ホントに良かったね

2013年3月31日 復活の主日
・第一朗読:使徒たちの宣教(使徒10・34a,37-43)
・第二朗読:使徒パウロのコロサイの教会への手紙(コロサイ3・1-4)
・福音朗読:ヨハネによる福音(ヨハネ20・1-9)

【晴佐久神父様 説教】

 ご復活、おめでとうございます。
 全員集合ですね。ご覧ください、本当に大勢の教会家族が、みんな集まりました。
 われらが多摩教会、なかなかみんながこうして一堂に揃うことはありませんから、今日のようにみんなが集まって、心をひとつにして、一緒に祈って歌って、一緒にご聖体をいただくこの恵みの日を、共に喜ぼうじゃないですか。
 私たちには、こんな素晴らしい仲間がいるんですよ。お互いに祈り合う仲間、信じ合う仲間、神様に祝福され、神様に呼び集められた特別な家族としての仲間が、このひどい時代、この暗い世の中に、ちゃんとこうして存在して、ご覧のとおり、こんなに美しく輝いている。
 これは、事実です。幻ではない。こんなにうれしいことはないし、こんなに励みになることもない。お互い、たまたま隣り合わせた人とでも、「おめでとう」「ありがとう」「よろしくね」っていう気持ちで、このひとときを過ごします。

 最前列は車椅子席ですね。今日は6名の車椅子の方が揃いました。ここまで来るの、大変だったでしょう。ご苦労さまでした。出掛ける準備も大変でしたでしょうし、ミサの間、長時間ここに座っているのも大変でしょう。でも、こうして皆さんがここへ来てくれたおかげで、私たち、「やったー! 全員集合だ!」っていう思いになりますよ。
 皆さんがここにおられること自体が、このミサが何であるかをよく表しています。
 その後ろの受洗者席には、新受洗者もぞろりと揃いました。
 昨夜の洗礼式、どうでした? 感動しましたでしょう? みんな無事に受洗しました。よかったですねえ。こうして今日、復活の主日に、晴れてみんな揃いました。あなたたち新受洗者が、こうしてここに並んでいるというその姿が、まるで新しく生まれた赤ちゃんを笑顔で囲む家族のような喜びを、私たちにもたらしてくれます。
 まさに皆さんは、赤ちゃんですよ、生まれたての赤ちゃん。ホントに無力で、何にもできない赤ちゃんだし、今まで泣いてばかりだったけれど、今日はここに、神様が、ちゃんと立派な神の子として並べてくださいました。
 私たちは、そんな皆さん、新しい家族を目の当たりにして、「ああ、本当によかった、よかった」と、そう心からお祝いいたします。
 後ろの方で立ってる皆さんも、ご苦労さまです。余ってる椅子、どこかにないですか? 詰めれば、ベンチの前の方に、まだ座れる所ありますよ。
 遠い所から来られた方もいるでしょう。忙しい中、何とか復活祭だけはという思いで来られた方もいるでしょう。今すごく問題があって、悩んでいて苦しい気持ちだけれども、今日こそは希望を取り戻そうと思って来られた方もいるでしょう。
 だいじょうぶです。見てください、この復活祭のミサを。皆さんがここにいることが、何よりの証しです。神様が今日ここに、復活の主における本物の救いを、こうしてちゃんと目に見える形で実現させてくださっています。このミサを信じてください。
 私たちは、この現実から出発します。そして、中には次に来られるのが1年後のミサになる方もおられるかもしれないけれど、みんな、ここに戻ってきましょう。復活の主日、この恵みの場に戻って来ましょう。
 今日こそ、神がつくられた日。これこそが神のみ業。美しい聖週間の頂点。

 先週の1週間、ホントに素晴らしい1週間でした。あの枝の主日から始まってね、聖木曜日、聖金曜日。そして、聖なる復活の徹夜祭。カトリック教会の典礼の頂点の1週間を過ごしました。
 聖木曜日の洗足式。まだご覧になったことのない人もおられるでしょうが、ぜひ皆さん、来年は何とか、復活祭だけじゃなくて、聖木、聖金、そして復活徹夜祭と、一度、聖なる3日間の典礼に参加するために集まってください。
 聖木曜日の典礼、素晴らしい典礼ですよ。洗足式っていうのをするんです。
 仕える者となられたキリスト。彼は私たちに、本当に分かりやすいしるしを残してくださいました。「わかりやすさ」って愛でしょ? イエス様はホントに分かりやすいしるしを私たちに残してくださった。仕える者の模範を示す洗足式とか、ご自分のすべてを与え尽くすしるしとしてのご聖体とか。聖木曜日はそんな主の愛を記念するんですよ。
 だから、イエスのしたとおりに、本当に足を洗うんです。12人の信者さんに祭壇上に並んでいただいて、司祭は祭服をたくし上げて、ひざまずいて、足に水をかけては、こう、ゴシゴシと洗って拭いて。それは仕える者となられたキリストのしるしです。
 なかなか皆さん遠慮しちゃって、洗われる12人集めるの、大変なんですけれど、イエス様は「洗ってもらわなければ、あなたと私とは何の関わりもないことになる」って言ってますしね、ぜひ志願して洗ってもらったらいいと思いますよ。
 新しいパパ様だって、洗足式なさったんですよ。報道、ご覧になった方、おられるでしょう。しかも、少年院に行って。普通は聖堂でやるんですけどね、わざわざ少年院に行って、そこで院に入っている少年たちの足を洗った。イスラム教の人も参加したっていうことで、報道によればイスラム教の少女の足を洗ったとか。パパ様がひざまずいて、汚れた足をゴシゴシゴシと洗って、その足に口づけをしている写真も報道されました。
 これは、わかりやすい。新教皇フランシスコが、少年院の子どもの足にひざまずいて、洗って口づけをする。そしてお話をなさった。「私たちは、互いに仕え合う者とならなければならない」。・・・これはわかりやすい。
 キリストの教会は、こんなわかりやすいシンボルに支えられて、この聖週間を過ごすんです。私たちも本当にそうして生きて行こうと、心を新たにするために。
 私も来年、足に口づけしようかな。(笑)ますます誰もやりたがらなくなるかもしれない。(笑)でも、わかりやすいでしょ? ホントにわかりやすい。それが何を表しているかが、まさに一目でわかる。だって、口づけって、一番尊いものにするわけじゃないですか。
 キリストの代理者であるパパ様の、口づけ。これが、キリスト教の本質です。私たちの主イエス・キリストがそうしてくださったんです。
 神様が私たちに仕えてくださり、私たちの一番汚い所、一番弱い所、自分ですら触れたくないような傷、自分でさえ見たくないような汚れ、そこに、口づけをしてくださる。イエス・キリストの十字架はそういうことですし、そんな神の愛を、私たちは、復活の主として、今日迎えてるんです。

 聖金曜日、シンボルは「十字架」でした。
その日、「十字架、こんなに美しいシンボルはない」っていうお話をしました。
 キリスト教徒は、部屋に十字架を掛け、首から十字架を下げ、この身に十字の祈りを刻んで、生きてまいります。屋根の上に十字架を立ててそこに集まり、聖堂の正面には十字架を掲げて深々と頭を下げ、礼拝いたします。
 何をしているのか。このしるしは、何を表しているのか。まさに、「神は愛だ」というしるしです。
 あらゆる困難、あらゆる争い、あらゆる傷、十字架はそういうあらゆる闇のシンボルであると同時に、それを神が引き受けて、復活の栄光に変えてくださるという最高の神秘を表すシンボルでもある。
 だから私たちは、十字架を首から掛けて、「どれほどの困難であっても、もう何も恐れない」と言う。十字の祈りを身に刻んで、「こんなに大変な現実だけれども、神は私を愛している。恐れるな!」と自らに言い聞かせる。それは、人間の考えじゃない。神様がそう言ってくださっている。だからこそ、私たちは十字架を全面的に信じるんです。
 実はこの聖金曜日に、1日早い洗礼式をしました。調布の病院でね。ひと足早い洗礼式です。今年の受洗第1号です。受洗者、ホントに喜んでおられました。重いご病気で、大変な状態で、まさに十字架を背負っている。ご家族も本当に心配してつらい気持ちですけれども、でも、その洗礼式は、希望の光に包まれた式でした。なにしろ洗礼って、死を超えて新たに生まれるという恵みのときですから。どんな病気も、超越してるんです。
 以前にローマで買い求めた十字架を、洗礼のお祝いに差し上げました。「つらい時は、これを握りしめてくださいね」と申し上げて。あらゆる十字架は、復活の入り口です。薄暗い病室に、光が差し込んだようでしたよ。

 そして今日の復活祭、ご覧のとおり、シンボルはその「光」です。
 見えますでしょう。復活のろうそくが、もうすでにここにともっております。この光は、皆さんの心の中で、宇宙のはじめのビッグバンの、あの光の大爆発のように輝いているし、それはもう、絶対に消えることがない。
 私たちは「光の子」です。闇の中に、光をともして歩く仲間たちです。その光を、昨日ともされた受洗者たち、あなたたちもまた、今日のミサの美しいシンボルです。この受洗者たちが、ちゃんとここに並んでいるということが、本当に神様が愛であることの、何よりのしるし。皆さんの、その顔の輝きが、私たちの希望のしるし。
 新受洗者の中には、洗礼を望みながら、何十年もかかってようやく昨日を迎えた人もいます。最初のころ、雨の中、教会の前で傘をさしてしゃがんでいた人もいます。親に恵まれずに苦しんだけれど、まことの親に出会って救われた人もいます。さまざまな教会でさまざまな試練を味わって、でも多摩教会という恵みの場に出会って癒された人もいます。精神的に苦しんで苦しんで、もう生きていけないという中、洗礼式を心の支えにして乗り越えてきた人もいます。体調が悪くてもう来られないかもという中、何とか出てきた人もいます。
 全員、前の方の数列に座っていただいてますけれども、今日のミサの最後に、皆さんに紹介するために、呼名
(こめい)をいたします。昨日も洗礼式の冒頭に、呼名、「名を呼ぶ」というのをやりました。この呼名は、式の大事な要素です。お一人おひとりの名前を呼んで、お一人おひとりが「はい」と言って立ち上がる。それは、神が呼んでいるんですよと、昨日もお話したはずです。
 神様が「晴佐久昌英!」と呼んだら、私はこの宇宙の真ん中に生まれてきた。神に呼ばれた者は存在するんです、永遠に。その神秘を、皆さんわかっておられますか? 私は神に名を呼ばれた者として、叙階式でも「晴佐久昌英!」と呼ばれて「はい」と立ち上がった。お呼びに応えるために。その司祭は、今度は洗礼式で、神の言葉として、皆さんの名前を呼びます。皆さんの名前、一人ひとりを呼ぶ。皆さんは「はい」と答えて、立ち上がる。その「はい」は、こう言ってるんです。
 「はい、私はここにおります。あなたに呼ばれた者として、ここに存在しております。たとえどれほどつらくとも、あなたが与えてくださった、この私を受け入れます。あなたの愛を信じ、あなたのみ心に希望を置いて、洗礼の秘跡を受けます」。
 それは、ただの返事じゃない。私たちはその「はい」を言うために生まれてきたんであって、したがってその「はい」に立ち会うことはどれほど感動的か。
 なかでも司祭はね、一人ひとりの、その返事をするまでのプロセスを知ってるじゃないですか。ここに大勢の受洗者がいますけども、信者の皆さんにしてみたら、会うのは初めてっていう人もいるでしょう。あるいは少しは知ってるけれども、その心の内は知らないという人もいるでしょう。あるいは、心の内は少しは聞いたけれども、今まで、ここに至るまでのプロセスがどれほど大変だったか、どれほど苦しかったか、それは、皆さんは知らない。でも、司祭は全員と何度も面接して、知ってるんですよ。
 ですから、その一人ひとりの名を呼ぶときっていうのは、感極まって思わず声も詰まるという瞬間なんです。昨日は、全員の名を呼び終えるのが、大変でした。やっぱりねえ、プロですから、ここで声震わせて呼べなくなっちゃったら名折れだ、とも思いますから、なんとか最後まで頑張って呼びましたけど、一人ひとりの名前を呼んでるうちに、もう、涙がこぼれてくるんですよ。だって、名を呼んで目と目が合うと、どうしたって、(ああ、あなたもよかったね、ああ、あなたも救われて、ホンットによかったね!)って思うから。
 「はい」って、あなたが返事して立ち上がったとき、それはキリストが勝利したときなんです。あなたの返事は、キリストの教会が存在する意味そのものです。あなたの返事が、神様が本当に、この苦しい現実の中で私たちを愛しているという真実の、目に見えるしるしなんです。
 「はい!」「はい!」って、昨日の方たち、すごく返事、良かったですねえ。元気な声で「はいっ!」てね、返事してくれたのが、うれしかったですよ。「ああ、もうだいじょうぶだ。みんな、ここまで来たらもうだいじょうぶだ!」、そういう喜びが、私の中にもあったし、皆さんの中にもあったでしょうし、それをぜひ、今日のこの復活祭に集まった多摩教会のみんなで共有してほしいんです。その喜びは、まさに神様の大いなる喜びでもあり、わが教会は、そんな神の喜びの、目に見えるしるしとしての集いですから。

 イエス様が復活なさって、弟子たちが行ってみたら墓が空だったっていうところ読みましたけれど、何か決定的なことが始まったんですよね。・・・「決定的なこと」。
 私たちは、決定的なことは「死」だと思って生きてきました。信仰に出会うまでは。
 よく「人間の死亡率は100パーセント」なんて、冗談めかして言いますよね。「人間は必ず死ぬ生きものである」なんてことを、よく言いますよね。「死ねばすべては終わりだ」ってみんなそう思ってますよね。だから、生きてるうちにあれをしよう、生きてるうちにこんな目にはあいたくないと、みんないろんなことを思う。
 でも、もし死なないんだったら? すべてが変わりますよね。「決定的なこと」が変わってくるんです。私たち、主の復活を信じる者は、決定的なことは死ではないと、そう悟って、永遠の命を信じて、立ちあがった者です。「はい」と。
 決定的なことは、死ではない。「神の愛」です。神の愛のうちにある、永遠のいのちです。
 それこそが私たちにとって、もう決して、どんな悪も罪も邪魔することのできない最高の恵みであり、なによりも決定的なことは、神の愛そのものである、主の復活です。

 復活祭の喜びを共にいたしましょう。今日からまた、来年の復活祭に向けて、新しい一年を始めます。また来年、ここに集まりましょうね。
 これから1年間、また、いろんな大変なことが、あるかもしれない。でも「恐るるに足らず」です。
 (ああ、もうだめだ!)って思うこともあるかもしれない。受洗者の皆さんも、あったでしょう。「ああ、もうだめだ!」って叫んだ日・・・どうですか? だめでしたか? だめじゃなかったじゃないですか。
 これから何が起こっても、同じです。私たちは、神の国に向かって歩んでるんです。しかも、もうすぐ到達するんです、みんな。恐れずに、出発いたしましょう。
 「はい!」と、私たちの信仰を、高らかに宣言いたしましょう。・・・お立ちください。

2013年3月31日 (日) 録音/2013年4月6日掲載
Copyright(C) 2013 晴佐久昌英