箇所より。
ヨハネによる福音(ヨハネによる福音書)2章13~25節
〈小見出し:「神殿から商人を追い出す」「イエスは人間の心を知っておられる」〉
===(聖書参考個所)===
イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人がイエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知っておられたのである。 (ヨハネ2:23-25/赤字引用者)
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※2:「仏教伝道協会」
◎ 公益財団法人 仏教伝道協会 (英文名:BUKKYO DENDO KYOKAI [略称:BDK])
内閣府認定の公益財団法人。
世界各国のホテルの客室や病院、学校、寺院、福祉施設などに置かれている『仏教聖典』は、この協会が刊行、寄贈したもの。同聖典を、46言語に翻訳、刊行している。
財団の目的は、「日本文化の基本でもある慈悲と共生の仏教精神と仏教文化とその学術振興を促進し、現代的理解を弘め〔ママ〕、グローバルな啓蒙活動を通して豊かな人間性を育て、よりよい社会を形成する」こととしている。(HPより引用)
もともとは、仏教精神と仏教文化、その学術振興を促進するために設立されているが、特定の宗派に偏らず、さらに、宗教、民族、国家なども越えた開かれた活動により、人類の平和と幸福への道を探っている。
(参照)
・ 「公益財団法人 仏教伝道協会」(オフィシャルサイト)
・ 「(公財)仏教伝道協会」(公益財団法人 全日本仏教会)
・ 「仏教伝道協会」(ウィキペディア)
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※3:「先週、仏教伝道協会のシンポジウムっていうのがあって、私、お話ししたんですね」
2018年2月27日(火)に行われたシンポジウム。「第14回BDKシンポジウム『宗教の未来を話そう』」という演題で、2時間にわたって行われた。
長い間、人々の支えであったはずの宗教。しかし、時代は変わり、今、この現代において、宗教に求められているものは何か、また、「信じたい」という心に宗教が果たす役割は何かなどについて、仏教、神道、イスラム教、キリスト教の第一線で活躍している宗教者たちが招かれ、意見を交わした。
〔仏教:松山大耕(臨済宗妙心寺退蔵院副住職)、神道:矢野幸士(浅草神社禰宜)、イスラム教:ナセル永野(日本人ムスリム)、キリスト教:晴佐久昌英(キリスト教・カトリック司祭)〕
(参考)
・ 「第14回BDKシンポジウム『宗教の未来を話そう』」〔pdf〕(チラシ)
・ 「第14回BDKシンポジウム『宗教の未来を話そう』」2018/3/5閲覧(仏教伝道協会)
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※4:「富岡八幡さんの話」
2017年12月7日、東京都江東区の富岡八幡宮近郊と、その敷地内で起こった連続殺人事件。元宮司の弟が、宮司である姉を日本刀で刺殺、翌日、自らも自殺した。マスコミでも、衝撃的な事件として、連日、取りざたされた。以前のお説教でも話題に上っている。
(参照)
・ 「『富岡八幡宮事件』について」(「神は、たたりません」2018/1/4説教 参照※4)
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※5:「イエスさまが、なんだか怒ってますでしょ」
この日、2018年3月4日(四旬節第3主日)の福音朗読箇所中、「神殿から商人を追い出す」エピソードから。(ヨハネによる福音書2章13~22節)
===(聖書参考個所)===
ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして、神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。 イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「このような物はここから運び出せ。わたしの父の家を商売の家としてはならない。」 (ヨハネ2:13-16/赤字引用者)
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※6:「テラ銭ってやつですね。ご存じですか?」
◎「テラ銭」(寺銭・テラセン)
賭博の座を開く者が、勝負のつど客からとる金銭のこと。この徴収自体は、ばくち打ちの発生した平安時代からあったが、「テラ銭(寺銭)」という言葉は、江戸時代に作られた。
江戸時代、境内は、違法な賭博が行われても、捜査や検挙が困難だったため、そこを賭博場とし、その儲けのいくらかを寺や神社に寄進していた。
「テラ銭(寺銭)」の言葉の由来については、①寺で賭博の座を開いたから、②寺のお金として、建立費、運営費などにあてたから、③盆茣蓙(ぼんござ=賭博で、つぼを伏せるござや盆) の上の手数料という意味で「てら銭」と言った(布は「てら」といい、盆の上は白い布(てら)で覆った)などの説がある。
(参考)
・ 「寺銭」(コトバンク)
・ 「寺銭」(ウィキペディア)
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※7:「パウロの言葉でいうなら、『ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えてるんだ』 (cf.一コリ1:22-23) と」
この日、2018年3月4日(四旬節第3主日)の第2朗読箇所より。
使徒パウロのコリントの教会への手紙(コリントの信徒への手紙)一 1章22~25節
〈小見出し:「神の力、神の知恵であるキリスト」から抜粋〉
===(第2朗読全文)===
〔皆さん、〕ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探しますが、わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。(一コリ1:22-25/赤字引用者)
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