見とれるな

2013年11月17日 年間第33主日
・第1朗読:マラキ書(マラキ3・19-20a)
・第2朗読:使徒パウロのテサロニケの教会への手紙(二テサロニケ3・7-12)
・福音朗読:ルカによる福音(ルカ21・5-19)

【晴佐久神父様 説教】

 先週の説教の最後に、「私の恩師、早副(はやぞえ)院長のご葬儀ミサに、明日、行ってまいります」って申し上げました(※1)
 説教で、あの院長の素晴らしさ、そして私を信頼してくれたことへの感謝、御恩、そういった思いを一生懸命お話しているうちに、気持ちが盛り上がって、ついつい、「明日、ご葬儀に行きます!」って言っちゃったんですよ。「言っちゃった」っていうのは、ホントは翌月曜日、いろいろ大事な予定があって、行くのは難しかったんです。午前、午後、夜と、いっぱい入ってて。だけど、言っちゃった以上しょうがない。(笑)そのあと電話かけまくって、あっちにごめんなさい、こっちは変更してといろいろやって、なんとか日帰りで行ってまいりました。
 いいもんですね、先に宣言しちゃうっていうのも。(笑)「禁煙します!」みたいなやつですけど、おかげで行ってこれましたし、ホントに、行ってよかった。何ていうんでしょう、「遠くでお祈りしてますよ」でもいいんですけど、やっぱり、ご遺体を前にして感じること、思い起こすことがいっぱいあるし、(ひつぎ)を担ぐこともできました。

 多摩から広島、日帰りだと10時間以上電車に乗ってるわけで、とんぼ返りは大変でしたけど、院長のあのお顔を見ただけでも、行ってよかったです。精いっぱい信仰を生きて、すべて成し遂げた後の、あのお顔を皆さんにも見せてあげたかった。口をポコッと開いてね、目は半開きで、ずいぶん痩せちゃってて。だけど、「ああ、ぜんぶ終わった! 成し遂げたぞ!!」みたいな。頂いた院長の顔写真の載っているカードの聖句は、「父よ、私の霊を()手に委ねます」でした。
 祭壇前に棺が安置してありましたけど、棺の上にね、カリス(※2)とパテナ(※3)が載せてあったんですよ。広島教区では、司祭の葬儀ミサの時はそうする習慣なんでしょうね。カリスとパテナのセットが載ってるんです。ここにもありますが、これです(※4)。 カリスの上にパテナが載っているこのセットが、棺の上に置いてあって、私はもう、それ見ただけで、胸がきゅーっとした。
 これは、司祭にとっては、ただの道具じゃないんですよ。司祭はいろいろやってますけど、まず第一には秘跡に奉仕してるんであって、これのために人生賭けてるんです。院長だって、これのために勉強して、司祭になって、生涯ミサを捧げ続けた。「これ」って、つまりはご聖体です。(おん)血です。すべての人を救う、永遠の秘跡です。そのシンボルであるこれが、棺の上に載っている。ああ、いいなあ・・・と思った。ぜひ、私のとき、載せてください。(笑)お願いしますよ。皆さん、私より長生きしそうだから。
 生涯、一司祭。
 ミサを捧げ続けて、福音を語り続けて、主イエスの(おん)体を人々に与え続けて、なすべきことをすべてなして、「ああ、終わった〜!」っていうそのお顔。
 ご遺体に、「本当にありがとうございました。後はお任せください」って申し上げました。

 全国の司教からもたくさん弔電が来てました。ちょうど司教の会議だか何だかがあって、皆さん来られなかったようですけど、もし予定が空いてたら、大勢の司教たちが並んだと思いますよ。先日の院長の叙階50周年の金祝のときだって、いっぱい司教が並んだんだから。みんな、彼が院長時代に、神学生だったんですよね、今の司教たち。今度新しく司教になった、札幌教区の勝谷司教からも、やっぱり弔電が来ていました。そういうの聞いてて、いろいろ思い出しました。
 特に、幸田司教の弔電なんかは、そうだったよね〜って思わされる内容で、冒頭はお決まりの言葉だったと思うけど、その後に、「義務か、義務でないかという議論を超えた恩寵(おんちょう)の世界を、私たちに示してくれた」みたいなね、そんな言葉が出てきた。一回聴いただけだから正確には覚えてないんだけど、確かにそういう言葉が出てきて、「ああ・・・」って思わされた。
 これ、何のことかピンとこないでしょ、皆さんはね。葬儀会場の人たちのほとんどもそうだったんじゃないかな。だけどこれは、当時神学生だった人たちにとっては懐かしくも生々しいテーマなんです。当時、この「義務か、義務でないか」っていうのは重要なテーマで、よく議論したもんです。
 神学校ですから、当然、(おきて)、掟の世界ですよね。でも、掟で縛って信仰が育つわけもない。だからと言って、掟なしで野放しにしていいはずもない。そんな緊張関係が、特にぼくの世代の一つ前くらいは、学園紛争っていうか、そういう世代ですから、当局と対立するのが当たり前みたいな感じでしょ。その人たち中心に、「義務か、義務でないか」論争みたいなのがあったんです。
 たとえば、「朝、ミサに出るのは、義務か、義務でないか」みたいな論争とかね。今にして思えば、なんだかねえっていう議論ですけど、あったんですよ。懐かしいねえ。
 「もちろん義務だろう」っていう当局、あるいは当局よりの神学生は、「現実に、義務にしなければみんなサボって出てこないじゃないか。神学校は教育機関なんだから、義務があるのは当然だ。そもそもミサを捧げるために司祭になるんだから、神学校の朝のミサに出るのなんて、ルール以前の問題だろう。そんなルールも守れないんだったら、神父になったって意味がない」って言う。
 片や、「ミサを義務にするような信仰こそ、意味がない。それこそ律法主義だ。ミサはある意味、家族の食事なんだから、自由参加が原則だ。義務で食事してる家族なんて、すでに崩壊してる家族だろう。サボったからといって信仰がないわけじゃない。秘跡が義務だなんていう時代は終わったはずだ」って。
 そんなときに、あの院長が、言うわけですよ。「救いは恩寵だ。教会は恩寵だ。司祭は、『義務か、義務でないか』なんていう人間の議論をはるかに超えた、恩寵の世界を生きるんだ」と。彼は、人間の分際を超えた恩寵の世界に徹しておられました。
 人間が「掟が必要だ!」って言うのも堅苦しいし、思い上がっている。「いや、掟はいらん!」って言うのも小ざかしいし、思い上がっている。救いは人間があれこれ決めつけることじゃなく、ただひたすらに神の恩寵によっている。それが分からんようだったら、そんな議論を重ねて何の意味があるか、と。
 なんかね、あの院長はいつでも、人間の世界での、あれやこれやっていうとらわれを、いつも超越しているようなところがあったんです。私はそれにすごく魅せられたし、自分もそうなっていきたいなあっていうふうに思った。・・・どこか、超越してるんですよ。超然としてるっていうかね。人間の世界はもう、恨んだり、もめたり、しこりが残ったりとか、なんかいろいろですけど、そういうのはこの世のことであって、私たちキリスト者は、どこか超然として、イエスのさっきの言葉でいうなら、「命をかち取れ」と。この「命」は「この世の命」のことじゃないですね。「神の命」の話、「永遠なる命」の話。それを「かち取れ」「忍耐によって、かち取れ」。
 そんな弔電聞いて、幸田司教らしいなあと思いましたよ。弔電でそんなこと言ったって、誰も何のことかわからないじゃないですか。あれはもう、そこに集まっている司祭仲間たち向けの弔電ですね、まさしく。「義務か、義務でないか」などという、あの頃の議論、それをはるかに超越した「恩寵の世界」を示してくれた院長の遺志を、みんな、受け継いでるか、と。
 そういう、院長のような信仰の先輩に支えられて、何とかここまでやってこれたし、これからは、私も先輩になっていかなきゃならないわけだから、ちゃんと次の世代に「恩寵の世界を生きよう」と伝えていかなくっちゃね、
 「目先のことで、ウロウロ、オロオロするな」と、
 「ちっちゃなことで、恨んだり、悩んだり、恐れたりするな」と、
 「神が生かしてるんだ。その神にすべて委ねよ」と。
 まあ、私もだんだん先輩の域になってきましたから、次の世代には、心から、ホントにそういうふうに言い残したい。

 イエスさまが、今日の福音で、「見とれるな」って言ってんですよね。この言葉が、今回改めて聖書を読んでいて、気になりました。・・・「見とれるな」。
 「え? そんなこと書いてあったかな」って思われるかもしれませんけど、よく読んでみてくださいな。今日の箇所のイエスの最初のことばですね。「あなたがたはこれらの物に見とれているが(・ ・ ・ ・ ・ ・ ・)、そんなものはぜんぶ消えていくよ」と(cf.ルカ21:6)
 この世のものはすべて、ひとときのもの、一過性のものなんだ、と。・・・もちろん、この世のものもいいものなんですよ。神が与えてくださったものですし。別にそれを「ぜんぶ捨てろ」とか、「もう見るな」って言ってんじゃない。見てもいいし、よいものをよいと褒めてもいいんだけど、イエスが言いたいのは、「それは一過性のもので、ひと時のものだということを忘れるな」「そういうことを忘れて、夢中になって見とれたり、心を奪われたりするな」「もし心を奪われたら、それと一緒に消えて行ってしまうよ」ってことでしょう。実際それらは、消えていくものですから。
 何度も言いますけど、消えていくものだって悪いもんじゃない。きれいなものを「きれいだな〜♪」と思っていいんですけど、でも、もしもきれいだと思うなら、その「きれい」の向こうにある「きれい」をつくったお方にね、信頼し、感謝しなければ。
 そしてまた、たとえそのきれいなものがなくなったって、「それもまたよし」っていう思いがなければ。大切なものを大切にするのは当然だけれど、それはこの世のものですから一過性のもので、ひと時のものだから、それがなくなったからといって、もう世が終わったような顔をするな、と。むしろ、たとえひと時でも、そのよいひと時を与えてくれた天の父に感謝し、信頼し、またそれをお返ししたとしても、それは当たり前のことであって、オロオロするな、恐れるな、嘆くな、忍耐して永遠なるものをかち取れ、と。
 イエスさまは、「見とれるな」って言う。
 聞いた方は「え?」って思ったと思うんですよ。壮麗な大神殿ですからね。当時の世界では、最高に立派な建物だったはず。思わず、「ああ、なんて立派なんだろう!」って言っている人たちに、「この石の上に一つの石も残らないよ」だなんて、ずいぶん意地悪なこと言ってるようですけど、実際ほどなく、この神殿は打ち壊されます。ローマ軍によって滅ぼされて、もう今、跡形もないでしょ。エルサレムに行くと、なんか下の方のとこだけあるようですけど。
 「見とれるな、それはこの世のものだ。それがすべてだと思うな」
 私たちが、「ああ、いいな〜」とか何とか言ってるもの、幻ですよね、結構。「偽装」みたいなのもあるじゃないですか。「ああ、なんて素晴らしい伊勢海老だ!」ってね、「さすがに伊勢海老はプリプリしてて美味しいねえ♪」って言ってた人たち、恥ずかしくなってるかもね、今。「実はロブスターでした」とか聞いてね。まあ、この世のものは、しょせんこの世のものです。「いいねえ」って言うのは別にいいけれども、それは、「ホントにいいもの」の入り口にすぎないんであって、その入り口に見とれて、そんな程度のものに心を奪われて、その先が見えなくてはいかん、と。

 で、もうひとつ非常に肝心なのは、「良いもの」に関してもそうだけど、「悪いもの」に関しても同じなんです。・・・「悪いものにも見とれるな」。
 それでいうなら、「悪いものに見とれる」っていうことの方が、結構強いかもね、私たち。「ああ、こんなに恐ろしいことがある」「こんなにイヤなことがある」って、それだけをじ〜っと見ちゃう。
 だけど、いいものと同じように、それもまた一過性のものであって、ひと時のことなんですよ。そんなものに見とれて、おびえて、魂を奪われてどうするってことですね。そんなことは過ぎていくことであって、そういうものの向こうにある、それらを承知で私たちを生かしている天の父に信頼し、感謝して、そこにこそ希望を置いていれば、まあ、手前の入り口のところでいろいろあったとしても、これもまた「ひと時」。いつまでも続くもんでもない。
 先日の台風で、フィリピンは地獄絵図のようだったけれども、それでもまた、復興し始めています。人間、さすがにたくましい。
 「ひと時(・ ・ ・)、忍耐しようじゃないか」という信仰。
 だから、イエスさまは怖いこといっぱい言うんですよ。怖いこといっぱい言えば言うほど、実際にそれを体験している人に、励ましになるからね。あれも、これも、それも、どれも、どんな試練もぜ〜んぶ「ひと時」であって、「あなたたちの永遠のいのちを奪うようなものではない」って言いたいんです。
 「戦争、暴動、地震、飢饉、疫病、迫害、親兄弟からも裏切られ、殺されるかも」なんて、試練総出演ですけど、「しかし、あなたがたの髪の毛1本も、決してなくならない」
 「え〜? 『殺される』っていうのに『髪の毛なくならない』ってどういうこと?」って言うとしたら、それはこの世の命の話なんであって、永遠なる神さまの世界に招かれている私たちは、暴動があろうが、地震があろうが、高潮があろうが、最も大切な「まことのいのち」はびくともしない。・・・現実に、そんなこといっぱい起こってますもんね。フィリピンなんか、台風だけじゃなく、実際に疫病とか、暴動すら起こってるわけでしょ? 試練の複合形ですよね、ああなるとね。
 そういうことをいっぱい、私たち、経験してます。・・・昨日も夜、揺れましたね。縦揺れだったね、最初。一瞬、ついに来たか!ってみんな思ったでしょ? で、しばらく息止めていると、なんてことなかったかな?って。まあ、ビクビクしながら、われわれは生きてるわけですけど、信仰さえあれば大したもんじゃないんですよ、地が揺れようが震えようが。
 「恐れるな! 忍耐によって命をかち取れ。わたしがあなたたちを救う」
 イエスさまにそう励まされて、私たちは、この世で何があろうとも希望を持ち続けます。励まし合い続けます。

 告別式の後、院長の棺を担ぎました。やがて私もこうして担がれるわけだって思ったわけです。「若い神父さんたち、担いでください」って言われてね。私なんか、そこにいる中でも一番若いくらいですよ。今、司祭たち、平均年齢は60歳をはるかに超えてますからね。
 担いだ人たちは、みんな院長にお世話になった人たちでした。
 霊柩車を囲んで、私が涙こぼしてると、当時の先輩のひとりが隣りに来てね、「院長、ぜんぶ、・・・ぜーんぶ出しつくした顔だったねえ。世話になったよねえ」って言うんで、「ぼくなんか、そのおかげで神父になれた。この院長がいなかったら、ここにいなかった」って言ったら、彼も、「いや、俺だってそうだよ」って言って、それから、あっちこっちの神父を指さして、「あれもそうだよ」「あいつだってそうだ」って。(笑)
 その先輩なんか、神学生時代、ミサ中寝てるんです。立っても寝てる。ベンチの前の、この台があるでしょ、そこに両手をついて寝ちゃう。そのうち、台をグーッと押して、バーーンッて倒す。(笑)豪快な先輩でした。でも、彼が神父になって、初ミサで神学校に戻って来たとき、後輩の部屋に来てベッドに寝っ転がって言った言葉を、よく覚えてますよ。
 「早く神父になれよ。いいよぉ〜〜、神父は! これはやってみないと分からないね」
 それ以来ですよ、彼としゃべったのは。30年ぶりくらいじゃないですかねえ。お互い、それぞれ働いて、働いて、働いてきたんです。・・・あの院長の教え子たち。

 さて、私、そうして早副院長に、「後はお任せください」みたいなことを言ってしまったので、この恩寵の世界を、一人ひとりにこれからも語ってまいりたいわけですけれども、実は今日、急きょ洗礼式をこれからいたします。
 一人のお母さまに洗礼を授けるわけですけど、実はおなかの中にお子さまがいてですね、もうすぐ生まれそうなんです。子どもにもちゃんと信仰を伝えてくださいね。私も、いずれ先に天に行ってしまうわけですから、ちゃんとこう、恩寵の世界を言い残していかないと。ホントは、もっと準備して、お子さまも生まれてから幼児洗礼も一緒に、とかがよかったんですけど・・・「胎児洗礼」っていうのはダメですかね。(笑) 
 実は、ご主人が海外に赴任していて、今、お母さまだけ、出産のために一時日本に帰国しているんです。洗礼を受けたいと相談を受けて、急な頼みだったので、私も迷ったんです。シスターのお世話等で洗礼の準備はしてきてるんですが、生まれてからだと、来年の復活祭の洗礼式に出られるかどうかわからず、とても不安だっていうんですね。「これからどうなるか分からず、日本にいる間にどうしても洗礼を受けたい」って。
 ちょっと急だったから、少し時間をかけて準備しましょうかってことで、昨日再び会って話し合ったんですけど、「この子が生まれる前にぜひ」って言うし、もう予定日だって言うし、しまいにおなかをさすりながら、「もう、生まれそうですっ!」って言うから、ちょっと慌てちゃって、「それじゃ明日」ってことで、この洗礼式です。・・・今ここで生まれてくれたら、一緒に幼児洗礼もできるんですけど。
 お子さんは、おなかの中にいて、まだ外の世界を知らない、まだ名前も決まってない。でも、生まれたら、この子、洗礼、受けるんですよ。お母さまが洗礼を受けることはもちろんですが、私、そのおなかの中のお子さんが洗礼を受けることに感動します。
 生まれる前から、救われてることに。
 今はまだ胎内だけど、やがて生まれて、洗礼を授かる。それこそは、今はまだ試練の世だけど、もうすぐ神の世界、忍耐によって勝ち取るいのちの世界に生まれて行く、私たちの姿。胎内にあるときから、神さまが本当に祝福してくださってるし、福音を語り掛けてくださっていて、やがて私たちもみ〜んな、この世からね、いのちの世界に生まれて行く。永遠なる神の世界に生まれていく。
 つくづくと、神のみ(わざ)に感謝したい。
 洗礼を受けるお母さまと、おなかのお子さま、代母の方、前にいらしてください(※5)


【 参照 】

※1:「先週の・・・申し上げました。」
参考: 2013年11月10日説教
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※2:「カリス」
・ カリス(ラテン語:calix)

カリス
(クリックで大きく表示)
 「杯」の意味。ミサ聖祭でぶどう酒を奉納、聖別、拝領する際に使用する祭器具。
  パテナと共に最も重要な祭器具とされる。初期の時代はガラス製のものも作られたが、9世紀頃からは金属で作るようになった。現在は金メッキを施された金属製のものが一般的だが、ぶどう酒が染み込まない硬い材質を用いることもできる。最初に使用する前に、司教か司祭によって祝福される。(参照:『キリスト教辞典』岩波書店、2008)
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※3:「パテナ」
・ パテナ(ラテン語:patena)

パテナ
(クリックで大きく表示)
  聖体皿。「広皿、浅皿」の意味。ミサの中でキリストの体となるパンを奉納、聖別、拝領するときに用いる円形の皿。ミサで用いる祭器具の中で、カリスと共に重要なもの。金メッキを施された金属製のものが一般的。初めて使用する前に、司教か司祭によって祝福される。(参照:『キリスト教辞典』岩波書店、2008)
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※4:「これです」

カリスとパテナのセット
(クリックで大きく表示)
  左のように、カリスの上にプリフィカトリウム(清掃布)とよばれる、聖体拝領後に司祭の指や、カリスを拭く布が載り、その上にパテナ(この画像では隠れて見えません)、その上にバラ(聖杯布)とよばれる、カリスを覆う亜麻布を張った正方形の厚紙、そして一番上には、コルポラーレ(聖体布)とよばれる、ミサのときに広げ、上にカリスとパテナを置いて使用する白い亜麻布が載ります。
これが「セット」となります。
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※5:「洗礼を受けるお母さまと・・・」
・ この日の洗礼式の様子です。
  画像はクリックすると、それぞれ大きなサイズでご覧いただくことができます。

受洗直前(奥の方)
受洗直前(奥の方)
洗礼
洗礼
司祭からの祝福
司祭からの祝福

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2013年11月17日 (日) 録音/2013年11月21日掲載
Copyright(C) 晴佐久昌英