2013年12月15日 待降節第3主日
・第1朗読:イザヤの預言(イザヤ35・1-6a、10)
・第2朗読:使徒ヤコブの手紙(ヤコブ5・7-10)
・福音朗読:マタイによる福音(マタイ11・2-11)
イエスさまが、おっしゃってくださった「ヨハネよりも偉大な者」、それは私たちです。なぜなら、私たちキリスト者は、すでに主イエスの復活を知って、信じて、喜んでいるからです。ですから、ここに集う私たちは、神さまによって「偉大な者」としてもらっているということを、知って、信じて、喜んでください。
今日はなにしろ、「喜びの主日」ですからね。(※1)
待降節第3主日「喜びの主日」、私がミサの始めから、喜び、喜びと言ってたのをお気づきですか? 「さあ、救われた喜びのうちに、このミサを始めましょう」と。
もうすぐ、降誕祭を迎える私たち。それは、世の完成の時に主を迎える準備でもあり、その主と今、ここにともにあるという意味では、もう救われている私たち。まだ準備中ですから、いくつかの試練はあるけれども、私たちは今日、信仰の喜びを神さまにお捧げします。
・・・皆さん、もうちょっと、いい顔してください。(笑)なんか、顔がコワイですよ。もうちょっと、ニコニコッとね♪ 喜びにあふれた、その笑顔のもとに、今なお悲しんでる人たちが集まってくるんです。
「喜びの主日」、美しい名前の主日でしょ? この祭壇の待降節の4本のろうそくも、3本目がつきましたけど、3本目には、ピンクのリボンが巻いてあるんですよ(※2)。喜びの主日のしるしです。ろうそく自体をピンクにすることもある。きれいでしょ。
今日は、そんな明るい色の気持ちで、救いの喜びに満たされてくださいね。
第1朗読でも、喜び、喜びってね、さっき朗読中に数えたら7回出てきました。司祭席で指を折って数えて確認してたら、隣りに座ってる侍者の子どもが、神父さん何してるんだろう? って不思議そうに見てましたけど。・・・数えてたんですよ。「喜び」って言葉が短い朗読の中に、繰り返し7回も出てきた。イザヤ書です。繰り返されると、聞いてるだけで喜びが湧いてきますね。
「心おののく人々に言え」って。「心おののく人々」ってだれですか?・・・皆さんのことですよ。
「心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。神は来られる。神は来て、あなたたちを救われる』」
「そのとき、見えない人の目が開く。聞こえない人の耳が開く」
・・・まさに「福音の喜び」ですね。この喜びさえあったら、「嘆きと悲しみは逃げ去る」と、預言者はそう語りました。
久しぶりに教会に来た方、何人かおられますね。ああ、あなたは先週から来られるようになりました。ずいぶんお元気になられて、よかったですねえ。脳梗塞でしばらく入院されてましたけど、お訪ねした時よりずっと元気になられた。「歩けなかった人」が、こうして来られて、神さまが救ってくださったという喜びがあふれていて、迎えるみんなも喜んでますよ。
先週、目の手術が終わった方もおられますね。手術成功、おめでとうございます。手術前は、あなたはまさに「心おののく者」でした。でも「目が開き」、神の恵みに与って、以前よりもよく見えるようになって、「人生で、今が一番、喜びにあふれている」っておっしゃった。手術前はあんなに怖がって落ち込んでたのにね。もっとも、医者から「手術の結果、失明するかもしれません」なんて言われたら、だれでもそうでしょう。それが、昨日の夜、「喉元過ぎれば」みたいな顔して、喜んで報告に来られて、「お礼に」ってビールまでくださって、ありがとうございます。私が治したわけではないんで、ホントはそれは神さまに差し上げるビールなんですけれど、神さまは飲めないので、私が頂きますね。(笑)
「心おののく日々」がある。しかし、「見えない人の目が開き、聞こえない人の耳が開き、歩けなかった人が踊り上がり、喜びと楽しみが彼らを迎え、嘆きと悲しみは逃げ去る」。
まあ、この世はまだ完成してないから、また「心おののく日々」があるかもしれない。でも、最後は、最後の最後は、ちゃ〜んと「喜びの日、喜びの国」が待ってるんですよ。だから、この「福音の喜び」のもとに私たちは集まって、「福音の喜び」そのものである主イエスを迎えるんです。・・・なんて幸いな私たち!
かく言う私も、「おののく」ことはいっぱいある。
先週、「カリタス釜石に新しいセンターを建てるための募金をお願いします」ってね、皆さんにお願いいたしました(※3)。実は今日、そのカリタス釜石からスタッフが1名、来ておられます。聖堂の一番後ろにいますが、ミサの後、皆さんにごあいさつをお願いします。
あなたにこの前、釜石で安請け合いをしてですね、もう、ホントに簡単に、「わかりました! 足りない500万、お任せください!!」って。ああいうときの私は、カッコイイんですよ。(笑)言ってるときは。だけど、その後で、心おののくんですよね。帰りの新幹線の中で、いや〜、また言っちゃった・・・って思って。カッコつけて、「だいじょうぶです! お任せください!!」って言うのは簡単だけど。・・・ああ、どうしよう。
だって、「500万」って、デカイ数字ですよ。そう簡単な話じゃない。集まるだろうかって思うわけですよ。そういうとこ、私はホントに小心者なんです。小心者のくせに、デカイことを言うという・・・。まあ、悲しい性
だけど、おののきつつ帰ってきた翌日、早朝のミサがありますでしょ? で、その日の福音は典礼の暦に従ってマタイの二人の盲人の話だったんですけど(※4)、二人の盲人が「見えるようにしてください」と頼むんですね。
「ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」
そうすると、イエスがこう聞き返すんですよ。
「わたしにできると信じるのか」
二人が答える。
「はい、主よ」
すると、イエスが答える。
「あなたがたの信じているとおりになるように」
・・・釜石から帰ってきて、どうしよう・・・なんて思ってましたけど、翌日の朝これを読んだら、もう、「恐れおののき」は、吹っ飛びました。
別に私がどうこうするわけじゃない。イエスさま、あなたにはおできになる。見えない目を開き、歩けない人を歩かせる。
「わたしにできると信じるのか」って言われて、「はい、主よ、信じます」と私は答えたい。
神におできにならないことはない。・・・そう信じると、喜びがあふれてくる。
だいたい、被災地では、もうそのような信仰しか役に立たないんですよ。釜石のベースなんかに行くと、ホントにつくづく、これほどの被害、これほどの喪失、これほどの悲しみ、それを前に、いったい私たちに何ができるだろうって、そう思ってしまう。これほどの悲しみを喜びに変えることって、できるのか。
そのとき、イエスが聞くんです、「わたしにできると信じるのか」。
「はい、主よ、信じます!」って、そう言った人たちが、カリタス釜石でね、本当に、信仰と希望によってのみ立つベースとして頑張ってるんですよ。
私たちも信仰によって、その悲しみを喜びに変えることができるんです。
「主よ、あなたにはおできになります」と信じて、「はい、主よ」、そう答えます。
今日の福音書では、イエスさまが洗者ヨハネの質問に、不思議な答え方をしますね。
ヨハネが、「イエスさま、あなたはホントにキリストなんですか?」と、そう尋ねる。もっとも先週も、ちょっとこの箇所に触れたように、これ、ヨハネにしてみたら疑ってるってわけじゃないでしょう。
「イエスさま、あなたは救い主なんでしょう? さあ、ホントに神の国を実現させてくださいよ。私はもう、こうして捕らわれて、殺されちゃう。あなたも、うかうかしてると殺されちゃいますよ。さあ、救い主として、神の国を実現させましょうよ、始めましょうよ」
そんな感じで、まあ、ハッパを掛けてるんですね、この質問は。
「ほかの人を待たなければなりませんか」みたいな言い方をするのも、挑発っていうか、「あなたしかいないんだから。あなた以外のだれがやるの?」って言ってるんじゃないかな。それに対して、イエスは、「はい、わたしがキリストです」とは答えない。「だいじょうぶだ、もう始まってるよ」って答えるんです。
「もう始まってる」・・・つまり、「見えない人は見え、聞えない人は聞こえ、歩けない人が歩いている。死者でさえ生き返っていると、そうヨハネに伝えなさい」と。「貧しい人、試練のうちにある人、心おののく人たちに、神の愛の福音が、すでに告げ知らされ始めている。ヨハネに、そう答えなさい。それを聞けば、あいつにはわかる」と。
たぶんヨハネは、弟子からその答えを聞いて、涙ひとつこぼして、「時は来た、これで死ねる!」と思ったんじゃないですかね。
神の国は、もう、始まっております。それ以上の喜びはない。
この福音は、すでに私たちに伝えられておりますし、私たちがまた、みんなに伝えなきゃならないこと。
新しい教皇さまが、美しい使徒的勧告をお出しになりました(※5)。
先日来お話している『エヴァンジェリ・ガウディウム』(Evangelii Gaudium)、「福音の喜び」、これはもう、後世に名を残す使徒的勧告になりますよ。これから先、どれだけ引用されることになるかというような、預言的内容です。まさにこの多摩教会、こういう小教区教会でがんばっている私たち、現場で悩んだり、現代社会の中でどうやって信仰を保っていくか、証ししていくかってことで、日々苦しんでいる私たちのための、大変具体的な使徒的勧告です。
全訳が出たときには、皆さんに買っていただきますよ。暗記するまで読んでいただきましょう。まあもっとも、どう読んでもまずは神父が読むべき内容でもあるんでね、おまえがまず暗記するほど読んで、そういう教会を目指せって話ですけど。
「喜び」なんですよ、その中心が。福音の喜びを取り戻そうっていう「勧告」なんです。
冒頭、「福音の喜びはあなたの心を満たします」で始まります。
「福音の喜びは、あなたの心を満たします。イエスに出会う人のいのち全体を満たします。イエスの救いを信じる者は、罪や悲しみ、虚無や孤独から解放されます。イエス・キリストと共にある者のうちには、いつも、喜びが生まれます」
そういう書き出しなんですよ。美しいでしょう?・・・「イエス・キリストと共にある者のうちには、いつも喜びが生まれる」
もちろん、現実には悲しみや苦しみがあること、教皇さま、わかってますよ。だから、こんなことも言ってます。
「もちろん、私は悲しみや苦しみがあることはわかっている。しかし、復活祭抜きの四旬節を生きてるような信者でいいのか?」って言い方をしてるんですよ、おもしろいでしょう?
「復活祭抜きの四旬節」、そんなの、悲しいね。いつまでも復活祭が来ないんですよ。ず〜っと大斎日みたいな。でも、そんな信者、そんな教会になっちゃってないですかって、教皇さまは心配してるんです。
「もちろん苦しみはある、絶望もある。でも、その後に復活祭がある。この喜び抜きの信仰なんかあり得ない。時には最悪の日々を迎えることもあるけれども、でも、そんな『最悪』の中にも、信仰の喜びが、少しずつ、少しずつでも生まれてくるようにしなければならない」・・・そんなようなことも書いてあった。
「少しずつ、少しずつ」って、二度繰り返して書いてありましたよ。
急には歓喜には至らないかもしれないけど、最悪の悩みを抱えている中で、「少しずつ、少しずつ」でもいいから、福音の喜び、信じる喜びを取り戻す。「神よ、あなたにはおできになります」という、その信頼を取り戻していく。
現実に悲しみがいっぱいある中で、わがカトリック多摩教会が、そんな福音の喜びに満たされているなら、これはもう、世界の人たちがこの教会を仰ぎ見るでしょう。
何日か前、島仲間の22歳が夜遅くやって来て、「卒論書き上げた〜!」ってね、私に「読んでほしい」って、卒論を渡されました。書き上げるために徹夜でもしてたんでしょうかね、バタッと寝て、そのまま教会で二日間寝てました。で、彼は神学部で、大学院を目指して哲学をやってるんで、テーマはキルケゴール(※6)についてでした。キルケゴールって、ちょうど生誕200年なんですね、今年が。デンマークの作家であり、哲学者であり、まあ、キリスト教の宗教家ともいっていいでしょう。『死に至る病』なんて本が有名です(※7)。
「人は死に至る病、すなわち、絶望を抱えている。第一に、人間は快楽とか美とか、この世の喜び、利己的喜びを求めるけれども、現実の喜びには限界があるから、それは常に得られず、あるいは失われて、絶望に至る。第二に、じゃあそんなものを越えて、社会的に正しい生き方をしよう、他者と共に生きていこうと、道徳的な生き方を求めても、やっぱり人間には限界があり、罪を抱えているから、自分の力では真に徳のある人生は得られず、正義も互いにぶつかりあい、人間の徳は結局絶望を生み出す。私たちが絶望を超えて、真の喜びを見出すのは、この世の限界にとらわれない、全能者、『神』においてのみだ。そんな神の愛を信じ、神の愛の啓示であるイエス・キリストと結ばれる人生こそ、第三の道、信仰の道だ。人は神の子として常に成長途上にあるが、この第三の道を絶対の道として、常に優先させて生きなければならない」
キルケゴールの言いたいことは実はとてもシンプルで、おおよそそんな感じです。
で、この卒業論文ですが、「わかった、読むよ」とは言いましたけど、まあ、なかなか分厚いものですし、え〜、・・・最後だけ読みました。(笑)まあ、途中も少しは読みましたけど。「結語」っていうとこを開いたら、まあ今言ったようなキルケゴールの思想について書いてあって、そして一番最後に、キルケゴール自身の言葉が引用してありました。
「最後の土壇場では、もはや『信じる』ということだけが問われるような局面では、これしか役に立たなくなる。すなわち、『神には何でもおできになる』ということだ」
キルケゴール自身、この世の罪を抱え、快楽や徳に振り回されて絶望し、自殺を図ったことさえあるんですね。研究動機に書いてありましたけど、この卒論の作者も、同じような闇の中を潜り抜けてきた者として、この哲学者に非常に共感しているんです。神の絶対性、全能の神への信頼において救われたという経験において。
皆さんも、「土壇場」経験したことありますでしょ? 「もうダメ!」っていうようなとき。これからもあるかもしれない。ですから、このような信仰は覚えておくべきですよ。崖っぷち、もう自分の力ではどうすることもできない、その土壇場で、最後の最後、もはや「信じるかどうか」っていうことだけが問われるような現場では、これしか役に立たないっていうことを。
それは、「神は何でもおできになる」という信仰。
人間の貧しい考えでは、「もう無理だ」「救いがない」「どう考えてももう終わりだ」というとき、「神にとっては、すべてが可能である」と信じる。
「できると信じるのか」-「はい、主よ。信じます」と。
先週ここで奥さまのご葬儀をされたご主人が、今日、来られています。奥さまが亡くなってから今日まで、本当に大変な思いをなさいました。
奥さまが亡くなってすぐのときは、もう、かける言葉がありませんでした。60年間奥さまと一緒に暮らして、お子さまもいなかったから、ホントに二人っきりでの60年間。そんな奥さまが、急にご自宅で亡くなったときのショックは、私なんかには想像もつきません。
ご自宅には奥さまのご遺体が安置してあって、ドライアイスに囲まれているわけですね。そんな奥さまのことを、「いくら話しかけても答えないんです。何度見ても、動かないんですよ」っておっしゃったのを聞いて、私、もう、何て答えていいか・・・。
でも、そういう喪失感は想像つきますから、「どうぞ教会にお任せください」「教会は家族ですから」「奥さまは永遠の命を生きてますよ。先に行って、ご主人のために用意してるんです。再会の時まで、奥さまの天でのお働きに信頼しましょう」と、精いっぱい励ましました。
そのとき、奥さまが生前、何度も繰り返し、「私が先に逝ったら、多摩教会で葬儀ミサをしてほしい」っておっしゃってたって聞きました。「それでお願いに来ました」なんておっしゃるから、「奥さまはここの信者ですから、家族なんです、ご心配なくお任せくださいね」と言って、先日の葬儀ミサになりました。
私、葬儀ミサの冒頭、申し上げました、「これは、家族葬ですよ」と。
ご遺族がいて、参列者がいて、という一般の葬儀じゃない。私たちは信仰の家族なんです。「死んでも生きる」というキリストの言葉を信じる家族。「最悪の悩み」の現場でも、「少しずつ、少しずつ」でも、信じる喜びを取り戻すために、祈り合い励まし合って、福音を分かち合う家族。
そう、教皇さまも、あの使徒的勧告で言ってました。
「小教区こそ、喜びを分かち合う祝祭の場だ」
ご主人に申し上げたい。私たち、信じてるんです、「死者は生き返る」と。「神におできにならないことは何ひとつない」と。神が与えてくださった人生は、死で終わるようなものではありません。奥さまは今も、生きておられます。
ご主人、葬儀ミサの前後に、「教会があってよかった。今度ほど、教会のありがたさが身に染みたことはない」っておっしゃってましたけど、その通り、「教会があって、本当によかった」という仲間がこうして集まってます。どうぞ、これこそが本当の家族です。奥さまもこの家族と共に生きていたし、これからも、この家族があるから孤独じゃありません。
「イエスの救いを信じる者は、罪や悲しみ、虚無や孤独から解放される」
教皇さまの、このお言葉を信じましょう。だれよりも、奥さまがそのことを信じておられたんじゃないですか。
なぜ、奥さまが繰り返し、「多摩教会で葬儀を出してほしい」と言っていたかお分かりになりますか。それは、「そうしないと救われない」とか、あるいは「親しい人に囲まれて天に召されたい」とか、そういう、自分のためにじゃないでしょう。
御主人、あなたのためなんじゃないですか?
60年間あなたに連れ添った奥さまは、「私が先に逝ったら、夫がどうなっちゃうか」ということを一番よく知っていたはず。ですから、もしも自分が先に逝くことになったら、カトリック多摩教会で「家族葬」をしてもらって、これからはご主人が、教会を家族として、教会に支えられていってほしいと思ったんじゃないですか。
最悪のとき、絶望のときに、信じられるものは、「神は人を、必ずお救いになる」「神にはそれがおできになる」、この喜びの福音です。ご主人は、私たちの教会がそのような福音の喜びに満ちていると信じて、「少しずつ、少しずつ」でも、喜びを取り戻してください。
それが奥さまの願いでしたし、奥さまは、信じておられましたから。
「神には、おできになる」と。
【 参照 】【 参照 】
※1:「喜びの主日」
・ 待降節第3主日は「喜びの主日」、または「ガウデーテの日曜日」(Gaudete Sunday)と呼ばれている。それは、この日のミサの入祭唱が「Gaudete in Domino semper(主にあっていつも喜べ)」と始まるからである。(フィリピ4:4)
聖書の朗読箇所も、主の到来の喜びを告げている。
また、第2バチカン公会議以前の典礼では、司祭はこの日、待降節で使ういつもの紫ではなく、救い主の誕生の喜びを待ちきれない心を表し、バラ色の祭服を身につけた。
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※2:「ピンクのリボンが巻いてあるんですよ」
以下は多摩教会の聖堂にある待降節のろうそくです。
(それぞれの画像は、クリックすると、拡大してご覧いただくことができます。)
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※3:「先週、カリタス釜石に新しいセンターを建てるための募金を〜お願いいたしました」
・ 2013年12月8日(待降節第2主日)説教「『もう1枚』をお願いします」参照
***
☆ 「福音の村」でも献金を募っております。
詳細は、「カリタス釜石に活動拠点を!」のページをご覧ください。
また、晴佐久神父から、「福音の村」の読者の皆様へのお願いも届いております。
→ 「福音の村」の読者の皆様へ「募金協力のお願い」(晴佐久昌英)
こちらも併せてお読みいただければ幸いです。
どうかお一人でも多くの方のご協力を、よろしくお願いいたします。
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※4:「その日の福音は〜マタイの福音書の二人の盲人の話だったんですけど」
・ 2013年12月6日(金)の福音朗読箇所: マタイ福音書9章27節〜31節 「二人の盲人をいやす」
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※5:「新しい教皇様が、美しい使徒的勧告をお出しになりました。」
・ 教皇フランシスコが2013年11月26日(火)に出した使徒的勧告『Evangelii Gaudium(エヴァンジェリ・ガウディウム)』(「福音の喜び」<仮訳>)。
→ 「この教会に出会っていなかったら」(2013/12/1説教)と、その【参照】欄※3をご覧ください。
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※6:「キルケゴール」
(参照)
・ セーレン・オービエ・キェルケゴール(Søren Aabye Kierkegaard)
1813年5月5日-1855年11月11日
デンマークの哲学者、思想家。今日では一般に実存主義の創始者、またはその先駆けと評価されている。当時、デンマークにおいても絶大な影響力を持っていたヘーゲル哲学に対抗し、また当時のデンマーク教会を、内容が伴わず形式ばかりにこだわるとして、痛烈に批判した。
主な著作:『あれか、これか』(1843)、『不安の概念』(1844)、『死に至る病』(1849)など。
(ウィキペディア<フリー百科事典>:「セーレン・キェルケゴール」より抜粋)
(「福音の村」では、「キェルケゴール」の表記ではなく、一般に広く用いられている「キルケゴール」で統一させていただきました)
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※7:『死に至る病』(1849)
・ 内容 :「死に至る病」とは絶望のことである。憂愁孤独の哲学者キェルケゴール(1813‐55)は、絶望に陥った人間の心理を奥深いひだにまで分けいって考察する。読者はここに人間精神の柔軟な探索者、無類の人間通の手を感じるであろう。後にくる実存哲学への道を開いた歴史的著作でもある。(「Book」データベースより)
(参考)
・ ウィキペディア<フリー百科事典>:『死に至る病』
・ はてなキーワード:『死に至る病』
・ 三阪祐治:「死に至る病」の自己と絶望に関する考察(京都産業大学HPより)
・ Amazon 『死に至る病』(キェルケゴール著・斎藤信治訳)岩波書店 改版(1957/01)
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