いっぱい友達をつくろう

2013年9月22日年間第25主日
・第1朗読:アモスの預言(アモス8・4-7)
・第2朗読:使徒パウロのテモテへの手紙(一テモテ2・1-8)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ16・1-13)

【晴佐久神父様 説教】

 私の車が突然壊れてしまいまして、「エンジンがもう直らないかも」と言われてしまって。・・・かわいがっていたのに。というわけで、駐車場、しばらく1台余分に止まれますので、どうぞ。(笑)
 体の方もだんだん弱り、車も壊れ・・・。ここんとこ、なんか、しょんぼりする出来事が多いような感じではありますよ。部屋ん中でけつまずいたこの前の話とかね(※1)、年とともに、キャンプの疲れがなかなか取れないとかね(※2)、最近の説教は愚痴っぽいと、自分でも気づいてはおりますが、事実は事実ですからねえ。(笑)
 車がないんで、久しぶりに電車に乗ってます。昨日の午後は、府中の墓地で追悼ミサを終えてから、JRで市ヶ谷に行って「いやしのミサ」を捧げて、地下鉄と京王線で多摩教会の夕べのミサに戻って来ました。ミサ三連発だったわけですけれども、三つそれぞれに何とか時間を間に合わせようと思って、必死に電車を乗り継ぎました。
 市ヶ谷からの帰り、直通運転があるって聞いたので、とりあえず地下鉄に下りて行ったら、改札前に「都営新宿線にはここからは乗れません」って書いてある。急いでたんで、あせって入り口を探し回って乗ったはいいけど、今度は京王の特急に、どこで乗り換えられるのかが分からない。世間知らずな話ですよね。
 まあ、なんとか明大前駅で特急に乗り換えて、つり革につかまってたら、たまたま目の前の席が空いたんでポッと座って、「あ~、ひと安心。特急に乗れてなんとか間に合った~♪」とか安心してたら、そのままぐっすり寝てしまって、気が付いたら、「高幡不動~、高幡不動~」って言ってるんですよ。(笑) もう、急いでるのに乗り越しちゃって、あわてて飛び降りて、引き返して・・・。なんとかミサの時間ぎりぎりで帰りましたけど。

 若いころは元気に、上手に立ち回ってやっていたことが、年を取ると、次第にそうもいかなくなる。これ、ただ愚痴を言ってるように聞こえるかもしれませんが、実は私、今日ここで申し上げたいことはですね、確かに年を取って弱ってくるのは事実ですが、その分、非常にいい面もあるっていう話なんです。それはまさに、それゆえに、神さまの真のお望みが何かが分かるようになり、神の国に対する感性とか、そういうものが深まっていくっていうことです。
 つまり、「自分の力で何とかしよう」とか、「上手に救われよう」とかっていうこと、そういう自力の信仰からだんだん解放されて、救うのは神であり、もう今ここに神の国は来てるんだから、うろうろしなくてもいいと、自分で頑張るんじゃなくて、ともかく信じようとする。そういうのって、やっぱり、年取れば取るほど深まっていくんですよ。・・・年取れば取るほど。
 やっぱりね、若いころは、目の前にいろんな良いものがありますし、自分でこれから、いろんな良いこともできそうな気がしますから、神さまの働きを感じにくい。だけど、だんだん年取ってくると、良いと思っていたものが大したもんじゃないと分かってくるし、「いろんなことしてきたようでいて、大したことしてこなかったな」って思うようになるんですよ。そうすると、神さまがなさっておられることの本当の素晴らしさが見えてくるし、「神さまが働いているんだから、これでよし。すべて委ねよう」っていうような解放感も生まれてくる。
 そして、なんかこう、立派な活動じゃなくて、小さいけれど、あったか~いものとかね、そういうものに、すごく心が引かれるようになる。・・・いいですねえ、晴佐久神父さんも年取ってくると、こういう説教になってくるんですよ。(笑) よわいを重ねるって、いいもんですね~。

 世の中は「イケイケドンドン!」でしょ。でも、なんか、聞いた話ですけど「オリンピック」と聞くと落ち込む人たちもいるって、ご存じですか? 精神科医が書いてました。「東京でオリンピック」って聞くとね、「7年後か・・・自分は生きてるだろうか」って思うんですって。さらには、「世の中は楽しくオリンピックをやり、日本も元気になっていくんだろうけど、私は楽しくないし、元気がない。みんなは幸せになっていくけれど、私は、もう幸せになんかなれない」って、そういうふうに思う。
 うつ気味の人っていうのは、やっぱり自分を責めますし、周りが明るければ明るいほど、かえって、自分の暗さ、孤独、弱さ、そういうものをクローズアップして責め始めるんですよね。だから、「オリンピックで~す!」「2020年、7年後です!」って騒ぐと、かえって落ち込むんですって。
 だけど、どうでしょうね、そのほうが健全かも知れませんね。本当の幸せとか、感動とかって、ホント言うと、もっと身近なもののはずだし、むしろそんなふうに落ち込んでいる人を、誰かがそっと優しく励ますっていうような、小さな、あったか~いものこそが、最も価値あるものなんじゃないですか? その意味では、そうやって「オリンピック」と聞いて落ち込んでるような人の方が、神の国に近いのかもしれませんね。そういう人は、この世のオリンピックよりも、愛や癒やし、ゆるしに満ちた神の国を求めているし、だからこそ、それに気づきやすいですから。
 「年取ると神の国に近くなる」っていうのは、やがて天に召される時期が近づいているっていう意味じゃないですよ。年取ると、「神の国は本当に、すぐ手を伸ばせばそこにあるんだ」っていうことに気づき始める、そういうことなんです。大事業を起こさなくても、優しい心で隣りの人にちょっと親切にすれば、もうそこに神の国がある。そんなのは、やっぱり年取れば取るほど分かることですよね。・・・なんか今日はシニアの話ですね。(笑) 若い方たちもおられますけど、これは皆さんに分かっていただきたいです。

 最近は、さらにはリニアモーターカーの話まで始まっちゃってね、これはさらに7年後の、14年後だっていうんですよ。オリンピックまではなんとか持つかもしれないが、(笑) リニアモーターカーまではどうだろう、とか。(笑) だけど、そんなこと気にするのも、意味ないことです。
 私たぶん、たとえ生き延びても、あれには乗らないんじゃないですかねえ。閉所恐怖症がありますから。ほとんどトンネルだっていうじゃないですか。ああいうのって、幸せなんですかねえ。
 私、新幹線は好きですけどね。「新幹線も似たようなものだ」って言うかもしれないけど、しょっちゅう出かけますし。名古屋だ、京都だ、大阪だって、講演会に出掛けるとき、東京駅でね、DEAN & DELUCA(ディーン&デルーカ)のカフェラテとサンドイッチを買って、雑誌を2冊買って、それから小さなケーキかなんか1個買って、で、ご満悦で席に座って、テーブルの上にみんな並べて、雑誌を読み始めると新幹線が動き始めて、コーヒー飲んで、サンドウィッチ食べてるうちに、「ああ! 富士山だ~!」ってね♪
 これが、リニアモーターカーだと、名古屋まで40分ですって! しかもトンネルの中を。いつサンドイッチ食べればいいの?(笑) あっという間に着いちゃうじゃないですか。何にも見えない暗いとこ走って。これ、幸せなんですかねえ。もしも、トンネルの中で緊急停止なんてしたら・・・。ああもう、閉所恐怖は、そういうこと考えただけで汗が出てくる。まして停電なんてしたら・・・、ああ、そんなこと考えなきゃいいんだけど。(笑) でも、きっと、そういうことが起こるんでしょ、結局は、また。これって、幸せなんですかねえ。
 まあ、人類の「イケイケドンドン!」は、もはや止まらないって思うかもしれないけど、年取れば取るほど、「そういうことじゃないよね」っていうのが、だんだん分かってくるんですよね。もっとホントにゆっくりしたこと、ささやかで小さなこと、でも、とってもあったかいこと。・・・これは価値がありますよ。ホントに価値がある。
 友達って、そういうもんじゃないですかねえ。家族ですらバラバラになったり、仕事場でもののしり合ったりしている現実の中で、あったか~いもので、ちょっとでもつながるっていう、そういう友達って最高じゃないですか。
 「この世の富で友達作れ」って、ホントに神の国への最高の道なんじゃないですか。イエスさま、そういうこと言いたいんじゃないですか?
 この世にはたっくさ~ん富があるけれど、それを守るために、奪うために、遺産相続だとか、なんだかんだと争っているような、あの身も凍るような貪欲と恨みの世界・・・、そこに神の国があるはずがない。逆に、ほんのちょっとでもね、譲り合って分かち合って、あった~いひと言で励まし合っている。そこに、もう神の国は始まってるんじゃないですか。

 この管理人は危機に陥ったわけでしょ? 「ああ、どうしよう。もう生きていけない。後は物乞いするしかないのか」、そんな危機にあって、その彼を救うのは、あったか~い友なんですよ。「それが最高のことじゃないの?」って、イエスさま、言いたいんです。「この世の富、いくら自分のために集めても、そんな友ひとりいなかったら、それ、幸せな人生か?」と。
 でも逆に、この世の富をぜんぶ使ってでも、たったひとつの、あったか~いものを生み出せたら、それはもう神の国なんですよ。その友が永遠の住まいに迎え入れてくれるっていうか、この聖書が言いたいことは、そういう友をつくっている人たちは、もう永遠の住まいに入れてもらっているんだっていう、そういうことなんでしょうね、これ。そういうふうに理解してください。
 実際、この管理人の友になったと思いますよ。油100バトスをね、50って言ってもらって、借りのある人だったら、ホントに喜んだんじゃないですか? 当時は、これ、高利貸しみたいな部分もあったらしいんで、まあ、100を50にしたところで、主人の方もあんまり文句言えないような筋合いなんですよ、実を言えばね。で、借りてる方にしてみたら、「いいんですか!? ありがとうございます! 実は返せなくて困っていたんです。後は妻子を売ってでも返さなきゃと思うと、もう人生終わったくらいに思ってたのに、管理人さん、あなたのおかげで、どんなに助かったか! ありがとうございます!! 管理人さん、なんか今度困ったことでもあったら、私が何とかしますから」って、そういう話ですよね。で、管理人も幸せになる。「これこそ賢い。抜け目がない。まして、神の国に関しては、もっと賢くあれ」って、イエスさま、そう言ってるんですよ。
 あったか~い心で、誰かを助けてあげる。すると友が生まれる。そこに、もう神の国はある。
 実際、ホントに困ったとき、行き詰まったときの、そんなあったかさって、うれしいでしょう?

 最近、この教会に、大切な通帳を落とした人がいますけど、通帳なくして、もう身も凍るようなショックを受けてですね、ホントに困っているとき、教会の仲間からメールがきて、「誰でもあることだから、どうぞ気を落としませんように」って言われて思わず落涙したっていう話聞きましたけど、分かりますよ、その気持ち。まあ、やがて通帳は出てきて、事なきを得たんですけど、落とした時は、「やっちゃった! なんてこった。こんな年になって、いい大人のはずなのに、失敗しちゃった・・・」って、もうガッカリしているときに、「誰でもやることだ。気を落とすな。だいじょうぶだ」って言ってくれる、そのひとりの友のありがたさ。
 困ったときのあったかさほど、いいものないでしょ? ホントに行き詰まったとき、もう自分ではどうすることもできないようなとき、小さなあったかさに触れて、それがどれほど価値あるかって、やっぱり年取れば取るほどわかるんですよね。それはホントにうれしいことだし、そんな小さなあったかさに、もう神の国は始まってる。この世の富、ぜんぶ使ってでも、それを手に入れろという、このイエスさまの教えは、ホントにうれしい教えです。

 第1朗読のアモスなんか、預言者ですけど、怒りまくってますでしょ。金ある者、権力ある者が、貧しい者を買って、天秤をごまかして、貧しい人たちからどんどん収奪して、自分は富んでいく。「でも、それは幸せか?」っていう話です。
 この富んでいる人は、私、ひどい話だとは思うけれど、ある意味、しょうがないな、とも思うんです。それは、本当に価値ある、あったかいものを知らないっていうことなんですよ。だったら、教えてあげなくっちゃ。どんなにいいものかっていうことを。
 それは、もう、億積んでも、兆積んでも手に入れられない、優しい気持ち、信頼関係、あったか~いひと言。・・・それで世界は神の国になりますよ。目先の富に目がくらむと、そこが見えなくなる。それが一番の問題でしょ?
 パウロが第2朗読で、イエスさまのこと、いっしょけんめ言ってますよね。「イエスさまがすべての人を(あがな)ってくれた。救ってくれた。私はその証人だ。みんなに伝えたい!」って、頑張ってしゃべってます。けど、イエスさまが私たちを救ってくれたっていうのは、これは、イエスさまが、あったか~~い、その愛で、私たちの友になってくれたってことでもあります。イエスさまは神さまですから、つまりは、神さまがあったか~い心で、私たちの友になってくれた。これが、イエスさまの救いでしょ?
 神さまが友だったら、これはもう、幸せに決まってますよ。どんなに行き詰まったって、何を失ったって、「だいじょうぶだ。私がついてる」って神さまが言ってくれたら、そこにホントの幸い、幸せがある。いいもんじゃないですか。

 先週、ナザレン教団っていうプロテスタントの教団の大会にね、福岡へお話に行ってきました。先週の日曜日の説教で、「今晩出掛けます」って言った、あれですよ(※3)
 九州のナザレン教団の二泊三日の大会ですから、信者さんと牧師先生が大勢集まっててね。後で聞いたんですけど、やっぱりプロテスタントの教会じゃないですか。カトリックの神父呼ぶのはどうかって、ちょっと懸念する声もあったとか。しかし、実際には、私は徹底して普遍性の話をするわけですね。
 「みんな神に愛されている。みんな神の愛によって救われる。『プロテスタント』とか『カトリック』なんていう壁を超える、あった~いものさえあれば、救いを味わえるはず。今日、ここで、あったかいものが通じ合って、普遍的な救いを一緒に味わえたなら、ここに、すでに神の国は実現しているんです」って話です。まあ、いつもの話ですけど、一生懸命お話ししました。
 すると皆さん、とっても喜んでくれて、その後でお礼の言葉もたくさんいただきました。そこには共通して、「あった~いお話だった」「とってもあったかい気持ちになった」っていう、その「あったかさ」っていうものがキーワードになってました。・・・うれしかったです。それが何よりだから。
 逆に言えば、自分の中だけに閉じこもって、自分たちの教団だけとか、自分たちの利益のことだけ考えてるとき、だんだん冷たくなるんですよね、きっと。冷えていくんですよ。
 先週対談した宮台さん(※4)も、こんなようなことを言ってました。「ある集団とか、社会というものは、自分たちのことばかり考えていると、次第に衰退する。それをもう一度元気にさせるきっかけは、常にその集団、社会の外部からくる。これは社会学の常識です」と。
 内側だけで満足し、自分たちの世界、自分たちの利益だけ考えて、冷た~くなっているとしたら、ちょっと心開いて、友達つくりましょうよ。・・・外部です。もうひとりの誰か。見知らぬ誰か。

 昨日今日と、中高生の、お泊まり会やってるんです。ついに実現しました。いいお泊り会ですよ。別に何するってわけでもないんですけど、ただみんなで集まって、ワイワイと。一緒に餃子作ったりね。夜は一緒にお月見をしてね。いいもんですよ、教会の友達。あったかくって。
 今年は何とか中高生会を元気にしようと思ってね、春にはディズニーシー無料ご招待、夏には中高生会キャンプで高尾山と、久しぶりに中高生の集まりを、春、夏とやって、夏の終わりにはこうして中高生会のお泊り会もできた。「やった~、バンザイ!」っていう感じです。みんなが教会の友達になってくれるなら、こんなうれしいことはない。教会の友達は、神の国の入り口ですから。
 今日もこのミサに、昨日泊まった中高生が出てますけれど、こうしてみんなが友達になってくれるなら、ディズニーシーのチケット代なんて安いもんですよ。まさに、「『この世の富で友達作れ』っていうのはこういうことだ」って言いたいですよね。もっとも、最初はディズニーシーだったのが、高尾山になって、お泊り会ではポテトチップとお月見っていう・・・。(笑)でも、みんながホントの友達になってくれるなら、それはもう、かけがえがないですよ。
 学校の友達もいいもんですけど、当然、気の合った仲間とだけ友達になるわけですし、学校はやがて卒業しちゃうじゃないですか。ホントの友達はどこにいるか。それは、神さまが結んでくれた、この教会の仲間たち。あったか~いものだけが、真に価値あると知っている仲間たち。自分で気が合うとか合わないとか選ぶんじゃなくて、神さまが結んでくれたから一緒にいたいといえるような仲間たち。そうして一緒にミサに出て、神さまが出会わせてくれたことを本当に感謝して、「神の国まで一緒に歩んでいこう」と、「君が困ったら必ず助けてあげるよ」と、そんなあったかいこと言ってくれる友達は、どこにいるか。教会にいるじゃないですか。
 中学、高校、忙しいかもしれないけれど、このお泊り会をこれからも繰り返しますから、集まってくださいね。私も皆さんの友達になりますから。その代わり、私が困ったときは助けてくださいよ。(笑)

 「友達作れば、永遠の住まいに迎えてもらえる」って、ここに書いてあるんですよね~。イエスさまの言葉ですよ。「不正にまみれたこの世の富で友達作れ。そうすれば、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」
 さあ、いっぱい友達をつくろう! そして永遠の住まいに向かって、一緒に歩いていこう!!
 今日、皆さん、誰かひとりでも友達つくっといた方がいいですよ。永遠の住まいに入れますよ。誰と友達になれますかね。・・・あったか~いもの。今日、どんなあったかいことができるだろう。


【 参照 】

※1:「部屋ん中でけつまずいたあの話」
・ 「見よ、それは極めて良かった」(「福音の村」2013年9月1日説教)参照
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※2:「キャンプの疲れがなかなか取れないとか」
 ・ 「どこかでいいことが必ずある」(「福音の村」2013年9月8日説教)参照
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※3:「ナザレン教団っていう・・・『今晩出掛けます』って言った、あれですよ」
・ 「神さまの意地」(「福音の村」2013年9月15日説教)参照
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※4:「先週対談した宮台さん」・・・(宮台真司氏のこと)
・ 「神さまの意地」(「福音の村」2013年9月15日説教)、および、その【 参照 】※2、※3を参照
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2013年9月22日 (日) 録音/2013年9月28日掲載
Copyright(C)晴佐久昌英