【カトリック上野教会】
2018年2月11日 年間第6主日
・ 第1朗読:創世記(創世記3・16-19)
・ 第2朗読:使徒パウロのコリントの教会への手紙(一コリント10・31-11・1)
・ 福音朗読:マルコによる福音(マルコ1・40-45)
【晴佐久神父様 説教】
まず、どうしても、先週お会いしてきた方の話をしたい。とても有名な方にお会いしてまいりました。この教会のすぐ近くに住んでいる方で、ご両親は中国の方。名前はシャンシャン。(大笑) どうしても会いたくて、行ってまいりました。(※1)
いやもう、かわいいのなんのって! もう会った人、いますか? 今月から先着順になったんですね。早速お会いしてまいりましたけれども、卒倒しそうになりますよ、かわいすぎて。(笑) 気を失いかけました。ほ~んとに、かわいい。
・・・いやもう、だけど、「かわいい」って何なんでしょうね。ホントに不思議。ねえ、なぜシャンシャンは、あんなにかわいいのか。スペシャルですよねえ。
シャンシャンのおうちのところはブロックに分かれていて、行列はブロックごとに少しずつ、係の人の指示で進んでいくんですけど、初めのブロックで、屋外にお母さんのシンシンがいて、「あっ、お母さんだ~🐼」って見てたら、ちょうど、ぼくがね、シャンシャンのいる屋内に移動させられるのと一緒に、シンシンも入って来たんです。で、木の上にいたシャンシャンが、「あっ、ママだ~!」って気がついて、木から降りて、ママのところに行きそうになった。そのかわいいしぐさ! そのシャンシャンを見つけるシンシンの顔! もう、たまらないです! (笑) 「うわ~!😍」って思ったら、係員が、「はい、次に進んでください~」って言って、もうその先は見れなかった。悔しさのあまり、その続きを見に、明日行こうかなと思ってますけど。(笑)
いや、でも、ホンットにね、気を失いそうになるほどかわいい。あれ、係員の人が、「はい、次に進んで~!」って大声で言わなかったら、ホントに気を失ったかも。われに返るって、ああいうことですよね。「うゎゎ・・・😲」って見つめてて、ハッとわれに返る。
だけど、面白いね、人間って。「かわいい~!」って思う気持ちって、人間だけでしょう?
もちろん、シンシンはシャンシャンに特別な感情を持ってると思いますよ、わが子だから。まあ、本能に従ってですけどね。だけど、ぼくは別にシャンシャンの親じゃないし、そもそも種が違うじゃないですか。パンダの向かいはサル山だし、隣はゾウだったけど、シンシンは別に、サルの子どもやゾウの子どものこと、かわいいと思わないんじゃないですかね。だけど人間は、なんでもかわいいと思うでしょ。やっぱり、神さまが、なんか特別にね、ぼくらを選んだんじゃないですかね。「かわいいと思う気持ちを与えた動物」みたいなところが、人間にはね、あると思うんですよ。よくわかんないちっちゃな生物にまで、「なんてかわいいんだろう!」って。
この、「かわいい」って言葉は、「かわいそう」と一緒でしょ、語源がね。辞書引けば、そうありますよ(※2)。この、とても小さなものとか、はかない命とかに対して、「ああ、かわいそう」とか、もう、「なんてかわいい、もういとおしくてたまらない」って、ふつふつと湧いてくるような熱い思い、これはやっぱり、人間、特別ですよね。
ぜひ、皆さん、会ってきたらいいと思います。自分の中からね、「ああ、かわいい・・・!」って思う気持ちが引き出される瞬間っていうのを体験してきてください。映像見たってそうでしょう? まして、実物を見たら、何とも不思議な、この、いとおしさが湧き起こってくる思い、あれはやっぱり、人として味わえる最高の気持ちでもあるからね。まあ、そうでなくとも疲れてるでしょ、皆さん。いやされに行ってくださいよ。
実はシャンシャン、結構簡単に会えますよ。整理券は中で配ってるんですけど、そこには行列なんかないんです。早朝から並んだりして延々と行列してるのは、入園券に並んでるんですね。ということは、入園券を先に買っておけば、すぐに入れるんです。で、あれは、買っておくと、翌日でも翌々日でも、いつでも使える入園券なんです。確認しました。(笑) だから、皆さん、今日、このあと、午後にはもう行列ないですから、ぜひ帰り道に入園券を買って帰って、明日以降に来ればいいんです。 開園9時半に、長蛇の列の横を通り過ぎて入園して、整理券をもらう。30分ごとに区切られてるんですけど、指定の時間に行けばいい、と。ポイントは、「前日までに、入園券」。・・・なんの説教ですかね、これ。(大笑)
まあ、み~んなに、ともかく、見てもらいたいんです。あんなにかわいいのも、今のうちですよ。今、14キロでしたかね。十日で1キロずつ増えてるんです。どんどん大きくなって、すぐに、あの、ふてぶてしい大人パンダになっちゃいますから。(笑) 今度、いつ、あんな、ちっちゃな、もこもこしたお子さま、生まれるか分からないんで。(※3)
人間のこの思い、つまり、小さなもの、はかない命、助けを必要としている弱いものに、心が、ぐ~っと高まって、ああ、かわいいっていう思いがあふれてくるっていう、この特徴によって、人類は人間になったんですね。それによって、人類は、他の動物と違って、お互いの気持ちが分かるっていう不思議な生き物、「人間」になったんです。他の動物たち、たとえば、ライオンにシマウマが食われてるとき、他のシマウマは、「ああっ! かわいそう!」なんて思ってないですよ。人間だけです。とても小さくって、弱くって、傷ついて、病んでいる生き物を見て、「なんてかわいそうなんだろう・・・」って、もう、胸がギューーーッとくる。「なんてかわいいんだろう!」「抱きしめたい!」「大切にしたい!」「もっともっと見ていたい!」ってね、こう、胸がギューーーッとする思いですよね。
人間の、この特別な思いの極みが、イエスさまのあわれみの心ですね。先ほど読んだ、この「深く
重い皮膚病の人もつらかったでしょう(※5)。みんなから嫌われてね、のけ者にされて、もう自分なんか生まれてこない方がよかったんだ、生きていてもしょうがない、誰も友達なんかできっこない、このあと幸せなんかあるはずがない、そう思って、どれほどの孤独を生きていたことか。だから、もう、イエスさまに会ったときに、なんとかしてもらいたいと思って、ひざまずいて、「私を救いたいと望んでくれますか」と、「この私の気持ち、この私の弱さ、この私の苦しみ、分かっていただけますか」と願う。「
で、イエスは答える。「私は望む」「私は関わる」、・・・「よろしい。清くなれ」(マルコ1:41)。
もともとの言葉が、そういう言葉なんですね。『聖書と典礼』の解説の所に、「あなたが望むならば」、で、「わたしは望む」。そういうやりとりだっていうのが載ってますよ(※6)。いいやりとりですね。
「私は、あなたのことを知っている」「分かっている」「望む」「関わる」、そして、決して触れてはならない、その病気の人に触れる。・・・これが人間ですよ。他の動物にはできないね。人間だけ。ぼくらの中に、そういう力が与えられてるっていうことに、なんか感動します。
今日も、さっき、ミサの直前に、おばあちゃんから、「孫の病気のために祈ってください」ってね、切実な面持ちでお願いされましたけど、お孫さんが病気でね、障害もあって立ち上がって歩くのも困難なんですって。・・・2歳ですよ。「なんてかわいそうなんだろう」って、ホントにおばあちゃん、胸を痛めて、ひたすらお祈りしているわけで、やっぱり、それ、他の動物とぜんぜん違うんですよ。
人間は、もうホントに、だれかの弱さに共感し、私にできるものならば、なんとかしてあげたいと思う生き物です。その思いがあるからこそ、人と人は結ばれて、世界中の人がつながって、地球の裏側でおなかを空かせている子どものことまで心配して、じゃあ、ユニセフに寄付しようとかするでしょ。「かわいい」「かわいそう」で、人類は一致しているんです。すごい心です。神さまが、特別に人間に与えたんですね、そんな心を。
そこで、はたと気づく。
さっきも、創世記を読んでましたけど(※7)、創世記には、人間って、神の似姿だってありますよね(cf.創1:27、5:1) (※8)。何が似てるのか。神さまが特別に、人間をご自分に似せたっていうことは、人間の中の、他の動物にはない要素が似てるってことですよね。だって、「ものを食べる」なんていう要素は、他の動物でもそうですから。だけど、じゃあ、その食べ物を、「これを弱い人とも分け合って、みんなで一緒に食べよう」なんて思うのは、人間だけ。ってことは、そういうところが神の似姿だってことだし、逆に言えば、神はそういう思いの究極版だっていうことじゃないですか? 「なんてかわいそうなんだろう・・・」「なんてかわいいんだろう!」って、こんな私でも思う。動物のパンダにだって思う。そんな気持ちの究極の思いを、神さまが持ってるってことなんですよ。なによりも、ご自分に似せた人間に対して。
「なんてかわいそうなんだろう・・・」「なんてかわいいんだろう!」って、神が思っている。その対象は、だれあろう、あなたです。
神は、あなたのことを、シャンシャンよりもかわいいって思ってるんです。それが、キリスト教です。皆さん一人ひとり、弱いし、病んでいるし、救いを求めている。そんな一人ひとりに、神さまは、「わたしは知っている」「わたしは望む」「だいじょうぶだ、わたしが守る」って思う。神って、その思いそのもののことなんですよ。これを分からない人たちが多いから、なんとかね、なんとか分からせようっていうのが、イエス・キリストの言葉としるしです。イエスが伸ばした手が、この重い皮膚病の人に触れた瞬間が、天と地がつながったときです。神さまの、「ああ、かわいそう」っていうみ手が伸びて、この弱い私たちの心に触れてる瞬間!
「ああ、もうこんな瞬間があれば、もうそれで、私は永遠なる存在として生きていける」と。
結局、「洗礼を受ける」なんていうのは、そんな瞬間のしるしなんです。ホントに「おめでとう」って言いたいですよ。
今日は、洗礼志願式。今日はまだ、志願者に油を塗るだけですけど(※9)、お水を掛けられる日を楽しみにしてください。もちろん、それはしるしですから、水を掛けられたから救われるとか、そんな話じゃないです。もうすでに、神さまは皆さんに触れてます。ただ、今まで、それにぜんぜん気づかずに生きてきた。でも、今、この教会という神秘、イエス・キリストの伸ばした手の先に、皆さんは触れて、「私も神さまの愛に包まれてるんだ」と目覚めて、そのしるしとして、もうすぐ、水を掛けられるってこと。もう、まさに「おめでとうございます」ですよ。
目の前で、洗礼志願者の方がひとり、うん、うんって深くうなずいてますけど、あなたに最初に会ったのも、この聖堂でしたよね。聖堂の入り口ね。そういう方が、そこに座っておられますよ。懐かしいねえ、10月9日、忘れもしない去年の10月9日。
私はね、神さまの伸ばした手、これは目には見えない手ですけど、それを目に見えるしるしにしたい。それで人が救われて、安心するから。そのしるしとして、イエスさまがおられるし、教会があるわけですけど、その教会の目に見えるしるしが、今お世話している、たくさんの「福音家族」っていう集いなんですね。「なんとかあなたと一緒にいて、あなたに福音を伝えたい」「あなたと一緒にごはんを食べて、この教会の恵みを分かち合いたい」って、そんな思いで、この教会でも、皆さんと一緒にさまざまな集いをやってますけど、この集いに触れるっていうことが、神に触れるっていうことなんですよ。神さまの手の先の、イエスさまの手の先の、教会の手の先の、「福音家族」の恵みに触れたとき、神さまの、「なんてかわいそうなんだろう・・・!」っていう心が、そこに届く。すごい瞬間ですよ。
去年の10月9日はね、あなたにとっては、特別な日でした。人生で一番つらい日。「私はもうだめだ」「私はもうやっていけない」、完全破綻した日です。「私はもう、これ以上無理だ」、そんなときに、ふと、昔キリスト教の学校に通っていたってことを思い出し、「そうだ、教会に行ってみよう」って思って、家の近くの教会に行ったんです。10月9日です。一番近くの教会ってことで、この上野教会までやって来たら、ちょうど「福音家族集会」っていうのをやってたんですよ。百人近く集まってました。おっきな看板出してね、「第1回 福音家族集会」って。
「もうあとは、神さまに頼るしかない」って思った、小さな神の子が、ひとり、教会にやって来たら、「福音家族集会」。これ、なんだろうって思って、彼女は聖堂の入り口の所に、ポツーンと立ってた。そんなひとりの神の子を、晴佐久神父、見逃さないですよ。「あの人、見たことないな。福音家族集会に来た人じゃない。福音家族のために、神さまが送ってくれた人だ」、そう思って突撃していって、声を掛け、福音家族についてお話ししたら、「つらいことがあったので、教会に来てみました」って言うんで、「ちょうど今からミサですから、あなたのためにお祈りします」って、この聖堂に引きずり込んだ。(笑) まさに、無理やりって言うか、「なんとかしてこの人を救いたい、その力が福音家族にはある」っていう、そんな思いでしたよ。強引だったので、あなたはビックリしてましたけど、私はそのミサで、説教で話しました、「あなたの来るべきところはここです」と。「ここにいる、み~んなあなたの家族ですよ」と。そして、福音家族の皆さんに紹介しました。「今日たまたま、とってもつらい思いをして、救いを求めて初めてこの教会に来て、入り口でぽつんと立ってた人が、福音家族集会のミサに参加してくれました。福音家族、ひとり増えました~!」ってね、みんなに言ったら、あなたは立ってお辞儀して、みんなは喜んで、拍手が起こった。あの瞬間、忘れないですよ。
後であなたから聞きました。そのミサの間中、ず~っと泣いていたと。目の前のベンチの背のとこが濡れるほど泣いたって。安心の涙ですね。そうして、入門講座に通い始め、そして今日、あなたは、洗礼志願者になります。
神さまの手が伸びて、あなたを引きずり込んだんです。
それは、神さまが、一番苦しいときに、「ちゃんと、わたしは分かっている」と、あわれみを示した、その、しるしなんです。・・・神さまの、その憐みの目に見えるしるしになるのが、福音家族。そのように、教会が福音家族として、神のみ手のしるしになって、手を伸ばして、ちゃんと声を掛けないと、苦しんでいる神の子が通り過ぎていっちゃう。
上野教会、これからますます、神さまのあわれみの、目に見えるしるしになりましょう。
洗礼を志願する皆さん、皆さん一人ひとりのことを、神さまは、「なんてかわいいんだろう!」って思ってますよ。それこそ、目に入れても痛くない、ギューッと抱きしめたいと、「あなたを生んで、あなたの幸せを願っている、このわたしの親心を分かってくれ!」と、今、手を伸べておられます。
これから、洗礼志願者の皆さんのお名前を呼びます。呼ばれた方は返事をして前に出てください。神さまからの呼び掛ける声ですよ。
洗礼志願者のお名前をお呼びしますので、呼ばれた方は返事をして、前に来て、並んでください。
【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます)
※1:「ご両親は中国の方。名前はシャンシャン。(大笑) どうしても会いたくて会いたくて、行ってまいりました」
シャンシャンは、上野動物園(東京都台東区)で、2017年6月12日生まれたメスのジャイアントパンダ。上野動物園では初めてとなる、自然交配で生まれ順調に成長している子パンダ。
父親はリーリー(2005年8月生まれ)、母親はシンシン(2005年7月生まれ)で、共に上野動物園にいる。Embed from Getty Images
(上の画像は5枚がスライドショーになっています =手動=)
(参考)
・ 「パンダプロフィール」(UENO-PANDA.JP)
・ 「Ueno Panda Live」・・・パンダのライブ映像(上野動物園公式サイト)
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※2:「この『かわいい』って言葉は、『かわいそう』と一緒でしょ、語源がね。辞書引けば、そうありますよ」
「かわいい」も「かわいそう」も、元は、「不憫だ」「気の毒だ」といった意味を表す語。
「かわいい」は、「かほはゆし(顔映ゆし)」からの変化と考えられている。「はゆし(映ゆし)」が「目を開けていられない」状態を示し、「かほはゆし(顔映ゆし)」は「顔を向けていられない」状態を示すことから、「気の毒で見ていられない」といった意味に派生した。
「かわいい」が、「気の毒で見ていられない」から「愛らしい」の意味になったのは、中世後期からで、弱いもの、小さいものに手を差し伸べたくなる感情と、気の毒で見ていられない感情には近いものがあり、「気の毒なので助けてあげたい」→「愛らしい」に転じたものと考えられている。
(参考)
・ 「かわいい」(『語源由来辞典』)
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※3:(「上野動物園」情報)
🦁 上野動物園
住所:〒110-8711 東京都台東区上野公園9-83
・ 交通アクセス (UENO-PANDA.JP)
・ 入園方法 (上野動物園)
・ 開園・休園日・入園料 (上野動物園)
・ 園内マップ (ダウンロード版PDF)(上野動物園)
・ ジャイアントパンダの観覧方法(随時更新中) (東京ズーネット)
・ ジャイアントパンダ母子の展示状況、および観覧整理券の配布状況(公式Twitterアカウント)
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※4:「この『深く憐れんで』(マルコ1:41)っていうのが、それのことですよ」
この日、2018年2月11日(年間第6主日)の福音朗読より
マルコによる福音(マルコによる福音書)1章40~45節
〈小見出し:「重い皮膚病を患っている人をいやす」〉
===(聖書参考個所)===
〔そのとき、〕重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。 (マルコ1:40-42/赤字引用者)
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※5:「重い皮膚病の人もつらかったでしょう」
「重い皮膚病」は、鱗癬(りんせん)と斑紋を共通の特徴とするが、日本語でいうハンセン病とは、必ずしも同一ではない。古代には治療法がなかったため、事実上、自然治癒を待つほかなく、非常に恐れられていた。
律法では、保健衛生上の理由というより、神権政治的な聖潔を保全する理由から、「汚れた者」「罪びとの病」と考えられ、共同体から追放、遮断、隔離され、健常者に近づくことも禁じられていた。
(参考)
・ 「らい」(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008)
・ 「重い皮膚病」(『聖書と典礼』 (オリエンス宗教研究所、年間第6主日B年、2018/2/11)p.5下欄
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※6:「『聖書と典礼』の下の所に、『あなたが望むならば』、で、『わたしは望む』。そういうやりとりだっていうのが載ってますよ」
===(聖書参考抜粋)===
重い皮膚病を患っている人: 「御心ならば(あなたが望むならば)、わたしを清くすることがおできになります」
イエス: 「よろしい(わたしは望む)。清くなれ」 (マルコ1:40、42/赤字引用者/緑:直訳)
===(『聖書と典礼』参考)===
「御心ならば」: 直訳は「あなたが望むならば」。次節の「よろしい」は、直訳では「わたしは望む」である。(『聖書と典礼』オリエンス宗教研究所、年間第6主日B年、2018/2/11、p.5下欄)
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※7:「さっきも、創世記を読んでましたけど」
この日、2018年2月11日(年間第6主日)の第1朗読は創世記からだった。
創世記3章16~19節
〈小見出し:「蛇の誘惑」3章から抜粋〉
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※8:「創世記には、人間って、神の似姿だってありますよね (cf.創1:27、5:1) 」
===(聖書参考個所)===
① 神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。 (創世記1:27/赤字引用者)
② 神は人を創造された日、神に似せてこれを造られ、男と女に創造された。 (創世記5:1/赤字引用者)
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※9:「今日は、洗礼志願式。今日はまだ、志願者に油を塗るだけですけど」 (既出)
「洗礼志願式」では、洗礼を望む人が、聖別された油で、司祭から、額に十字のしるしを受ける。(洗礼式のように、水は掛けない)
・・・(文中へ戻る)
===(もうちょっと詳しく)===
「洗礼志願式」は、洗礼を望む人が、教えを学ぶ①「求道者」の段階から、正式に洗礼を受ける意思を表明し、教会に迎え入れられる儀式のことをいう。
この儀式を経ると、「求道者」は、②「洗礼志願者」と呼ばれる。(古来教会では、「恩恵に照らされた者」「資格ある者」「選ばれた者」などと呼ばれた。)
多くはミサの途中、福音朗読や司祭による説教のあとに行われ、洗礼への望みを確認し、洗礼志願書へのサイン、『使徒信条』の授与がある。そのあと、司祭は、聖別された油で、対象者の額に十字のしるしをしながら、「救いの油を受けなさい。救い主イエス・キリストの力によって、あなたが強められますように」と唱え、対象者は、「アーメン」と応じる。
元来、四旬節が洗礼志願者の受洗準備期間として形成されたことから、洗礼志願式は四旬節の初めに行われることが多い。
四旬節の間は、ミサの典礼と結ばれて、志願者への力づけ、清め、照らしを願う祈りが行われる。
新しい「洗礼志願者」は、通常、四旬節明けの復活徹夜歳で入信の秘跡(洗礼・堅信・聖体)を受け、③「キリスト者」となる。
(参考)
・ 「入信のプロセスとは」(カトリック京都司教区)
・ 「だれが洗礼を受けることができるか」(カテキズムを読もう:ラウダーテ)
・ 「洗礼志願式」(『岩波キリスト教辞典』岩波書店、2008)
・ 「洗礼志願式」(『成人のキリスト教入信式』カトリック中央協議会、1976)
・ 「洗礼志願式」(『カトリック教会のカテキズム』カトリック中央協議会、2002) ほか
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