身の回り5メートル以内の救い

【カトリック浅草教会】

2016年11月27日 待降節第1主日
・ 第1朗読:イザヤの預言:(イザヤ2・1-5)
・ 第2朗読:使徒パウロのローマの教会への手紙(ローマ13・11-14a)
・ 福音朗読:マタイによる福音(マタイ24・37-44)

【晴佐久神父様 説教】

 待降節第一主日です。
 イエスさまから、「用意していなさい」と、そう言われました(cf.マタイ24:44)(※1)
 「緊張感を持って」ってやつですね。ボ~ッとして、ただ生きてるだけだと、ホントに大事なものを見過ごしちゃったりするから、「緊張感を持って」と。
 といっても、いい緊張感ですよ。「いつ滅びるのか、不安だ・・・」みたいな、恐れる緊張感ではなくってね、「いい緊張感」。そういうの、ありますでしょ、「さあ、もうすぐ来るチャンスに、きっとこの自分が役に立つぞ!」って準備するとか、「さあ、イエスさまが来られた。今こそ、イエスさまのために何か奉仕しよう!」って奮い立つとか、「今、この人に会ったのは、ただの偶然じゃない。実は、この出会いが自分の信仰生活にとって最高のチャレンジ、恵みのときに違いない。この人と向き合って、ちゃんと関わろう」って受け止めるとか
 それはもう、毎日のこと。とっても身近なこと。一日10回はそんな恵みのチャンスがあるはず。それを、いつものように、「もう、こんなもんだ・・・」って思い込んで、毎日おんなじように考えて行動していて、すぐ目の前にある、最高の恵みをついつい見過ごしてしまうってことにならないように。この待降節(※2)、ワクワクするような緊張感を持って過ごしましょう。

 先日、加計呂麻島(かけろまじま)に行ったっていう話をしましたけど(※3)、港でドクターヘリっていうのを初めて見ました。
 離島でしょ、加計呂麻島。でも、付近にはさらなる離島もある。そこから救急艇が、・・・救急車みたいな船ですけど、急病人を加計呂麻島に運んで来るんですね。そして港で船からヘリに移して、今度は奄美大島本島の、屋上にヘリポートのある大きな病院まで運ぶ。
 ちょうどヘリが降りてくるところに居合わせたんですけど、救急隊員がキビキビと動き回って、船からヘリまで搬送したり、周りの見物人たちをコントロールしたりしていて、かっこいいなって思いましたよ。加計呂麻島にも消防署があって、まあ、ちっちゃな建物なんですけど、一応数名の消防隊員が常駐はしている。その横を通るたびに、庭で何か洗ったり、体操してたり、いっつもなにか訓練してるんですよ。ちっちゃな島だしね、出動するときも滅多にないだろうなって、勝手に思い込んでましたけど、ドクターヘリが降りてきたとき、その隊員たちがここぞとばかりに、キビキビと走り回ってる姿を見て、ああ、やっぱり本物は違うなって思いましたよ。あれは、かっこいい。
 あれが、「どうせ、ここの島は火事なんかないだろう。今日は、もういいや。酒飲んで寝ちゃえ~」みたいなことをやってたら、いざってときに役に立たないわけですよね。彼らは24時間、いつ緊急の連絡が入っても、すぐに出動できるように準備してるわけで、やっぱり、そういうとこをちゃんとしてるのってかっこいいし、本人も、いい緊張感を持って生きている。
 そういう生き方って、人生のあり方として、ステキなんじゃないですか? 自分が役に立つ、人を救える、そのためにいつも身構えて、準備している。ワクワクしながら、「いつか役に立つぞ」と。まあ、急病人をワクワク待つって言うのはちょっと変な言い方かもしれないけど、身の回りに必ず急病人って出るわけだし、それを助けられるんだから、ワクワクしながら。
 ドクターヘリのことを思い出したのは、まさに現代社会が、救いを求めて苦しんでいるからです。目には見えないけれど、魂の世界では、いまやこの国は被災地ですから。ホントに命ギリギリみたいな「急患」が、すぐ隣にも、いっぱいいるわけですから。われわれキリスト者には、やっぱりどこか、ドクターヘリを要請する救急隊員みたいな緊張感って必要だと思う。
 特に待降節は、そういう意味では訓練期間みたいなものですから、「イエスさまが、すぐ身近に来ておられる」「救いを求めている人が、目の前にいる」、だから、「イエスさまと、出会わせよう」「クリスマスに、教会へお連れしよう」と、それこそ、ドクターヘリに急患を乗せるみたいにね、常に救いを用意しているという、ある種の「身構え」みたいなものがあってもいいんじゃないですか?
 もちろん、私が救うわけでもない、あなたが救うわけでもない。救うのはイエスさまなんだけれども、その救い主のところにお連れするというか、出会わせるというか、そうしようって身構えている緊張感って、とっても大事ですし、この待降節、そういう日々として、目覚めた者でいたい。もうこれは「義務」とかっていうんじゃなく、キリスト者の「特権」ですよね。
 この訓練期間、いつもだったら気がつかないで見過ごしていたことに、「ああ、これがその勝負どころか!」って気づいて、思わず手を差し伸べて助けてあげるとか、いつもだったら、「ああ、私には無理ね・・・」と言って通り過ぎていたけれども、「今は訓練中なんだから、勇気を出して声を掛けてみよう!」とかね。チャレンジしましょうよ。
 私は、そういうカッコよさに憧れるっていうところがあって、そんな緊張感だけは忘れないようにしようって、いつもいつも、ささやかな練習はしているつもりです。大したことはできませんけど、それでも、一日生きていたら必ず一つは、「ああ、これがイエスさまとの出会いなんだな」とか、「この人こそが魂の急患だってことだよね」っていうようなことがありますし、それを見過ごしちゃうのが悔しいから、いつも意識するようにはしている。で、一週間たてば、そんな救いの出来事がたくさんたまりますから、今度はそれを、こういう説教の場で、キリスト者である皆さんと分かち合う。
 で、そういう生き方のコツがあるんです。
 「救いは、実は、身の回りの半径5メートル以内に実現している」
 「救いを求めている人が、実は、半径5メートル以内にいる」
 そういうことに、いつも目覚めているのがコツなんです。

 そういう、身近な救いの体験を分かち合う説教をしていると、なぜかプロテスタントの牧師先生方が共鳴してくださるんです。私の説教、「福音の村」というホームページで流れてますけども、大勢の牧師先生方が読んでくださってるんですね。
 それはたぶん、普段説教をしている牧師先生方こそが、こういう、本当に身近な言葉での説教の意味を理解しているからです。キリストの話とか、聖書の話とかって、どうしても「立派」な話になっちゃって、それが立派なゆえに、立派じゃない普通の人の実感から遠くなってしまいがち。
 現に、教会でどんなに立派な話を聴いても、家に帰ったら、夫婦で言い争うとか、子どものことで悩んだりとか、小さなことでいら立ったりとかっていう、「ちっとも立派じゃない現実」があるわけで、それが、「教会の立派な話」とつながらない。つながらないと、聴く方はもちろん、話す方もつらくなってくる。
 その点、私の話は、まさに「すべての現場が、救いの現場だ」と信じて、自分の身の回りの5メートル以内に福音を見つけ、「これこそが普遍的な救いの出来事だ」っていう発見を、自分が生きている今のこととして感じて、それを仲間たちと共有しようとするだけですから、つながりやすいんじゃないですか? そこがつながらないと、日曜日に教会に行って、どれだけ福音を聞いても、どれだけ熱心に奉仕をしていても、福音に触れる喜びがなくなって、本末転倒になっちゃう。
 「身の回り5メートル」で、
 「今日」、起こっていること、
 「今」、目の前にいる人、
 一日10回は出合う、さまざまな恵みのチャンス、
 そういう、最も身近な現実の中に、救いのみわざを見て聞いて、いつもいつも目覚めていたいし、そういう思いに特化して他者と関わろうとするところに、牧師先生方は共感してくれるんです。

 今、仮に「福音塾」って呼んでるんですけど、私のところに牧師先生方が集まってこられて、上野教会で毎月一度、分かち合いの集いをしてるんですけれども、いろんな教派の先生が来てくださっています。
 先週もその集まりがあったんですけど、「今日、按手礼(あんしゅれい)を受けてきた」っていう先生が、遠方から新幹線に乗って来られて、びっくりしました。・・・何でびっくりしたか、分かります? 神父でしたら、「今日、叙階式だった」ですよ。見習いのような3年間の牧師生活をしたうえで、按手礼というのを受けて、正式な牧師になるんですね。神父でいえば、まあ、6年間の神学校を終えて、助祭の期間を終えて、叙階の秘跡を受けて、正式な神父になるっていう感じでしょうか。
 私も、30年前の叙階式を思い出しますけど、カトリックの叙階式って、なかなか荘厳ですよね。戴冠式みたいに立派で、まあ、それはそれで意味があるんでしょうけれど。私も、その日のこと、よく覚えてます。叙階式の夜には、親戚一同を集めて、式のあったカテドラルの向かいの椿山荘(ちんざんそう)で、結婚式でいえば披露宴みたいなことをしました。北海道の親戚もやって来て、「あら~、マ~ちゃん、立派になったわねえ」みたいな感じで。(笑) 「いやぁ、マ~ちゃん、今日は素晴らしい式だった」とかってね、みんな信者じゃないんですけど、独身を誓った神父にとっては、結婚式みたいなもんだからって、集まった親戚一同と、その夜は飲んで楽しく過ごしたもんです。
 叙階の日ってそんなもんだと思ってたから、「今日、按手礼だった」っていう牧師が、午後には新幹線に乗って、こんな小さな集まりに来るっていうのは、やっぱりビックリなんです。
 だけど、その先生は、「今の自分には、この集まりが大事だから来た。この仲間たちが、自分にとって、一番大切な仲間だ」って、そういうことを言うんですよ。「ほかの集いも大事だけど、みんなの救いのために、生涯を捧げる牧師として、真の教会について語り合えるこの集まりこそが、かけがえない」って。しみじみと、うれしかった。
 「按手礼を受けた感想は?」って聞いたら、こんなこと言ってました。
 「今までは、やっぱり、自分で強く決心をして、がんばって牧師をやっていこうという思いでいたけれど、今日、按手礼を受けて感じたのは、ああ、実は自分の力じゃないな、すべて神の導きだし、イエスさまがずっと働いてたんだなと、そう気づかされた」って。
 私、ああ、神が働いているなあ・・・って、とっても心動かされました。
 プロテスタントでは、牧師になるとき、「献身」っていう言葉を使うんですけど、・・・「身」を「(ささ)げる」ですね。カトリックでは、「召命(しょうめい)」っていう言葉を使います。「()す」「命じる」。どちらも大事な言葉ですけれど、主語が違うんですね。献身は、「私が」献げる。召命は、「神が」召す。この両方が、大事です。このことに、按手礼を受けた先生が、按手礼を受けた日に、深く気づいたっていうことを、目の前の仲間たちに語ってくれる。こういうのが、まさに救いの現場でしょう。
 「自分が献げたつもりでも、本当は、神が召している」
 それは実は、みんなのことです。われわれが生きている現場のことです。半径5メートル以内でさまざまなことが起こりますが、神と無縁なことは、何ひとつない。私たちはそこで、自分を献げたいと願い、神さまが召してくださっていると信じます。神さまが用意して、神さまが働いて、神さまが私たちを救ってくださっている。朝起きてから夜寝るまで、ず~っと私たち、その中にいる。待降節は、そのことに気がつくための大切なとき。
 それこそ、「酒宴」とかさっき出てきましたけど(cf.ローマ13:13)(※4)、日常のことで頭がいっぱいになっていると、一番肝心なことを見逃してしまう。「親戚一同集まって飲んで楽しく」っていうのも大事かもしれないけれど、それ以上に、本当に神さまに出会い、本当に主と共にあるっていう、そんな仲間を大切にしたいと思えるなら、イエスさまにとっては、「とてもうれしい現場」っていうことになるんでしょうねえ。・・・必ずいい牧師先生になることでしょう。応援しています。

 昨日、大阪から帰ってきたんですけど、やっぱり牧師先生がたと、大勢会ってまいりました。
 「大阪キリスト教連合会」っていうエキュメニカル(※5)な集まりに呼ばれて講演したんです(※6)。さまざまなプロテスタントの教会の(かた)も来られていました。
 私を呼んだ牧師先生が、私の紹介をしてくださったんですね、最初に。これがとっても率直で正直な紹介でした。
 ・・・自分はカトリックのことは、ほとんど知らなかったし、特に好意を持っているわけでもなかった。ところが、あるとき、ある人が、「晴佐久神父の説教をぜひ聴いてみてほしい」って、CDを渡してくれた。正直、「カトリック? 別にいいよ・・・」って思った。それで、ホントは聞きたくなかったんだけど、仕方なく聞いてみたら、「自分が一番求めていたものが、そこにあった」と。
 で、それは何かっていうと、いつでもどこでも神の働きに目覚めて、それをまっすぐに証しすることです。たとえばこの説教でも、いわば「身の回り5メートル以内の救い」を、「どうしても語りたい!」と、強いモチベーションをもって語っているわけですね。自分が本当に心躍った、身近な福音的出来事を、信仰をもって率直に語るわけです。それは、何か立派なことを言おうとか、正しいことを語ろうとか、そういうモチベーションとは違うんですよ、まったく。そういうモチベーションは、「私が」語りたいというモチベーションであって、目の前で苦しんでる「あなたに」語りたいっていうのとは違うんです。
 今日も、こうやって見ていても、つらい思いを相談してくれた人が何人もおられますから、「ああ、この人はこういうことで悩んでいるな」とか、「この人はこういうことを恐れてるな」とかって分かりますよね。そうすると、それぞれの心の中にある闇とか恐れに、なんとか応えようと思って、「それでも神さまは、今、ここにおられますから、だいじょうぶなんです」と、「信じてください」と、あなたに、まっすぐに、語り掛ける。
 でも、それは、礼拝の説教では、なかなか難しいようです。まっすぐに福音を語る心になりきれないって悩んでおられる牧師先生も多い。そんな私たちに必要なのが、「今、ここで」リアルな救いの現実に目覚めるという、まさに待降節の心です。
 立派な話、正しい話って、どうしても観念的になってしまって、「今、ここ」で実現している恵みの出来事から、目をそらさせちゃうんですね。「神さまは、今、もう目の前に来られている」「たとえ都合が悪くても、この人との出会いこそが、神の国の始まりだ」っていう、5メートル以内に目覚めていれば、ちゃんとイエスさまは私たちの間に生まれてくださいます。
 もしかしたら、今日が最後の日かもしれない。これが最後のミサかもしれない。こうして会っていても、もう二度と会えないかもしれない。・・・現実にありえますよね、そういうこと。だから、「理屈抜きで、今、ここで、目の前で、いちばん大切なつながりをつくっていこう」っていう、強いモチベーション、これがやっぱり共感を生むんだなあと、その先生の挨拶を聞きながら思いました。

 その講演会で、まさに「目覚めている」ことの素晴らしさを感じる出来事がありました。
 その講演でお話ししてたのは、「純粋贈与」の話だったんですね。入門講座では、よく話す内容です。「神は、無償で、ただ与えるだけだ」という福音です。
 「神は、何も求めていない。われわれは、ただただ神の愛を受けるために生きているんであって、恐れずに神さまに甘えて、疑わずに神さまを信じて、安心して、希望を持って、神さまの御国(みくに)を受け入れましょう。私たちも、神から純粋に受けた者として、純粋にだれかに贈りましょう」と、まあ、そんなお話ですね。
 決して神は見返りを求めていません。私たちは何のお礼もできません。あえて言うならば、そのような純粋な神さまに目覚めていることが、求められている。それこそは、神さまが願っていることだと思う。「わたしに気づいてくれ」と。・・・待降節の心ですよ。そして、その純粋な神さまからの愛に目覚めることができたなら、私たちも、別に見返りなんかいらないし、もう、どんどんあげちゃおう、出しちゃおう、譲っちゃおう、恐れることなく。
 ・・・とまあ、そういうお話をしていて、ふと、余計なことを口走っちゃったんです。
 その講演会、参加費が必要な講演会だったんですね。ホールの入口に受付があって、みんな、参加費500円を払う。払うと、領収証が出る。私は講演会前に、その受付の隣でサイン会をしてたんですけど、お金を取る講演会って、あんまり好きじゃないし、「今日の講演会、お金取るんですか~」って、主催者につぶやいちゃったんです。さらに、よせばいいのに、講演の中でも、純粋贈与の話をしていたときに、「恵みは、純粋に神さまからくるものなんであって、神さまは何の見返りも求めていない。残念なことに人間のやることはすべて取引ですから、純粋な贈り物ってなかなかできないですけどね。実際、今日のこの講演会も500円必要なんですよね」って口走っちゃった。みんな、「アハハ」って笑ってくれたんで、調子にのって、「だって、500円払えない人が聴けないっていう福音じゃあ、『純粋』じゃないですもんねえ」とまで言っちゃった。まあ、イヤミを言うつもりはなかったんですけど、・・・私、ほら、調子にのっていろんなことを口走るじゃないですか。(笑)
 そうしたらね、なんと、牧師先生と主催者の人が、私が講演中だってのに、脇の方に集まってね、何かヒソヒソ話し合い始めた。(笑) 何か文句言われるのかと思ったら、講演が終わったとたんに、その一人が出てきて、言ったんです。
 「神父さまも、そうおっしゃってますし、本日の参加費500円、返金致します」 (笑)
 私ね、感心しました。すごいでしょう? 聞いたことあります? 言われたことを純粋に受け止めて、返金する講演会。偉いなあと思ったし、まさに、これ、普段から身構えてるからできることなんです。いつも目覚めてないと、そういう決断って、できませんから。私、うれしかったし、即座に申し上げました、「私も、今日の講演の謝礼金、返金いたします」。(笑) みんな「アハハ」って拍手してね。で、主催者が、ホントに参加者に返金したんですよ。出口の所で、みんな、領収証を出すんです。(笑) すると、500円玉が返ってくる。
 だけど、その500円玉、とっても純粋な香りが漂ってましたよ。だって、みんなの思いは、「ああ、500円(もう)けた。これでなんか買って帰ろう」じゃないと思うんですよね。「これ、私も何か純粋なことに使いたいな」って思うわけでしょ。
 神さまが何の見返りもなく、われわれに与えてくれている、純粋な恵み、純粋な福音。私たちも、なんの見返りもなく贈るとき、たぶん、あの純粋なイエスさまが、そこにおられるんですよね。
 イエスさまは、純粋に神さまからもらったものを、純粋にただただ人々に与えて、しまいには、自分の命もぜんぶ与えた。なんの見返りもなしです。たとえ、それをわれわれが踏みにじったって、イエスさまは怒らない。しかし、われわれは、そこまでしてもらったものを、今度は、「ぜひ、だれかにあげたいなあ」という気持ちになる。キリスト教っていうのは、ただただそれですから。それを、「いま、ここで」やろうっていう教えですから。

 大阪では翌日も講演会があったんですけど、その後の座談会で、一人の方が、「質問!」って立ち上がりました。
 「私は、このことを、みんなの前で言うのが、緊張してとても言えなかったけれど、今日、神父さんの話を聴いたから、勇気を出して言います。私は、実は精神障害を持っているんですけど、先日、ある巡礼旅行に申し込んだら、私のことを知っている神父さんから、『あなたは精神障害があるから、連れて行くことはできません』って言われて、本当につらかった」と、涙ながらに、そういうお話をするんですね。「私、本当に行きたかったんです。どうしたらいいでしょう・・・」って。
 だから、お答えしました。「その神父さんには神父さんなりのお考えがあって、あなたに良かれと思って言ったことだから、信じましょうね。そのことであなたが傷ついていることは事実だけれど、神さまのご計画は計り知れない。だから、むしろ、その巡礼旅行に行けなかったからこそ、きっと素晴らしいことが起こるんだって信じてくださいね。
 ただ、そのご計画のささやかなしるしとして、私、今、あなたの話を聞いて、決心いたしました。遠からず、必ず、『精神病、精神障害を抱えている人のための巡礼旅行』を主催いたしますから、その時はぜひ申し込んでください。最高の、天国のような旅にしましょう。それに参加したら、『ああ、あの時断られて、本当によかった』って思いますよ」と、そうお約束いたしました。
 日ごろから緊張感を持って、ちゃんと身構えていれば、ごく自然に出てくるお答えです。


【 参照 】(①ニュース記事へのリンクは、リンク切れになることがあります。②随所にご案内する小見出しは、新共同訳聖書からの引用です。③画像は基本的に、クリックすると拡大表示されます。)

※1:「イエスさまから、『用意していなさい』と、そう言われました」
この日、2016年11月27日(待降節第1主日)の福音朗読箇所から。
 この日の福音朗読箇所は、以下のとおり。
  マタイによる福音書24章37~44節
 〈小見出し:「目を覚ましていなさい」24章36~44節から抜粋〉
===(聖書参考箇所)===(朗読箇所から部分抜粋)
だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである。このことをわきまえていなさい。家の主人は、泥棒が夜のいつごろやって来るかを知っていたら、目を覚ましていて、みすみす自分の家に押し入らせはしないだろう。 だから、あなたがたも用意していなさい人の子は思いがけない時に来るからである。 (マタイ24:42-44/赤字引用者)
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※2:「待降節」(一部既出)
 待降節とは、降誕祭<クリスマス>に向かい、この世にいらしたキリストの降誕を思い起こし、また、終末のキリスト再臨への待望に心を向ける季節で、「愛と喜びに包まれた待望の時」(『典礼暦年に関する一般原則』39)といわれている。
 待降節は、毎年11月30日、もしくは、それに近い主日(2016年は11月27日)の「前晩の祈り」に始まり、主の降誕(12月25日)の「前晩の祈り」の前に終了する。
 待降節の主日(日曜日)は、待降節第1主日、第2主日、第3主日、第4主日と呼び、その後、12月25日の「主の降誕」の祭日を迎える。
(参考)
・ 『カトリック教会情報ハンドブック2014』(カトリック中央協議会、2013年 p.93)
・ 「教会暦」(ウィキペディア)
・ 「典礼解説 待降節」(カトリック中央協議会)
・ 「待降節とクリスマス(降誕祭)」(カトリック中央協議会)
・ 「A年、B年、C年」(ラウダーテ:「キリスト教豆知識」)など
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※3:「先日、加計呂麻島に行ったっていう話をしましたけど」
 先週の説教、「楽園は、いま、ここに」の最後の段落(>この辺から)です。(福音の村」2016/11/20説教)
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※4:「それこそ、『酒宴』とかさっき出てきましたけど」
この日、2016年11月27日(待降節第1主日)の第2朗読箇所から。
 この日の第2朗読箇所は、以下のとおり。
  使徒パウロのローマの教会への手紙13章11~14a節
   〈小見出し:「救いは近づいている」13章11~14節から抜粋〉
===(聖書参考箇所)===(朗読箇所から部分抜粋)
日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、 主イエス・キリストを身にまといなさい。 (ローマ13:13-14a/赤字引用者)
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※5:「エキュメニカル」
 もとは、エキュメニズム(英語:ecumenism)で、教会一致促進運動のこと。基本的には、キリスト教内部の教派間(プロテスタント諸教派、聖公会、正教会、カトリック)の対話に基づく一致と協力を意味しているが、今日では、より幅広く宗教間の対話と多様な課題をめぐる協力も含んでいる。
 日本語では、英語の形容詞化された「エキュメニカル(ecumenical)」が使われることが多い。
(参考)
・ 「エキュメニズム」(『岩波 キリスト教辞典』岩波書店、2008)
・ 「エキュメニズム」(ウィキペディア)など。
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※6:「『大阪キリスト教連合会』っていうエキュメニカルな集まりに呼ばれて講演したんです」
演題: ~晴佐久神父から聞く喜びの知らせ~「あなたは救われた」
講師: 晴佐久昌英神父
日付: 2016年11月25日(金)19時~21時
主催: 大阪キリスト教連合会
*****
 この連合会は、カトリック、プロテスタントの各教派教会をはじめ、各学校、各組織から29のグループで構成され、毎年、研究会やセミナー、一致祈祷会、他宗教諸宗教との交流など、活発に活動している。
(参考)
〔pdf〕晴佐久神父講演会チラシ
・ 「2016年度大阪キリスト教連合会の総会に出席して 2016/6/30(「日本自由メソヂスト教団 宣教開始120周年」/個人ブログ)/〈どのような会なのかの参考になります〉
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2016年11月27日(日) 録音/2016年12月16日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英